目が開かれる体験 —— 恥と癒し〜ルカ24章、創世記3章

イエス様の死からの復活をともに喜ぶことができることを感謝します。

いろんな意味で、新しい歩みが始まったことに感謝します。

長い入院生活から解放された方もいます。そのお声を聞きながら、「復活のイエス様がともにいてくださる」ことの感動を味わうことができました。

ルカによる福音書24章13–35節に美しいストーリーが描かれます。イエスが十字架で殺され、イスラエルの希望が失われたと絶望していた二人の弟子たちがエマオという西の村に向かって歩いていました。イエス様はご自分のことを隠しながら、彼らに寄り添って歩きます。そこで旧約聖書全体から、預言された救い主は、人々から見捨てられた後、栄光の復活に至るということを話します。

そして、イエスが彼らの宿泊予定の家に招き入れられ、彼らの前でパンを裂いたときに、「彼らの目が開かれ、イエスだと分かった」と描かれます (ルカ24:31)。とにかくこの二人は、イエスがパンを裂く様子を見たときに、初めて目の前にいる方がイエスだと分かったというのです。それは人間的な思いで自分の心を閉ざしていた人が、イエスとの食事の交わりの中で目が開かれるという体験を指します。ですから私たちの教会でも、聖餐式の際には「パンを裂く」という動作を司式者がすることを大切にしてきました。コロナの中でも、配餐が自粛しても、皆の前でパンを裂くという動作だけは繰り返していました。

ところで、この「目が開かれる」という体験は、アダムとエバが禁断の木の実を取って食べた時にも起きたことでした。そこでは「ふたりの目は開かれ、自分たちが裸であることを知った」(創世記3:7) と描かれています。この二つの目の開かれ方は対照的です。アダムとエバはそのとき恥の感覚によって、自分たちが神との交わりを拒絶したことの痛みを味わいました。目の前には、エデンからの追放という悲劇が待っていました。エマオ途上の弟子たちは、復活のイエス様と出会い、この世界がイエスにあって癒しが始まり、シャローム(平和)の完成に向かっていることを知りました。

以下で、僕が心から尊敬する英国国教会の司祭 N.T. Wright 教授による6分間メッセージをお聞きいただくことができます。内容はここに記したとおりです。英語が不得手と思われる方も、これで内容が少しわかっていただければ、何かを感じていただけると思います。