主がおられるのに、それを知らなかった〜創世記28:16

母のためにお祈りいただき心より感謝申し上げます。昨日と本日、それぞれ一時間ちかく、母の手を握り、頭に手を置き続けて、お祈りすることができました。昨日は、「忙しいのに、よく来てくれたね……」とはっきりと言ってくれました。僕もつい、「母ちゃん、大好きだよ。母ちゃんがいなかったら僕が存在していないけど、すべて母ちゃんのおかげだよ、本当に感謝しているよ……」と心から言うことができました。

母は、重症筋無力症という難病を四十年余りかかえてきましたが、お医者さんの適切な治療に守られて、三年余り前に施設に入所するまでは、一人暮らしで農業を続けて来られました。近くに住む姉夫婦の支えのおかげでもあります。

子どもや孫たちに財産を分けながら、それでも百歳までの自分の生活費は手元に置き、近くに住む僕の妹にすべての財産管理を委ねてきました。

病を抱えながら、認知症的な兆候を示していた僕の父を支え、父の施設の手続きもして、自分が施設に入る際は、子どもたちに負担をかけないようにすべてを準備していました。

僕が神経症と敏感気質の傾向があるのは、すべて母親譲りですが、96歳になるまでほんとうにその気質を生かしながら道を開いてきたことに感心します。

何よりも本当に心から、僕が牧師であることを喜んでいてくれていました。そして旭川めぐみ教会の当時の込堂先生のご指導を受け、12年前に夫婦で洗礼を授けていただきました。

昨日の見舞いの直後に聖歌272番が思い浮かびました。意識がもうろうとしながら平安に満たされている感じがしたからです。以下のような歌詞です

今日まで守られ きたりし我が身
つゆだに憂えじ 行く末などは
いかなるおりにも 愛なる神は
すべてのことをば 善きにしたもう

か弱き者をも 顧みたもう
わが主の恵みは この身に足れり
にぎおう里にも 寂しき野にも
主の手にすがりて 喜び進まん

主の日ぞいよいよ 間近に迫る
浮き世の旅路も しばしの間のみ
まもなく栄えの 御国に行きて
ときわに絶えせず わが主と住まわん

 
今日は、「ひでのり」と言ったきり、ほとんど眠ってばかりいました。それでも上記の聖歌をかけながら一緒に過ごすことができました。母の手を握りながら、本当に、今までの神様の導きに感謝しました。

帰りに、地上的な別れの可能性を覚悟しながらも、「また会えるからね……」と手を振りました。そうしたら、母が、しっかりと目を開けて、手を振り続けてくれました。

それは母が、いつも僕を送り出すときのいつもの手の振り方です。いつも、僕が自由に、自分の生きたいように生きることを応援してくれました。本当は、自分の身近にいてほしいはずなのに、僕の生き方をいつも応援し、身近な人に、息子のことを話して、それを誇りにしていました。

ふと、息子のヤコブを送り出したリベカのことを思いました。そしてヤコブは、ベテルにおいて、次のように告白します

まことに主 (ヤハウェ) はこの場所におられる。それなのに、私はそれを知らなかった
創世記28:16

私たちは、自分の信仰によって、主の臨在を体験しようともがくことがあります。しかし、ヤコブの信仰は、自分が主 (ヤハウェ) 忘れていたのに、主ご自身がともにいて、それを気づかせてくださったという受動的な発見から生まれています。母は聖書をほとんど読んだことがありません。でも、僕が小さい時から様々な危機を乗り越えられたことを見ながら、秀典の信じる神様は、自分を守る神でもあるということを直感的に気づきました。

そして今、僕も、主が、母の危険に満ちた人生を導いてくださったことをこころより感謝できます。いつ死ぬか分からないような難病を抱えながら、96歳まで守られてきました。

100歳まで生きてね……と口では言いましたが、主にある平安のうちに、主のときにイエス様のもとに召される日をおまかせしています。
 
ほんとうに母の息子であってよかった……と、心の奥底から感謝しています。その母の胎のうちで、創造主はこの私を組み立ててくださいました。