2007年1月1日 “詩篇16篇「私はいつも、目の前に主 (ヤハウェ) を置いた」” の続きを読む
詩篇8篇「人とは何者なのでしょう」
2006年12月24日 “詩篇8篇「人とは何者なのでしょう」” の続きを読む
ルカ12章13〜34節「あなたのたましいへの気遣い」
2006年12月3日
身体を、健康に、美しく保つための施設が注目を集めています。しかし、「たましい」への気遣いが忘れられてはいないでしょうか?ダビデはサウルから逃げ回り、荒野にいながら、「私のたましいは、あなたに渇き・・・こうして聖所で、あなたを仰ぎ見ています・・・私のたましいが脂肪と髄に満ち足りるかのように・・・喜びにあふれて賛美します」(詩篇63:1,2,5)と歌っています。あなたの「たましい」はどのように養われ、装われているのでしょうか? “ルカ12章13〜34節「あなたのたましいへの気遣い」” の続きを読む
詩篇18篇「主が私を喜びとされたから」
2006年11月26日 “詩篇18篇「主が私を喜びとされたから」” の続きを読む
詩篇1篇〜2篇「幸いな人」
2006年11月19日 “詩篇1篇〜2篇「幸いな人」” の続きを読む
ルカ11章53節〜12章12節「神を恐れる者が体験する自由」
2006年9月24日
聖書は、この世に人間の尊厳を教えてくれました。しかし、同時に、人々が聖書を「道徳の書」かのように受け取るようになったとき、最も大切な真理が見過ごされることになりました。それは、全宇宙の創造主が、私たちを恋い慕ってくださり、私たちの一途な愛の応答を求めておられるという、愛の関係です。 “ルカ11章53節〜12章12節「神を恐れる者が体験する自由」” の続きを読む
ルカ11章33〜52節「神よりも自分を見る信仰の愚かしさ」
2006年9月10日
私たち信仰者が陥り易い過ちは、創造主である神を愛するというより、自分の信仰の姿勢を見てしまうことではないでしょうか。それは、ある人を恋していると言いながら、その人のことを表面的にしか知らず、ただ「恋に恋している」ということと同じです。それはナルシズムであって、真の愛ではありません。 “ルカ11章33〜52節「神よりも自分を見る信仰の愚かしさ」” の続きを読む
ルカ11章14〜32節「話し、祈り、聴くことすべてがイエスによって……」
2006年8月27日
この世界は、実質のない、誇大宣伝のことばが氾濫しています。私たちもその流れに影響されてはいないでしょうか。ことばが多すぎることを反省しながら、ザカリヤのように一度、口をきけないようにしてもらい、その上で、イエスが与えてくださることばを話すことができるようになったら、と考えさせられました。 “ルカ11章14〜32節「話し、祈り、聴くことすべてがイエスによって……」” の続きを読む
ルカ11章1〜13節「主が教えてくださった祈り」
2006年8月13日
「主の祈り」は、マタイ6:9-13を教会の礼拝で用いられるのが普通ですが、イエスはここでそれを、より簡略化し、強調点を変えた祈りも教えてくださっています。私は昔、マタイでの主の祈りの直前に、「あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです」(6:8)と記されていることを誤解し、自分にとっての必要を必死に願うことの意味がよく分らなくなったことがあります。 “ルカ11章1〜13節「主が教えてくださった祈り」” の続きを読む
ルカ10章29〜42節「どうしても必要なものはただ一つだけです」
2006年7月23日
「善きサマリヤ人のたとえ」は、教会の歴史の中で、単なる「隣人愛の模範」としてひとり歩きするようになり、そのうちに、その人がどのような神々を信じていようとも、隣人愛を実践できているかどうかの方が大切であるとの解釈さえ生まれました。しかし、著者ルカは、この直後に、「マルタとマリヤ」のことを記し、主のみこころを聞くことを後回しにした熱心さによって主を悲しませた実例を紹介します。それは、主の御前に静まり、主の御声を聞くことこそ、すべての隣人愛の原点とならなければならないからです。 “ルカ10章29〜42節「どうしても必要なものはただ一つだけです」” の続きを読む