ルカ14章1〜14節「すでにある神のご支配を喜ぶ日」

2007年6月17日

「時は金なり」とこの世の常識が教える中で、神は、「週に一日の休み」を勧めるのではなく、命じておられます。それは、人はいつも、時間でも人でも、何かの目的達成の「手段」におとしめてしまうからです。しかし、一方で、「主の日」を「義務を果たす日」としてしまい、喜びを失っている信仰者も意外に多いのかもしれません。主の日を、神にある「自由」と「喜び」の日として、本来の意味を回復させることは、現代の課題でもあるように思われます。 “ルカ14章1〜14節「すでにある神のご支配を喜ぶ日」” の続きを読む

ルカ13章18〜35節「神の国に生きる祝福」

神の国の成長ということから、ふとフローレンス・ナイティンゲールの伝記を読んで感動したことを分かち合いました。
たったひとりの女性が、世界の医療の歴史を変えたからです。しかし、それは神のみわざでした。
今日のイエス様のお話は厳しいところがあります。イエス様は、「わたしに向って、『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者が入るのです」(マタイ7:21)とも言っておられますが、それと同じ趣旨のことがここで語られています。しかし、その厳しさの背後に、何ともいえない優しさが込められています。

2007年6月3日

イエスを主と告白し、神の国の民とされることは想像を絶するほどの大きな祝福です。ところが、その喜びを味わうことができていない人が多くいます。その鍵は、「絶えず祈りなさい」という命令と結びついてはいないでしょうか。なぜなら、神の子とされた恵みは、何よりも祈りの生活の中で体験できるからです。その際、私たちはもちろん遠慮することなく何を願っても良いのですが、それ以前に、祈りの基本は神に聴くことにあるのではないでしょうか。 “ルカ13章18〜35節「神の国に生きる祝福」” の続きを読む

ルカ13章1〜17節「真の安息への招き」

2007年5月13日

先日、人は運動によって五十歳の肉体年齢を八十歳までは保つことができるという記事を読んで感動しました。この世ではこのような原因結果の関係が分ることは大きな励みになりますが、それは両刃の剣でもあります。既に大きな痛みを抱えている人を、「あのことのせいで、自分の人生は駄目になった・・・」という絶望に追いやるからです。 “ルカ13章1〜17節「真の安息への招き」” の続きを読む

Ⅱサムエル11章〜13章19節「ダビデの恐ろしい罪と神の赦し」

2007年1月28日

失敗をした言い訳に、「ストレスを受けていたから……」と言われることがありますが、人が道を踏み外すのは順調であるときの方が多いかもしれません。だからこそダビデは詩篇19篇で「このしもべの高慢を抑え、支配させないでください。それで私は完全にされ、重い罪からきよめられます」と祈っています。それは彼の反省から生まれているのでしょうが、不思議にも、ここでは彼が犯した恐ろしい罪の動機はほとんど分析されていないかのようです。 “Ⅱサムエル11章〜13章19節「ダビデの恐ろしい罪と神の赦し」” の続きを読む