箴言1章〜2章「主 (ヤハウェ) を恐れることは知識の初めである」

2007年7月1日

私は、教訓的なことばがあまり好きではありませんでした。それは、「おっしゃることはごもっともです。でもそれを実行できるぐらいならイエス様を信じようとは思わなかったはずです……」と言いたい思いがあるからです。しかし、よく見ると、イエスの人格に、またそのおことばに、ソロモンの箴言の影響を見て、不思議な感動に包まれました。

1.「知恵と訓戒とを学ぶ(知る)ため」「主を恐れる」とは?

「箴言」は「ことわざ」「格言」とも訳される言葉で、私たちの人生を豊かにする知恵の宝庫のようなものです。それは極めて実践的なことばで、自分の人生にすぐに適用し、あるべき姿に立ち返らせてくれます。この多くの部分はダビデの子ソロモンに由来します。彼は神から与えられた豊かな知恵によってこれらを語りました。ソロモンは晩年にその不従順によって神のさばきを宣告されますが、その過ちと彼のことばとは区別される必要があります。

最初にこの書の目的が「知恵と訓戒とを学ぶため」(2節) と記されます。「知恵」とは箴言の鍵の言葉ですが、その本来の意味は「熟練によって悪を避ける」ということで、この世で成功するための知恵というよりは、「正義と公義と公正」(3節) を「体得する」ためのものでした。そして、「訓戒」とは「過ちを正す」という意味が込められます。たとえばダビデがバテシェバをウリヤから奪い、彼を計略にかけて死に至らしめたとき、預言者ナタンはダビデの過ちを正しました。また彼がアブシャロムへの情に流されたとき将軍ヨアブが彼を正しました。しかし、ソロモンは知恵がありすぎて、誰も彼の過ちを正すことができなかったのではないでしょうか。彼は、後に、「人は自分の行いがことごとく純粋だと思う」(16:2) と言っていますが、人は自分の過ちに気づくことに極めて鈍感で、自分を正当化することに関してはすべての人が天才です。知恵はこころの内側に与えられますが、訓戒は自分の外から来るものではないでしょうか。この両者が必要です。そしてイエスの人々との接し方に、知恵と訓戒を見ることができます。

「主 (ヤハウェ) を恐れることは知識の初めである」(1:7) とは箴言の中心主題です。人は、「善悪の知識の木」からその「実」を取って食べた結果として「死」に定められました。神は、「それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ」と言っておられたのに、人は主のことばを軽蔑し、自分を善悪の基準にしてしまいました。私たちは毎日の生活の中で、「右への道か、左への道か」と迷うことがあるでしょうが、それ以前に、「上への道か、下への道か」を見分ける必要があります。つまり、いつでもどこでも、主を見上げることが問われているのです。それは主が、あなたが右に行こうと左に行こうと遠い回り道をしようとも、すべてのことを働かせて益に変えることがおできになるからです。

イエスも、「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい」(マタイ10:28) と言われました。この世の真の支配者はどなたなのでしょう?主 (ヤハウェ) こそが、あなたにとっての真の主人、王であられます。そしてイエスは、この警告に続けて、「二羽の雀は一アサリオンで売っているでしょう。しかし、そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません。また、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています。だから恐れることはありません。あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれた者です」(マタイ10:32) と言われました。つまり、「主を恐れる」ことは、私たちをこの世の権力者に対する恐れから解放させることにつながるのです。

ここに不思議な好循環が始まります。私たちはこの世で、様々な人やものごとを恐れて生きています。恐怖感情は制御が利かないものですから、それを恥じる必要はありません。しかし、その恐れの中で、より恐ろしい方に目を向けるとき、反対に、自分の世界が神の愛によって守られているという平安が生まれます。恐れるからこそ、父のふところに飛び込むというのが信仰です。そのために主イエスは私たちの罪を負ってくださったのです。

2.「わが子よ……」主にある交わりと主ご自身が私たちのうちに住んでくださる恵み

「愚か者は知恵と訓戒をさげすむ」(1:7) と続きますが、先に「知恵と訓戒を学び」(2節) というときの「学び」は「知識」とも訳される言葉ですから、「知恵と訓戒」の核心こそ「主を恐れること」に他なりません。そして、「わが子よ。あなたの父の訓戒に聞き従え。あなたの母の教え(トーラー)を捨ててはならない」(1:8) とあるように、「主を恐れる」という「知識」を教える主体は、「父と母」両方の責任でした。「わが子」とは、教師が弟子たちを呼ぶ慣用句ですから、ここでは律法の教師自身が、信仰の継承は「父と母」の責任であると語っていることになります。つまり、ソロモンの時代は、女性も律法を学び、子どもに教える責任が任されていたのです。後のユダヤ教徒が編纂したタルムードで、女性に律法を教えることが禁じられたのと何と異なることでしょう。また、古来、信仰を教える主体は家庭でした。道徳教育を学校に期待せざるを得なくなっているのは家庭教育が機能しなくなった結果といえましょう。

「わが子よ。罪人たちがあなたを惑わしても……」(1:10) とありますが、昔から犯罪は集団で行なわれるのが常でした。ですから、「わが子よ。彼らといっしょに道を歩いてはならない」(1:15) と、神を恐れない者たちとの交わりに一線を隠すように命じられています。なお、最近は、ひとりでの凶悪犯罪が増えていますが、彼らもインターネットを通して、罪人たちと交わり、それに刺激を受けています。私たちは誰も一人で生きている者はなく、すべて、誰かとの交わりの中に生きています。その原点が、主を恐れる父や母にある人は、それだけで何よりも大切な知識を受け継ぐことができます。そうでない場合は、自分の発想がこの世と調子を合わせたものにならないように、誰と交わるかに注意深くあるべきでしょう。罪人たちがどんなに優しく近づいてきても、それは下心があってのことです。それが、「彼らは待ち伏せして……自分のいのちを、こっそり、ねらっているのにすぎない」(1:18) と記されます。

一方、20節からは、「知恵は、ちまたで大声をあげ」と、「知恵」が擬人化され、私たちとの交わりを求める様子が描かれています。そして「知恵」は、「わきまえのない者たち……わたしの叱責に心を留めるなら、今すぐ、あなたがたにわたしの霊を注ぎ……わたしのことばを知らせよう」(1:22、23) と語りかけるというのです。つまり、「知恵」を受けるための何よりの条件は、自分たちが「わきまえのない者」であることを認めることにあります。イエスは、当時の宗教指導者たちが、自分の知恵を誇り、自分たちの無知を認めようとしないことに厳しく立ち向かわれました。

ヨハネ福音書の最初で、「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった」と、人となる前の神の御子が「ことば(ロゴス)」と描かれますが、これは「知恵」と似た意味があります。後にパウロは、「いったい、『だれが主のみこころを知り、主を導くことができたか。』ところが、私たちには、キリストの心があるのです」(Ⅰコリント2:16) と言っています。ソロモンは並外れた知恵を持っていても誘惑に勝つことはできませんでした。しかし、私たちの場合は、聖霊ご自身が、最も奥深い部分に住んで、心の内側から造り変えてくださいます。その恵みがどれだけ大きいのか、私たちは何としばしば忘れてしまっていることでしょう。「キリストの心」を宿す幸いを心に留めてみましょう。

3.「いのちの道に至る」ために

「知恵」自身が「愚か者」に向って、「わたしが呼んだのに、あなたがたは拒んだ……そのとき、彼らはわたしを呼ぶがわたしは答えない」と語ります (1:24~28)。これは、知恵の招きを今、拒絶する者は、知恵が必要になるときにはそれが得られないという意味です。これはイエスと私たちとの関係においても当てはまります。今、みことばを学びイエスとの交わりを深めることは、やがてどこかで出会う試練のときへの最も良い備えになります。しかし、困ったときにしか神を求めないような信仰の姿勢は、本当に必要なときに神の助けを得られないという悲劇への入り口になります。そのことを前提に、「わきまえのない者の背信は自分を殺し、愚かな者の安心は自分を滅ぼす」と言われます (1:32)。つまり、「私は大丈夫……」と言う人は、「愚か者の安心」を貪っているに過ぎないというのです。イエスご自身も、「御子を信じる者はさばかれない。信じない者は……すでにさばかれている」(ヨハネ3:18) と言われました。救い主を拒絶する人への神の「さばき」は、既に始まっており、それはやがて明らかされるというのです。

これとの対比で、「知恵」自身が、「わたしに聞き従う者は安全に住まい、わざわいを恐れることもなく、安らかである」(1:33) と語りかけます。同じようにイエスは、「わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです」(ヨハネ5:24) と言われました。

「もしあなたが悟りを呼び求め、英知を求めて声をあげ……隠された宝のように、これを探り出すなら、そのとき、あなたは、主を恐れることを悟り、神の知識を見いだそう」(2:3-5) とありますが、「悟り」も「英知」も同じ語根の言葉で意味に区別はありません。それは「隠された宝」のようなもので、見いだして初めてその価値が分るようなものです。イエスも、「求めなさい」、「捜しなさい」、「たたきなさい」と励まされましたが、その結論は、「天の父が、求める人たちに、どうして聖霊をくださらないことがありましょう」という「隠された宝」のことでした (ルカ11:9、13)。

なお「思慮があなたを守り、英知があなたがたを保って」(2:11) とありますが、「思慮」の語源は「目的」ということばと結びついており、「慎重さ」とも訳すことができます。イエスは、「塔を築こうとするとき、まずすわって、完成に十分な金があるかどうか、その費用を計算しない者が、あなたがたのうちにひとりでもあるでしょうか」(ルカ14:28) と言われましたが、そこには目的を明確に意識するときに、「慎重さ」が必然的に生まれることが示唆されています。「まっすぐな道を捨て、やみの道に歩む」(2:13) ような人に共通するのは、目的意識の欠如ではないでしょうか。

また「英知」とは「見分ける」とも訳すことができることばです。それはここでは「他人の妻」の誘惑の恐ろしさを知ることです。「彼女のもとに行く者はだれも帰ってこない」(2:19) とは、依存症の罠です。人が誘惑への道に足を踏み入れるとき、自分の意思の力でいつでも戻ってくることができると思います。しかし、「英知」を持つ者は、自分の意思の力がいかに弱いものであるかということを知っています。つまり、英知の基本とは、自分の弱さを知ることです。その意味で、ここでの「思慮」と、「英知」には人を謙遜にするという共通の働きがあります。

最後に、「いのちの道に至る」人のことが、「良い人々」「正しい人々」「正直な人」「潔白な人」という四種類のことばで表現されます (2:20、21)。これは、すべて、この世的な意味での完全無欠な人ではなく、「主を恐れる」人のことを指しています。アブラハムは自分の妻を妹と偽り、また妻たちの争いを治めることができませんでした。またダビデは忠実な部下ウリヤをだまし討ちにしました。しかし、聖書は、このふたりともこの四つの性質を有した人と評価しています。それは彼らが、自分の過ちを反省し、神の前にへりくだっていたからです。私たちが自分の罪深さや弱さを自覚し、キリストにより頼もうとするとき、私たちも神の御前で完全な人と見られることができます。

「主を恐れる」ことに関しては、箴言16章に美しく表現されています。以下のみことばを心に蓄え、心から味わって見ましょう。「人は自分の行いがことごとく純粋だと思う。しかし主 (ヤハウェ) は人のたましいの値うちをはかられる……主 (ヤハウェ) はすべて心おごる者を忌みきらわれる。確かに、この者は罰を免れない。恵みとまことによって、咎は贖われる。主 (ヤハウェ) を恐れることによって、人は悪を離れる」(16:2、5、6)。そして、「主を恐れる」とは、イエスを自分の罪からの救い主として信じ、イエスのみこころを実行したいと願うことに他なりません。神の「知恵」は、すべて、イエスという人格のうちに表されています。その方を、私たちはこころのうちに既に迎え入れているのです。