詩篇103篇「倦怠感からいのちの喜びへ」

2007年5月6日

詩篇103篇
ダビデによる

わがたましいよ、主 (ヤハウェ) をほめたたえよ。 (1)

わがうちなるすべてのものよ。聖なる御名を。

わがたましいよ、主 (ヤハウェ) をほめたたえよ。 (2)

すべての恵みのみわざを忘れてはならない。

主(彼)は あなたのすべての咎(とが)を赦し、 (3)

あなたのすべての病をいやし、

あなたのいのちを墓の穴から贖い、 (4)

あなたに 慈愛 (ヘセッド) と あわれみの 冠を授け、

あなたの渇きを 良いもので満ち足らせる。 (5)

あなたの若さは 鷲(わし)のように新たにされる。

主 (ヤハウェ) は 義とさばきを行なわれる。 (6)

すべての虐げられている人々のために。

ご自身の道を モーセに、 (7)

恐ろしいさばきのみわざを イスラエルの子らに 知らされた。

主 (ヤハウェ) は、あわれみ深く、情けに富み、 (8)

怒るのに遅く、慈愛に富んでおられる。

絶えず責めるようなことはされず、 (9)

いつまでも怒ったままではおられない。

私たちの罪に応じて 扱おうとはされず、 (10)

私たちの咎(とが)に応じて 報いることもない。

天が地より はるかに高いように、 (11)

慈愛は 主(彼)を恐れる者の上に大きい。

東が西から はるかに遠いように (12)

私たちの そむきを 遠ざけてくださる。

父がその子を あわれむように、 (13)

主 (ヤハウェ) は主(彼)を恐れる者を あわれまれる。

この方は、私たちが どのように造られたかを知り、 (14)

私たちが ちりにすぎないことを覚えておられる。

人の生涯は 草のようで、 (15)

野に咲く花のように咲き、

風がそこに吹けば、もはやなく、 (16)

その所すら分らなくなる。

しかし、主 (ヤハウェ) の慈愛は、とこしえからとこしえまで、 (17)

主(彼)を恐れる者の上にあり、

主(彼)の義は、その子らの子に、

主(彼)の契約に注目する者、そのさとしを覚えて行なう者の上にある。 (18)

主 (ヤハウェ) は、天に王座を固く据え、 (19)

主(彼)の王国は すべてのものを支配する。

主 (ヤハウェ) をほめたたえよ。御使いたちよ。 (20)

みことばの声を聴き、みことばを行なう力ある勇士たちよ。

主 (ヤハウェ) をほめたたえよ。主(彼)のすべての軍勢よ。 (21)

主(彼)に仕え、みこころを行なう者たちよ。

主 (ヤハウェ) をほめたたえよ。すべての被造物よ。 (22)

主(彼)が支配するすべての所で。

わがたましいよ。主 (ヤハウェ) をほめたたえよ。

注:
「わがたましいよ。主 (ヤハウェ) をほめたたえよ」ということばは、1,2節と22節bで合わせて三回繰り返されている。また、20-22節では、「主 (ヤハウェ) をほめたたえよ。御使いたちよ。天の軍勢よ。すべての被造物よ」と三回繰り返されている。
1-3節に「すべて」ということばが四回、19-22節にも四回繰り返されている。
4節の「慈愛」(恵み)はヘブル語のヘセッド(契約の愛)の訳で、8節b、11節b、17節aと四回繰り返されている。また「あわれみ」はヘブル語のラハムで腹の底からの同情を意味することばで、8節a、13節a、bと四回繰り返されている。
5節「あなたの渇き」はヘブル語が不明確なのでイエスの時代に用いられていたギリシャ語七十人訳を採用した。
7節「恐ろしいさばきのみわざを」というのは一つの単語で本来、「残酷さ」などとも訳される言葉 (詩篇77:12b参照)。
9節b「いつまでも怒ったままではおられない」での「怒り」という言葉は原文にはないが、ほとんどの翻訳者は文脈からこのように訳している。
11節bの「主を恐れる者」は13節b、17節bと合わせて三回繰り返されている。
15節「人の生涯」とは原文で、「人、その日は」と記されている。
8節「契約に注目する」は、しばしば「契約を守る」とも訳されるが、本来は、契約の実行というよりは契約から目を離さず注目を向け続けるというこころの姿勢が問われていることば。契約のすばらしさを味わうことがすべてに先立つこと。
18節「そのさとし」は「戒め」と訳されることがあるが、本来は、配慮に満ちた「指示」を意味することば。
19節b「支配する」は22節bでも繰り返され19-22節を包み込む鍵のことばとなっている。

世の中には、恐れや義務感に縛られながら、いやいや生きているような人がいます。一方、一見楽しそうに見えても、刹那的な刺激をもとめ、明日の見通しもないままその日暮しをしている人がいます。その両者の心に共通するのは、何とも言えない倦怠感ではないでしょうか。では私たちの喜びはどこから生まれるのでしょうか。

1.主のすべての恵みのみわざを思い起こす

ダビデが老年を迎えての最大の事業は、息子ソロモンが神殿を完成できるように様々な準備をすることで、その際、四千人からなる聖歌隊を作りました (Ⅰ歴代誌23:1-4)。この詩はその頃、ダビデが生涯を振り返りながら作り、この聖歌隊の愛唱歌となったのかもしれません。ここには私たちの信仰告白の核心が記されているからです。

1、2節と22節最後に、「わがたましいよ。主 (ヤハウェ) をほめたたえよ」と三度繰り返されます。そしてこの詩全体を通して、御霊に導かれた自分が、肉の身体に縛られた自分のたましいに向って、福音を語るという構成になっています。これとコインの裏表の関係にあるのが詩篇42篇、43篇で、そこでは自分の絶望感を優しく受け止めながら三度にわたり、「わがたましいよ。なぜおまえはうなだれているのか?」と問いかけられます。私たちのたましいは、主の恵みなしには「死」という絶望に向っています。しかし、私たちは、絶望からいのちへと方向転換させられた者として、「わがうちなるすべてのもの」が、「聖なる御名」を賛美することができるのです。ある方は、社会的な成功という鎧を身につけることに必死になりながら、心の奥底に「生きていてごめんなさい……」という絶望感を抱えて生きていましたが、このみことばに出会って、「私はこのために生まれ、生かされてきたのだ!」と、魂が打ち震える体験をしたとのことです。それはこの世のすべてを超越した「聖なる」御名が啓示されたからです。「ヤハウェ」という御名には、すべての存在の源であり、すべての存在に意味を与える方という意味が込められています。この方との出会いの中で、「私は目的を持って生かされている!」と心の底から自分のいのちを喜ぶことができます。

ところで、私たちの心が絶望的な状況から平穏な生活に移ったときに起こる二つの危険があります。それは、高慢と退屈です。高慢は心のうちで、「この私の力、私の手の力が、この富を築き上げたのだ」(申命記8:17) と自分を誇ることですが、やがて自己過信による失敗か、倦怠感(退屈)に行き着きます。退屈さとは、真昼の悪魔と言われる感情的な麻痺状態ですが、そこにしばしば、過去の許すことのできない気持ちや苦々しさが湧き上がってきます。そして、記憶から豊かな恵みの数々を発見できなくなったとき、「これからも何も変わりはしない……」という未来への絶望が生まれます。そこでは、「いのち」が「窒息」しています。そんなとき、自分のたましいに向い、「すべての恵みのみわざを忘れてはならない」と語りかける必要があります。それは、既に与えられた恵み、主が良くしてくださったことの一つ一つを数え上げ、思い起こし、貧しくなった記憶の豊かさ回復させるというプロセスです。

1-4節では「すべて」ということばが四回繰り返されます。「わがうちなるすべてのもの」が、「聖なる御名」を賛美できるのは、「すべての恵みのみわざ」を思い起こすからですが、その核心は、主が今すでに、「すべての咎を赦し」てくださったばかりか、将来的「すべての病をいやし」てくださるという保証です (3節)。これは、「あなたのいのちを墓の穴から贖い」とあるように、私たちのからだの復活のときに目に見える形で表わされます (4節)。そして、私たちの完成のときが「慈愛とあわれみの冠を授け」られるときです。そして、私たちがその栄光のときを目の前に描きながら生きるなら、「あなたの若さは鷲のように新たにされる」(5節) と、まるで鷲の羽毛が生え変わるように、繰り返し若さを新たにできます。そのことを後に預言者イザヤは、「主 (ヤハウェ) を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない」(イザヤ40:31) と美しく表現しています。

なお、既に与えられている恵みを思い起こすことのなかに、「主は……あなたの渇きを良いもので満ち足らせる」(5節) ことも含まれます。この部分のヘブル語原文は意味不明で、福音記者たちも愛用したギリシャ語七十人訳では、「渇き」と訳されています。何と、依存症への対処の秘訣が記されているのです。生まれてからこの方、私たちは様々な「渇き」を覚えてきましたが、そのたびに父や母、その他の多くの人々によって助けられ、それなりの良いもので満足させていただくことができました。足りなかったことよりも、満たされてきたという側面をこそ思い起こす必要があります。その背後に、あなたの創造主である「ヤハウェ」の真実がありました。また、私たちは与えられた個性や能力を生かしながら、様々な危機を乗り越えてくることができました。それを振り返るとき、あなたは自分に生まれながら与えられている恵みの大きさを感謝でき、将来にも希望を持つことができるのではないでしょうか。

2.主 (ヤハウェ) の 義とさばき、慈愛とあわれみ

「主 (ヤハウェ) は義とさばきを行なわれる」(6節) 以降は、イスラエルの歴史を振り返ったものです。「あなた」の歩みは、聖書に記された神の民の歴史の一部だからです。そして、この「義とさばき」は、彼らを「虐げ」ていたエジプトに対する「恐ろしいさばきのみわざ」(7節) として表わされました。しばしば、主の「義とさばき」を自分の罪に向けられるものとして過度に恐れる人がいますが、聖書では、神の民が苦しみの中で主に叫ぶと、主が敵をさばいて救ってくださるという意味で用いられる場合がほとんどです。パウロも、「福音のうちには神の義が啓示されていて、そのは、信仰に始まり信仰に進ませるからです」(ローマ1:17) と、「神の義」は何よりも、私たちを義とするためにご自身の御子を十字架にかけたことに表わされていると述べています (同3:21-26)。「義」は、英語で righteousness と訳されますが、それは神が私たちとの正()しい関係 (right relatedness) を築くことを目的としているのです。そのために神は、イスラエルの罪に対しては、忍耐に忍耐を重ねて、彼らにご自身の愛を示し続けられました。

8-12節は、主の聖なるご性質を美しく描いたもので出エジプト記が背景にあります。かつてモーセが、「あなたの栄光を私に見せてください」と願ったとき、主は雲の中にあってモーセのもとに降りて来られ、彼の前を通り過ぎるとき、「主 (ヤハウェ) 、主 (ヤハウェ) は、あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、恵みを千代に保ち、咎とそむきと罪を赦す者……」(出エジ34:6、7) と宣言されました。そこでの「恵み」、またここで「慈愛」と訳したことばは、へブル語のヘセッドの訳ですが、それは神がイスラエルを「恋い慕って」(申命記7:7)、彼らと契約を結び、彼らに裏切られながらもご自身の約束に真実であられたという神の愛の真実を表わす、翻訳が困難なことばです。それは、4節で用いられ、8、11節で繰り返されています。その意味を、ダビデは10、12節で「罪」「咎」「そむき」という罪の三つの類語を用いながら、神の慈愛は、愛するに価しない者をなお愛し続け、その愛によって私たちを罪の支配から解放するものとして説明しています。私たちがヤハウェを、「私の神」と告白できたのは、まず、神ご自身が私たちを「恋い慕って」くださったことの結果です。その愛に身を任せることこそ信仰の歩みの出発点です。

また、「あわれみ」も、4節のことばが8節で繰り返され、13節で二回用いられながらその意味が説明されています。それは、「父」が「子」に対して抱く感情で、イエスはそれを、放蕩息子の帰りを待っていた父が、自分の方から「彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って、彼を抱き、口づけした」(ルカ15:20) という姿で説明しています。

そして、この主の「慈愛」と「あわれみ」は、何よりも、「主を恐れる者」(11、13節) の上に注がれます。ただそれは神の前で自分を立派に見せようと気を張ることではなく、「私たちがどのように造られたかを知り……ちりに過ぎないことを覚える」(14節) ことです。名曲 Amazing Grace の二番目の原詩は、「恵みこそが私の心に恐れることを教え、また恵みが私の恐れを和らげた」と歌われています。私たちは自分が救いがたい者であることを知れば知るほど、神の愛に圧倒され、身の震えるほどの恐れを抱きます。そしてそのとき同時に、この世の力を恐れる思いから解き放たれます。つまり、主を恐れるとは、肉の力にすがる代わりに、主の「慈愛」「あわれみ」にすがることにほかならないのです。「あなたは何を恐れ、どなたを恐れて生きているのか?」と私たちは一瞬一瞬、問われています。

3.主の語りかけを聴きつつ生きる

「人の生涯は草のようで……」(15節) 以降は、先のことばを受けて展開される歌です。イスラエルの野に咲く花は、驚くほど美しいと同時に短命です。私たちは確かに、「ちり」に過ぎませんが、主はそんな私たちのいのちを美しく輝かせることができます。しかし、それは神が「良し」と認めたほんの短い間のことに過ぎません。ただし、ここでは、「しかし、主 (ヤハウェ) の慈愛は、とこしえからとこしえまで」と、「主を恐れる者」の「いのちの輝き」はこの世の限界を超える様子が対比的に描かれます。そして、「主の義は、その子らの子に……」とは、神と私たちとの義(ただ)しい関係が、世代を超えて受け継がれる様子を描いたものです (17節c)。なおその際、その対象者は、「主の契約に注目する者、そのさとしを覚えて行なう者の上に」(18節) と記されます。これは、「契約を守り……戒めを行なう」とも訳されますが、そのとき、それに束縛と強制のニュアンスを受け取る人も多いことでしょう。しかし、本来の意味は、主の愛に満ちた契約を深く心で味わい、それを昼も夜も黙想することであり、その教えの中心は、無知な私たちを「さとし」導くことにあります。私たちは神のみことばを喜ぶ結果として、それを実行できるようになるという過程を忘れてはなりません。預言者イザヤは、この箇所を前提に、「草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ」(40:8) と言いました。自分のいのちのはかなさを覚えることと、神のことばの永遠性を覚えることは、同時に起こらなければなりません。そうでないと、私たちの信仰は、現実逃避的なものになってしまうからです。私たちは不条理と争いに満ちた世界の中で生きるように召されています。その際、永遠のみことばが何よりの力となります。

最後に、19節から22節は、「主 (ヤハウェ) をほめたたえよ」という勧めが、「わがたましい」から広げられ、「主の御使いたち」「主のすべての軍勢」「すべての被造物」にまで向かいます。その根拠は、「主 (ヤハウェ) は、天に王座を固く据え、主の王国すべてのもの支配する」(19節) ことにあります。そこで特に、「御使い」のことが、「みことばの声を聴き、みことばを行なう力ある勇士」(20節) と言いかえられます。彼らの特権は、何よりも、主のことばを直接に聴くことができること、また彼らの力は、そのみことばを実行できることにあります。つまり、主は、御使いによってというよりは、ご自身のみことばによって世界を支配しておられるのです。そして、その「主のみことば」がこの私たちにも与えられています。それこそがすべての咎、すべての病を癒し、私たちをあらゆる良いもので満ち足らせてくださる神の御手のわざの根本です。なおここでも、「すべて」ということばが四回繰り返され、主のご支配は、「すべての主の軍勢」「すべての被造物」「すべての所」という、天から地の「すべてのもの」に及ぶと歌われます。そして、最後に、それを心に留めながら、「わがたましいよ。主 (ヤハウェ) をほめたたえよ」と締めくくられます。

私たちはまわりのいろんなことに心を配りながら、自分の内側にある「いのちの力」を制御しようと必死になり、その結果、何とも言えない倦怠感に襲われることがあるかもしれません。しかし、全身全霊で主をほめたたえる者のたましいは、鷲のように新たにされ、いのちの輝きが生まれます。その際、賛美の根拠は、自分が主から与えられた力によって成し遂げたことを喜ぶ以前に、「主の慈愛とあわれみ」が私たちにとっての何よりの「冠」であることを覚え喜ぶことです。私たちの心の底にある「渇き」を真の意味で満足させてくださる方は主ご自身なのですから。