詩篇22篇「母の胎内にいた時から、あなたは私の神です」

2007年4月1日

詩篇22篇
指揮者のため。「暁の雌鹿」による。ダビデの賛歌

私の神、私の神よ。なぜ、私をお見捨てになったのでしょう? (マタイ27:46) (1)

私の救いとうめきのことばから、なぜ、遠く離れておられるのでしょう?

私の神よ。 昼、叫んでいるのに、答えてくださらず、 (2)

夜も、私には、静寂がありません。

あなたは、しかし、聖であられ、 (3)

イスラエルの賛美を住まいとされる方です。

私たちの先祖は、あなたに信頼し、 (4)

信頼した彼らを、助け出してくださいました。

彼らはあなたに叫び、助け出されました。 (5)

あなたに信頼して、恥を見ませんでした。

この私は、ただ、虫けら、人間と見られていません。 (6)

人のそしり、民の軽蔑の的(まと)です。

見る者はみな、私をあざけり、 (7)

口をとがらせ、頭をふります。 (マタイ27:39)

「主 (ヤハウェ) にまかせ、助けてもらえ。 (8)

救ってもらえ。お気に入りなのだから。」 (マタイ27:42、43)

本当に、あなたは、私を母の胎から取り出され、 (9)

母の乳房に、拠り頼ませた方。

胎児のときから、私はあなたのふところにゆだねられました。 (10)

母の胎内にいた時から、あなたは、私の神です。

遠く離れないでください。 (11)

苦しみが近づき、助けがないからです。

多くの雄牛が、私を包囲し、 (12)

バシャンの強いものが、取り囲みました。

彼らは私に向かって、その口を開きました。 (13)

引き裂き、ほえたける獅子のように。 (Ⅰペテロ5:8)

私は水のように捨て流され、骨々はみな はずれ、 (14)

心は、身体の中で、ろうのように溶け、

力は焼き物のかけらのように渇ききり、舌は上あごにくっつきました。 (15)

あなたは私を、死のちりの上に置いておられます。

犬どもが包囲し、悪者どもの群れが取り巻き (16)

私の両手と両足を 突き刺しました。

私は自分の骨をみな、数えることができるほどです。 (17)

彼らは私をながめ、ただ見ています。

私の上着を互いに分け合い、 (18)

この衣のために、くじを引きます。 (マタイ27:35)

あなたは、主 (ヤハウエ) よ。遠く離れないでください。 (19)

私の力よ、助けに急いでください。

救い出してください。このたましいを剣から、

ただひとつのいのちを犬の手から。 (20)

救ってください。獅子の口から、 (21)

野牛の角から。

あなたは答えてくださいました。私は、御名を兄弟たちに語り、 (22)

会衆(教会)の中で、あなたを賛美しましょう。 (ヘブル2:14)

主 (ヤハウェ) を恐れる人々よ。主を賛美せよ。 (23)

ヤコブのすべての子孫たちよ。主をあがめよ。

イスラエルのすべての子孫たちよ。主の前におののけ。

本当に、主は、悩む者の悩みを、さげすむことなく、厭(いと)うことなく、 (24)

御顔を隠されもしなかった。 (ヘブル5:7)

むしろ、助けを叫び求めたとき、聞いてくださった。

大きな会衆の中での私の賛美は あなたから生まれました。 (25)

私は、誓いを 果たします。 (詩篇50:14、66:13-15)

主を恐れる人々の前で。

悩む者たちは、食べて、満ち足り、 (26)

尋ね求める人々は、主 (ヤハウェ) を賛美しましょう。

「あなたがたの心が、いつまでも生きるように!」

地の果てまでのすべての人が、覚えて、主 (ヤハウェ) に帰ってくるでしょう。 (使徒1:8)  (27)

国々の民もすべて、あなたの御顔を伏し拝みましょう。

まことに、王権は主 (ヤハウェ) のもの。主は国々を統べ治めておられる。 (28)

地の裕福な者もすべて、食べて、伏し拝み、 (29)

ちりに下る者もすべて、御顔に、ひれ伏す。

おのれのいのちを保つことができない人さえも。

子孫たちも主に仕え、主(主人)のことが、次ぎの世代に語られましょう。 (30)

彼らは来て、生まれて来る民に、主(彼)の義を 告げましょう。 (31)

主(彼)がなしてくださったことを。

2007年高橋訳

タイトルの「暁の雌鹿」は調子を表わすと解釈されるが、その意味は全く分らない
1節の「私の神」はヘブル語で「エリ」で、その発音がマタイ27:46に記されている。
「なぜ、遠く離れておられるのでしょう」で、「なぜ」の繰り返しは原文にはない。
3、69節の始まりの接続詞は、沈黙の中に視点を変える意味が込められている。
6節の「人間と見られていません」は原文で「人間ではない」となっている。
10節「胎児のときから」とは原文で「胎内にいるときから」だが、910での「母の胎」とは異なったことばが用いられている。また、「あなたのふところ」の「ふところ」とは原文にないことば。
20節「ただひとつのいのち」とは原文で、「たったひとつのもの」と記されている。
21節C「あなたは答えてくださいました」はヘブル語で一語のことばで、ここから絶望から希望へと調子が180度転換している。そして、これ以降は基本的に三行詩のリズムに変わっていると思われる。
25節「(賛美は)あなたからうまれました」は原文で「あなたから」とのみ記されている。
26節の三行目は、互いのいのちを喜び合っている祝いのことば。
詩篇22篇「母の胎内にいた時から、あなたは私の神です」

私は初めて聖書を読んだときに、イエスによる様々な癒しの奇跡の記事を読みながら、「よくこんなこと信じられるな……」と不思議に思ったものです。そしてなおも読み進むと、イエスが十字架上で、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」と叫んだという記事に出会い、「何と往生際の悪いことか。やはりこれは信じるに値しない!」と思ったものでした。私は、宗教とは、自分の心を自分で制御できるようになるための道、どんなときにも平安でいられる道だと思っていましたから、この嘆きは受け入れがたく思えたのです。

ところが、今は、イエスの十字架上でのその叫びが、私の心に何よりの平安をもたらすようになりました。それは、そのことばが詩篇22篇の初めのことばそのものだということが分かり、そこに記されている心の微妙な揺れが何とも身近に感じられるようになってきたからです。なお、この詩篇はイエスの一千年前の王ダビデによって記されたものです。そして、イエスはダビデの子として、ダビデの痛みをご自身の痛みとして味わわれました。それは、イスラエルばかりか全人類の王、私たちの代表者として味わった苦しみでした。

私は小さい頃から、人の目がいつも気になり、寂しがりやで臆病であることを恥じていました。もっと人の反応やまわりのできごとに左右されない不動の心を持ちたいと願っていました。その渇きがあったので大学生の頃、聖書を読みたいという気になったのかと思います。しかし、今も、いわゆる悟りの境地からは程遠い状況です。

ただし、今、私が目指し続けている信仰の成長とは、不動の心を持つようになることではなく、神との「祈りの交わり」において成長することです。事実、私の心は信仰の歩みとともに、いろんな出来事にかえって敏感に反応するようになり、傷つきやすくなっている面さえあります。それはこのままの自分が神の愛に包まれているということが分かるに連れ、自分で自分を守ろうとする構えから自由になったからかも知れません。そして、今、私の抱える様々な不安や葛藤や孤独感は、世の多くの人々が抱える心の痛みを理解する窓とされています。

その同じ思いが、星野富弘さんの詩に記されています。

わたしは傷を持っている

でも、その傷のところから

あなたのやさしさがしみてくる

あなたも様々な心の傷を抱えながら生きて来られたことでしょう。ある人は、そのため親を恨むことさえあるかもしれません。しかし、その傷は、創造主であられる神様の優しさがしみてくる泉となるのです。そして、それは同時に、人の心の傷にやさしく寄り添う愛の泉とさえ変えられます。私は、この年になってようやく、生まれる前から神に愛され、神のご計画の中で、大雪山のふもとの村に誕生させられたということが分かりました。そこに生まれるものこそ、本日のテーマ、「母の胎内にいたときから、あなたは私の神です」という告白です。

1.「わが神、わが神。どうして私をお見捨てになったのですか」

私は、今から五十年余り前の年度末最後の日に、開拓農民の家の長男として生まれました。この誕生のときにはじまり、私は何においてもすべてが遅れがちで、小学校三年生の担任などからは「とろい、とろい」と繰り返されるほどで、ソフトボールの仲間にも入れてもらえませんでした。ところが小学校の高学年から、勉強するたびに成績が上がるようになり、いろいろありましたが、この世的には、右肩上がりの歩みになりました。

しかし、心の中は、いつも何とも言えない「恐れ」にとらわれていました。それは何かを失うことの恐れであり、また、バカにされ、仲間外れにされ、拒絶されることへの恐れかもしれません。最近は、それが「見捨てられ不安」と呼ばれ、多くの日本人が抱える根本的な病理であるとも言われます。

ところで、イエスの名は、聖書で「インマヌエル」(神は私たちとともにおられる)とも呼ばれますが (マタイ1:23)、何とその方が、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれたというのです。つまり、「神はともにおられる」という名の方が、「神はともおられない」と叫んだのです!何という矛盾でしょう?

しかし、イエスは十字架で、全世界の罪を負い、誰よりも醜い罪人となって、父なる神から見捨てられていることを味わっておられたのです。イエスにとって何よりも辛かったのは、十字架の釘の痛み以上に、最愛の父なる神から見捨てられていると感じざるを得ない点にありました。

ですから、イエスの叫びは、決して、「往生際が悪い」者の叫びとは次元が異なります。しかも、これが詩篇22篇のことばそのものであることが分かるとき、「神に見捨てられた」と一時的に感じることと、「神は私とともにおられる」と告白することには矛盾がないという信仰の真理を理解する鍵となります。

それにしても、この叫びが、私の心をとらえて離さなかったのは、私の中にある「見捨てられ不安」がそれに共鳴したためだったように思えるのです。今、この詩篇の文脈全体からこれを見ることを学んだとき、私は感動とともに分かったことがあります。それは、イエスが、神に見捨てられていると失望する者たちの代表者となるために十字架にかかってくださったということです。

しかも、イエスは、「どうして私を見捨てたのですか!」と恨みがましく叫んだわけではありません。この中心的な意味は、神から見捨てられたと感じざるを得ない状況の中で、なお、「私の神、私の神よ」と、その神を私自身の神であると告白し、「どうか見捨てないでください!」とあきらめずに祈り続けたことにあるのです。

1、2節にあるように、この詩篇の作者は、神が沈黙しておられる中でも、なお繰り返し叫び続けています。心は乱れて夜も眠ることができないほどなのですが、なおも神を呼び求めています。

その上で、3節から、神に向かって「あなた」と呼びかけつつ、イスラエルの歴史に現わされた神のみわざを思い起こします。ここには、自分の状況をそのまま訴える「私」の視点と、沈黙を経て、神のみわざを思い起こす「あなた」の視点が交互に描かれているのです。4、5節には、「信頼」ということばが三度も繰り返され、神への信頼が究極的には必ず報われることを告白します。これは私たちが聖書から学ぶことの核心です。

しかし現実は、それとはかけ離れているように見えます。6節にあるように、「この私」は、人間の尊厳を奪われ「虫けら」のように扱われています。神を呼び求める姿が、物笑いの種とされ、8節にあるように、「主 (ヤハウェ) に身をまかせ、助けてもらえ。救ってもらえ。お気に入りなのだから」とあざけられます。マタイによる福音書では、イエスの十字架の苦しみは27章33-44節に描かれていますが、その中心は肉体的な痛みよりも、この詩篇の6-8節に記されているような「虫けら」のように扱われ、軽蔑の的となり、自分が身代わりになった罪人たちからとんでもない皮肉と罵声を浴びせられることとして描かれています。目の前の人々の罪を負って、その身代わりに苦しんでおられるというのに……。私たちは、何よりも、人の誤解や中傷に傷つきますが、その苦しみを、イエスは誰よりも深く味わってくださったのです。人はしばしば、信仰と幻想を混同します。私達がこの地に住む限り、孤独と暗闇のときを通らなければならないというは避けがたい現実です。「こんなはずではなかった!」と思うときが、必ず来るものです。しかしそのとき、それはすべての信仰者が必ず通るべき道であると納得できるなら、あわてふためく必要がなくなります。イエスご自身が私達の代表として既に通られた道なのですから……。

2.「あなたは私を母の胎から取り出した方、胎児のときから……あなたは私の神です」

その上で詩篇作者は、沈黙の後、9、10節で、再び、神を「あなた」と呼びかけ、「私」の誕生の場に神がおられたことを覚えます。そして、神様が何と、有能な産婆さんに例えられたのです。私はよく母から、「お前は頭が大きかったから、出産が大変だった。」と言われてきました。当時は、病院ではなく、産婆さんに助けてもらうのが普通でしたが、その産婆さんを使って僕の大きな頭を狭苦しい産道から引き出し、母の乳房を吸わせたのは神ご自身だったというのです。難産だったのは、私が安全な母の胎から出されることを本能的に恐れ、抵抗していたからかも知れません。そして、実際、この世界は決して住みやすいところではなく、争いと不安に満ちています。それで、多くの生き難さを抱えた人の中に、この母体に戻ることへの憧れがあるとさえ言われます。

しかし、この苦しみの始まりを導いたのは神ご自身でした。神こそが「私を……母の乳房に、拠り頼ませた方」であり、私は、母のふところに憩う前から、神の「ふところにゆだねられていた」というのです。人によっては、「私は母によって傷つけられたけれど、その後、神を信じて救われた」と考えますが、ここでは、「母の胎内にいた時から、あなたは、私の神」と告白されます。私のいろんな意味での生き難さは、それは基本的に出生に由来します。しかし、「母」以前に「私の神」が、あの大雪山の麓の貧しい農家での私の誕生を、計画され、喜んでおられたと感じられた時、世界が変わりました。様々な痛みは、神と人との交わりを築くために用いられるからです。

ところで私はドイツ駐在中の家庭集会で、物理学の最先端の科学者との出会い、自分は科学の限界を知らないからこそ、聖書をそのまま神のことばと信じることに躊躇していたのだと分りました。私たちはいのちの誕生の神秘をあまりにも軽く見すぎてはいないでしょうか?あの精子と卵子の結びつきから、どうしてこのように驚くほど精密で複雑な生命体ができるのでしょう?あの不思議な遺伝子の組み合わせは、自然にできるものなのでしょうか?学校では進化論が科学かのように教えられますが、どの科学者が、アミーバーから人間に至る遺伝子の進化のプロセスを解明できたというのでしょう?私のいのち、あなたのいのちは、神の最高傑作です。あなたの創造主は、父でも母でもなく、神ご自身なのです。ただ、神はそのために父と母を用いられたに過ぎません。

信仰とは、目に見える現実を超えた神のみわざ、またそのご計画を知ることです。あなたの誕生は決して、偶然でも、間違いでもありませんでした。苦しみは、誕生の瞬間から私たちの人生の一部なのですから、それを避けようとするのではなく、かえって、それを正面から引き受け、「苦しみ甲斐のある人生」を歩むべきではないでしょうか。神は、目的を持って、あなたを特別にユニークに創造してくださったのですから。

3.「あなたは私に答えてくださいます」

私は年とともにようやく、イエスの十字架上の痛みの本質が分かるようになりました。この働きは、人間の複雑なたましいを相手にしますから、努力と結果は、なかなか結びつきはしません。それどころか、こちらが真剣になればなるほど、自分がコントロールされているように誤解し、息苦しさを感じて去ってゆくという人さえもいます。そんなとき、その人の傷みを思う以前に、自分自身が被害者意識や自己憐憫に陥りそうになることがあります。

ところが、イエスでさえ、一番弟子のペテロから三度、「知らない」と言われ、そればかりか、手塩にかけて育てた弟子のユダから裏切られたのです……。それを思うとき、私の心の目は、自分自身からイエス様に向けられます。イエス様こそは、誰よりも深く孤独の痛みに苦しんでおられたからです。その絶望的な状況が、6-8節に続いて、11節-18節でも、劇的にまた詩的に美しく表現されています。特に18節の「この衣のために、くじを引きます」と記されたのと同じことが、イエスが十字架にかけられてすぐに起きました。彼らは今、目の前で苦しんでおられるイエスよりも、彼の着ていた衣のほうに心が動いたのです。あなたの人生が最も絶望的なときに、そこに当人がいないかのような会話が交わされ、その存在を無視されたらどれほど辛いことでしょう。

そして、19-21節では、神に向かっての必死の祈りが、「遠く離れないでください」「助けに急いでください」「救い出してください」「救ってください」と四回も繰り返されます。ところが、21節の終わりに、突然、「あなたは私に答えてくださいました」という宣言があります。実は、神のみわざは、しばしば「もうだめだ!」と思った瞬間、圧倒的に迫って来るものなのです。信仰は理屈を超えています。1、11、19節で三回も繰り返された、神が「遠く離れておられる」と感じられる現実は、24節にある告白、「本当に、主は、悩む者の悩みをさげすむことなく、いとうことなく、御顔を隠されもしなかった。むしろ、助けを呼び求めたとき、聞いてくださった」(24節) ということを、腹の底から確信するために不可欠なことだったのです。

私の母は出産間もなく私を籠に入れて水田のあぜに置き、田植をしなければなりませんでした。そんな時、私は水田の中に落ち、鼻の頭だけを出し、叫ぶこともできずに死にそうになりました。ふと母は、心配になり、水田から上がって来ました。私を見つけるなり、叫びながら、呼吸がとまりかけ冷たくなった私を必死で抱き暖めました。私は息を吹き返しました。私が瀕死の時、母は「遠く離れて」いましたが、この出来事は、不思議に私の心の中では、母が、そして後には、神が、いつも「私とともにいる」という実感につながっています。

イエスの十字架と復活の関係も、そのように、父なる神と御子なるイエスとの永遠の愛の交わりの観点から見ることができます。主が十字架で、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫んだ三日目に、主は死人の中からよみがえられました。そして、主の復活こそが、「あなたは私に答えてくださいました」とあるように、まさにこの叫びへの「答え」になっているのです。

そして、22節では、「私は、御名を私の兄弟たちに語り、会衆の中であなたを賛美しましょう」と告白されます。新約聖書へブル人への手紙では、これが引用され、復活の主は、私たちをご自分の弟、妹として呼ぶことを恥としないと解説されます (ヘブル2:11、12)。事実、復活したイエスは、裏切った弟子たちをご自身の弟、妹として集め、教会を造ってくださいました。それで私たちも、イエスの兄弟として、日曜日ごとにイエスに導かれて、イエスの父なる神に感謝の祈りをささげるのです。イエスは、今、慈しみ深い兄として私たちの前を歩き、どのような暗闇の中にも希望を与えて下さいます。ですから私たちは、どんなときにも、イエスに習って、「あなたは私に答えてくださいます」と告白することができます。私達が「もうだめだ!」とピンチに陥ることは、神の圧倒的なみわざを体験するチャンスなのです。

イエスが、全世界の罪を負い、神からのろわれた者となって、なお「私の神」と叫び続けた「祈りが答えられた」結果、今、あなたもイエスの父なる神を、「私の神」と告白できるようになりました。これこそ福音の核心です。

4.「大会衆の中での私の賛美は、あなたからのものです」

その上で、神への賛美が、「私」から民族や世代を超えて広がって行く様子が描かれています。22節での、「会衆の中で……賛美」は、25節では、「大きな会衆の中……」へと成長しています。そして、それは神から「生まれたもの」だと告白されます。そして、その賛美の輪が、全世界に広がり、また世代を超えて広がる様子がこの詩篇の終わりに向って描かれています。このように、神に見捨てられたと感じた者が、神のみわざを証し、神への賛美を導く者へと変えられて行くプロセスは、今も、あなたのまわりでもあなた自身にも起きているのです。

私たちが母の胎から取り出され、様々な困難の中でも守られてきたのは、神が私たちを生かしたいと願っておられるからです。それゆえ、私たちひとりひとりには固有の使命が与えられています。よく「このままで良いんですね」と尋ねられることがありますが、答えは、「はい」であり、また、「いいえ」です。聖書の教えは、「そのままの姿でイエスについて行きなさい」ということです。イエスに従ってゆくときに、あなたの過去のすべての苦しみや痛みが、異なった意味を持つようになり、すべてのことが益になっていることが分かるということです。

私は、幸い、牧師になったことを後悔したことや牧師を辞めたいと思ったことは一度もありません。しかし、神が私に与えてくださったユニークさが理解できず、自分らしくないやり方に固執して、数々の失敗をしてしまったことは反省しています。そして分かったことは、私は父からどうしようもない不器用さを受け継ぐと同時に、働きを途中で投げ出さないための忍耐力をも受け継がせていただいているということでした。父は、現在の水田の土を良くする為に(客土といいますが……)、良い土を別のところから馬橇で運んで、三ヘクタールの水田すべてを覆いました。それを私は幼い頃手伝ったことがあります。途方もない作業なのでやり遂げる人は稀ですし、理解も得られません。私は、なかなか働きの結果が見えなくてあせるとき、この父の姿を思い浮かべて励まされます。

あなたは親から受け継いだ様々な負の遺産を嘆くことがあるかもしれません。しかし、神は、それとセットで、それを補ってあまりある様々な能力を恵みとして与えておられるのです。それらが組み合わされて、あなた固有の人格を作り上げています。そして、神は、あなたに様々な試練を与えながらも、それを通してご自身の救いを示して、「わたしはお前が生まれる前からお前の神だ。わたしこそがそのままのお前を生かすことができる」と語りかけておられます。私たちは挫折を繰り返すたびに、神に創造されたままの自分らしい生き方に目覚めることができるのかも知れません。そして、自分にしかできない働きがあることが分かるとき、本当に、生かされてきたことの恵みを、神に感謝できるようになります。つまり、すべてが神から始まり、神への賛美と変えられるのです。

私は昔、自分の田舎は好きではありませんでした。世界にはばたきたいと思っていました。しかし、今、この大雪山を仰ぎ見る風景が好きでたまりません。私がキリストに従う決心をしたとき、宣教師の方から、今、天では天使があなたの回心を喜び歌っていると言われました。しかし、今、私が神を知るずっと前から、神は私を知っておられ、ご自身の栄光に用いるために、敢えて、今の両親のもとに誕生させてくださったと信じています。

私は今、本当に、「母の胎内にいた時から、あなたは私の神です」と告白できることが嬉しくてたまりません。神が与えてくださった親、兄弟、友人、風景、それらがすべて宝物に思えます。あなたはどうでしょうか?自分の生涯を、神の眼差しから見直すとき、すべてが変わります。私の神が私の誕生を、またそれ以降の歩みを導いておられました。私は自分のことを好きではありませんでした。自分の傷つき易さを受け入れることができませんでした。しかし、私の救い主は、そんな私の痛みを担うために人となってくださいました。私のこころの痛みを、神は軽蔑されなかったばかりか、私が抱え込んでいる不安のゆえに起こしてしまう様々な過ちをまた罪をその身に負ってくださいました。私の救い主は、それほどまでに、この私に寄り添ってくださったのです。かつて「わが神、わが神……」という祈りを軽蔑したとき、私はイエスではなく、自分を軽蔑していたのです。そして、今、この祈りを聞くたびに、イエスが私の王として、私の身代わりとして、この祈りを叫んでくださったと分ります。

私たちはこの世的な基準で自分の価値をはかります。そして、自分の期待をかなえてくれる神を求めます。しかし、人生には砂漠のような時期があります。そのとき、私たちは、神が遠く離れているように感じます。しかし、それを通して、私たちは神が与えてくださる富や名誉や力ではなく、神ご自身だけを求めることに目が向けられるのです。イエスはすべてを失った中で、「私の神よ……」と、神ご自身との交わりだけを求めました。しかも、すべてを失ったと思えたときこそ、神がイエスを通して世界を救うという圧倒的な勝利の入り口でした。それを通して、世界のすべてのものがイエスに任されました。私たちも神が遠く離れておられるように感じることがあったとしても、その貧しさを通して、神にある豊かさを体験することができるように変えられるのです。神以外の何ものも私に真の幸福を与えることはできません。もちろん、私たちは自分で進んで苦しむ必要はありません。しかし、どの人生にも苦しみはあります。私たちに問われているのは、苦しんだことが無駄にならないこと、それが神との交わりを深めるために用いられることではないでしょうか。私たちも、いつでもどこでも、人生がどんなに辛く、悲しく思えるようなときにも、イエスの父なく神を「私の神」と告白して、その置かれた場で喜びを体験できるのです。