ルカ11章53節〜12章12節「神を恐れる者が体験する自由」

2006年9月24日

聖書は、この世に人間の尊厳を教えてくれました。しかし、同時に、人々が聖書を「道徳の書」かのように受け取るようになったとき、最も大切な真理が見過ごされることになりました。それは、全宇宙の創造主が、私たちを恋い慕ってくださり、私たちの一途な愛の応答を求めておられるという、愛の関係です。 “ルカ11章53節〜12章12節「神を恐れる者が体験する自由」” の続きを読む

ルカ11章33〜52節「神よりも自分を見る信仰の愚かしさ」

2006年9月10日

私たち信仰者が陥り易い過ちは、創造主である神を愛するというより、自分の信仰の姿勢を見てしまうことではないでしょうか。それは、ある人を恋していると言いながら、その人のことを表面的にしか知らず、ただ「恋に恋している」ということと同じです。それはナルシズムであって、真の愛ではありません。 “ルカ11章33〜52節「神よりも自分を見る信仰の愚かしさ」” の続きを読む

ルカ11章14〜32節「話し、祈り、聴くことすべてがイエスによって……」

2006年8月27日

この世界は、実質のない、誇大宣伝のことばが氾濫しています。私たちもその流れに影響されてはいないでしょうか。ことばが多すぎることを反省しながら、ザカリヤのように一度、口をきけないようにしてもらい、その上で、イエスが与えてくださることばを話すことができるようになったら、と考えさせられました。 “ルカ11章14〜32節「話し、祈り、聴くことすべてがイエスによって……」” の続きを読む

ルカ11章1〜13節「主が教えてくださった祈り」

2006年8月13日

「主の祈り」は、マタイ6:9-13を教会の礼拝で用いられるのが普通ですが、イエスはここでそれを、より簡略化し、強調点を変えた祈りも教えてくださっています。私は昔、マタイでの主の祈りの直前に、「あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです」(6:8)と記されていることを誤解し、自分にとっての必要を必死に願うことの意味がよく分らなくなったことがあります。 “ルカ11章1〜13節「主が教えてくださった祈り」” の続きを読む

ルカ10章29〜42節「どうしても必要なものはただ一つだけです」

2006年7月23日

「善きサマリヤ人のたとえ」は、教会の歴史の中で、単なる「隣人愛の模範」としてひとり歩きするようになり、そのうちに、その人がどのような神々を信じていようとも、隣人愛を実践できているかどうかの方が大切であるとの解釈さえ生まれました。しかし、著者ルカは、この直後に、「マルタとマリヤ」のことを記し、主のみこころを聞くことを後回しにした熱心さによって主を悲しませた実例を紹介します。それは、主の御前に静まり、主の御声を聞くことこそ、すべての隣人愛の原点とならなければならないからです。 “ルカ10章29〜42節「どうしても必要なものはただ一つだけです」” の続きを読む

ルカ10章21〜37節「愛されているとの自覚から生まれる愛」

2006年7月9日

生活習慣病にかかりそうだとの自覚は、健康的な生き方を始めるきっかけになります。同じように、「自分には愛がない」という自覚を持つことから、神の愛に動かされる隣人愛が生まれないでしょうか。

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ルカ9章37〜56節「この世の取るに足りない者を選ばれ、弟子とされたイエス」

2006年6月11日

イエスは十二使徒を選ばれました。しかし、彼らは、人々から尊敬される人格者というよりは、「この世の取るに足りない者」(Ⅰコリント1:28)と呼ばれるにふさわしい者たちでした。しかし、その彼らによって、「教会」の基礎が作られたことは確かです。それはあなたにも、希望を与えることではないでしょうか。 “ルカ9章37〜56節「この世の取るに足りない者を選ばれ、弟子とされたイエス」” の続きを読む

ルカ7章24〜50節「イエスとの交わりから生まれる奇跡」

2006年4月7日

人と人とが協力し合うためには一定のルールとか利害の調整が必要です。そのことを先週の申命記で学びました。ところが、バプテスマのヨハネやイエスの働きは、当時のまじめな信仰者の目には、その大切な慣習を破壊するものと見られました。その大胆さには、私たちさえ眉をひそめることでしょう。 “ルカ7章24〜50節「イエスとの交わりから生まれる奇跡」” の続きを読む