イスラエルの歴史でエルサレムの陥落とバビロン捕囚がなければ救い主への待望が生まれませんでした。 “哀歌1章1節〜3章39節「苦しみが意味するもの」” の続きを読む
マタイ11章25〜30節「幼子たちに現された福音」
2007年11月18日
人は誰しも、馬鹿にされると傷つき、大切にされると嬉しくなります。そしてこの社会では、人の価値がその人の生産能力で測られているかのようです。そのような中で、あなたの中には、「自分の存在価値を証明しなければ!」という駆り立てる思いがないでしょうか。しかし、その気持ちをイエスの前でも持ち続けるなら、信仰に安らぎは生まれません。それどころか、身体を壊すほどに頑張りながら、イエスを悲しませることになりかねません。 “マタイ11章25〜30節「幼子たちに現された福音」” の続きを読む
ルカ15章「失われていた二人の息子」
2007年11月4日
私は昔、「あなたはどうして、そう肩肘張って生きているの・・・」と言われたことがあります。先日、シンガポールでは、「高橋先生は、完璧から程遠いけれど、何とも愛嬌がある・・」という趣旨のことを何人からも言われ嬉しくなりました。私は昔、「完璧」と「完全」の区別がついていませんでした。 “ルカ15章「失われていた二人の息子」” の続きを読む
ルカ14章15〜35節「神の国の祝宴を目指して」
2007年9月26日
19世紀のドイツの哲学者ショーペンハウアーは、「生への意思」に注目しつつ、「人間の生命は苦難と退屈の間を振り子のように行ったり来たりするものだ」と述べましたが、それは世の多くの人の現実ではないでしょうか。人は苦難から逃れることを望みますが、幸せも束の間、すぐに「倦怠感」が生まれます。それこそ現在の日本の問題でしょう。 “ルカ14章15〜35節「神の国の祝宴を目指して」” の続きを読む
箴言8章〜9章「神の知恵、イエスを心に持つ幸い」
2007年9月2日
私たちの憲法では、ひとりひとりが幸せを追求する権利が尊重されるべきことが保証されています。不思議に、幸せになる権利ではなく、幸福を「追求する」権利と記されます。そこには、人が常に、幸せに憧れながら、渇きを覚え続けるという地上の現実が前提とされているのではないでしょうか。だからこそ個人の自由が保障され、自分の意思で自分なりの幸福を追求することが尊重されるべきなのです。そして、それこそ、こころの世界です。それに対し聖書は単純明快な答えを提示します。それは、知恵を愛すること、イエスを愛することによるというのです。 “箴言8章〜9章「神の知恵、イエスを心に持つ幸い」” の続きを読む
ローマ7章7〜8章11節「罪の律法?と生かす御霊」
2007年8月26日
約25年ほど前、ドイツが東と西に分かれていた頃、私は車で西ドイツの国境を抜け東ドイツに入りました。国境を越えてすぐの東ドイツの道路は広くまっすぐでした。でもすぐに警察に止められ、速度違反で罰金を払わされました。スピードを出しても安全な道路に、ほとんど見えないほどの速度制限の標識をつけながら、彼らは外貨を稼いでいました。それと同時に、自由に慣れた西側の人間を萎縮させ、従順にさせようとしたのでしょう。 “ローマ7章7〜8章11節「罪の律法?と生かす御霊」” の続きを読む
箴言5章〜7章「ギャンブル的信仰」
「信仰によって歩む」という中に、確かに、「不可能を可能としてくださる全能の神に信頼して、積極的に歩む……」という意味が込められています。ただそれが、「最悪の事態にも備える」ということを否定する思いになると危険です。実際、少し前まで、保険への加入を「不信仰!」と否定する宣教団体があったとも聞いています。 “箴言5章〜7章「ギャンブル的信仰」” の続きを読む
箴言3章〜4章「あなたの行く所、どこにおいても、主を認めよ」
聖書の時代、ほとんどの人に、職業選択や住む場所を選ぶ自由ばかりか結婚の自由さえありませんでした。現代は基本的人権によって、それぞれが自分の幸福を追求する権利が保障されています。 “箴言3章〜4章「あなたの行く所、どこにおいても、主を認めよ」” の続きを読む
箴言1章〜2章「主 (ヤハウェ) を恐れることは知識の初めである」
2007年7月1日
私は、教訓的なことばがあまり好きではありませんでした。それは、「おっしゃることはごもっともです。でもそれを実行できるぐらいならイエス様を信じようとは思わなかったはずです……」と言いたい思いがあるからです。しかし、よく見ると、イエスの人格に、またそのおことばに、ソロモンの箴言の影響を見て、不思議な感動に包まれました。 “箴言1章〜2章「主 (ヤハウェ) を恐れることは知識の初めである」” の続きを読む
ルカ14章1〜14節「すでにある神のご支配を喜ぶ日」
2007年6月17日
「時は金なり」とこの世の常識が教える中で、神は、「週に一日の休み」を勧めるのではなく、命じておられます。それは、人はいつも、時間でも人でも、何かの目的達成の「手段」におとしめてしまうからです。しかし、一方で、「主の日」を「義務を果たす日」としてしまい、喜びを失っている信仰者も意外に多いのかもしれません。主の日を、神にある「自由」と「喜び」の日として、本来の意味を回復させることは、現代の課題でもあるように思われます。 “ルカ14章1〜14節「すでにある神のご支配を喜ぶ日」” の続きを読む