イザヤ52章13節〜53章6節(ヘンデル作オラトリオ「メサイア」第二部のテキストから)「のろいの十字架に隠された祝福」 

2008年3月16日

イエス・キリストはこの世の中では、愛の模範として尊敬されています。それは福音書に描かれたイエスの姿をベースにしています。しかし、よく見ると、福音書では繰り返し、イエスにおいて旧約の預言が成就したと記されています。つまり、旧約聖書を飛び越えてイエスの人間としての生き方ばかりを見るように聖書は記されてはいないのです。

たとえばイザヤ書53章は、ユダヤ人がイエスを救い主として認めるようになる際の決定的なみことばです。しかし、この歌は、「見よ。わたしのしもべは栄える・・・非常に高くなる」(52:13)から始まっているものです。イエスは、人々から「さげすまれる」歩みが、父なる神のみもとに引き上げられる道であることを信じて、苦しみを忍ばれたのです。そのことをヘブル書の著者は、「イエスはご自分の前に置かれた喜びのゆえに・・十字架を忍び」(12:2)と記しています。つまり、旧約の預言は、栄光の復活が前面に出て、それに至る道として十字架が出てくるのです。しばしば、十字架ばかりを強調して、その贖いの有効性を保障するための付録かのように復活が描かれるような福音理解となんと対照的でしょうか。

ヘンデル作曲のオラトリオ「メサイヤ」は、そのテキストは聖書のみことばだけですが、その第二部の救い主の御苦しみと復活に関しても、基本的に旧約のみことばだけが歌われます。それはある意味、画期的なことです。イエスの十字架を、旧約の視点から見てゆくときに、それは決して愛の模範に生きた人の悲劇にはなり得ないからです。かえって、そこに神の救いのご計画の成就が見られ、十字架の「のろい」の背後に、神の祝福のご計画を見ることができます。しかも、これは1741年にチャールズ・ジェネンズという舞台作家がヘンデルによる作曲を期待して編集したもので、当時の英国国教会の礼拝式文が参考にしながら生まれたと言われます。つまり、そのような伝統があったのです。

1.「彼の打ち傷によって、私たちはいやされた」

最初に、Behold the lamb of God「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ1:29)という悲しい調べの合唱曲から始まります。これはバプテスマのヨハネが、イエスが自分の方に来られるのを見て最初に発したことばです。イスラエルの民はかつて、奴隷の地エジプトから解放されるとき小羊をほふってその血を家のかもいと門柱につけました。そして、その家を神のさばきは過ぎ越しました。同じように、私たちもイエスの血によって、サタンと罪の奴隷状態から解放されます

第二曲目は、イエスの生涯がイザヤ書53章3節と50章6節のみことばを用いて描かれます。イエスご自身も、これらのみことばを心の底から味わったからこそ、十字架の苦しみを忍ぶがことができたのだと思われます。

当時の常識では、救い主は神の民の敵をご自身の力によって打ち砕く方として期待されていました。しかし、ここでは、He was despised・・「彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた」(53:3)と記されているのです。そしてこの方は、「打つ者にその背中をまかせ、ひげを抜く者にその頬をまかせ、侮辱されても、つばきをかけられても、その顔を隠さなかった」(50:6)とあるように、人々からの侮辱を甘んじて受けられたのでした。

それは単なる非暴力の模範を示すためではありませんでした。それはもっと創造的なこと、私たちと神との関係を決定的に変えるためでした。それが、第三曲目の美しい合唱曲で、Surely He has borne our grief 「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。私たちに平安をもたらすための懲らしめ彼の上にあった」(イザヤ53:4,5)と歌われます。

たとえば、「いつくしみ深き友なるイエスは」の歌詞は、「イエスは何というすばらしい友でしょう。私たちのすべての罪と悲しみを担ってくださるとは・・・」と歌われています。私たちはいつも罪の赦しの福音を聞きますが、それと不可分なのが、イエスご自身が人間としての悲しみのすべて、「病と痛み」を担ってくださったということです。

多くの人は「罪の赦し」という最も大きな恵みを味わう前に、自分の身体の病と痛みに圧倒されてはいないでしょうか。それはすべてアダムの原罪から始まったことです。しかし、イエスは第二のアダムとして生まれ、第一のアダムの罪に起因するすべての病と痛みを背負ってくださいました。それによって、目に見える「病と痛み」が取り去られるというわけではないかもしれませんが、そこに新しい創造が生まれます。

たとえば、星野富広さんは首から下が動かなくなった中でイエスと出会い、「わたしは傷を持っている。でも、その傷のところから、あなたのやさしがしみてくる」と言いました。またファニー・クロスビーという数多くの慰めに満ちた賛美歌を書いた詩人は、生後まもなくやぶ医者の過ちによって盲目にされたのですが、彼女はそのことを、「創造主が私にしてくださった最も大きな祝福は、この肉体の目が閉じられるのを許されたことです。なぜなら、それによって私はいつも夢を抱いて生きることができるようになったから。私はいつも最も美しい情景を、人々の眼差しを思い浮かべることができたのです。主はご自身の働きに私を召しだすために、この目を閉じてくださったのです」とさえ言っています。

星野さんもファニー・クロスビーも、肉体的なもの以上の根本的ないやしが与えられました。それは人間的な損失と思えることが、祝福へのみなもとと変えられたということです。そのことが第四曲で、「And with His stripes we are healed 彼の打ち傷によって、私たちはいやされた」(イザヤ53:5)と歌われます。サタンは私たちの肉体を苦しめることによって神との交わりを断ち切ろうとしています。しかし、彼らはすでに無力なものとされました。私たちが受ける「いやし」、それは、人生の苦しみがなくなるというような卑しいものではありません。このままのあなたが、その能力とその弱さのままで、神の栄光のために用いられる、あなたの人生が、どのような苦しみの中でも輝くことができるという崇高な「いやし」です。

そのことが第五曲の合唱で、「私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、【主】は、私たちのすべての咎を彼に負わせた」(イザヤ53:6)と歌われます。私たちは羊のように愚かでひ弱な者で、自分で進んで滅びに向かってしまうような者ですが、イエスは真の羊飼いとして、羊を守るために、また羊を生かすために、ご自身のいのちを捨ててくださいました。「咎」とは、罪の報いとしての刑罰を含む概念です。私たちは自分で自分の責任を負うことができないような者ですが、イエスが羊飼いとして私たちのいのちに対しての責任を負ってくださいました。それは、私たちが過去の後悔や恨みに囚われた生き方から、明日に向かって新たな歩みができるためです。

2.「よく見よ。【主】が・・彼をひどいめに会わされた。このような痛みがほかにあるかどうかを」

イエスの十字架のシーンは、詩篇22篇と69篇から引用されています。私は最初、イエスの十字架上のことば、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか・・・」の意味が分からず、つまずきを感じたことがありましたが、これが詩篇22篇の最初のいのりのことばであるとわかったときから、このイエスの祈りを本当に身近に感じました。イエスはこれらの詩篇を心の底から味わいながら十字架への道を歩まれたのではないでしょうか。それは人々から見捨てられ、嘲りを受ける者の仲間となるためです。これらの詩篇はもともとダビデによって記されました。彼は深い孤独感の中で、神に叫び続けました。そしてイエスはダビデの子として、この詩篇に描かれている苦しみを味わってくださったのです。

第六曲の「彼を見る者はみな、彼をあざけります。彼らは口をとがらせ、頭を振りながら、言います」(詩篇22:7)とは、詩篇での「わたし」を「彼」と言い換えることによって、これがイエスの体験となったことを描きます。そして、第七曲の合唱で、イエスがまわりのすべての人々からあざけりを受けている様子が描かれ、「【主】に身を任せよ。彼が助け出したらよい。彼に救い出させよ。お気に入りなのだから」(詩篇 22:8)と歌われます。神に愛されている者がこのような苦しみに会うということはあり得ないことと思われたからです。事実、イエスはこのとき、「彼は他人を救ったが、自分は救えない。イスラエルの王だ。今、十字架から降りてもらおうか。そうしたら、われわれは信じるから」(マタイ27:42)とも嘲られました。しかし、イエスは、まさに他人を救いためにこそ、神のみこころに従ってこの苦しみを受けておられたのです。

私達も、信仰のゆえに嘲りを受けることがあるかもしれません。しかし、それはイエスご自身の苦しみをともに味わうこと、またイエスと一体化されるという祝福でもあります。ですからイエスは山上の説教で、「わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口をあびせるとき、あなたがたは幸いです。喜びなさい。喜び踊りなさい。天ではあなたがたの報いは大きいから」(マタイ5:11,12)と言われました。それは、その苦しみを、天の父はわかっていてくださるということです。しかし、人々の誤解や中傷を恐れ、父なる神を忘れた生き方をすることは恥ずべきことです。

それにしても第八曲で、詩篇69:20が引用されるのは大きな慰めです。私が詩篇の祈りにある慰めに目覚めたのは、信頼していた人々からも誤解を受け、批判を受けたときでした。そのとき私は今の何倍もの重い責任を担っていました。正直に言うと、「本来、自分の責任でもなかったことでこれだけ苦労しているのに、その上、僕を批判するとは何事だ!」という感じの怒りと悲しみに圧倒され、深い孤独を味わっていました。そのような中で、この詩篇の嘆き、「そしりが私の心を打ち砕き、私はひどく病んでいます。私は同情者を待ち望みましたが、ひとりもいません。慰める者を待ち望みましたが、見つけることはできませんでした」というみことばに、自分の気持ちがそのまま書いてあると感動したのです。

そのときの私は内心では同情者を待ち望んでいた一方で、そのような弱い自分を、「不信仰者!」と軽蔑していました。そのため心が空回りを起こしてしまい、息が詰まるような気持ちを味わっていました。しかし、この詩篇を読んで、「僕は同情者を待ち望んで良いのだ!」と気持ちが解放されたのです。そればかりか、この祈りは、十字架上のイエスご自身のお気持ちであったということがこの詩篇69篇の文脈とヨハネの福音書から確信できました。

このメサイアでも、これがイエスの十字架上の何よりの苦しみであることが描かれています。福音書は、十字架の苦しみを肉体的なものよりも、このような孤独感として描いています。それは人にとっての最大の苦しみは孤独感だからです。そして、ここでも、「わたし」を「彼」と言い換えて、人々の誤解と中傷こそがイエスの苦しみであることが描かれています。

そして、第九曲で、哀歌1:12から、「Behold and see よく見よ。【主】が・・彼をひどいめに会わされた。このような痛みがほかにあるかどうかを」と歌われます。これも原文の「わたし」を「彼」と言い換えています。哀歌では、エルサレムが擬人化されて、彼女が自業自得でバビロン捕囚という神のさばきを受けたことの嘆きが描かれています。イエスは、ユダヤ人の王として、彼らの自業自得の苦しみを担ってくださいました。それは彼らの身代わりのさばきを受けることで、神のさばきの時代を終わらせ、新しい祝福の時代をもたらすという意味がありました。イエスの十字架はバビロン捕囚を終わらせるという意味があったのです。これは私がカナダのリージェント・カレッジまで行って初めて気づいたことです。

正直、これによって聖書の読み方が変わりました。しかもそれは何かの新しい読み方ではなく、ヘンデルの時代の理解と同じだというのも驚きです。私たちも自業自得の苦しみに会うことがあるでしょう。しかし、そこで神は、「そら見たことか・・・」などと私たちを責める代わりに、「よく見よ。イエスの苦しみを・・」と語ってくださいます。私たちの罪に対する神のさばきは、既に終わっているのです。それゆえ今、私たちが出会う様々な苦しみは、罪への罰ではなく、「平安な義の実を結ばせ」るための、神からの愛に満ちた「訓練」と呼ぶことができます(ヘブル12:11)。この世的な感覚で、「ばちがあたった」などと言って、後悔をしている暇があったら、イエスの苦しみを「よく見よ・・・」という歌に心を向けてみましょう。

そして第十曲では、イエスの死の苦しみの意味が、「彼は生ける者の地から絶たれた。あなたの民のそむきの罪のために打たれた」(イザヤ53:8節)と、神の民のそむきの罪の身代わりであったと歌われます。興味深いのは、このイエスの死の歌がすぐに、「まことに、あなたは、彼のたましいをよみに捨ておかず、あなたの聖徒に墓の穴をお見せにはなりません」(詩篇16:10)という復活の歌につながっていることです。

私たちは十字架と復活を区別して見がちですが、イエスの十字架の死は、「死」という「のろい」の力に対する勝利でもありました。「キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖いだしてくださいました」(ガラテヤ3:13)とあるように、イエスが受けた「のろい」は、同時に神の救いのご計画でもありました。

ですから、神はイエスの死を「のろい」であるとともに、「神への従順」として見てくださったのです。「のろい」は「祝福」の始まりでした。イエスの十字架と復活は、常にセットのものとして見られるべきです。それは私たちが神に従って苦しむようなときの何よりの慰めになります。私たちが一時的に、神から見捨てられたように感じることがあっても決して心配ありません。神はご自分の聖徒に死の力への勝利を与えてくださいました。

シャガールはチューリッヒのステンドグラスで、イエスの十字架と復活をセットに描いています。イエスの頭が十字架から浮かびあがっているのです。私たちも不思議に、イエスの十字架の苦しみに思いを向ければ向けるほど、かえって気持ちが楽になるというようなことがあります。それは私たちのどのような苦しみも、すでにイエスが体験してくださっているということを知り、苦しみの中でイエスとの一体感を味わうと共に、その苦しみに出口があることが分かるからです。

3.「良いことの知らせを伝える人々の足は、なんとりっぱでしょう。平和の福音を告げる人々の足は」

第十一曲の合唱曲で、イエスの復活の喜びが力強く、「Lift up your heads・・門よ。おまえたちのかしらを上げよ。永遠の戸よ。上がれ。栄光の王が入って来られる。栄光の王とは、だれか。強く、力ある【主】。戦いに力ある【主】・・・万軍の【主】。これぞ、栄光の王」(詩篇24:7-10)と歌われます。これは復活のイエスを「栄光の王」と呼びながら神の都エルサレムに迎える歌です。エルサレムの城壁の外で辱めを受けて殺されたイエスは、三日目に墓の中からよみがえり、臆病に戸を閉じて閉じこもっている弟子たちの交わりの真ん中に現れました。

私たちも世の人々から仲間外れにされることを恐れ、心の中からイエスを締め出そうとするようなことがあるかもしれません。しかし、イエスこそは栄光の王、戦いに力ある万軍の主であられます。イエスはご自身の十字架によって、死を持って脅すサタンの力に打ち勝たれました。

第十二曲はごく短く、「神は、かつてどの御使いに向かって、こう言われたでしょう。『あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ。』と?」(ヘブル1:5)と歌われますが、これは詩篇2篇からの引用でもあります。詩篇1篇では、神に従う者の幸いが美しく歌われていました。イエスの十字架は、その原則に反するように見えましたが、詩篇2篇では、目に見える苦しみがあったとしても、この神の民の勝利の原則は変わらないということが保障されています。

「わたしがあなたを生んだ」とは、神がご自身の子を、王として即位させられる歌です。イエスの十字架には、「ユダヤ人の王、ナザレ人イエス」と記されていましたが、それはあざけりのようで、真実を表しています。十字架こそは、イエスの玉座でした。ヨハネの福音書におけるイエスの十字架は、王としての威厳に満ちています。イエスは神の民のすべての罪を負う王として、十字架に向かわれたのです。

バッハもマタイ受難曲とセットにヨハネ受難曲を描いています。その前奏曲では、「主よ、あなたは驚くべき低さの極みにおいて栄光を受けておられる」と歌われています。つまり、イエスの十字架は、王としての栄光の表れでもあるという点が強調されているのです。私たちも、イエスの御霊の力を受けることによって、同じように、どのような苦しみの中でも王としての威厳を保つことができます。福音は殉教者の血が流されるたびに広まりました。それはキリスト者がどのような脅しに屈することなく堂々としている様子を見て、迫害している者の方が恥じ入ってしまったからです。

第十三曲の合唱曲は、その勝利の祝福を、「神の御使いはみな、彼を拝め」(ヘブル1:6)と力強く歌ったものです。これは、イエスがこの地上においてばかりか、天においても礼拝の対象とされている様子です。イエスは復活によって、神と並んで礼拝の対象とされたのです。

第十四曲は、「あなたは、いと高き所に上り、捕らわれた者をとりこにし、人々から、みつぎを受けられました。頑迷な者どもからさえも。神であられる主が、そこに住まわれるために」(詩篇68:18)と歌われます。このみことばの解釈は困難ですが、パウロはこのみことばを引用しながら、「私たちはひとりひとり、キリストの賜物の量りに従って恵みを与えられました」(エペソ4:7)と、私たちそれぞれに聖霊の賜物が与えられる約束が成就したと語ります。

確かに、私たちも、かっては「頑迷な者」、神の敵でしたが、聖霊を受けることによって、「イエスは主です」(Ⅰコリント12:3)と告白することができました。そして、御霊の賜物を受けて肉の力を超えた偉大な働きへと召されています。

そのことを、パウロは、「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです」(ピリピ4:13)と言いました。私たちは、イエスが死の苦しみに囚われることで、かえって神の敵を虜(とりこ)にできたということを忘れてはなりません。目に見える敗北こそは、驚くことに、神にある勝利の始まりだったのです。それが御霊を受けた私たちにも同じように実現します。それが霊の目を持って現実を見るということです。

第十五曲の合唱は、「the Lord gave the word・・主はみことばを賜る。良いおとずれを告げる者たちは何と偉大なことよ」(詩篇68:11)とは、私たちそれぞれがこの神のよき知らせを告げ知らせるように召されているということです。私たちは神にある勝利をすでに得たものとして、「平和の福音」を世界に証することができるのです。

そのことが第十六曲で、「良いことの知らせを伝える人々の足は、なんとりっぱでしょう。平和の福音を告げる人々の足は」(ローマ10:15)と歌われます。私たちは互いに争いながら「平和の福音」を告げ知らせることができるでしょうか?しばしば、「争い」は、自己弁護から始まります。自己弁護は多くの場合、人への非難を含むからです。「しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださった」(ローマ5:8)ということを心から味わうとき、私たちは自分の正義を主張する必要はなくなります。私たちは何度も失敗しますが、既にイエスと共に勝利者の行列に加えられた者として、余裕を持って、自分の生き方を通して「平和の福音」を知らせることができるのです。

しかも、このイエスの勝利の福音は、第十七曲の合唱で、「その声は全地に響き渡り、そのことばは地の果てまで届いた」(ローマ10:18、詩篇19:4)と高らかに歌われているように、既に全世界に知らされています。私たちがしなくても福音は広まります。私たちはただ成功が約束された働きに加わらせていただけるのです。この働きは、「私がやらなければ・・・」という悲壮感によってではなく、成功と祝福がすでに決まっている働きの仲間に入れていただけるという特権なのです。

世の多くの人々は、イエスが全世界の罪を贖うために十字架にかかられたということを、宗教的な主張として受け入れ、それを犠牲愛の道徳の基礎の教えとして受け入れます。しかし、イエスは三日目に死人の中からよみがえって、この世界を今、王として治めておられるということになると、「そんな途方もないことは信じられない・・・」、「復活がなければ信じられるのに・・・」などという応答が見られます。しかし、旧約聖書から見た十字架は、いつも復活とセットにならざるを得ません。十字架だけでは、神のご計画の失敗にしかならないのです。

そして、このような見方は、信仰生活の持ち方にも影響を与えます。十字架で終わる福音は、死ぬこと自体を美化することになりかねません。犠牲愛が道徳とされるところでは、何かしらの息が詰まるような感じが出てこないでしょうか。たとえば、「イエス様はこれほど私たちのために苦しんでくださったのに、あなたはその犠牲にきちんと応答して生きていますか・・・」などと言われると、何か自己犠牲を強制されるような嫌な気持ちを味わうということがないでしょうか。

第二部は、ハレルヤコーラスで終わります。そこでは、「ハレルヤ。万物の支配者である、われらの神である主は王となられた。この世の国は私たちの主およびそのキリストのものとなった。主は永遠に支配される。King of Kngs, and Lord of Lords(王の王、主の主)と、黙示録のみことばが歌われています。十字架には神の勝利が隠されています。十字架の「のろい」の背後に、神の祝福が見えます。私たちはいつもその喜びと、祝福を見ながら、信仰の旅路を歩むのです。