イザヤ50章1節〜52章12節「さめよ。さめよ。」

2008年6月8日

私たちは心の中に様々な「駆り立て」の言葉を聞き過ぎ、今、ここでの神の語りかけに耳を傾けることができなくなってしまいがちです。多くの人の心には、常に、「急ぎなさい」「もっと努力しなさい」「強くありなさい」「完全でありなさい」「人を喜ばせなさい」という五つの言葉のどれかが響いていると言われます。人によっては、これが「存在するな」という自己否定の言葉と結びついて、「人を喜ばせている限りは生きていて良い・・そうでなければ、生きている資格がない」というささやきを聞き続けるということになります。そして、人は自分の心に聞いている声を人に向かって語ります。人に意地悪な言葉が出てしまうのは、自分を責める言葉ばかりを聞いている結果です。そのような人は、「疲れた者をことばで励ます」(50:4)代わりに、落ち込ませてしまいます。そのような心は、恐れに敏感なようでも、信仰的には眠っているのではないでしょうか。私たちはこの世の価値観から生まれている語りかけと、神からの語りかけとを区別する必要があります。そのために聖霊によって、この心が目覚めさせられる必要があります。

1.「主であるヤハウェは・・・朝ごとに私を呼びさまし、私の耳を開かせ(呼びさまし)・・」

「なぜ、わたしが来たとき、だれもおらず、わたしが呼んだのに、だれも答えなかったのか」(50:2)とは、神が遣わした預言者の声を神の民イスラエルが無視し続けたことを表します。そして、「わたしの手が短くて贖うことができないのか。わたしには救い出す力がないと言うのか」(50:3)とは、神にすがろうとしなかったことは、神を軽蔑していたことに等しいと非難したものです。人間関係では、忙しい人の手を煩わすことは悪いこととされますが、神に対して遠慮しすぎることは、信頼の欠如として非難されます。申命記では、「主にすがる」ということばは、「主を愛する」ということばと並行して記されますが(11:22、30:20)、主にすがろうとしないことこそが罪なのです。

50章4~9節は、第三の「主のしもべの歌」です。その最初は、「主であるヤハウェは、私に弟子の舌を与え、疲れた者をことばで励ますことを教える」です。「疲れた者をことばで励ます」とは、「頑張って!」などという言葉でないことは確かです。それは、「我を張る」から転じた言葉で自分の力を前面に出すことだからです。しかし、疲れた者に力が回復されるのは、人間の努力ではなく、神のみわざです。それは、「主(ヤハウェ)を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる」(40:31)とある通りです。その主への信頼を「励ます」ことができるのも、人間の知恵ではなく、主ご自身が「教え」てくださることばによります。そのために、主は、「朝ごとに、私を呼びさまし、私の耳を開かせ(呼びさまし)、私が弟子のように聞くようにされる」というのです。つまり、先に、「わたしが呼んだのに、だれも答えなかった」と嘆いておられた主ご自身が、「私の耳を開いてくださった」(5節)のです。その際、「私は逆らわず、うしろに退きもせず」とは、自分がそれに逆らうことも、臆することもないという意味です。

そして、「打つ者に私の背中をまかせ」(6節)とは、不当な鞭打ちを甘んじて受けること、「ひげを抜く者に私の頬をまかせ」とは、ひげを抜くという当時の最大の侮辱にも抵抗しないことです。イエスは、「悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬を向けなさい」(マタイ5:39)と言われましたが、右の頬を打つには右手の裏を使うので、これも侮辱を甘んじて受けるようにとの勧めでした。そのことが、「侮辱されても、つばきをかけられても、私の顔を隠さなかった」という生き方として表現されます。そのような辱めに耐えることができるのは、「主であるウェは、私を助ける」(7節)という保障があるからです。それに続けて、「それゆえ、私は、侮辱されなかった。それゆえ、私は顔を火打ち石のようにした」と記され、それがまた、「私は、恥を見ることがないと知っている」(7節私訳)と言い換えられます。これは、侮辱を感じないように心を麻痺させることではなく、主が私を助け、辱めから救い出してくださることを「知って」、苦しみに耐えるという意味です。そのことがまた、「私を義とされる方が近くにおられる。だれが私と争うのか。さあ、さばきの座に共に立とう・・・」(8節)と記されます。

これはたとえば、まわりの人が私に侮辱を加え、罪に定めるような中で、神ご自身が私に、「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ」(ルカ3:22)と語りかけてくださることに、耳を開くということです。クリスチャンであるとは、父なる神からイエスへの語りかけが私への語りかけとなったということです。しかも、そのような声に耳を開くことができるのも、主のみわざに他なりません。人の声を聞かない者は、神の御声を聞くこともできなくなります。私たちが求めるべきことは、人からの嫌なことばにも耳を傾けながら、それ以上に、神からの愛の語りかけに耳を傾けることではないでしょうか。そして、それと同じような意味で、「見よ。主であるヤウェが、私を助ける。誰が私を罪に定めるのか。見よ。彼らはみな、衣のように古び、しみが彼らを食い尽くす」(9節)と言われます。私に敵対する者に対する神のさばきを知っているからこそ、敵のあざけりや迫害に耐えることができるのです。

イエスは、ローマ総督ピラトのもとで裁判を受けたとき、祭司長、長老たちからの不利な証言が次々となされたときの様子が、「それでも、イエスは、どんな訴えに対しても一言もお答えにならなかった。それには総督も非常に驚いた」(マタイ27:14)と描かれています。主はこのとき、このイザヤ50章の主のしもべの歌を、こころに思い巡らしていたのではないでしょうか。イエスは、嘘の証言をする者に対する神のさばきを知っておられ、また、神ご自身がイエスを義としておられることを知っていました。また、ユダヤ人の反乱を恐れて不当な判決を下す総督ピラトの臆病さをもよく知っておられました。イエスの沈黙は、神がご自身の傍らにおられることの余裕から生まれています。

イエスはこのイザヤ書50章4-9節を思い巡らしながら、人々からの罵詈雑言に黙って耐えておられました。私たちもその模範に習うように召されています。その模範とは、「キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられてもおどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。そして、自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです」(Ⅰペテロ2:22-24)とある通りです。ここにはイエスの沈黙とイエスの積極的ないやしのみわざが記されています。イエスはご自分が苦しみを担うことで人を生かしてくださいました。私たちは自分を生かそうとする余り、人を押しのけ、軽蔑してはいないでしょうか。それは私たちが自分を叱咤激励しようとする余り、自分を非難し、軽蔑するような言葉ばかりを心に聞いていることの結果です。主であるヤハウェは朝ごとに、私を呼び覚まし、耳を開かせ、「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」(43:4)と語りかけてくださいます。そのことばに耳を開きながら、同じことばを隣人に語りかけたいものです。

2.「わたしに聞け・・あなたがたの・・掘り出された岩を見よ・・・・このわたしが、あなたを慰める」

51章の最初のことばは、「わたしに聞け」から始まります。その上で、「義を追い求める者、主(ヤハウェ)を尋ね求める者よ」(1節)と言われます。彼らには、エルサレムの滅亡という悲劇の中で、神の義を見失い、神に失望する恐れがあったからです。イザヤは先に、「イスラエルの神、救い主よ。まことにあなたはご自身を隠す神」(45:15)と告白しましたが、神は、人の期待に反する姿でご自身を現されます。そのとき何よりも求められているのは、ただ心を透明にして神の語りかけに耳を傾けることです。そのとき、「隠されていることは、私たちの神、主(ヤハウェ)のものである。しかし、現されたことは、永遠に、私たちのものである」(申命記29:29)とあるように、隠されていることに人間的な説明を加えようとすることを止め、既に啓示されていることに自分の心を集中すべきでしょう。

「あなたがたの切り出された岩、掘り出された穴を見よ・・・」(1節)とは、神が、アブラハムとサラを、偶像礼拝の民の間から選び出し、「神の民」を創造されたという過程を振り返るものです。「わたしが彼ひとりを呼び出し、わたしが彼を祝福し、彼の子孫を増やしたことを・・・」(2節)とは、アブラハムの信仰を導き、その子孫を増やして行ったすべての働きが、神の一方的なあわれみによるということを示すためです。そして、「まことに主(ヤハウェ)はシオンを慰め、そのすべての廃墟を慰めて、その荒野をエデンのようにし、その砂漠を主(ヤハウェ)の園のようにする」とは、主ご自身が神の都エルサレムを再興し、エデンの園のような祝福で満たしてくださるという約束です。神の民の歴史は、エデンの園から始まって黙示録に預言されている「新しいをエルサレム」として完成されるのです。

「わたしの民よ。わたしに心を留めよ・・・わたしに耳を傾けよ。おしえはわたしから出、わたしはわたしの公義を定め、国々の民の光とする」(4節)とは、私たちが「世界の光」とされ、用いていただくために必要なことは、何よりもまず神の御教えに耳を傾けることから始まるという意味です。「わたしの義は近い、わたしの救いはすでに出ている・・・」(5節)とは、先のエルサレムに対する約束が既に実現に向かっていることを指します。

その上で、7節では、1節と同じように、「わたしに聞け」という訴えがなされます。そして神の民が、「義を知る者、心にわたしの教えを持つ民よ」と呼ばれます。ここでは、「義」が「わたしの教え」と言い変えられています。「神の義」とは、神が私たちの罪をさばくということ以前に、神が、欠けだらけのアブラハムとその子孫である私たちに真実を尽くし、放蕩息子や娘を育てるように、私たちを成長させてくださるという真実さを意味します。そして、「人のそしりを恐れるな。彼らのののしりにくじけるな」と言われながら、その根拠が、「わたしの義はとこしえに続き、わたしの救いは代々にわたるからだ」(8節)と記され、神の義と神の救いの永遠性が再び強調されています。

「さめよ。さめよ。力をまとえ。主(ヤハウェ)の御腕よ。さめよ。昔の日、いにしえの代のように」(9節)とは不思議な表現です。これは救いをもたらす「主(ヤハウェ)の御腕」が眠っているように見えるからです。「さめよ」という動詞は、50章4節の「呼びさまし、(耳を)開かせ」と同じです。「ラハブを切り刻み、竜を刺し殺した」とは、エジプトに対する神のさばきを指していると思われます。「海と大いなる淵の水を干上がらせ・・・贖われた人を通らせた」とは、主の御腕がもたらした不思議な救いです。そのような全能の神の御腕が目を覚ます結果として、「主(ヤハウェ)に贖われた者たちは帰ってくる。彼らは喜び歌いながらシオンに入り・・・」とバビロン捕囚の神の民がエルサレムに帰還する様子が描かれ、そのときには、「楽しみと喜びがついて来、悲しみと嘆きとは逃げ去る」(11節)というのです。

そして、12節では、「わたし、このわたしが、あなたがたを慰める」と、救いが神に一方的な主導権によるということが強調されます。その上で、彼らの罪が、まず、「あなたは主(ヤハウェ)を忘れた」ということにあると指摘され、その主とは「あなたを造り、天を引き延べ、地の基を定めた方」であると説明されています。つまり、創造主を忘れることこそ、罪の根本なのです。そして、その結果として、「一日中、絶えず、しいたげる者の憤りを恐れている」という事態になります。創造主を恐れることを忘れた者は、この世の権力者を恐れるようになるからです。

昔いた会社では、「会社はきちんと君のことを見ているから、あせらなくても大丈夫・・・」などと言われましたが、日本の社会も流動化が進み、欧米のように、自分をアピールしなければ認めてもらえないようになってきているのかも知れません。しかし、それを信仰の世界でしてしまうとパリサイ人になってしまいます。「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです」(ローマ10:17)とあるように、神の救いのご計画に耳を傾けることこそが、すべての始まりです。私は長らく、自分の信仰を計りながら一喜一憂するという歩みをしていました。しかし、聖書を読めば読むほど、私の救いは神の一方的な選び、神のあわれみに始まるということがわかりました。私は自分の真実には信頼できません。しかし、「私たちは真実でなくても、彼は常に真実である。彼には自分を否むことができないからである」(Ⅱテモテ2:13)とあるように、神は不信仰、不真実な私に信仰を与え、それを完成へと導いてくださいます。そして、この世界もエデンの園の喜びと祝福の回復という完成に向かっています。そして、成長の原動力は、常に、自分で「掴み取る」という姿勢ではなく、「力を抜いて聞く」ことに始まるのです。

3.「さめよ。さめよ・・・あなたの神が王となる」

「さめよ。さめよ。立ち上がれ。エルサレム」(17節)とは、エルサレムが眠りから覚めるときが近いからです。ただそれは、主のさばきの後に聞かれることばです。そして、「あなたは、主(ヤハウェ)の手から、憤りの杯を飲み、よろめかす大杯を飲み干した」とは、神の怒りを真っ向から受けることを意味します。 その上で、「それゆえ、さあ、これを聞け。悩んでいる者、酔ってはいても、酒のせいではない者よ」(21節)と語りかけられますが、これは、先の、「憤りの杯・・を飲み干し」て、悩み苦しんでいるエルサレムの住民を指します。そして、22節では、「あなたの主、ヤハウェは、こう仰せられる」ということばから始まり、その方は、「ご自分の民を弁護するあなたの神」と描かれ、その方からの慰めのことばが、「見よ。わたしはあなたの手から、よろめかす杯を取り上げた。あなたはわたしの憤りの大杯を二度と飲むことはない」です。これはイスラエルに対する神のさばきが終わったことを指します。

イエスはゲッセマネの園で、「わが父よ。どうしても飲まずには済まされぬ杯でしたら、どうぞみこころの通りになさってください」(マタイ26:42)と祈られましたが、これはイエスご自身がイスラエルの王として、主の憤りの杯を飲み干してくださったことを示しています。それはイエスが私たちの身代わりとしてこの「憤りの大杯」を飲んでくださったことを意味します。私たちはイエスにつながることによって、この「憤りの大杯」を二度と飲む必要はありません。私たちはそのしるしとして、イエスの契約の血としての祝福の杯を、聖餐式において受けさせていただきます。

52章初めでは、「さめよ。さめよ。力をまとえ。シオン。あなたの美しい衣を着よ・・・」と呼びかけられますが、これは、主のさばきを受けて、ちりの中に伏していたエルサレムを、喜びの祝宴へと招いている優しい語りかけです。「無割礼の汚れた者が、もう入って来ることはない・・・あなたの首からかせをふりほどけ、捕囚のシオンの娘よ」(1,2節)とは、エルサレムが神の都としてすべての国々の上に立つことを意味します。これは、明らかにバビロンの支配から解放されることを意味しますが、現実には、エルサレムはその後も、ギリシャ帝国やローマ帝国の支配下で苦しみ続けました。イエスの時代の人々は、エルサレムが無割礼の汚れたローマ人の支配から解放されることを切望していました。そして黙示録では、「聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとから出て、天から下ってくる」(21:2)と記されますが、それこそこの預言が成就するときです。

そして、「良い知らせを伝える者の足は、山々の上にあってなんと美しいことよ」(7節)と記されますが、「良い知らせ」の内容は、「あなたの神が王となる」というものです。それは当時としては、イスラエルの神がエルサレムからこの世界全体を治めるという意味に理解されましたが、パウロはそれを、イエスこそ預言された救い主であることを知らせるという意味に解釈しました(ローマ10:15)。そして、主は現在、まず私たちをイエスの弟子として召し、私たちを「国々の民の光とする」(51:4)ことによって、ご自身を世界に知らせてくださいます。それは、神がこの世界の歴史を確かに導いておられ、この世界にご自身の平和(シャローム)を必ず実現してくださるという福音です。

そして、「彼らは、主(ヤハウェ)がシオンに帰られるのをまのあたりに見る」(8節)とありますが、イエスのエルサレム入城こそは、そのみことばの成就でした。住民はそのとき自ら預言を成就するかのように、「共に大声をあげて喜び歌い」ました。それはイエスがエルサレムをローマ帝国の支配から贖う救い主だと思われたからでした。しかし、神はそれ以上に、イエスの十字架と復活によって、「悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放する」(ヘブル2:14,15)という不思議な救いを実現してくださいました。

そして、「主(ヤハウェ)はすべての国々の目の前に、聖なる御腕を現した」(10節)とは、先の、「さめよ。さめよ・・主(ヤハウェ)の御腕よ」(51:9)に対応するものです。イエスの復活こそ、悪魔と罪と死の力に対する勝利です。そして、「地の果て果てもみな、私たちの神の救いを見る」とは、福音が世界中に広がっていることで成就しています。

イエスは、最後の晩餐において契約の杯をお与えになった後で、「わたしの父の御国で新しく飲むその日までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません」(マタイ26:29)と言われました。これはイエスによる断酒宣言ではありません。かえって、天の御国の祝宴が間近に迫っているという励ましのことばです。イエスご自身も私たちといっしょにこの天の祝宴を待ってくださっています。私たちが守る聖餐式は、天の祝宴を先取りして祝うものです。聖餐式のたびに、「はるかにそれを見て喜び迎える」(ヘブル11:13)という心の姿勢が問われています。そして、その契約の杯で覚えられることは、私たちの意志表明ではなく、イエスによる約束なのです。

「主であるヤハウェは、私に弟子の舌を与え、疲れた者をことばで励ますことを教える」(50:4)という約束をイエスの御霊があなたのうちに成就してくださいます。そしてそれはあなたの耳が朝ごとに呼び覚まされることから始まります。「わたしに聞け・・あなたがたの掘り出された穴を見よ・・・」とあるように、私たちはこの世から受けている価値観と、神の救いのご計画を見分ける必要があります。主を最も悲しませる罪とは、何かとんでもない過ちをしでかすということ以前に、神を忘れることです。主があなたになしてくださった救いのみわざを、また主の期待を忘れることこそが最大の罪です。そして、イエスは私たちの身代わりに主の憤りの大杯を飲み干してくださいました。そして、あなたに主の救いが実現しました。その事実に目を覚ますことこそが、聖霊のみわざです。あなたの前には、新しいエルサレムの祝宴が待っています。世界は喜びの完成に向かっています。イエスを救い主として喜び迎える声は、今も世界中で聞こえています。霊の耳を開いて、それに耳を傾けましょう。イエスはすでに世界の歴史を変えてくださいました。私たちはすでに新しい世界に足を一歩踏み入れています。父なる神は、あなたをイエスの弟、妹と見て、あなたに向かって、「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ」と語っておられます。