ルカ17章20〜37節「目の前にある神の国」

2008年6月15日

私たちの生活では、ジェットコースターのような上がり下がりがあるかもしれません。そのようなときに、常に心に留めるべきことは、神の国には、すでに実現しているという側面(already)と、まだ実現していない(not yet)という両面があるということです。そして、そのふたつをつなぐのが、イエスを見上げて生きるということです。神の国はイエスのうちにあります。ですからイエスにつながっている者のうちにはすでに神の国が実現しています。一方、この目に見える世界は消え去ってゆくものですから、それに心を捕らわれてはなりません。ですから、私たちは神の国の完成を待ち望みながら、この世にあっては旅人、寄留者として生きるように召されています。この世での最高の喜びに憧れると、かえって不満を抱えることになります。平安の祈りで、「神様、私にお与えください。変えられないことを受け入れる平静な心を・・」に始まりながら、「この世のいのちにおいては、適度に幸せに、来たるべき世界においては・・・最高に幸せになることができますように」という祈りで閉じられていることの意味を考えてみましょう。

1.「神の国は、あなたがたのただなかにあるのです」

パリサイ人たちが、「神の国はいつ来るのか」と聞いたとき(20節)、当時の人々の意識の中にはダニエル書7章がありました。そこでは、「見よ。人の子のような方が天の雲に乗って来られ、年を経た方のもとに進み、その前に導かれた。この方に、主権と光栄と国が与えられ、諸民、諸国、諸国語の者たちがことごとく、彼に仕えることになった。その主権は永遠の主権で、過ぎ去ることがなく、その国は滅びることがない」(13、14節)と記され、また最後にこの世の帝国が滅ぼされ、「国と、主権と、天下の国々の権威とは、いと高き方の聖徒である民に与えられる。その御国は永遠の国。すべての主権は彼らに仕え、服従する」(27節)と記されています。パウロは、内輪もめをして異教徒の裁判官に訴えていたコリント教会に対し、「あなたがたは、聖徒が世界をさばくことになるのを知らないのですか・・・私たちは御使いをもさばくべき者だ、ということを知らないのですか」(Ⅰコリント6:2,3)と訴えましたが、その根拠がここにありました。また黙示録では、迫害に耐え抜く信仰者の希望を、「彼らは生き返って、キリストとともに千年の間王となった」(20:4,6)と描かれています。そこには「神の国」の完成の姿が描かれています。

この地で、神の民が異教徒たちに虐げられ、いのちの危険にさらされていたとき、初代教会の信仰者たちは、自分たちがキリストとともにこの世界を治め、そのとき平和と繁栄が世界に実現すると期待していました。私たちが主の祈りで、「御国が来ますように」と祈っているのはそのためです。神の国とは、地上的な領土を持つ国ではありません。この世界はすべて神のご支配の下にありますが、人間が自分たちを神としているために神のご支配が隠されてしまっています。しかし、神のご支配は、やがて目に見える形で完成すると約束されているのです。

当時のユダヤ人たちは、ローマ帝国の支配下で苦しみながら、ダビデの子としての救い主が現れ、イスラエル王国を復興し、その王国が世界を治めるということを夢見ていました。それを実現するのが、ダニエル7章13節に預言された「人の子」でした。その意味で、当時のユダヤ人とイエスの弟子たちが待ち望んでいた「神の国」には共通点があります。ただ、ユダヤ人たちは、「人の子」がローマ帝国との具体的な戦いを勝利に導く軍事的な指導者でもあると期待していたために、イエスが無力に捕らえられたとき、人々の気持ちは失望から怒りに変わりました。イエスの弱い姿は、彼が救い主と自称していただけの偽者に過ぎないというしるしに他なりませんでした。

ところで、イエスがユダヤ人の宗教指導者のもとでの裁判で死刑を宣告された直接の原因は、大祭司から「あなたは神の子、キリストなのか」と問われたときに、「あなたの言うとおりです。なお、あなたがたに言っておきますが、今からのち、人の子が、力ある方の右の座に着き、天の雲に乗って来るのを、あなたがたは見ることになります」と、ご自分がダニエル7章13節に預言された「人の子」であること言われたことにあります。大祭司はこれを聞き、「神への冒涜だ。これでもまだ、証人が必要でしょうか」と、即座に死刑を宣告でき、人々も納得しました(マタイ26:63-65)。イエスはまた弟子たちに対しても、ご自身の栄光の現れに関して、「そのとき、人々は、人の子が力と輝かしい栄光を帯びて雲に乗って来るのを見ることになる」(ルカ21:27)と、ダニエル7章13節を引用されました。つまり、「神の国」に関しても、「人の子」に関しても、ダニエル7章を抜きに解釈することはできないのです。

ダビデ、ソロモンのときに繁栄したイスラエル王国は、バビロン帝国によってエルサレムが滅ぼされた後、ペルシャ、ギリシャ、ローマ帝国の支配下に置かれて苦しみました。不思議なのは、紀元前600年から540年ごろに実在したダニエルが、その二百年余り後のアレキサンダー大王に導かれたギリシャ帝国やイエスの時代のローマ帝国の世界支配を明らかに預言していることです。ダニエル七章には四頭の大きな獣が出てきますが、それがバビロン、ペルシャ、ギリシャ、ローマの各帝国を指しているように読むことができます。それならば、ローマ帝国の滅亡こそが「神の国」の実現を意味すると解釈されますから、イエスの時代のユダヤ人たちは、ダニエル書に励まされながら、武力闘争によってでも神の国の成就を早めようと血気に流行っていました。パリサイ人たちがイエスに、「神の国はいつ来るのか」と尋ねたとき、ローマ帝国との闘争の展望を聞いたのではないかと思われます。それによって、イエスをユダヤ独立運動の指導者としてローマ総督に訴えることができる口実が得られるからです。

それに対してイエスは、「神の国は、人の目で認められるようにして来るものではありません。『そらここにある』とか、『あそこにある』とか言えるようなものではありません」(20、21節)と答えられました。それは、たとえば、ここで起こっている独立運動、あそこで起こっている独立運動が、神の国の萌芽であるなどとは言えないという意味です。その上で、イエスは、「神の国は、あなたがたのただなかにある」(21節)と言われました。これは、ローマ帝国との関係を気遣っているパリサイ人に、「あなたがたのところから独立運動が始まる・・」と言っているように聞こえることばです。しかし、イエスは、ご自身が今、彼らのただなかにおられるという現実を前提に、彼らの目の前に神の国がすでに来ていると言われたのです。なぜなら、「神の国」とは、イエスの国、ご支配に他ならないからです。

当時のユダヤ人たちは、イエスが口をきけなくする悪霊を追い出している様子を見て、「悪霊どものかしらベルゼベルによって、悪霊どもを追い出している」と解釈しましたが、そのときイエスは、「わたしが、神の指によって悪霊どもを追い出しているなら、神の国はあなたがたに来ている」と言われました(11:15,20)。それは、イエスがもたらす神の国は、ローマ帝国からの独立というようなものではなく、サタンと悪霊の支配からの解放であるという意味でした。ローマ帝国は、「服従しないと殺す」という剣の脅しで人の心を支配しましたが、そのような「死の力を持つ者」の頭こそ、サタンであり、「悪魔」でした(ヘブル2:14)。ですから、剣の力を信じて生きている人、またその力に屈している人はすべて悪魔の奴隷なのです。しかし、剣の力に左右されずに、今ここで、神を愛し、人を愛する生き方を全うできる人のもとにはすでに神の国が実現しているのです。イエスが、当時の社会的弱者に助けの手を差し伸べたのは、イエスに従う者に神の国がすでに実現していることを示すためでした。イエスはそのために、様々な病を持つ人を癒し、また、男だけで五千人にも及ぶ大群衆に有り余るほどのパンを与えられたのです。

今も、あなたの周りには、この世の権力者がいることでしょう。そこでは彼らのご機嫌を損ねては、自分の将来が危ういという無言の圧力がかかっています。しかし、そのようにこの世の権力者を恐れて右顧左眄(右を振り向き、左を流し目で見る)するような生き方をしている人に向かって、「神の国は、あなたがたのただなかにあるのです」と言われます。あなたがこの世的な力を持っていないことが問題なのではありません。問われているのは、あなたがたの心の中で、誰が主人とされているのかということです。「イエスは私の主です」「私の国籍は天にあります」と告白する者のうちにすでに神の国は実現しています。あなたは、今、ここで、神の国の祝福と平和を味わうことができます。その鍵は、あなたの心の方向にかかっています。軍事革命ではなく心の革命こそが大切なのです。

2.「人の子の日を・・・追いかける」のではなく、「今ここで、待ち望む」

一方でイエスは弟子たちに対し、「人の子の日を一日でも見たいと願っても、見られない時が来ます」(22節)と言われました。先にパリサイ人に、今、ここにある神の国について語ったのは、イエスご自身がそこにおられることを前提としていました。しかし、イエスには「天にあげられる日が近づいて」(9:51)いました。そのとき弟子たちは、イエスが見えない中で、厳しい迫害にさらされることになります。そのとき彼らは、「人の子」と呼ばれたイエスが目の前にいたときを懐かしみ、早くイエスが再び目に見える形で現れてくださる日を待ち望むことでしょう。

私たちにも、神の国の民とされた幸いを心から感謝できる日の後に、「イエス様を信じても、何の良いことがない・・・、何も変りはしない・・どうしてこうも悪いことばかりが続くのか・・」とつぶやきたくなる日々が訪れます。そのような暗い時代になると、「救い主が今現れようとしている」という偽預言者が影響力を持ち、「こちらだ」とか「あちらだ」とか言う声が聞こえてきます(23節)。たとえば、劇的な生活の変化を求めて統一協会に流れる人がいるのはそのためです。しかし、そのような幻想を訴える話の、「あとを追いかけてはなりません」と戒められます。なぜなら、人の子の現れはひそかなものではなく、「いなずまが、ひらめいて、天の端から端に輝くように」(24節)、すべての人に認められるものだからです。ある人は、人の子の現れについて、「誰もそれを予告することはできないが、同時に、すべての人がそれを見る」という二つの側面があることを忘れてはならないと強調しています。

黙示録の最初では、「見よ。彼が、雲に乗って来られる。すべての目、ことに彼を突き刺した者たちが彼を見る。地上の諸族はみな、彼のゆえに嘆く」(1:7)と記されていますが、これはイエスの再臨は、誰よりもイエスを見たくないと思う人に見られるということです。ですから、私たちは、イエスの再臨が自分の知らないうちに実現するのではないかと、戦々恐々となる必要はありません。昔から、イエスの再臨が近いと言われるたびに、日々の生活を捨てて、集団生活に入り、祈りながら主の再臨を待ち望むというような運動が繰り返し起こりました。しかし、イエスの再臨を見過ごせるような人は誰もいないのですから、安心して、今、神から託されているこの世の務めに励んでいればよいのです。とにかく、イエスは、「神の国はいつ来るか」という質問に対しても、また、「人の子の日を・・見たいと願って・・追いかける」ような人に対しても、同じように、「こちらだ」とか「あちらだ」という表現を用いながら、探し回る必要がないことを強調されました(21,23節)。私たちに問われているのは、今、ここでの生き方です。

ただし、イエスは、「しかし、人の子はまず、多くの人から苦しみを受け、この時代に捨てられなければなりません」(25節)とも語られました。それは、日々の生き方を大切にするということが、「この世と調子を合わせる」ことになりかねないからです(ローマ12:2)。それで、「人の子の日に起こることは・・・」と、イエスの再臨のことが、大洪水が突然、ノアの時代の人々に襲ったことと比較して語られます。そのとき、「ノアが箱舟に入るその日まで、人々は、食べたり、飲んだり、めとったり、とついだりしていたが、洪水が来てすべての人を滅ぼしてしまいました」(27節)と記されます。つまり、神のさばきは突然、予想できない形で訪れるので、わざわいが襲ってから考えようとしても遅すぎるということです。これも、毎日の心の向け方に関することです。そして、それと同じことが、ロトの時代のさばきに関しても当てはまり、「ロトがソドムから出て行くと、その日に、火と硫黄が天から降ってきて、すべての人を滅ぼしてしまいました」(29節)と描かれます。そして改めて、「人の子の現れる日にも、全くそのとおりです」(30節)と記されます。つまり、「人の子の日」を意識して生きるとは、神のさばきを意識して生きることに他なりません。

「なんでこんな嫌なことばかりが起こるのか?」と問う私たちの心の中に、単に、気楽な人生を求める心があるのではないでしょうか。そこには、人生への決定的な誤解があるのかもしれません。確かに、何も思い悩まずに、平穏な毎日を過ごしたいと願うのが人情ですが、聖書のどこにそのような信仰者の例があるでしょう。神に喜ばれる信仰者はすべて、不条理な苦しみを通らされています。どこに気楽に生きた人の信仰の模範例があるでしょう。ノアの時代にも、ロトの時代にも、気楽な生活に憧れた人が、一瞬のうちに神のさばきに会ってしまったのです。

しかも、不思議に、楽に生きたいと願い人は、日々を欲求不満のうちに暮らし、人生の苦しみを覚悟する人には、充実した日々が待っているという逆説がよく見られます。ですから、「人の子の日」を、恐れを持って「待ち望む」ことは、暗い気持ちで生きるのとは正反対に、生かされている喜びを感じながら生きることにつながるのです。

ロシアの小説家アレクサンドル・ソルジェニーツィンは、ロシヤ共産党からの迫害に耐え、無神論者と妥協するロシヤ正教を公然と非難し、神と祖国を命がけで愛し続け、ノーベル文学賞を受賞しましたが、彼は、「この地上の存在の意味は、私たちが成長するとともに慣れ親しむ考え方である『繁栄』にあるのではなく、『たましいの発展』にある」と言いました。それは、人格の成長こそ、生かされている目的であるという意味です。ただし、そこで自分の人格的な成長を計ってしまうなら本末転倒です。パウロは、「人にはおのおの、負うべき自分自身の重荷があるのです」(ガラテヤ6:5)と言いました。人生は、楽をするためにではなく、使命を果たすために存在するのです。

3.「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから眼を離さないでいなさい」

「その日には、屋上にいる者は家に家財があっても、取り出しに降りてはいけません。同じように、畑にいる者も家に帰ってはなりません」(31節)とは、続く、「ロトの妻を思い出しなさい」というみことばとつながっています。主の御使いは、ロトと家族を救い出すとき、「いのちがけで逃げなさい。うしろを振り返ってはいけない」と言われましたが、ロトの妻は、硫黄の火が天から降って、町々の住民とその地の植物がみな滅ぼされる様子に気を引かれて、主の命令に背いて、後ろを振り返ってしまいました。その結果、彼女はたちどころに、「塩の柱」になってしまったのです(創世記19:15-26)。そこでの問題は、主の命令に逆らって、後ろを振り返ってしまったことです。

ただし、人生の振り返りは必要です。黙示録では、「あなたは初めの愛から離れてしまった。それで、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行いをしなさい」(2:4,5)と記されています。ロトの妻の「振り返り」は、後ろに置いてきた生活への未練の現れだったのではないでしょうか。つまり、主のあわれみを忘れて、この世の富や楽しみで自分の心を満たそうとすることが問題なのです。また、ロトの妻の「振り返り」は、神のさばきを目撃したいという好奇心の現れかもしれません。しかし、彼女が心に留めるべき事は、「神の命令」であり、彼女を逃がそうとしてくださる「神のあわれみ」でした。つまり、神を忘れた生き方こそがさばきの原因となるのですから、神のさばきを恐れるあまり後ろのことに目が向かうなどというのは、信仰が生きて働いていないしるしに他なりません。

その上で、「自分のいのちを救おうと努める者はそれを失い、それを失う者はいのちを保ちます」(33節)と言われます。それは、神のことばよりも、自分の気持ちや都合を優先する生き方の矛盾です。私たちのいのちを保つのは、この世の財産である前に、神ご自身であられます。ですから私たちにとって何よりも大切なのは、神との関係です。多くの人が、神よりも自分の家族を、また神よりも自分の仕事を優先します。しかし、私たちは身近な人を心から愛することができないからこそ神を求めたのではないでしょうか。また、自分の仕事に行き詰まりを感じたからこそ神を求めたという面があるのではないでしょうか。神との関係を二の次に考える生き方は、短期的にはうまく行くように思えても、長期的には、家族も仕事も財産も、最終的には「いのち」さえ失うことにつながります

その上でイエスは、「あなたがたに言うが」と改めて注意を喚起しながら、「その夜、同じ寝台でふたりの人が寝ていると、ひとりは取られ、他のひとりは残されます。女がふたりいっしょに粉をひいていると、ひとりは取られ、他のひとりは残されます」(34,35節)と言われました。これは、主の再臨に際して問われているのは、ひとりひとりの信仰であるという意味です。だれも、人の代わりに信じることはできません。ですから、家族を愛するからこそ、家族よりも神を第一とする生き方を選ぶ必要があります。主との関係を曖昧にする安易な生き方は、あなたの大切な人の信仰をかえって堕落させるきっかけになります。なお、弟子たちは、「主よ。どこでですか」と問いましたが、それは、このような「主の選び」が明らかになる場はどこにおいてなのかという問いかけです。それに対して、主は、「死体のあるところ、そこにはげたかも集まります」と不思議なことを言われました。これは、いのちのない、見せかけの信仰の状態が「死体」にたとえられているということではないでしょうか。つまり、「主の選び」が明らかになることを気にしながら生きることよりも、「生ける屍」のような生き方にならないことをこそ常に心がけるべきなのです。

なお、ここで「取られる」ということばの意味に関しては、主のもとに引き上げられる携挙を指すという見方と、反対に、はげたかのような力によっていのちを奪われることの正反対の解釈があります。ただ、どちらにしても、救われる者と滅びる者とが主の日に明確に分けられるということでは同じです。そこで問われているのは、どちらが正しい聖書解釈かと言う以前に、日々の生活で、心の焦点を主に合わせて生きるということです。聖書に関しても信仰の生活の現実に関しても、分からないことが本当に多くあるかもしれませんが、生きた信仰生活の核心は明らかで、「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから眼を離さないでいなさい」(ヘブル12:2)という勧めにあります。

私たちは日々、イエスを見上げて生きる必要があります。それはひとりひとりに課せられた責任です。そして、神の国は、イエスを信じる者の心の中にすでに実現しています。また、神の国は、イエスを信じる者の交わりの中に実現していることでもあります。私たちは今、ここで、イエスとの交わりの中で、神の国の平安を体験し、それをまた兄弟姉妹の交わりの中で体験することができます。私たちはダニエルが預言したように、この世界をキリストとともに治めるように約束されています。自分をちっぽけに見すぎてはなりません。私たちはキリストとともに王とされるのですから・・・。そして、この世の様々なことに執着せずに、主イエス・キリストに目を向けましょう。キリストのうちにすべてがあります。それがやがて目に見える形で明らかにされます。それこそが神の国の完成のときです。