イザヤ52章13節〜53章12節「彼の打ち傷によって、私たちはいやされた」

2008年6月29日

イザヤ52章13節~53章12節 「主(ヤハウェ)のしもべの歌」

<主(ヤハウェ)>
見よ。わたしのしもべは 栄える。  (52:13)       
  高められ、上げられ、はるかにあがめられる。
多くの者があなたを見ておびえるほどに、その顔だちはそこなわれ、  (14)
  人の子の面影もないほどだったのだが。
そのように、彼は多くの民を驚かせ、王たちはその前で口をつぐむ。  (15)
  彼らは、告げられなかったことを見、聞いたこともないことを悟るからだ。

<私たち>  
だれが私たちへの知らせを信じ得ようか。  (53:1) 
  【主】(ヤハウェ)の御腕が、だれに現れたのかを。
彼は御前で 若枝のように芽生え、砂漠から出る根のように育った。  (2)
  見とれるような姿も、輝きもなく、慕うような見ばえもない。
さげすまれ、のけ者にされ、 悲しみの人で病(弱さ)を知っていた。  (3)
  顔をそむけられるほど さげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。

<私たち> 
まことに、彼は 私たちの病(弱さ)を負い、悲しみ(痛み)をになった。  (4)
  だが、私たちは、彼が 神に打たれ、罰せられ、苦しめられたのだと思った。
しかし、彼は、私たちの そむきために刺し通され、   (5) 
私たちの咎(とが)のために砕かれた。
彼への 懲らしめが 私たちに 平安をもたらし、                           
彼の 打ち傷によって、私たちは いやされた。
私たちはみな、羊のようにさまよい、それぞれ勝手な道に向かって行った。  (6)
  しかし、【主】(ヤハウェ)は、私たちすべての咎(とが)を、彼に負わせた。

<主(ヤハウェ)>
彼は苦しめられても、へりくだって、ほふり場に引かれる小羊のように口を開かない。  (7)
  毛を刈る者の前で黙っている雌(め)羊のように、彼は口を開かない。
しいたげと、さばきによって、彼は取り去られた。  (8)
それを彼の時代のだれが思い巡らしたことだろう。
生ける者の地から絶たれた彼は、わたしの民のそむきのために打たれたことを。        
彼の墓は悪者どもとともに設けられた。  (9)
しかし、彼は富む者とともに葬られた。
  それは、彼が暴虐を行わず、その口に欺きはなかったから。

<私たち> 
彼を砕き、病とする(弱くする)ことは、【主】(ヤハウェ)のみこころであった。  (10)
  もし彼が、いのちを 罪過のためのいけにえとするなら、末長く、子孫を見る。
【主】(ヤハウェ)のみこころは彼によって成し遂げられる。
  いのちの激しい苦しみのあとで、彼は見て、満足する。  (11) 

<主(ヤハウェ)>
彼の知識で、わたしの義(ただ)しい しもべは、多くの人を義とする。
  彼らの咎(とが)を 彼自身がになう。
それゆえ、わたしは、多くの人々の間で彼に分け与え、  (12)
  彼は 強い者たちに 戦利品を分け与える。
それは、彼が いのちを死に明け渡し、そむいた人たちとともに数えられたから。
  彼は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをする。

(交読、または、主:司会者、私たち:会衆で読む 翻訳責任高橋秀典)

私たちは、不摂生によって不死の病にかかったと思うとき、後悔の思いに苛まれることでしょう。しかし、イエス・キリストに繋がる者にとって取り返しのつかない失敗はありません。私たちはみな、いやされるからです。足や手の不自由な人も、肝臓や腎臓の悪い人も、みなキリストの打ち傷によっていやされます。もちろん、地上の生涯では、最終的に何らかの病名が付けられて死ぬことになりますが、私たちには朽ちることのない復活の身体が保障されています。それをいつも思い浮かべながら生きるとき、私たちはこの世の困難に向かう勇気が与えられます。

イザヤ40章は、「エルサレムに優しく語りかけ・・・呼びかけよ。『その労苦は終わり、その咎は償われた・・』と」から始まりますが、廃墟とされたエルサレムを復興し、捕囚とされた神の民を救い出すのが「主のしもべ」で、その姿が四回にわたって預言されます。そしてその最高の歌が52章13節から53章12節です。そして、「主のしもべ」は、イスラエルの咎ばかりか全人類の咎を償ってくださり、私たちを罪と死ののろいから救い出してくださいました。しかも55章には、世界全体の完成の様子が預言されています。私たちはこの地上に様々な不条理を見ています。しかし、神はあなた自身をいやすように、世界全体のやまいを、キリストの打ち傷によっていやしてくださいます。

1.「彼は私たちの病を負い、悲しみをになった」

初代教会の時代にはまだ新約聖書がありませんでした。その時代の人々にとっての最高の福音書とは、イザヤ書52章13節から53章12節の「主のしもべの歌」でした。映画パッションで鞭打ちの苦しみに焦点が当てられたのも、「彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって私たちはいやされた」(53:5)というみことばを描くためでした。私たちと同じ不自由な身体を持っておられたイエスご自身も、天からの直接啓示を受ける以前に、この箇所を心の底から味わいつつ、ご自分に対する「主のみこころ」(53:10)を確信したことでしょう。

エチオピアの宦官がイエスを救い主と信じたのも(使徒8:32-34)、また現代の多くのユダヤ人がイエスを信じるのもこのみことばです。なぜならここには、その七百年後に現れた救い主の姿が、生き生きと描写されているからです。これこそ、最高のキリスト預言です。なお、これは、52章13節から始まるひとつの詩であり、苦しみの描写以前に、「見よ。わたしのしもべは栄える。高められ、上げられ、はるかにあがめられる」という復活預言から始まっています。復活を抜きに十字架を語るなら、イエスは悲劇の主人公に過ぎません。しかし、イエスは、「ご自分の前に置かれた喜びのゆえに・・十字架を忍ばれた」(ヘブル12:2)と描かれています。将来の栄光を思いながら苦しみに耐えるということは、運動選手が栄冠を夢見ながら、苦しくても練習に励むことに似ている面があります。

それにしてもイエスの十字架は、「木にかけられる者はすべてのろわれた者である」(ガラテヤ3:13、申命記21:23)とあるように、神ののろいを受けたしるしとしか見えませんでした。十字架にかけられた人を「私たちの主」として拝むなどとは狂気の沙汰でした。その驚きと恐れが、「多くの者が・・おびえる・・・王たちはその前で口をつぐむ」(52:14,15)と預言されます。「人はうわべを見る」(Ⅰサムエル16:7)のが常だからです。しかも、「主(ヤハウェ)の御腕」が現されたのは、「砂漠から出る根」のようにひ弱に見えて内なる力に満ちた方で、彼は、「輝き」も「見ばえもない」ばかりか、「さげすまれ、のけ者にされ、悲しみの人で病(弱さ)を知って」いました(53:1-3)。多くの人々は、苦しみは神からの罰であるなどと思いますが、神の力は、「弱さのうちに(こそ)完全に現れる」(Ⅱコリント12:9)ものなのです。強がっている人は、もろさを秘めています。苦しむことができる力こそ、神の賜物ではないでしょうか。

イエスの生涯の秘訣は、「彼は私たちの病(弱さ)を負い、悲しみ(痛み)をになった」(53:4)ことにありました。マタイは、イエスのいやしの働きも、このみことばの成就であると報じています(マタイ8:17)。主は、世界の創造主であり苦しむ必要のない方でありながら、私たちすべての人間の「病」「弱さ」を引き受け、「悲しみ」「痛み」を担うために、敢えて私たちと同じ肉体をとられたのです。正統的な教会においては、イエスが完全な神であり、同時に完全な人であり、このふたつの性質は混ざることも分離することもないという神秘を告白します。この神秘のゆえに、主は罪のゆえに死の裁きに定められた人間性全体を余すことなくその身に引き受けてることができたのです。

あなたは人々から「さげすまれ、のけものにされること」を恐れてはいませんか?「悲しむ」ことや「病」にかかることを恐れてはいませんか?多くの人の生きる悩みは、人間関係や災いに会うことへの恐れから生まれます。しかし、それらすべてを、イエスは私たちに先立って体験されました。そして今イエスは、ご自身の御霊をあなたに遣わし、すべての病と弱さ、痛みと悲しみをともに担っていてくださいます。あなたは勝利を約束されたものとして、一時的な痛みを味わっているに過ぎません。私たちは順風満帆な人生を願いますが、そこに愛の交わりが生まれるでしょうか。人は、自分が傷つき苦しんで初めて人の痛みに心から共感することができるというのが現実です。

2.彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた

キリスト教会のシンボルは、古代世界で最も忌まわしい死刑の手段であった十字架です。まるで絞首刑台やギロチン台を飾るようなものです。それは、「彼は、私たちのそむきのために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた」(53:5)ということを覚えられるからです。イエスの十字架こそ、「平安」と「いやし」のシンボルになったのです。レビ記には、動物を私たちの罪の身代わりとして神にささげることが命じられていましたが、イエスは、私たちの代表者である王として、ご自身の聖い身体をささげてくださいました。それはたとえば、会長の心が社長の自殺によって動かされるというのではなく、社長が部下の全責任をになって刑に服するときに部下の刑事責任が免除されることに似ています。

私たちは、人を人とも思わない人や自分の欲望のために人を踏みつけるような人に対して怒りを燃やします。そのような悪人は裁きを受けて当然であると思います。しかし、それらはすべて、自分のことしか考えない自己中心から始まっており、私たちにも同じような罪の根があるのではないでしょうか。そのことが、「私たちはみな、羊のようにさまよい、それぞれ自分かってな道に向かっていった」(53:6)と述べられます。この世を悪くするのは、狼のような犯罪人ばかりではなく、人の痛みを見ても見なかったふりをしている羊のように臆病な人間であり、また群れの中の羊のように人と自分を比べて勝手に思い上がったり落ち込んだりして、神のみこころを忘れて生きている人々です。彼らはまた羊のように近視眼で、世界の対する神のみこころなど知ろうともしません

しかし、福音の核心とは、「主(ヤハウェ)は、私たちすべての咎を彼に負わせた」とあるように、「神の怒り」が、御子の苦しみによって「なだめられた」ことです。神はもはや、信仰によってイエスに結びつく私たちを怒ってはおられません。人が自己中心になるのは、「恐れ」にとらえられた結果であり、真実の愛を体験することができなかった結果です。その心を変えるために必要なのは、罰によって「恐れ」を抱かせ従わせることではなく、「愛」を体験してもらうことです。そのために神は、ご自身の愛を、御子の犠牲を通して示してくださいました。

3.主(ヤハウェ)のみこころは彼によって成し遂げられる

「彼は・・口を開かない」(53:7)と繰り返されますが、その前半の意味は、ご自分を「過ぎ越しのいけにえの小羊」とする謙遜と服従のしるしであり、後半は、毛を刈られる雌羊が飼い主に身を任せているように、「主のしもべ」が主(ヤハウェ)に信頼している姿を表しています。イエスはこのみことばを思い巡らしながら、総督ピラトの前で沈黙を守りました。そこには、謙遜に神に服従する姿と同時に、自分のいのちを守ってくれる神への信頼が表されています。同時に、これは、私たちが、しばしば自己弁護をしようとするあまり人を攻撃することへの戒めでもあります。

また、「彼の墓は悪者どもとともに設けられた。しかし、彼は富む者とともに葬られた」(53:9)とは、十字架にかけられた犯罪人は、本来、共同墓地に捨てられるはずであったのに、イエスの身体は、まだ使っていないアリマタヤのヨセフの大きな墓に葬られましたが、そのことを預言したものと言えましょう。そして、「それは、彼が暴虐を行わず、その口に何の欺きはなかったから。」とあるように、神ご自身がイエスの誠実な歩みに最後に報いてくださった証しでもあります。そして、この富む者の墓に葬られることこそ、復活への最高の備えとなったのです。

その上で、「彼を砕き、病とするのは、主(ヤハウェ)のみこころであった・・・主(ヤハウェ)のみこころは彼によって成し遂げられる」(53:10)と繰り返されます。私たちは、「みこころ」ということばを余りに都合よく解釈してはいないでしょうか。「主のしもべ」にとっての「みこころ」とは「自分のいのちを罪過(つぐない)のためのいけにえとする」ことでした。救い主は返済しきれないほど大きな私たちの負債を代わりに支払ってくださり、それによって私たちは奴隷の状態から解放され、自由な神の子供、イエスの弟、妹とされました。「主(ヤハウェ)のみこころ」は、何よりも、この世界を新しく造り変えることです。あなたはそのために召され、この世ではイエスの代理人としての名誉ある使命が与えられています。結婚も仕事も、あなた自身の幸せのため以前に、あなたが神の世界に仕えるための手段です。

「主のしもべ」は、ご自分の「いのちの激しい苦しみのあとで、それを見て、満足」しておられます(53:11)。それはイエスが死人の中から復活したからであり、またご自身の贖いのみわざが豊かな実を結び、神の家族が広がっているからです。そればかりか私たちは、主のしもべの「義」によって「義」とされ、「わたし」(主)が「彼(キリスト)に分け与えた」戦利品を、「彼」が私たちを「強い者たち」と呼びつつ、「御霊の賜物」として分かち合ってくださいます(53:12、エペソ4:8参照)。私たちは神の国の豊かさの共同相続人とされました。それは、「彼がいのちを死に明け渡し、そむいた人たちとともに数えられたからです」(53:12)。つまり、イエスが罪人の仲間となったのは、罪人を神の子とするためだったのです。そしてイエスは今、神の右の座について私たちのためにとりなしておられます。

「主のしもべ」の歌はキリスト預言であると同時に、私たち自身が「主のしもべ」として世に遣わされ、キリストの勝利を私たちの勝利とするという約束でもあります。キリスト者の生涯の目的は、キリストの生涯をこの地で再現することです。それは、自分を神のようにし、神の競争者となってしまったアダムの罪を逆転させるものです。私たちは、イエスが罪人の仲間に数えられるまでご自分を低くされた姿に習うように召されています。あなたは自己満足に浸るためではなく、新しい使命に生きるために召されました。そこにこそ、「いのちの喜び」が生まれます。

4.「怒りがあふれてほんのしばらく、わたしの顔を・・隠したが、永遠に変わらぬ愛をもってあなたをあわれむ」

54章最初の、「子を産まない不妊の女よ・・・」とは、エルサレム神殿が廃墟とされ、神の民の信仰の基盤がなくなるという悲劇を前提に、その後の希望を語ったものです。それは「主のしもべ」によって実現する祝福でした。その確信のゆえに、「喜びの歌声をあげて叫べ」(1節)と勧められます。「夫に捨てられた女の子どもは、夫のある女の子どもよりも多い」とは、神に捨てられたという悲劇の後に生まれる神の民は、その前よりも多くなることを意味します。今、主の民は三千年前には想像もできなかったほどに世界に広がっています。そして、それを前提に、「あなたの天幕の場所を広げ・・」(2節)と勧められ、「あなたは右と左にふえ広がり・・」(3節)という約束が語られます。

その上で、「恐れるな。あなたは恥を見ない。恥じるな。あなたははずかしめを受けないから・・」(4節)という慰めが語られますが、それは、バビロン捕囚で徹底的な「はずかしめを受け」、それから解放された後の約束です。それは、「わたしを待ち望む者は恥を見ることがない」(49:23)という約束の繰り返しでもあります。そして、「あなたは自分の若かったころの恥を忘れ、やもめ時代のそしりを、もう思い出さない」とは、主の豊かな祝福を味わうことができる結果、バビロン捕囚の苦しみが遠い昔の束の間のできごとにしか思えないようになるからです。

「あなたの夫はあなたを造った者、その名は万軍の主(ヤハウェ)・・」(5節)と述べられるのは、イスラエルが神にとっての花嫁であるからです。「主(ヤハウェ)は、あなたを、夫に捨てられた、心に悲しみのある女と呼んだが」(6節)とは、主が一時的にバビロン捕囚でイスラエルを捨てたように見えたからです。しかし、「若い時の妻をどうして見捨てられようか」とあるように、主はご自身の花嫁イスラエルを決して見捨てたままにはなさいません

そして、その主ご自身のかたりかけが、「わたしはほんのしばらくの間、あなたを見捨てたが、大きなあわれみをもって、あなたを集める・・・」(7節)です。ここでは続けて、「怒りがあふれて、ほんのしばらく、わたしの顔をあなたから隠したが、永遠に変わらぬ愛をもって、あなたをあわれむ」(8節)と述べられますが、ここで怒りが短期間であることと、愛の永遠性が対比されます。「変わらぬ愛」は原文で「ヘセッド」で、新改訳では原則、「恵み」と訳されており、神が、ご自身の契約を守り通してくださる「真実」を言い表しています。そして、そのことがなお、ノアの日の大洪水が二度とこの地を襲うことがないという神の誓いと結び付けられます。それが、「たとい山々が移り、丘が動いても、わたしの変わらぬ愛はあなたから移らず、わたしの平和の契約は動かない」(10節)と言い換えられます。ここでの「変わらぬ愛」というのも先の「ヘセッド」の訳で、この美しいことばの意味を何よりも言い表しています。

私たちの人生にも、祈りが答えられないように感じ、神が御顔を隠しておられるようにしか思えないときがあります。しかし、あの恩知らずなイスラエルの民を見捨てなかった神は、キリストのうちにとらえられている私たちを見捨てることなどあり得ません。私たちを襲う苦しみは、神の目から見たらほんの一瞬のできごとに過ぎません。パウロは福音を宣べ伝えるために想像を絶する苦しみに会いましたが、そのなかで彼は、「今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらす」(Ⅱコリント4:17)と語りました。また主ご自身が、「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない」(ヘブル13:5)と保障してくださいました。

11、12節では、崩されてしまったエルサレムの城壁が、美しい宝石で覆われる様子が描かれています。そして、これを前提に黙示録21章18-21節の、数々の宝石で飾られた「新しいエルサレム」の様子が後に描かれます。そして、14から17節では、エルサレムが二度と敵の攻撃に怯える必要がないという約束が記されます。

5.わたしの思いは、あなたがたの思いとは異なり、わたしの道はあなたがたの道と異なる

55章では、「ああ、渇いている者はみな、水を求めて出て来い」という呼びかけから始まりますが、54章ではエルサレムへの語りかけであったのが、ここでは、「みな」とあるように、それが全世界への招きとなっています。イエスはこれをもとに、「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい」(ヨハネ7:37)と言われました。それは世の多くの人々が、この世の富や成功を求めて、かえって渇きを激しくしているからです。「わたしに聞き従い、良いものを食べよ」(2節)とありますが、厳密には「従い」との言葉は原文にはなく、神に心から聞くということで私たちの身体が自然に神に向かう様子を示しています。神こそがすべての良いものを与えてくださる方だからです。

そしてそれがまた、「耳を傾け、わたしのところに出て来い。聞け。そうすれば、あなたがたは生きる」(3節)と言い換えられます。そして、「わたしはあなたがたととこしえの契約を結ぶ」と、「ダビデへの変わらない愛(ヘセッド)の契約」が、異邦人である私たちにまで広がることが示唆されています。「見よ。わたしは彼を諸国の民への証人とし、諸国の民の君主とし、司令官とした」(4節)とは、ダビデの子孫としての「主のしもべ」を指すと思われます。詩篇18:43,44でダビデは、「あなたは、民の争いから、私を助け出し、私を国々のかしらに任ぜられました。わたしの知らなかった民が私に仕えます」と告白しますが、それがここで、「主のしもべ」に適用されます。それはキリストのことであり、また主に従う私たちのことです。なお5節で「見よ・・あなたが呼び寄せると、あなたを知らなかった国民が、あなたのところに走って来る」とあるのは、主のしもべの命令が人々を動かすという王の権威を現しています。そのことが黙示録では、「キリストとともに、千年の間王となる」(20:4,6)と、私たちに約束されています。

「主(ヤハウェ)を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ」(6節)とは、どの人の人生にも、「私の神」が、「私をお見捨てになった・・私の・・うめき・・から・・遠く離れておられる」と感じざるを得ないとき(詩篇22:1)が必ずあるからです。そして、「悪者」や「不法者」に対して、「主(ヤハウェ)に帰れ。そうすれば、主はあわれんでくださる。私たちの神に帰れ。豊かに赦してくださるから」(7節)と、優しく希望に満ちた招きが記されます。

わたしの思いは、あなたがたの思いとは異なり、わたしの道あなたがたの道と異なるからだ・・天が地よりも高いように、わたしの道はあなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い」(8、9節)とは、神の救いのご計画が私たちの想像をはるかに超えたものであるとの宣言です。当時の人々にとって、イスラエルの神が、ご自身の神殿を捨てることを通して、神の民を真の悔い改めに導くなどという救いのご計画は決して理解できないことでした。これは、放蕩息子のたとえに通じます。父は弟息子が放蕩三昧をして一文無しになるのを見越した上で、彼の失敗を見守ろうとしました。挫折を味うことによってしか分からない恵みがあるからです。

「雨や雪が天から降ってもとに戻らず、必ず地を潤し、それに物を生えさせ、芽を出させ・・・パンを与える。そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、むなしくわたしに帰っては来ない。必ずわたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送ったことを成功させる」(10,11節)とは、イザヤを通して主が語ったことが、当時の誰にも理解されなかったのに、その後の歴史を動かしているという事実に証明されています。イザヤは神がエルサレムをさばかれることを預言しました。当時の人々は、それを理解しかなったばかりか、ヒゼキヤの後継者マナセは、イザヤをのこぎりでひき殺したほどでした。ところが、イザヤの預言の意味は、バビロン捕囚の中で理解されるようになりました。そして、イエス・キリストご自身が、このイザヤのことば、「主のしもべ」としての生き方を文字通りに生きられました。つまり、イザヤのことばがイエスを動かし、私たちのための救いを成し遂げたのです。先に、「彼の知識で、わたしの義(ただ)しいしもべは、多くの人を義とする」(53:11)と述べられていたのは、それを指し示しています。

「まことにあなたは喜びをもって出て行き、安らかに導かれて行く」(12節)とは、イスラエルの民がバビロン捕囚から解放されてエルサレムに戻る様子を示しています。これは現在は、私たちがサタンの支配から解放されて「新しいエルサレム」に向かって旅をすることを意味します。そのときの希望が、「山と丘は、あなたがたの前で喜びの歌声をあげ、野の木々もみな、手を打ち鳴らす。いばらの代わりにもみの木が生え、おどろの代わりにミルトスが生える」(12,13節)と描かれますが、それは私たちの救いが、全被造物の救いにつながるからです。それはアダムの罪によってのろわれた地が、神の祝福に満たされるという希望の表現です。パウロはこのことを踏まえ、「被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現れを待ち望んでいるのです・・・被造物自体も滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます」(ローマ8:19,21)と語っています。私たちの希望は、私と身近な人が天国に入れられるという個人的な救いばかりではなく、全世界が神の平和に満たされるという希望です。

多くの人々が、期待はずれの人生の中で、「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ」(55:8)というみことばに慰めと希望を見出しています。そして、それは、「主のみことば」こそが、人のこころを動かし、歴史を変えて行ったという歴史に現されています。イエスのことばは、世界の結婚制度を変えました。イエスのことばはひとりひとりのいのちの尊さを教えました。たとえば、仏教はこの世から抜け出ることを教えますが、聖書は、この世をキリストの愛で満たし、この世を変えることを教えます。赤十字を代表に、ほとんどすべての慈善団体は、聖書のみことばに動かされた個人によって始められています。そして、何と、私たちの主ご自身が、イザヤ書の「主のしもべの歌」に動かされて十字架の苦しみに向かったのです。そして、そこには、「彼の打ち傷によって、私たちはいやされた」という不思議が描かれています。それは、ひとりひとりのたましいを天国に導くということ以上に、この世界を根本から造り変え、世界をいやすという救いのみわざです。私たちはすでに最終的な「いやし」を保障された者として、この世の困難の中に遣わされ、神の平和を実現するのです。