イザヤ47〜49章「このわたしはあなたを忘れない」

2008年5月25日

多くの人の愛唱聖句に、「見よ。わたしは手のひらにあなたを刻んだ」というのがあります。この聖句が出てくる背景を話しながら、あらためて、神との対話、神の語りかけを聞きながら生きるという意味を考えました。

少し前に流行った曲に、「世界にひとつだけの花・・・ナンバーワンではなくオンリーワン」というのがありますが、ほんとうにそれはそのとおりなのですが、これを自分で言い張ることの危険もわきまえる必要があります。

私たちは、それを神からの語りかけとして聞く必要があります。そのときに、そこには常に、「使命」が伴っています。

使命感を忘れたオンリーワンはナルシズムにつながります。人に真の意味での関心を持つことができないというナルシズムは愛の交わりにとっての毒です。ただし、「それは私の問題ではなく、あの人の問題だ・・・」と思う方こそ、特に注意が必要かもしれません。この問題が自分の中にあると自覚している人を、神様はあわれんでくださり、新しい交わりを築かせてくださいます。

人には、「私だけは特別だ・・」と思っていたい、またそのように思われたいという願望があります。しかし、その欲求に身を任し始めると、際限のない「心の渇き」が生まれます。それは依存症の罠であり、それを背後で操っているのがサタンです。ところがあなたは、どんなに自己中心的な人間だとしても、何かに夢中になることによって、自分を忘れるときがあるのではないでしょうか。イザヤの壮大な預言には、そのような力があります。そこには世界の始まりから終わりにいたる神のご計画が記されています。

イエスもそこにご自分に対する神の語りかけが記されていることを発見し、感動したのではないでしょうか。そして、私たちも同じです。創造主ご自身が、「このわたしはあなたを忘れない」と語ってくださることを味わう結果として、自分を忘れることができます。私は自意識過剰になる自分を恥じて、それから解放されたいと思っていましたが、そのように願えば願うほど、かえって自意識過剰になりました。しかし、「わたしはあなたを忘れない」という神の語りかけを聞くたびに、この空回りから自由になることができる気がしています。

詩篇40篇7節に、「巻き物の書(聖書)に私のことが書いてあります」とありますが、私は聖書に私個人の失敗や挫折、そして希望、私に対する神のご期待が書いてあることが分かり、本当に気持ちが楽になりました。それと同時に、何度失敗しても、神との対話のうちにやり直す勇気と力をいただくことができています。

1.「『私だけは特別だ・・・』と言う者よ・・・わざわいがあなたを見舞う」

47章には、これからイスラエルを滅ぼすバビロン帝国の傲慢に対するさばきが記されています。神ご自身がイスラエルの民をさばくためにバビロンをご自身の道具として用いられたのですが、バビロンは自分の力を誇って、自分こそ世界の中心であるとおごり高ぶりました。

それに対して主は、「だから今、これを聞け。楽しみにふけり、安心して住んでいる女。心の中で、『私だけは特別だ・・・』と言う者よ」(8節)と呼びかけられます。「私だけは特別だ」とは、新改訳の脚注にあるように「私だけで、ほかにはいない」というのが直訳です。これは45章5,6,18,21節で繰り返された「わたしが主(ヤハウェ)である。ほかにはいない」という神ご自身の宣言を、人間に過ぎない者が自分に当てはめ、自分を神の立場に置くことばです。それは14章12-15節に記されたバビロンの王に対するさばき(サタンのことを示唆しているとしばしば解釈される箇所)に通じる表現です。ところが、このように自分を誇るバビロンの女が「子を失うことと、やもめになること」の二つの悲劇を一日のうちに体験するというのです。

10節に「あなたは自分の悪に拠り頼み、『私を見る者はいない』と言う」とありますが、これは9節の呪術を行い、呪文を唱えながら、他の人の気持ちなどをまったく無視して、自分の願望をかなえることばかりを追求する態度です。「あなたの知恵と知識、これがあなたを迷わせた」とは、有能さが仇になるということです。「だから、あなたは心の中で言う。『私だけは特別だ』」とは、先の8節と同じ表現で、自分を神とする宣言です。それに対して、「わざわいがあなたを見舞う。それを払いのけるまじないをあなたは知らない。災難があなたを襲うが、あなたはそれを避けることはできない」(11節)とあるように、彼らは自分の無知と無能を思い知らされることになります。

12節は、「さあ、立ち上がれ・・呪文や・・呪術を使って」という皮肉から始まります。続く、「あなたに助言する者が多すぎて、あなたは疲れている」とは、多神教に対する最高の皮肉です。多くの神々を持つことと、自分を神とすることは相反するようで、同じことです。それは、自分を世界の中心において、自分に都合の良い教えだけを集め、自分の中で統合しようとする試みです。この世界はそのような勧めで満ちています。あなたの周りにも、「あの先生はこう言ってるけれど、この先生はこのように言っていた」などと、情報を知っていても、「では、あなたは自分が何をすべきと思うのか・・」と聞くと、答えられない・・という人がいるのではないでしょうか。

私たちに本当に必要な知識は、たった二つだけであると言われます。それは、「創造主を知ることと、自分を知ること」です。その二つが聖書に記されています。私が今取り組んでいること、それは、聖書を通して読みながら、そこにおいて自分の人生をとらえなおすという試みです。いろんな先生が書いた断片的な知識の書は次から次と出てきては消えてゆきます。しかし、聖書全体を通して読むための手引きは何と少ないことでしょうか。

「あなたに助言する者が多すぎて、あなたは疲れている」というのは、いろんな有名な先生の話を聞きながら、聖書を通読もせず、今、自分が何をすべきかを答えることができない多くのキリスト者の姿であるかもしれません。聖霊がみことばを通してあなたにパーソナルに語ってくださったという原点を忘れてはなりません。

そして、続けて、「さあ、あなたを救わせてみよ。天を観測する者、星を見る者・・・に」(13節)と言われます。それは、この世の知者や哲学者に、あなたを救わせてみよ・・・という訴えでもあります。そして、「彼らは・・・自分のいのちを炎の手から救い出すこともできない」(14節)と言われます。なぜなら、神の審判の炎は、身を暖める暖炉の火のようなものではないからです。

本当の知者とは、自分の無力さと愚かさを知っている人、イエス・キリスト以外に私たちを救うことができないということを知っている人、また、あなたにイエスご自身を指し示してくれる人です。いろんな助言者がいますが、神が遣わされる真の助言者とは御霊の働きを知る人です。それは、イエスがあなた個人の人生に表れてくださったことに気づくことを助け、あなたとイエスとの固有の出会いを深めることを助けてくれる人ではないでしょうか。

2.「わたしに聞け・・・わたしがそれだ(I am He)・・・わたしは主(ヤハウェ)、あなたの神」

48章ではイスラエルの歴史が、主(ヤハウェ)の御手の中で進んでいると記されます。特にイザヤの活躍したダビデ王国の没落の過程では、ユダ王国の民は、アッシリヤ、バビロンやエジプトのような大国のご機嫌を取りながら、それらの大国の偶像にも敬意を払うようなことをしていました。バビロンの支配が広がるとバビロンの神が、ペルシャ帝国が支配権を持つと、ペルシャの神があがめられるというのは当時の世界の常識でした。しかし、これらすべての出来事の流れが既にモーセ五書に記されていることであることがわかるなら、イスラエルの民は、バビロンの没落からペルシャ帝国の繁栄にいたる過程の中でも、イスラエルの神、主(ヤハウェ)により頼むことができます。

「わたしは今から、新しい事、あなたの知らない秘め事をあなたに聞かせよう」(6節)とは、ペルシャの王クロスによってもたらされる救いのことです。申命記30章4節などには、「たとい、あなたが天の果てに追いやられていても、あなたの神、主(ヤハウェ)は、そこからあなたを集め、そこからあなたを連れ戻す」と記されています。それにしても、主がペルシャ帝国の王を動かすことによって、予め預言されたご自身の計画を成し遂げられるなどとは、誰も予想もできないことでした。そのような預言が意味あることばとしてイスラエルの耳に届くのは、彼らがエルサレムの滅亡を外国の偶像の神の勝利ではなく、イスラエルの神によるさばきであるということが理解できてからです。

それらのことを前提に、主は、「ずっと前から、あなたの耳は開かれていなかった」(8節)と語っています。彼らはモーセを通して明確に語られた警告を軽蔑したため、このような悲劇に会ってしまいます。ただそれは主にとって想定外のことではありませんでした。そのことが、「わたしは、あなたがきっと裏切ること、母の胎内にいる時からそむく者と呼ばれることを知っていたからだ」と言われます。たとえば、何かの失敗をしたとき、「私としたことが・・・」とか、「やはりあの人は・・」などと失望しますが、私たちの反抗は神にとって意外なものではなく、それによって神のご計画が無に帰することはありません。残念ながら人は、どのようにすばらしい教えを受け、恵みを体験し続けていても、自分自身で痛い目に会うまで、自分の生き方を変えようとは思いません。それで神は、人が自分で破滅を選び取っているという現実を予め知らせることで、人が神に立ち返ることができるようにされたのです。

しかも、神は、ご自身の栄光を目に見えるイスラエルという民を通して現そうとしておられたので、「わたしは、わたしの名のために、怒りを遅らせ、わたしの栄誉のために・・あなたを断ち滅ぼさなかった」(9節)と言われます。彼らを滅ぼすことは、世界の人々の目にはイスラエルの神の敗北にしか見えないからです。そして、「わたしは悩みの炉であなたを試みた。わたしのために、わたしのためにこれを行う。どうしてわたしの名が汚されてよかろうか。わたしはわたしの栄光を他の者に与えはしない」(10,11節)と記されますが、神はイスラエルが苦難を通して神に立ち返ること、それによって神の栄光が全世界であがめられることを願っておられたのです。

神の救いのご計画は、私たち自身のしあわせというより、神ご自身の栄光のためにあるということは、なかなか理解しにくいことです。しかし、それこそ、私たちが自分自身から自由にされる道、神の平和が世界に広がる道なのです。神が私たちを救ってくださる理由が、私たちの応答の姿勢にあるとしたら、繰り返し神を失望させる者に望みはありません。しかし、神が、私たちの状況に無関係に、ご自身の理由で私たちを守りとおしてくださるなら、希望を持つことができます。

「わたしに聞け・・わたしはそれだ(I am He)。わたしは初めであり、また終わりである」(12節)とは、43章10節、44章6節を合わせたみことばで、主(ヤハウェ)こそが歴史の支配者であることを改めて強調する表現です。そして、「主(ヤハウェ)に愛される者が、主の喜ばれる事をバビロンに仕向ける・・・」(14節)とは、主がペルシャ王クロスを用いてバビロンを滅ぼすことを意味します。「わたしに近づいて、これを聞け」(16節)とは、イザヤの預言を聞く者すべて、つまり、私たちへの語りかけです。そして、「今、神である主(主であるヤハウェ)は私を、その御霊とともに遣わされた」とは私たちのなすべき応答です。そして今、イエスを主と告白する人のうちに神の御霊が宿っています。

そして17-19節は、私たちがそのまま暗誦すべき神の語りかけです。その初めは、「わたしは主(ヤハウェ)、あなたの神」と記され、十のことばの初めのことばと同じで、天地万物の創造主があなたにとってのパーソナルな神となってくださったことを意味します。「わたしは、あなたに益になることを教え、あなたの歩むべき道にあなたを導く」とは、私たちが右か左の選択に悩むときに、どちらが良いかが示されるというよりは、日々の生活において何を優先するかという問いです。そして、「あなたがわたしの命令に耳を傾けさえするならば・・」とありますが、それは、何かの具体的な義務を果たすというより、「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主(ヤハウェ)を愛する」(申命記6:5)という心のあり方を指しています。それは戒律で自分を窮屈にするということではなく、それぞれの自由にゆだねられた極めて創造的な、いのちの喜びが満ち溢れるような生き方です。そして、そのことが、「あなたのしあわせは川のように、あなたの正義は海の波のようになるであろうに・・・」と約束されています。

その上で、「バビロンから出よ。カルデヤからのがれよ・・」(20節)は、神がクロスを通してイスラエルをバビロン帝国のくびきから解放することに対して、喜びをもって応答するようにとの勧めです。聖書が示す第一の救いは、出エジプトのできごとです。そして、バビロン帝国からの解放は第二の出エジプトです。第一の出エジプトのときは、彼らはモーセに率いられ、まとまって約束の地に向かいましたが、この第二のこと、出バビロンはそれぞれの自主的な判断に任されていました。

「住めば都」と言われるように、彼らはバビロンにおいて生活の基盤を作っていましたし、ペルシャ帝国による少数民族保護政策によってかなりの自由が与えられたからです。彼らの居住地はアブラハムの出身地にウルに極めて近い所です。主は、アブラハムに語りかけたように、イスラエルの残りの民に向かって約束の地に向かって旅をすることを勧めています。そして、第一の出エジプトのときに、神が渇いた地において岩から水をほとばしり出させたように、神は約束の地への旅を祝福してくださるというのです。そして、最後に、「『悪者には平安(シャローム)がない』と主(ヤハウェ)は仰せられる」(22節)と記されますが、これは、48章全体のまとめのことばと言えましょう。私たちは主の友と呼ばれたアブラハムの原点に立ち返るように常に召されているのです。

3.「見よ。わたしは手のひらにあなたを刻んだ」

49章1-6節は、42章1-9節に続く、第二の「主(ヤハウェ)のしもべの歌」です。この書き出しは、原文で、「聞きなさい、島々よ。私に。耳を傾けなさい、遠い国々の民よ」となっています。全世界に向かって、「私に聞け・・」という書き出しは極めて異例です。しかし、それは、「主(ヤハウェ)は、生まれる前から私を召し・・・私の口を鋭い剣・・とぎすました矢として・・私を隠した」とあるように、世の人々が決して耳を傾けたいと思わないメッセージを取り次ぐという嫌な仕事への召しと表裏一体となっています。そして、主はこの人をイスラエルの代表と見た上で、「あなたはわたしのしもべ、イスラエル。わたしはあなたのうちにわたしの栄光を現す」(3節)と語りかけます。

しかし、それに対して、彼は、「私はむだな骨折りをして、いたずらに、むなしく、私の力を使い果たした」(4節)と、主の語りかけを真実と思うことができない自分の気持ちを正直に表現します。それは、人々が待ち望んだダビデ王国の復興とは程遠い状況しか目の前に見ることができないからです。これは、イエスが十字架上で、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれたことばに通じます。

ただ、その直後に、「それでも、私の正しい訴えは、主(ヤハウェ)とともにあり、私の報酬は、私の神とともにある」と、主への信頼を告白します。主に向かって自分の正直な気持ちを告白した直後に、主への信頼のことばが発せられるというのは詩篇の祈りの基本的なパターンです。そこに理性を超えた神の御霊の働きが見られます。

「今、主(ヤハウェ)は仰せられる」とは、この「私」という「主のしもべ」に託されたメッセージです。それはモーセがイスラエルの民をエジプトから導き出したように、主は彼を用いて地の果てに散らされたイスラエルを「ご自分のもとに帰らせ・・ご自分のもとに集める」(5節)ということです。なお、ここでは約束の地に戻すということよりも、主のもとに立ち返らせるという真の信仰の回復がテーマとされています。そして、この働きを全うすることができるために、「私は主(ヤハウェ)に尊ばれ、私の神は私の力となられた」(5節)というのです。

そして、その働きは、「イスラエルのとどめられている者たちを帰らせる(立ち返らせる)」ことにとどまらず、「わたしはあなたを諸国の民の光とし、地の果てまでもわたしの救いをもたらすものとする」(6節)という世界全体を主(ヤハウェ)のもとに立ち返らせることにまで及ぶというのです。イエスご自身が、「ここに私の使命が記されている・・」と確信して十字架への道を歩まれたと言えましょう。

イスラエルの民は、世界の光になるように召されながら、それに失敗しました。それで主は、ひとりの「しもべ」を立たせ、彼をイスラエルの代表者とし、彼のうちにご自身の栄光を現したばかりか(3節)、彼によってイスラエルの残りの民をご自身のもとに回復し、そして、彼を用いて、世界をご自身のもとに回復させるというのです。

この第二の「主のしもべの歌」は、その最初と最後に、世界のことが記され、このしもべをイスラエルの代表者としている点で、これほど力強いキリスト預言はないと言えましょう。私たちはイエスが、イスラエルの王であるとともに世界全体の救い主であることを告白していますが、そのことがここに記されています。イエスご自身がこの歌の不思議を何度も味わいながら、ご自身に対する主のみこころを確信したのではないでしょうか。

13節の、「天よ。喜び歌え。地よ。楽しめ・・」という呼びかけは、「主(ヤハウェ)がご自分の民を慰め・・・あわれまれる」というイスラエルの救いをもとに、全被造物が主を賛美する様子を描いています。しかし、現実に「シオン」と呼ばれるエルサレムの置かれる現実は、「主(ヤハウェ)は私を見捨てた。主は私を忘れた」と言わざるを得ないような絶望的な状況です(14節)。そのような中で、主はイスラエルに対するご自身の思いを、「女が自分の乳飲み子を忘れようか・・・」と言いながら、さらに、「たとい、女たちが忘れても、このわたしはあなたを忘れない」と表現します。ここでは「このわたしは・・」と神の断固とした意思が強調されています。飢饉でパニックに陥った女が自分の子を忘れるようなことさえありますが、神の愛は母親の愛にまさるというのです(15節)。

そればかりか、「見よ。わたしは手のひらにあなたを刻んだ」と記されます(16節)。文語訳は、「われ掌(たなごころ)になんぢを彫刻(きざ)めり」です。それは恋人の名を手のひらに刻むように、主が私たちを恋い慕ってご自身の手のひらにひとりひとりの名を刻んでくださるということです。

そして、「あなたの城壁は、いつもわたしの前にある」とは、目に見えるエルサレムの城壁が崩れ去っている中で、なお神ご自身が目に見えない私たちの城壁となっておられることをあらわしています。

その上で、17、18節では、「あなたを滅ぼし、あなたを廃墟とした者は、あなたのところから出て行く」という敵の退散と対照的に、「あなたの子どもたちは急いでくる・・・彼らはみな集まって、あなたのところに来る・・あなたは必ず、彼らを飾り物として身につけ・・・」と、主の祝福の様子が、散らされていた家族が集められ、家族が爆発的に増加することとして表現されます。その結果、新しい時代に生まれた子らが、「この場所は、私たちには狭すぎる」というほど家族が増えるというのです(20節)。そして、「私は子に死なれた女、うまずめ、亡命のさすらい人であったのに・・・」(21節)と過去の苦しみを振り返りながら、主の祝福の大きさを喜ぶようになります。

そして、「主であるヤハウェ」が、「わたしの旗を国々の民に向かって揚げる」と言われると、国々の民はイスラエルの息子や娘たちをふところに抱いたり肩に負いながら運んでくるというのです。そしてそのとき、「王たちはあなたの世話をする者となり、王妃たちはあなたのうばとなる」という地位の逆転が起き、かつての支配者たちが「顔を地につけて・・伏し拝み、あなたの足のちりをなめる」ようになります(23節)。そして、この結論として、「あなたはわたしが主(ヤハウェ)であることを知る。わたしを待ち望む者は恥を見ることがない」と記されます。多くの人々は、この地で「恥を見る」ようになることを恐れ、みんなから遅れを取ることがないようにと競争しています。しかし、主を待ち望む者は、最終的に勝利者となることが約束されているというのです。

多くの人は、自己嫌悪に陥る中で、「わたしは手のひらにあなたを刻んだ」という親密な愛の語りかけに安らぎを発見します。しかし、「私は特別だ・・」という思いは、サタンのささやきでもあり得るということも決して忘れてはなりません。その分かれ道は、「わたしに聞け」「見よ」と私たちに語りかけてくださる方が、どのような方であるかを知ることです。神の視点から、自分を見る、神の眼差しの中に自分を置くということが大切です。主があなたをユニークに創造してくださったのは、あなたが「人が何と言おうと、そんなの関係ない。私は自分のやりたいようにやるんだ・・・」という居直りを許すためではなく、あなたがあなたに固有な方法で神に仕えることができるためです。使命から離れた自己認識ほど危険なものはありません。あなたの栄光ではなく、主の栄光こそが世界の存在の意味です。そして、主の栄光を第一にして生きている時、自分が主の栄光にとらえられている幸いを体験できます。