イザヤ21章〜27章「主 (ヤハウェ) と和 (シャローム) を結ぶ」

2008年2月24日

ある小学生の男の子が、クラスの中で、ひとりだけ自分の将来の夢を語ることができなくて、それが原因で皆にからかわれ、しょげていました。そのことを忘れようとすればするほど、情けない気持ちになってしまいました。 “イザヤ21章〜27章「主 (ヤハウェ) と和 (シャローム) を結ぶ」” の続きを読む

イザヤ13章〜20章「愚かな誇りと持つべき誇り」

2008年2月17日

キリスト教会では「謙遜」が最大の美徳と呼ばれます。しかし、そのために「誇り」の大切さを忘れてはいないでしょうか。牧師の集まりなどで感じるのは、「謙遜」よりも、それぞれの強烈なまでの「誇り」です。だからこそ、なかなか意見がまとまらないということがあります。 “イザヤ13章〜20章「愚かな誇りと持つべき誇り」” の続きを読む

イザヤ9章8節〜12章6節 「暗闇迫る中で、『I have a dream!』と叫ぶ力」

2008年2月3日

四、五十年前の日本と現在の違いは、「夢」にあるのかもしれません。昔の夢は、今から見れば愚かしい面もあったかもしれません。しかし、どんな夢であれ、夢を持っていた時代には人々に活気があり、人情も豊かだったのではないでしょうか。 “イザヤ9章8節〜12章6節 「暗闇迫る中で、『I have a dream!』と叫ぶ力」” の続きを読む

ルカ16章1〜13節「小さいことに忠実であること」

2008年1月27日

私は十年間証券会社に勤め、主に営業畑を歩み、退職して牧師になりました。証券会社のことをよく知っている人は、しばしば、「あんなあこぎな商売から早く足を洗って良かったね・・・」とか、「あんな恐ろしい会社をやめて良かったね・・・」はなどと言ってくれます。それを聞くたびに、何か複雑な気持ちになります。 “ルカ16章1〜13節「小さいことに忠実であること」” の続きを読む

イザヤ7章1節〜9章7節「御顔を隠しておられる方への信頼」

2008年1月20日

「神が私たちとともにおられる」というなら、なぜこんな不条理が放置されているのでしょう。なぜ神はすみやかに私たちの祈りに答えてくださらないのでしょう。そのような気持ちの中で、神を礼拝しに来るのが苦痛になっている人がいます。 “イザヤ7章1節〜9章7節「御顔を隠しておられる方への信頼」” の続きを読む

イザヤ1章〜6章「主 (ヤハウェ) おひとりだけが高められる」

2008年1月6日

去る元旦のメッセージにあった、「死ぬことによって生きるのがキリストのいのちです」の意味を尋ねてこられたあるお子さんに、「それは難しい質問だね……」としか答えられず、ずっと引っかかっていました。しかし、それはイザヤのメッセージに通じるものです。人生の時がくるまで「言語明瞭意味不明」にとどまるべきことなのかもしれません。 “イザヤ1章〜6章「主 (ヤハウェ) おひとりだけが高められる」” の続きを読む

哀歌3章40節〜5章22節「哀歌からクリスマスへ」

2007年12月16日

百万人の福音一月号の特集は「祈れない時にー知らなかった豊かな世界」と題して、小生の詩篇の翻訳交読文を含め六ページにわたって記載していただきました。十数年前に、詩篇の中にある「うめきの祈り」に深く感動して、それを熱く語ったとき、「そんな暗い話ばかり聞きたくない……」という反応が多かったのですが、時代が変わってきた感じがします。 “哀歌3章40節〜5章22節「哀歌からクリスマスへ」” の続きを読む

マタイ11章25〜30節「幼子たちに現された福音」

2007年11月18日

人は誰しも、馬鹿にされると傷つき、大切にされると嬉しくなります。そしてこの社会では、人の価値がその人の生産能力で測られているかのようです。そのような中で、あなたの中には、「自分の存在価値を証明しなければ!」という駆り立てる思いがないでしょうか。しかし、その気持ちをイエスの前でも持ち続けるなら、信仰に安らぎは生まれません。それどころか、身体を壊すほどに頑張りながら、イエスを悲しませることになりかねません。 “マタイ11章25〜30節「幼子たちに現された福音」” の続きを読む

ルカ15章「失われていた二人の息子」

2007年11月4日

私は昔、「あなたはどうして、そう肩肘張って生きているの・・・」と言われたことがあります。先日、シンガポールでは、「高橋先生は、完璧から程遠いけれど、何とも愛嬌がある・・」という趣旨のことを何人からも言われ嬉しくなりました。私は昔、「完璧」と「完全」の区別がついていませんでした。 “ルカ15章「失われていた二人の息子」” の続きを読む