2008年3月31日
メッセージをしながら改めて思わされたイザヤ書の面白さがあります。それは目の前の危機的状況の解決から、「新しいエルサレム」へのイメージが膨らむということです。それは、たとえば、「祈りが聞かれた」というひとつの体験が、「私はもう天国にいるも同然!」という感動に結びつくようなものです。確かに目の前には、なお問題が山積してはいます。 “イザヤ31章〜35章「見よ。神は来て、あなたがたを救われる」” の続きを読む
2008年3月31日
メッセージをしながら改めて思わされたイザヤ書の面白さがあります。それは目の前の危機的状況の解決から、「新しいエルサレム」へのイメージが膨らむということです。それは、たとえば、「祈りが聞かれた」というひとつの体験が、「私はもう天国にいるも同然!」という感動に結びつくようなものです。確かに目の前には、なお問題が山積してはいます。 “イザヤ31章〜35章「見よ。神は来て、あなたがたを救われる」” の続きを読む
2008年3月21日
キリストの復活を文字通りの歴史的な事実と信じる必要はないという人々が数多くいます。私自身も昔、その影響を少しばかり受けていました。しかし、コリント人への手紙第一15章の生々しい表現に圧倒され、考えを改めました。パウロはそこで、そのような霊的な解釈は、「神について偽証」(15節)になるばかりか、「もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者」(19節)だと断言します。 “Ⅰコリント15章12〜28節、50〜58節「終わりのラッパとともに、私たちは変えられる」(ヘンデル作 メサイア第二部、第三部 テキストから)” の続きを読む
2008年3月16日
イエス・キリストはこの世の中では、愛の模範として尊敬されています。それは福音書に描かれたイエスの姿をベースにしています。しかし、よく見ると、福音書では繰り返し、イエスにおいて旧約の預言が成就したと記されています。つまり、旧約聖書を飛び越えてイエスの人間としての生き方ばかりを見るように聖書は記されてはいないのです。 “イザヤ52章13節〜53章6節(ヘンデル作オラトリオ「メサイア」第二部のテキストから)「のろいの十字架に隠された祝福」 ” の続きを読む
2008年3月9日
目の前の問題に圧倒されていたとき見えなかったことが、ふとしたことで解決が見えたというようなことがないでしょうか。「知恵の輪」をはずすのと同じように、「何だ、こうすればよかったんだ・・」と思うようなことがあるかもしれません。熱くなりすぎたり、力づくになってしまうことは、かえって問題を複雑化させてしまいがちです。平安の祈りに、「一日一日を生き、今、このときを楽しみながら、困難を平和への道として受け入れさせてください」という祈りがあります。困難の背後に、またその中に、神がおられます。すべては神との交わりを豊かにする契機になります。 “イザヤ28章〜30章「困難の中に神を見る」” の続きを読む
2008年3月2日
私たちは様々な恵みの賜物を受けています。しかし、それは常に両刃の剣です。富が罠となるように、ある種の才能も罠になります。たとえば、「僕には、道産子の忍耐心がある!」などと自分を誇っていると、それは同時に、「融通の効かない頑固さ」として、人を振り回すことになってしまいます。 “ルカ16章14〜31節「神の恵みをむだに受けないようにしてください」” の続きを読む
2008年2月24日
ある小学生の男の子が、クラスの中で、ひとりだけ自分の将来の夢を語ることができなくて、それが原因で皆にからかわれ、しょげていました。そのことを忘れようとすればするほど、情けない気持ちになってしまいました。 “イザヤ21章〜27章「主 (ヤハウェ) と和 (シャローム) を結ぶ」” の続きを読む
2008年2月17日
キリスト教会では「謙遜」が最大の美徳と呼ばれます。しかし、そのために「誇り」の大切さを忘れてはいないでしょうか。牧師の集まりなどで感じるのは、「謙遜」よりも、それぞれの強烈なまでの「誇り」です。だからこそ、なかなか意見がまとまらないということがあります。 “イザヤ13章〜20章「愚かな誇りと持つべき誇り」” の続きを読む
2008年2月3日
四、五十年前の日本と現在の違いは、「夢」にあるのかもしれません。昔の夢は、今から見れば愚かしい面もあったかもしれません。しかし、どんな夢であれ、夢を持っていた時代には人々に活気があり、人情も豊かだったのではないでしょうか。 “イザヤ9章8節〜12章6節 「暗闇迫る中で、『I have a dream!』と叫ぶ力」” の続きを読む
2008年1月27日
私は十年間証券会社に勤め、主に営業畑を歩み、退職して牧師になりました。証券会社のことをよく知っている人は、しばしば、「あんなあこぎな商売から早く足を洗って良かったね・・・」とか、「あんな恐ろしい会社をやめて良かったね・・・」はなどと言ってくれます。それを聞くたびに、何か複雑な気持ちになります。 “ルカ16章1〜13節「小さいことに忠実であること」” の続きを読む
2008年1月20日
「神が私たちとともにおられる」というなら、なぜこんな不条理が放置されているのでしょう。なぜ神はすみやかに私たちの祈りに答えてくださらないのでしょう。そのような気持ちの中で、神を礼拝しに来るのが苦痛になっている人がいます。 “イザヤ7章1節〜9章7節「御顔を隠しておられる方への信頼」” の続きを読む