ルカ1章57〜2章14節「人々の期待を超えた救い」

2008年12月21日

経済が予測不能な動きを見せています。たとえば原油先物取引価格ですが、一昨年末には50ドルだったものが今年の7月初めには147ドルの値を付け、その後半年間で四分の一の値に暴落し、先週はついに36ドル以下になっています。情報が瞬時に世界中で共有される時代になって集団心理的な動きが世界規模で加速されているのかも知れません。このような激動の時代には、常識と思われてきたことが問い直されるとともに、人の心の闇もあらわにされます。しかし、キリストの誕生の出来事に比べたら、すべては驚くに価しません。人は、基本的に、自分の経験を頼りに生きようとしますが、それが通じなくなるときこそ、神のご支配が見えてくるのではないでしょうか。

ルカによる福音書では、イエスの誕生に先立って、バプテスマのヨハネの誕生の経緯を、神殿での礼拝から始めながら詳しく描かれます。実は、旧約聖書を知っている人にとって、バプテスマのヨハネの誕生の様子こそが、期待された救い主、ダビデの子にふさわしい誕生でした。それに比べてイエスの誕生は、人々のあらゆる期待を裏切る惨めな誕生です。しかし、それこそ、イエスが全世界の救い主、もっとも貧しい人の救い主になるために必要なことでした。多くの人にとって、神の救いが分かりにくいのは、それが人々の期待を超えたものだからです。

私たちも、神のみわざを、自分たちの期待の範囲でとらえてしまいがちです。それは、仕事の成功や、結婚の導きであったり、人間関係の改善であったりします。しかし、神は、「見よ。わたしは新しいことをする。今、もうそれが起ころうとしている。あなたがたはそれを知らないのか。確かに、わたしは荒野に道を、荒地に川を設ける」(イザヤ43:19)と言われます。しばしば、神の恵みとあわれみが見えないのは、大流星群の到来を聞きながら、別の方向の空を見上げて、「私は何も見えなかった!」と失望しているようなことと似ているのではないでしょうか。

1.エリサベツの妊娠とマリヤの妊娠

バプテスマのヨハネの父ザカリヤは祭司でした。彼は妻エリサベツとともに「神の御前に正しい」(1:6)と評される人でしたが、「エリサベツは不妊の女」(1:7)で、彼らには子がありませんでした。そのような中でザカリヤは神殿に入って香をたくという名誉は働きに選ばれました。そのような中で、御使いが彼に現れ、年をとった不妊の女に男の子が生まれると言われたばかりか、その名をヨハネとつけなさいという名前までが示されます。不妊の女と神殿での祈りから、ダビデを王に任じた預言者サムエルの誕生と似ていることがわかります。またナジル人サムソンの誕生とも似ています。また生まれる前から名前が与えられていたという点ではイサクの誕生にも似ています。とにかく、ヨハネの誕生は、神に選ばれた偉人たちすべての誕生の不思議を合わせたような神の奇跡でした。

主は、旧約の最後の預言者マラキ以来、沈黙を続けておられましたが、このときザカリヤに現れ、生涯神に仕えるナジル人の誕生を告げます。その子は「母の胎内にあるときから聖霊に満たされ」(1:15)という選びの器で、「エリヤの霊と力で主の前ぶれを」(1:17)すると言われますが、これは旧約最後のことば、「わたしは、主の大いなる恐ろしい日が来る前に、預言者エリヤを遣わす。彼は父の心を子に向けさせ・・」(マラキ4:5,6)に基づきます。その際マラキではさばきが強調されていましたが、ここでは主の救いに備えるという面が強調されます。

ただ、ザカリヤはそのことばを素直に信じられませんでした。それで御使いは、「これらのことが起こる日まで」という限定期間付きで、彼が「おしになって、ものが言えなくなる」(1:20)と告げます。そこにさばきとともに神のあわれみが隠されています。彼は、「その時が来る」まで、聖書を注意深く読み、神の救いのご計画に思いを馳せることができました。しばしば、このように、苦しみの時期は、真の意味で神の救いのご計画を思い巡らすための機会として用いられます。そして、妻のエリザベツもみごもって「五ヶ月の間引きこもり」ます(1:24)。夫はおしのままですから、彼女はひとりで主の御前に静まり、身に起こったことに思いを巡らしたことでしょう。彼女は、自分をサムエルの母ハンナに、その子の使命をサムエルに重ね合わせることができたに違いありません。

そしてこの直後に、同じ御使いのガブリエルがナザレのマリヤに現れ、イエスの誕生を告げます。ここに不思議な対照が見られます。エリサベツの場合は、彼女自身が祭司アロンの家系であるということと、その敬虔な生き方が描かれていましたが、マリヤは「ひとりの処女」で、「ダビデの家系のヨセフのいいなずけ」としか描かれません。まるで彼女の血筋も教養も生き方も、何のテーマにはならないかのようです。彼女はどこにでもいそうな結婚適齢期を迎える少女に過ぎませんでした。ただ、マリヤの場合は、処女のまま、聖霊によって妊娠するというのです。ヨハネの場合は、母の胎内にあるときから聖霊に満たされてはいたのでしたが、その誕生は生物学的には自然なものでした。しかし、マリヤから生まれる子は父のヨセフとは何の血のつながりもなく、まさに神のひとり子がマリヤを通して人となるという奇想天外な奇跡です。残念ながら、世の人々は、イエス・キリストを模範的な宗教指導者としてしか見ない人がほとんどです。しかし、それはバプテスマのヨハネにこそ適用できることです。彼の両親こそ、偉大な指導者を育てるにふさわしい人々で、神ご自身がその誕生を導いておられました。

御使いは、マリヤに処女のまま男の子を産むという不思議を説明するために、彼女の親類のエリサベツも高齢になり、しかも、「不妊の女といわれていた人」なのに、妊娠六か月になるという例を出しながら、「神にとって不可能なことはありません」と言います(1:36,37)。これは、マリヤの妊娠が、人の想像を超えた神の奇跡になることを示すものです。それにしてもエリサベツの場合、生まれ育った家系、また夫とともに主に仕えてきたという体験から、待ちに待った偉大な預言者を育てる資格がそれなりにあったことでしょうが、マリヤの場合には、神の都から遠く離れた片田舎の処女であるとしか記されていません。それは神の御子を産み育てるということが前人未到の働きになるので、下手な教育や経験などがないほうが良いという面もあるのかもしれません。そして、マリヤもこの途方もない招きに対して、「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように」と言って応答しました(1:38)。これは、全能の主に自分の身を一切投げ出すという、大胆な祈りです。

たとえばマザー・テレサもある時、イエスが、「最も貧しい人々の中に、わたしを運びなさい。来て、わたしの光となりなさい・・・あなたが無能で、弱く、罪深いからこそ、あなたを私の栄光のために用いたいのだ」と語りかけるのを聞き、あの働きへと一歩を踏み出しました。神は新しい働きのためには、何の先入観もなく、人間的な常識を超えた未熟な人を敢えて選ばれます。実は、神のみわざの最大の障害は、人間が自分の知識や経験を誇って、神に心を閉じることにあります。現代社会も、今までの知識や経験が役に立たないような前人未踏の分野に足を踏み入れています。そのような中で、何よりも大切なのは、神のみわざに自分自身を差し出すことです。

2.マリヤの賛歌とザカリヤの賛歌

それにしても処女のまま妊娠をしてしまったマリヤは、いろんな誤解や中傷にさらされることになります。そのような中で、彼女は、遠く離れたエリサベツの家を訪ねます。そこでマリヤは、聖霊に満たされたエリサベツによって「主の母」と呼ばれ(1:43)、大きな励ましを受けます。それに応答するようにマリヤの口からは、神への賛美が生まれてきました。その核心は、「主がこの卑しいはしために目を留めてくださった・・・今から後、どの時代の人々も、私をしあわせ者と思うでしょう」(1:48)と、神のみわざが自分から世界に広がってゆくことを期待することにありました。そして、主のみわざが、「心の思いの高ぶっている者を追い散らし・・・低い者を高く引き上げ、飢えた者を良いもので満ちたらせる」という神の逆転でした(1:51-53)。彼女の賛美は極めてパーソナルなものです。彼女はまさに卑しく貧しい人々のひとりでした。ひょっとしたら彼女の幼馴染は、ローマへの税金が払えなくて奴隷として売られてしまったかもしれません。それでも彼女には、恨みやねたみの思いに苛まれて心が歪んでしまう代わりに、ただ神の救いをあきらめずに求め続けるという信仰がありました。「あのような劣悪の環境の中で、なぜあれほど心が素直に育ったのでしょう!」と言われるのがマリヤだったことでしょう。それこそが神の賜物でした。

さて、マリヤの記事をはさんで、エリサベツの出産の様子が、「さて月が満ちて、エリサベツは男の子を産んだ。近所の人々や親族は、主がエリサベツに大きなあわれみをおかけになったと聞いて、彼女とともに喜んだ」(1:57,58)と記されます。それは極めて恵まれた環境での出産であったことが明らかです。しかも、名前をつけるにあたって、これが神から与えられた名であることが、まわりの人にも明らかになりました。なぜなら、ザカリヤがその子に、「ヨハネ」という名をつけるとともに、「彼の口が開け、舌は解け、ものが言えるようになって神をほめたたえた」(1:64)からです。この名はヘブル語で「ヨハナン」(主は恵み深い)で、珍しい名ではありませんが、神が直接に名を与えてくださるという不思議は、サムソンでも、サムエルの場合でもなかったことでしたから、人々は、「いったいこの子は何になるのでしょう」(1:66)と言い、この子を通して、新しい時代が開かれると期待したことでしょう。

68節から79節までの「ザカリヤの賛歌」の中心テーマは、「イスラエルの・・・贖い」(1:68)です。それは彼らが、かつてエジプトやバビロンから解放されたように、ローマ帝国の奴隷状態からの解放されることを意味しました。そのために、ダビデの家系から力強いリーダーが現れ、「すべてわれらを憎む者の手からの救い」(1:71)を実現すると期待されていました。その上で、「主は・・アブラハムに誓われた誓いを覚えて」と「誓い」ということばを重ねながら神の救いを語りますが、これこそ聖書のテーマであり、それをもたらすのは「主のあわれみ」です(1:72,73)。

ところで、サムエルがいなければダビデが王になることはできませんでしたが、同じように、エルサレム神殿での礼拝から生まれたヨハネの働きがなければ、人々がその出生も明らかではないイエスの話に耳を傾けることはなかったことでしょう。そして、ヨハネは、「主の御前に先立って行き、その道を備え、神の民に、罪の赦しによる救いの知識を教える」(1:76,77)とその使命が記されますが、「罪の赦しによる救い」は、私たちの功績以前に、「神の深いあわれみ」(1:78)によるものです。ところでヨハネはその後、父が仕えたエルサレム神殿ではなく、「イスラエルの民の前に公に出現する日まで荒野に」(1:80)いました。エルサレムにおいては、神殿を中心に権力構造ができていました。「罪の力」は、「最も聖なるもの」を「争いの原因」とすることにあります。しかし、不思議な逆説ですが、豪華絢爛たる神殿での祈りから生まれたヨハネは、人々の目を荒野へと向けさせたのです。そして彼は、人々の心を神に立ち返らせるために、神殿でのいけにえを用いる代わりに、ヨルダン川でバプテスマを施しました。それは、神殿の本質である「神の深いあわれみ」に立ち返らせる働きでした。私たちの目も、目に見える富や力のシンボルから、神ご自身に向けられる必要があります。大きな変動の時代は、人々の心が誤った常識から解放される機会になります。マリヤの賛歌は、極めてパーソナルな救いの喜びが、ザカリヤの賛歌においては、イスラエルの歴史に焦点が当てられています。そこに共通するのは、「神のあわれみ」です。私たちは、この世から生まれ、この世に生きています。しかし、そのすべての背後に、神のあわれみに満ちた「選び」がありました。この世の営みを否定するのではなく、矛盾に満ちた世のただ中で、神のあわれみのご支配の現実に目を向けることが必要です。

3.イエスの誕生の貧しさと、主の栄光の現れ

救い主の誕生の様子が2章から記されますが、このような章の区切りは後の時代につけられたもので、この記事はザカリヤの賛歌と切り離せない関係にあります。その終わりでは、「日の出がいと高き所からわれらを訪れ、暗黒と死の影にすわる者たちを照らし、われらの足を平和の道に導く」(1:78,79)と歌われていますが、これは2章14節の「天の軍勢」の賛美に直接につながることです。そして、それをはさむようにイエスの誕生の様子が描かれます。それまでバプテスマのヨハネの誕生の様子を読んできた人は、この落差に唖然とさせられることでしょう。

最初に出てくる、「ローマ皇帝アウグスト」という人は、戦いに明け暮れた古代ヨーロッパ、中東、アフリカに渡る地に四百年間もの平和の基礎を築いた、歴史上最も偉大な政治指導者のひとりです。その皇帝の命令によって、「人々はみな、登録のために、それぞれ自分の町に向かって行」(3節)かざるを得なくなり、ヨセフも臨月を迎えるマリヤを伴って、イスラエルの北部の町ナザレから南部の町ベツレヘムまで、三日間あまりもの距離を、しかも、高低さが千二百メートルもある険しい道を、ただ、「登録するため」(5節)だけのために歩かなければなりませんでした。まさに、彼らこそ、権力者の気まぐれに振り回される「暗黒と死の影に座る者」の代表者です。

その上で、イエスの誕生という重大なことが、驚くほど簡潔に、「ところが、彼らがそこにいる間に、マリヤは月が満ちて、男子の初子を産んだ。それで、布にくるんで、飼葉おけに寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである」(2:6,7)と記されます。救い主の誕生の様子は、たったこれだけしか描かれていません。「彼らがそこにいる間に、マリヤは月が満ちて・・」とは、彼らがベツレヘムに既に一定の期間滞在していながら、誰からも助けてもらえなかったことを示唆します。しかも、「布にくるんで飼い葉おけに寝かせた」(7節)のはマリヤ自身であるかのようで、助産師さんの助けも得られなかったのです。ヨセフはこんなときの男の常として、ただおろおろしていたのかも知れません。また、「飼い葉おけ」が、「家畜小屋」の中にあったとも記されていません。実は、何よりもここで強調されているのは、「宿屋には彼らのいる場所がなかったからである」という一点なのです。当時の宿屋は極めて粗末、危険で、豊かな人々は親類や紹介された家に泊めてもらうのが普通でしたが、ヨセフは、ダビデの家系だというのに、誰の紹介も受けられませんでした。つまり、彼らは、「貧しい人が泊まる宿屋にさえ、居場所がなかった」と言われているのです。しかも、マリヤは誰の目にも出産間近と見えたはずなのに、誰の助けも得られませんでした。住民登録で町が異常に混雑していたなかで、人は自分の身を守るので精一杯だったのでしょう。

暖かい宮殿で、多くの人にかしずかれながら出された皇帝の命令が、マリヤをこのような惨めな出産に追いやりました。しかし、それを導いておられたのは、天の王である神様でした。それは、イエスが、世界の創造主で、すべてを支配しておられる方なのに、「いる場所がない」という人の仲間になってくださったということを意味します。

現代も、何と多くの方々が、孤独感に苛まれ、「誰も私に注意を向けてくれない。心の痛みを聞いてくれない」と悩んでいることでしょう。多くの人々は、自分の居場所を作ろうと、他人の顔色ばかりを伺いながら生きています。しかし、救い主は、敢えて、「居場所のない人の友」となるために、飼い葉桶に生れ落ちてくださったのです。

そのとき、そこから離れた野原で、何と、羊飼いを恐れさせるほどの、「主(ヤハウェ)の栄光が回りを照らした」というのです(2:9)。当時の人々は、ローマ帝国の支配のもとで苦しみながら、この「主の栄光」が戻って来るときを待ち焦がれていました。ところが、それは、信仰の中心のエルサレム神殿ではなく、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っている、貧しい日雇い労務者のような羊飼いに現れたのです。そして、御使いは、彼らに「この民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来た」(2:10)と、彼らを民全体の代表者として選んでメッセージを託すと言いました。しかも、この羊飼いたちに示された、救い主の「しるし」とは、まばゆい光ではなく、何と、「布にくるまって飼い葉おけに寝ている」(2:12)という貧しさそのものでした。そして原文では、「飼い葉おけ」ということばに続いて、「すると、たちまち、その御使いといっしょに、多くの天の軍勢が現れて・・」(2:13)と、地の貧しさと対照的な、天の栄光が垣間見られます。これは、どんな偉大な預言者も聞けなかったような天の軍勢による最高の賛美でした。「いと高き所に、栄光が、神にあるように」とは、多くのクリスマスキャロルの原型です。また、続けて、「地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように」と歌われましたが、「御心にかなう人々」とは、エルサレム神殿の宗教指導者ではなく、毎日の糧をやっとの思いで手に入れている社会の最下層の人々、羊飼いたちのことでした。これは、「御心が向けられた人」とも訳され、神があわれみをかけてご自身のまなざしを向けてくださった人を意味します。

イエスは、「貧しい者は幸いです。神の国はあなたがたのものだから」(6:21)と不思議なことをおっしゃいましたが、しばしば、人は、徹底的に自分の弱さ、頼りなさを味わうということがなければ、自分に神の御心が向けられ、自分が神の愛に包まれ、支えられてきたのだということを、知ることもできないものです。その意味で、人間的な苦しみや貧しさの中にこそ、神のあわれみに満ちたご支配を認めることができるのではないでしょうか。

それにしても、イエスが実現した「救い」とは何でしょう?多くの人々は、イエスを、旧約の律法に代わる新しい教えを広めて当時の宗教指導者の反発を買って非業の死を遂げた人と見ます。しかし、それに相当するのは、バプテスマのヨハネでした。彼こそ、人々の心を聖書の教えの原点に立ち返らせようとした最後の預言者でした。そして、彼はそのような偉大な指導者としてふさわしい誕生の仕方をしています。聖書は、彼の誕生とイエスの誕生をセットに描くことで、イエスはあらゆる人間の枠を超えた存在であることを示しています。

ヨハネは、人々に悔い改めを説きました。それは残念ながら、一時的に罪を抑制することしかできません。私たちは、何度も、「今度こそ、心を入れかえます・・・」などと言いながら、また同じことを繰り返してはいないでしょうか。ヨハネは、人々に厳しく迫りながら、人間の心の限界を指し示し、人にはできないことを、神の御子であるイエスがなしてくださることを示そうとしていたのです。預言者イザヤは、救い主が、「私たちの病を負い、私たちの悲しみを担った」と記し、同時に、「主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた」と記しています(イザヤ53:4,6)。そして、イエスが処女マリヤを通して生まれたということは、創造主である神が私たちの同じ血と肉を持つ人となったということを意味しますが、それは私たちの心と身体に巣食っているすべての腐敗をご自身で引き受けるためでした。すべての罪や穢れから無縁な方が、すべての腐敗を引き受けるため人となってくださいました

飼い葉おけに横たわっている赤ちゃんは、この世界の創造主であり、この世界を保ち支えておられる方、この世界の支配者でした。これは人知を超えた神秘ですが、これこそ正統的なキリスト教会の告白です。そして、今、イエスはご自身の御霊によって、あなたの内側に住み、同時にこの世界のすべてを支え、支配しておられます。

また、多くの人は臆病さと不安のゆえに、自分の身を守ろうとして、人を傷つけます。しかし、私たちはもう死の脅しに屈する必要はありません。聖書は、神の御子が人となった理由を、「そこで子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした」(ヘブル2:14,15)と記しています。「死」は私たちの敵です。しかし、神の御子は、死ぬことができる身体となって、私たちを、死の支配から自由にしてくださったのです。イエスが処女マリヤから生まれたとは、神が人となってくださったことを意味します。そしてイエスが十字架にかかった悲劇は、イエスが三日目に墓を空にして新しいからだをもってよみがえり、死の力に打ち勝たれたという勝利の始まりでした。今、私たちには、死の力に勝利した方の御霊が宿っています。また、私たちと同じ弱い肉体と心を持ちながら、罪の誘惑に勝利し続けた方の御霊が宿っています。

「良い教えを聞いて、心を入れ変えます」という次元では解決できないのが、私たちの問題です。それを内側から、根本から癒すために、神の御子は人となってくださいました。飼い葉おけに宿ったイエスは、あなたの心と身体に住まいを得て、あなたを内側から造り変えるとともに、あなたをご自身と手とし足として用いることができます。イエスの救いは、今ここから始まり、全世界が新しくされ、平和に満たされることにまで及びます。この世には暴力やリストラの脅しが絶えませんが、私たちは問題のただなかで、主にある勝利を確信して喜ぶことができます。