ルカ1章26〜56節「悲惨の中に見られる神の国」

2008年12月14日

私たちはクリスマスのたびごとに、「人々は苦しみの中で長い間、救い主を待ち続けていた。そして、イエスはこの世界を救う方として二千年前にベツレヘムにお生まれになった。」と語り合います。しかし、一体何が変わったのでしょう?世界は今も貧困と争いが続いています。サタンは「キリストは、暦の数え方以外の何も変えなかった」とささやき続けてはいないでしょうか。

私たちは、何かの問題を解決したり、何かを達成できたときに喜びます。しかし、クリスマスの喜びは、その正反対に、神が私たちのために貧しくなってくださったことを覚える機会です。このとき、苦しみや病いや死と無縁なはずの創造主が、この地の混乱のただなかに降りてきてくださいました。ですから、私は個人的にはクリスマスの賛美歌は、静かで単純なものが好きです。ドイツでクリスマスになると町中に響いている賛美歌は、マルティン・ルターが自分の子供たちへのクリスマス・プレゼントとして作ったという「天より来たりて」です。

これは真夜中に、天使が天から下ってきて、野宿で夜番をしていた貧しい羊飼いに救い主の誕生を告げてくださったことをモチーフとしています。2番の歌詞は、「処女のマリヤに生まれし御子こそまことの神なり」と歌われます。マリヤの胸に抱かれているひ弱な赤ちゃんが、まことの神であるというのは奇想天外な告白です。そして、五番では神の御子のしるしは、栄光の光ではなく、「飼い葉桶」という貧しさであり、そこに横たわっているのは、「天地の造り主」であると歌われます。七番の歌詞では、「心の目」をもって、飼い葉桶を見るなら、そこに主(ヤハウェ)の栄光」が見えると記されます。10,11番では、この世の豪華さが御子の住まいにふさわしいのではなく、御子ご自身が貧しい干し草に宿るとき、そこが天国になると歌われます。つまり、神はあなたが住んでいる矛盾と混乱に満ちた世界を天国に変えるためにマリヤから生まれてくださったのです。そして13番では、飼い葉桶に宿られたイエスが私たちの心に宿り、神がご自身のみわざを私たちを通して成してくださるようにと祈ります。

1.「神にとって不可能なことはありません。」

あるとき御使いガブリエルが処女マリヤに現われ、「おめでとう、恵まれた方」と言います。ここからアベ・マリヤというラテン語の賛美歌が生まれます。しかし、人間的に考えると、これはまったくおめでたい話とは思えません。とまどうマリヤに、「こわがることはない・・あなたはみごもって、男の子を産みます」(30、31節)と告げます。これを恐がらないでいられましょうか?彼女はヨセフと婚約していましたから、妊娠は、石打の刑に相当する罪を犯した結果と見られます。ところが彼女は、ただ御使いが語る言葉にじっと耳を傾け続けます。神から離れた人の特徴は、みことばを聴くことができなくなることですが、マリヤは奇想天外な話に耳を傾け続けます。

すると御使いは、生まれる子は、待ち望まれた救い主としてダビデ王国を再興して下さる方だと言いました。しかも、「彼はとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることがありません」(33節)と、その国がこの地上の王国のレベルを超えるものであることを示唆します。たぶん、マリヤにその意味は不可解だったことでしょう。

ただしマリヤは、自分たちの国の現状に心を痛めていました。外国の支配下で暴力と不正がまかり通り、人々は貧困にあえいでいました。ですから彼女は当然ながら、救い主が来られるのを待ち望んでいました。その待ち望む気持ちが強かったからこそ、御使いのことばを真剣に聞いたのでしょう。しかし、その救い主が、自分の身を通して生まれるということになるなら、「どうか別の人を選んで下さい」と言ったとしても当然かも知れません。

しかし、マリヤは、「どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに」(34節)と答えました。これは、拒絶でも不信仰でもなく、「どのように」という疑問です。彼女の関心は、自分の身の安全を守ろうとすることではなく、まだ処女である自分から、どのようにして子供が生まれることが可能になるかという点にありました。私たちも、主のみこころに拒絶でも不信仰でもなく、「心を開く」ということが求められています。

御使いは「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます」(35節)と答えました。つまり、全能の神の霊、聖霊が彼女の上に下ることによって、彼女は、何と、処女のまま子供を生むことになるというのです。処女降誕は多くの人にとってつまずきですが、これこそ聖書の教えの核心です。これを文字通りに受け止めない解釈は、力のない道徳に過ぎなくなります。この神秘的な誕生を前提として、「それゆえ生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれ」ます。つまり、生まれる子の本当の父は、人ではなく、神ご自身なのです。

そして、彼女の信仰の応答を引き出した決定的なことばこそ、「神にとって不可能なことは一つもありません(For nothing is impossible with God)」(37節)です。もし、真実に、このことばを腹の底で受けとめるなら、私たちの人生は決定的に変わるのではないでしょうか。多くの人々は、自分の身の安全を優先するあまり、神のご計画に対して自分の心を閉ざしてしまいます。ただ、神は、人をロボットのようには造られませんでしたから、まず私たちが自分の心を開かなければ、私たちを通してみわざをなそうとはなさいません。問題は、神が無力なのではなく、あなた自身が、神のみわざを小さくする方向に心を狭めていることにあるのです。

多くの人々が誤解していますが、イエス・キリストはマリヤから生まれる前から、存在しておられた方です。それどころか、この方は、父なる神とともにこの世界を創造された神の御子です。福音記者ヨハネは、この方を「ことば」として描きながら、「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった・・・すべてのものはこの方によって造られた・・・ことばは人となって、私たちの間に住まわれた」(ヨハネ1:1,3,14)と言っています。それにしても、パウロは、「神は祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、ただひとり死のない方であり、近づくこともできない光の中に住まわれ、人間がだれひとり見たことのない、また見ることのできない方です」(Ⅰテモテ6:15,16)と言っていますが、今、そのようにすべてを超越した神が、マリヤを通して人となろうとしているのです。神は、人の苦しみを上から見下ろして、上から指導する代わりに、ご自分で不自由な死ぬべき人間の身体、痛み苦しみ飢え渇き、その弱さのゆえに罪を犯す可能性のある身体をとろうとしておられます

つまり、死ぬことのない神が、死ぬことができる身体となるために、処女マリヤを通して人となるのです。私たちは、「不可能が可能になる」ということを、人の尊敬を勝ち得る何か大きなことをすることかのようにばかり思いがちですが、これはその反対方向のことで、とてつもなく小さく、弱く、不自由で惨めな姿になるという意味です。私たちは、「私はそんな貧しい生活に耐えられません。そんな汚いところには住めません。そんなわけのわからない人の友達にはなれません・・・」ということがあると思いますが、それが可能になるということなのです。

社会が便利になるに連れて、人がどんどんひ弱になっていると言われます。非行少年少女のカウンセラーが、その子たちのことを、「悩みを抱えられない少年たち」と呼んでいますが、そのような現実が案外身近にあるのではないでしょうか。思い通りにならないことがあるとすぐに、キレてしまったり、短絡的な行動に走ったりする人がいますが、マリヤは、悩みを抱える力を与えられていた少女でした。そして、今、誰も体験したことのない悩みを抱えようとするにあたって、「神にとって不可能なことは一つもありません」と励ましを受けているのです。神はその全能の力のゆえに、苦しむことができます。そして、私たちも苦しむ力、悩む力を神から受けるのです。

2.「あなたのおことばどおりこの身になりますように。」

マリヤの応答の最初は、「ほんとうに、私は主のはしため(奴隷)です」(38節)でした。私たちは、自分の願望をかなえてくれる神を求めてしまいがちですが、それは神を自分の思い通りに動かそうとする傲慢になる危険があります。それでは神の真実の愛を体験することはできません。ただ、それは、決して、自分の願いを訴えてはならないという意味ではありません。神に、問題の解決の方法を指定するのではなく、自分が味わっている不安や孤独という感情を、そのまま正直に打ち明け、へりくだって助けを求める姿勢こそが大切です。

どちらにしても、私たちに求められている生き方は、自分を主人とする代わりに、神を自分の主人とし、自分を神のしもべに置く生き方であるということは忘れてはなりません。私たちはすべて自分のためにではなく、使命のために生かされているからです。それは、「私たちの中でだれひとりとして、自分のために生きている者はなく、また自分のために死ぬ者もありません。もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです」(ローマ14:7,8)と記されている通りです。

そして、マリヤが述べた、「あなたのおことばどおりこの身になりますように」こそ、私たちにとって究極の祈りの模範です。これは、単なる受け身ではなく、自分自身を差し出すという大胆な能動的姿勢です。

主の祈りでは、「みこころが行なわれますように」と祈られますが、これは三人称単数の受動命令形という特殊な形で、「私に、みこころを行なわせて下さい」という願いでも、「あなたが、みこころを行なって下さい」という願いでもありません。つまり、「私が、私が」という能動態でも、「あなたまかせ」の受動態でもありません。「私が・・」という思いに囚われると、常に何かの働きに駆り立てて休むことができず、また周りの人をも振り回します。反対に、「あなたがなさってくださらなければ・・」という姿勢に流れすぎる人は、怠惰に逃げ込み、神のかたちに造られた自分をさげすむ結果になります。この祈りの形は、能動性と受動性を包括するもので、能動的な受動性を表わし、その意味は、「神のみこころが、私たちの心のうちに、世界中に行なわれるように」という願いです。

たとえば、あなたがまわりの「うめき」(ローマ8:22)の声に、心の耳を開きます。そして、福音書にあるイエスの姿を黙想します。すると「イエスは、今、私のからだを用いてご自身のみわざをなしたいと願っておられる・・」と、心に迫ってくるかも知れません。それに身を委ねるとき、感謝されたいという思いに動かされるのでも、「私なんか何もできない」という思いに縛られるのでもなく、神のみこころに動かされた、神の愛のわざがなされるのではないでしょうか。それこそ、私たちのあらゆる能力と個性がフルに生かされる生き方です。

マリヤは自分の身を何の条件もつけずに差し出しました。それは大胆な能動的な一歩を踏むことであると同時に、徹底的に受身になることでした。神の御子は、このような祈りの応答を通して、人となることができました。

そして、ここでエリサベツは、マリヤを、「私の主の母」(43節)と呼んでいます。つまりマリヤは、自分を「主のはしため」として差し出した結果、「主の母」となったのです。私たちも自分を「主のしもべ、はしため」として差し出すなら、神は、私たちを通して、私たちの思いを超えた働きをなしてくださるのです。

ところで、正統的な教会は、451年に作られたカルケドン信条を受け入れています。そこでマリヤは、「神の母」と呼ばれますが、それはこのエリザベツの告白に由来します。新約聖書ではしばしば、「主」ということばに旧約の「ヤハウェ」の意味が込められていますから、「主」を「神」と読み替えるのは聖書的です。そこで意図されているのは、マリヤが「神の母」として礼拝の対象となるという意味では決してなく、イエスはマリヤの胎内にいたときから神であるという意味です。すべてを超越している神が、マリヤの胎内の羊水の中に浮かぶ胎児となられたというのです。「太陽の創造主が胎児となられた」などというのは、いかなる理性的判断をも超えた神秘です。

私たちは自分がたったひとりで暗闇の中に住み、何にもできない、神から遠く離れた存在だと自分を小さく見ることがあるかもしれませんが、神はひとりの少女のお腹に宿る胎児になるまでに小さく弱い存在となってくださったのです。この世では、「何ができる」という能力で人の価値が測られますが、創造主が胎児となってくださったことを覚えるとき、胎児がどれだけ神から重たい存在と見られているかが分かります。「小さないのちを守る会」の働きの中心は、胎児のいのちを守ることにありますが、初代教会時代からそれは常に教会の働きでした。

この世の混乱は神が無力であるとのしるしではありません。それは人間が強くなることや偉くなることばかりを求め、権力闘争をしていることの結果に過ぎません。それで、その問題を解決するために、神はとことん下に下ってくださいました。世の多くの人から、まだ人間とも見られていない胎児にまでなってくださったのです。

あなたの弱さ、あなたの無能さ、あなたの小ささ、あなたの罪深さは神のみわざの妨げにはなりません。神のみわざの妨げになるのは、あなたの強がり、あなたの自己正当化、あなたの頑固さです。マリヤは、何にもできない無力な少女でした。貧しい育ちで、どれだけ読み書きができたかさえも分かりません。ただ、彼女には自分自身を神のみわざのために差し出すという信仰がありました。それによって、彼女は、「神の母」となったのです。そして、そのとき、太陽の創造主は、まだ目も見えず、呼吸もできない無力な胎児となることができました

光の創造主が、まったく無力な胎児となられ、光の届かない胎内に住まわれたというのは何という神秘でしょう。ですから、あなたの世界がどれだけ暗く見えたとしても、それは神がいないことのしるしではありません。

3.すべてを逆転させる神の力

46-55節は、マグニフィカートと呼ばれる賛美の模範です。マリヤは、「わがたましいは・・」(46節)、「わが霊は・・」(47節)と、全身全霊で神をあがめます。自分が救い主の母になるという気負いではなく、神を、「わが救い主」として、「喜んで」いるのです。彼女は、「主はこの卑しいはしために目を留めてくださった」(48節)という点にのみ自分の心を向けます。そして、その後の人生に起こり得る様々な困難を覚悟しながらも、最終的な祝福を信じ、「ほんとうに、これから後、どの時代の人々も、私をしあわせ者と思うでしょう」という希望を告白します。

マリヤはこのとき、人間的に見ると不幸のどん底だったかもしれません。彼女はひとりで自分の家のあるナザレから遠く離れたエルサレム近郊のエリザベツの家を訪問中でしたが、これは当時としては珍しいことです。彼女の心にそうせざるを得ない切羽詰った必要があったのではないでしょうか。彼女は未婚のままお腹が大きくなるという中で、人々から白い目で見られ孤独を味わっていたかもしれません。御使いが知らせてくれたエリザベツ以外に、この一連のことを理解できる人はいなかったからこそ、ほれほど遠くまで来たのではないでしょうか。

しかし、マリヤは、「これ(今)から後」という今から始まっている将来に目を向けます。それは人々がイエスを救い主として認めるようになったときばかりか、これから許婚のヨセフや彼女の家族がマリヤの胎に宿っている子が救い主であることを認め、その輪がどんどん広がってゆくという方向を見てのことです。私たちにとって何よりも大切なのは、今このときがどこに向かっているかを知ることです。私たちの信仰とは、常に、今が苦しく辛くても、私たちの明日は神によって必ず開かれているという希望の中に生きることです。

その根拠は何よりも、「力ある方が、私に大きなことをしてくださいました」(49節)という点にあります。私たちの信仰は、「神が私に目を留めてくださった」という一点から始まります。自分の信仰や自分の能力、自分の性格を見る前に、神の眼差しに心を向けるのです。神があなたに目を留め、あなたひとりに語りかけ、あなたのうちに、神への愛、イエスへの信頼を起こして下さいました。それこそ、神の再創造のわざでした。既に神の奇跡が始まったのです。それによって、彼女に目に見える形で起こったことは、未婚のままお腹がどんどん大きくなるということですが、彼女は、「力ある方が・・大きなことをしてくださった」という神のご計画に目を向けます。

私たちの場合も同じように、目に見える現実は何も変わらず、いやかえって悪くなっているように見えても、力ある神のみわざが始まっているという点にこそ目を向ける必要があります。あなたの内には既に、全能の神の御霊が宿っておられます。その際、あなたの弱さは何の障害にもなりません。かえって弱さを自覚することこそが神のみわざの出発点です。主は、「わたしの力は、弱さのうちに完全に現われる」(Ⅱコリント12:9)と言われます。

このマリヤの賛歌も、「主の力」、「主の聖さ」、「主のあわれみ」に目を向けつつ(49,50節)、「主は・・高ぶっている者を追い散らし・・低い者を高く引き上げ、飢えた者を良いもので満ち足らせ、富むものを・・追い返され」と、神にある逆転を歌っています。パウロは自分たちの能力や霊性を誇っているコリントの教会に向けて、「神は知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです・・・これは、神の御前でだれをも誇らせないためです」(Ⅰコリント1:27,29)と説きました。聖書のあらゆる知識に通じていたパウロは、この真理を無学なマリヤの賛歌から学んだのではないでしょうか。信仰は知識ではないことのしるしです。私たちもマリヤに習って、その神の全能のみわざに身を差し出せば良いのです。私たちに問われるのは、神が私たちを通して事をなすことができるように自分を差し出すかどうかなのです。

そして、マリヤは、「主はそのあわれみをいつまでも忘れないで(思い起こしながら)、そのしもべイスラエルをお助けになりました」と歌います。「あわれみ」ということばはこの歌のキーワードです。それは50節にもあることばですが、それ以前に、「主はこの卑しいはしために目を留めてくださった」ということばにも通じます。

マリヤは自分に神のまなざしが注がれていることを、イスラエルに対する神のあわれみの観点から見ています。しばしば、貧しい人は自分のことしか考えられなくなりますが、マリヤは自分に起こっていることを、神がアブラハムに約束されたことばという観点から見ています。彼女の視野は何と広いことでしょう。彼女は、ここで聖書のメッセージの本質を把握しています。それは神がアブラハムへの約束を、民の不従順にも関わらず守り通されるという意味です。それは神の真実として描かれます。信仰とは、神のあわれみと真実を信頼し続けることにほかなりません。多くの人は、「信仰によって自分を変えよう・・・」などと思いますが、信仰とは何よりも、神が罪びとの私たちをあわれみ、私たちを内側から作り変えてくださることを信じることです。つまり、神のあわれみと真実に信頼し、神が私たちを作り変えてくださることを信じることの結果として、私たちは変えられてゆくのです。信仰は、自分の心を律する道ではありません。神が自分や世界をあわれみ作り変えてくださることへの信頼です。

今から150年近く前、ハワイのモロカイ島にハンセン氏病患者が「らい病人」として社会から見捨てられるように隔離されていました。そこでダミアンという神父が単身で働き始めました。彼は自分がらいに感染したとき、自分も彼らの仲間になれたと喜んだほどでした。それに感化され多くのシスターがそこで働き出しましたが、そこを訪ねた米国の小説家スティーブンソンは次のような詩を記しました。これこそ、この世に神の国を見ることです。

「ライのいたましさを一目見れば、愚かな人々は神の存在を否定しよう。

しかし、これを看護するシスターの姿を見れば、愚かな人さえ、沈黙のうちに神を拝むであろう」

イエスの救いは、キリスト者を通して世に現わされます。イエスが惨めな飼い葉桶を最初の住まいとされたように、イエスは、汚れたあなたの心の中に住み、あなたの手と足を用いてくださいます。それこそが神の奇跡です。その始まりが、「あなたのおことばどおりこの身になりますように」というマリヤの祈りをささげることです。

マリヤの賛歌をもとに多くの賛美歌が生まれています。賛美歌95番もそのひとつです。マリヤの気持ちになってこれらの賛美を主に向かってささげることから私たちの変化が始まります。神の救いのみわざは、しばしば、目に見える現実を劇的に変えてくださることとしては表されません。それは何よりも、神が混乱と苦しみのただ中に降りてきて、この世の地獄と思われる所に住む人の心を内側から造り変えてくださるということを通して表されます。神が天から降りてきてくださったということは、まず私たちの心の中で受け止められるべき信仰の真実です。