2009年8月9日
現代の多くの日本人にとって、「父の権威」が感じられない時代になっています。私は父を怖いと感じたことはありません。母はいつでもどこでも私の無条件の応援者でした。 “エゼキエル1章1節〜3章15節「主 (ヤハウェ) の栄光を拝するときの恐れと望み」” の続きを読む
2009年8月9日
現代の多くの日本人にとって、「父の権威」が感じられない時代になっています。私は父を怖いと感じたことはありません。母はいつでもどこでも私の無条件の応援者でした。 “エゼキエル1章1節〜3章15節「主 (ヤハウェ) の栄光を拝するときの恐れと望み」” の続きを読む
2009年8月2日
「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」で始まる平家物語の冒頭では、「おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。たけき者も遂には滅びぬ、ひとえに風の前の塵に同じ」ということばとともに、中国や日本での権力者の滅亡の有様が、「楽しみを極め、人の諫言も心に留めて聞き入れることもなく、天下の乱れることも悟らないで、民衆の嘆き憂いを顧なかったので、末長く栄華を続ける事なしに滅びてしまった」と説明されます。 “箴言14章〜15章「謙遜は栄誉に先立つ」” の続きを読む
2009年7月19日
ドイツ語のことわざに、「分かち合った喜びは二倍の喜びに、分かち合った苦しみは半分の苦しみになる」というのがあります。それこそが愛の交わりの中で起きる不思議ではないでしょうか。ともに悲しみながら、またともにうめきながら、そこに何ともいえない希望が生まれているということがあります。 “ローマ8章15〜30節「ともにうめく中で生まれる望み」” の続きを読む
2009年7月19日
昨年、アメリカでオバマ大統領が誕生する頃、45年前のマルティン・ルーサー・キングの有名な演説、「I have a dream」がしばしば引用されました。彼は自分が暗殺されることを意識しながら、次のように「夢」を語りました。
「友よ。私は今日、皆さんに申し上げたい。今日も明日もいろいろな困難や挫折に直面しているが、それでも私にはなお夢がある・・・・私には夢がある。それはいつの日かジョージア州の赤土の丘の上で、かつての奴隷の子孫とかつての奴隷主の子孫が、ともに兄弟愛のテーブルにつくことができることである。
私には夢がある。それは、いつの日か不正義と抑圧の暑さにうだっているミシシッピー州でさえ、自由と正義のオアシスに変えられる事である・・・・私には夢がある。それは、いつの日か私の幼い4人の子供たちが、彼らの肌の色によってではなく、人格の深さによって評価される国に住めるようになることである。
私には夢がある。それは悪意に満ちた民主主義者に牛耳られているアラバマ州で、いつの日か幼い黒人の男の子と女の子が白人の男の子と女の子と手をつなぎ、兄弟姉妹として歩けるようになることである・・・」、
彼は、白人と黒人との間の平和を、以下のイザヤ11章6-9節のレトリックを用いて表現したのだと思われます。
狼は子羊とともに宿り、ひょうは子やぎとともに伏し、 子牛、若獅子、肥えた家畜が共にいて、小さい子どもがこれを追っていく。 雌牛と熊とは共に草をはみ、その子らは共に伏し、獅子も牛のようにわらを食う。 乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ、乳離れした子はまむしの子に手を伸べる。 わたしの聖なる山のどこにおいても、これらは害を加えず、そこなわない。 主(ヤハウェ)を知ることが、海をおおう水のように、地を満たすからである。
キング牧師が語った「夢」は、アメリカを確かに動かしました。それは聖書に基づいた「夢」だったからです。私は決して、オバマ大統領が理想的な大統領だなどと言っているわけではありません。どちらにしても後しばらくすると、様々なボロを出してくることでしょうから・・・ただ、真実な「夢」には社会を動かす力があるということだけを覚えるべきでしょう。そして、私たちもその原点に立ち返って、イザヤに示されたビジョンを改めて黙想してみましょう。
1.イエス・キリストの救いは全世界の平和を実現する
「狼と小羊」、「ひょうと子やぎ」、「子牛と若獅子」(11:6)とは食べる側と食べられる側の関係ですが、新しい世界においては弱肉強食がなくなり、それらの動物が平和のうちに一緒に生活できるというのです。
「小さい子供がこれを追う(導く)」とは、エデンの園で、人が動物を治めていたという関係が回復されることです。また、人が神に従順であったとき、園にはすべての栄養を満たした植物が育っており、「熊」も「獅子」も、「牛」と同じように草を食べることで足りたはずでしたが、アダムの罪によって地がのろわれたものとなってしまいました。しかし、神が遣わしてくださる救い主は、そのような原初の平和(シャローム)を回復してくださるというのです(11:7)。
「その子らはともに伏し」とは、その平和は一時的なものではなく、それぞれの子らにも受け継がれることです。
「乳飲み子」や「乳離れした子」が、コブラやまむしのような毒蛇と遊ぶことができるとは(11:8)、「女の子孫」と「蛇の子孫」との間の敵意(創世記3:15)が取り去られ、「蛇」がサタンの手先になる以前の状態に回復することです。
「わたしの聖なる山」(11:9)とは、エルサレム神殿のあったシオンの山を指しますが、そこが全世界の平和の中心、栄光に満ちた理想の王が全世界を治める中心地になるというのです。そこは、現在、民族どうしの争いの象徴になっています。それは、それぞれが異なった神のイメージを作り上げてしまっているからです。しかし、完成の日には、「主(ヤハウェ)を知ることが、海をおおう水のように、地を満たす」ので、宗教戦争などはなくなります。
そして、「その日、エッサイの根は、国々の民の旗として立ち、国々は彼を求め、彼の憩う所は栄光に輝く」(11:10)とは、このような神の完全な平和シャロームは、イエスが世界中で「全地の王」、「主」としてあがめられることによって実現するという意味です。私たちはすでにそのような世界に一歩足を踏み入れています。
私たちは、神がイエス・キリストにおいてもたらしてくださる救いを、このような動物界をも含めた全世界的な観点から理解しているでしょうか?しかし、この11章6-9節の夢を実現するために、救い主はこの地に来られたのです。この直前のイザヤ11:1-5はクリスマスのたびごとに読まれるキリスト預言です。つまり、二千年前のキリストの降誕は、全世界が新しくされることの保証と見られているのです。私たちは、「救い」を狭く捉えすぎていないでしょうか。
イエスは「エッサイの根」から生まれる「ダビデの子」です。ダビデがもたらしたエルサレムの平和は一時的なものでした。それは武力に依存していたからです。しかし、11章6節からは第二のダビデが、第一のダビデの成し得なかったような完全な平和を、エルサレムに実現し、エデンの園を再興すると語られます。イザヤは、救い主はすぐにこのような平和を実現してくださると期待していましたが、救い主は二度に分けてこの地に来られることになりました。一度目はひ弱な人間として来られ、私たちの罪の身代わりのいけにえとなってくださいました。それは、力ではなく、愛による平和をもたらすためでした。そして、二度目は、「王の王、主の主」としての栄光を現しながらこの地に来られ、悪の力を砕き、この地に弱肉強食のない真の平和を実現してくださいます。イザヤの預言は既に半分が成就しています。私たちは残り半分の預言が成就することを信じているからこそ、目の前の問題に、平和の使者として向かってゆくことができます。永遠の夢を持つからこそ、この世の悪に屈せずにいられるのです。
キング牧師は、I have a dream! と、イザヤ書に約束されている平和の「夢」を、白人と黒人の平和という身近な「夢」に置き換えて訴えることによって、アメリカを動かしました。私たちの目の前にも、こじれにこじれて解決が見えないという大きな山が見えるかもしれません。何の希望もないと思えることがあるかもしれません。しかし、私たちの救い主は、神から見捨てられたという罪の暗闇の中を通り過ぎてくださいました。暗闇の中で私たちは十字架のイエスに出会うことができます。そして、十字架のイエスに出会ったものは、復活のイエスにも出会っています。私たちはどんなに弱くても、復活のイエスがともに歩み、力を与え、平和(平安)の完成への道を開いてくださいます。
2.「彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ・・・彼らを背負い、抱いて来られた」
ところで、私たちが神の救いを見えなく感じるとき、慰めになるみことばが63章8-10節に記されています。まず、「まことに彼らはわたしの民、偽りのない子たちだ」とは、放蕩三昧をして落ちぶれて帰って来た息子を迎える父の気持ちです。そして、「こうして、主は彼らの救い主になられた」という表現と共に、「彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、ご自身(御顔)の使いが彼らを救った。その愛とあわれみによって主は彼らを贖い、昔からずっと、彼らを背負い、抱いて来られた」(63:9)という主の「愛とあわれみ」が描かれます。ここで「ご自身の使い」ということばは、原文で、「彼の顔の使い」と記されており、単に、ご自分の代理としての御使いを送ったというのではなく、主がご自身のあわれみの御顔を向けておられるということが強調されています。しかも、主は、私たちの痛みを上から見下ろしておられる方ではなく、ともに「苦しみ」、また、「背負い、抱いて」来られた方だというのです。
今から約三十年前、フィリップ・ヤンシーという米国のジャーナリストを有名にした本があります。そのタイトルは、「Where is God when it hurts」(痛むとき神はどこにおられるのか)でした。それは誰もが避けたいと願う「痛み」に創造的な価値があるということを解き明かした本として米国で絶賛されました。しかし、それは別に目新しい教えではなく、今から二千七百年前に、神がイザヤを通して語っていたことでした。イスラエルの民は、自分たちの痛みを通して、「彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ・・・彼らを背負い、抱いて来られた」という霊的現実を体験できたのです。神を遠く感じるとき、神は私たちの最も身近におられるという逆説があるのです。
ところがそれにも関わらず、主の民は「逆らい、主の聖なる御霊を痛ませた」ので、「主は彼らの敵となり、みずから彼らと戦われた」(63:10)というのです。これは、イスラエルの民のバビロン捕囚に至るまでの神のさばきの全体を表わしたものだと思われます。その過程で、主は、敢えて異教の国々を動かし、イスラエル攻撃に仕向けられました。約束の地に至る過程では、主はイスラエル側に立たれて外国と戦っておられましたが、約束に地に入ってから、特にダビデ以降の時代は、神は外国の国々を用いてイスラエルを懲らしめられました。それはまるでイスラエルの神、主(ヤハウェ)が外国人の味方となり、イスラエルの敵となられたことを意味します。
3.「見よ。まことにわたしは新しい天と新しい地を創造する。」
そして、このようなさばきの後に、神が新しく実現してくださる世界のことが、イザヤ65章17節以降で、「見よ。まことにわたしは新しい天と新しい地を創造する。先の事は思い出されず、心に上ることもない。だから、わたしの創造するものを、いついつまでも楽しみ喜べ。見よ。わたしはエルサレムを創造して喜びとし、その民を楽しみとする。わたしはエルサレムを喜び、わたしの民を楽しむ」(65:17-19)と描かれます。ここで、「わたしは・・創造する」と三度も繰り返されている神の宣言を何よりも心の底から味わってみるべきでしょう。しかも、「新しい天と新しい地」の創造は、「初めに、神が天と地を創造した」という聖書の最初のことばに対応して記されます。その上で、失われた喜びの園「エデン」を回復するという意思を込めて、「わたしの創造するものを・・楽しみ喜べ」と勧められます。ここに、廃墟とされたエルサレムを主ご自身が新しく創造されるという断固たる意思が見られます。これは、黙示録の「新しいエルサレム」につながります。しかも、ここでは主ご自身が、「わたしの民を楽しむ」と繰り返しておられます。それは、主が天と地を新しくされる前に、私たち自身をも内側から造り変えてくださるからです。
私たちは自分自身の進歩のなさ、この世の不条理がはびこる現実にしばしば失望を味わいます。しかし、聖書を通して読む事によって、「私の人生のストーリーを、世界の救いのストーリーのひとこまと見る」ことができるように召されています。私たちは、「神が、なぜこのような不条理を許しておられるのか?」の理由を知ることはできません。しかし、「神を愛する人々・・のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています」(ローマ8:28)と大胆に告白することができます。この世に悲惨をもたらすのは人間の罪です。しかし、神は、人間の罪に打ち勝って、私たち自身を、そして世界を造り変えてくださるのです。
「そこにはもう、泣き声も叫び声も聞かれない。そこにはもう、数日しか生きない乳飲み子も、寿命の満ちない老人もない。百歳で死ぬ者は若かったとされ、百歳にならないで死ぬ者は、のろわれた者とされる」(65:20)とは、申命記28章で、主を憎む者に対する「のろい」が、「あなたの身から生まれる者ものろわれる・・・主(ヤハウェ)は、疫病をあなたの身にまといつかせる」(18,21節)と記されていた事との対比として理解されるべきでしょう。
また、「彼らは家を建てて住み、ぶどう畑を作って、その実を食べる。彼らが建てて他人が住むことはなく、彼らが植えて他人が食べることはない」(65:21、22)とは、同じく申命記28章で、「あなたが・・家を建てても住むことができない。ぶどう畑を作っても、その収穫をすることができない・・・地の産物およびあなたの勤労の実はみな、あなたの知らない民が食べるであろう」(30,33節)と記されている「のろい」との対比で理解すべきです。
「わたしの民の寿命は、木の寿命に等しく、わたしの選んだ者は、自分の手で作った物を存分に用いることができるからだ。彼らはむだに労することもなく、子を産んで、突然その子が死ぬこともない。彼らは主(ヤハウェ)に祝福された者のすえであり、その子孫たちは彼らとともにいるからだ」(65:22,23)という「祝福」も、申命記28章で、「これらすべてののろいが、あなたに臨み、あなたを追いかけ、あなたに追いつき、ついにはあなたを根絶やしにする」(45節)と結論されていたすべての「のろい」との対比で理解される必要があります。イスラエルの民が、神を敵としてしまったとき、彼らはあらゆる疫病に悩まされ、畑に種を植えてもいなごが食い尽くし、息子や娘を産んでも奴隷にされてしまい、家族がともに働き続けても苦しみしか待っていないような「のろい」の時代が来ました。
しかし、今や、キリストの復活によって、申命記28章に記された「のろい」と対照的な「祝福」の時代が私たちに既に実現し始めています。それは、真冬の寒い時に、梅や桜のつぼみが芽を吹きだしたようなものです。春は目の前にあり、待っていれば確実に美しい花を見ることができます。そして、新しい天と新しい地のつぼみこそ、このキリストの教会です。今既に、想像を絶する偉大なことがここで始まっています。ですから、パウロは、キリストの復活の説明の結論として、「堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから」(Ⅰコリント15:58)と語りました。
ローマ帝国でキリスト教会が成長するきっかけに伝染病への対処の違いがあったという調査があります。紀元165年に天然痘が猛威を振るい、15年間のうちに人口の三分の一ないし四分の一が命を落とし、当時賢帝として名高かった皇帝マルクス・アウレリウスも180年にウィーンで命を落としたと言われます。また紀元251年にも、「はしか」の蔓延によって同じような壊滅的な被害が起こったと言われます。当時の人々は、伝染病にかかった人を家の中からすぐに追い出して隔離し、伝染を恐れて何の手当ても施しませんでした。至る所に半死の病人が捨て置かれていたと言われます。それに対して、キリスト教会では、人々は、伝染の恐れがあるにも関わらず病人の世話をし、日々の必要を満たしていました。彼らは、看病を通して感染しても、それを殉教のひとつの形としてとらえ、これを、神が信者たちを訓練するために与えた試練であると前向きに受け止めました。その結果、不思議に、教会の交わりのなかにある人々の感染による死亡率は、世における死亡率よりも極端に少なくなっていきました。なぜなら、心のこもった手当ては、人のうちにある抵抗力を驚くほど高めたからです。そして、何よりも、世の人々は、「クリスチャンは互いに何と深く愛し合っていることか・・」と感動し、入信者が増えて行ったと言われます。
今も、私たちの目の前には、様々な不条理や苦しみが広がっており、「新しい天と新しい地」のことが遠い夢物語のように感じられるかもしれません。しかし、イエス・キリストの十字架と復活を見るとき、私たちにとっては既に、「のろい」の時代が過ぎ去ったということがわかります。そのことを使徒パウロは、「キリストは私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、『木にかけらる者はすべてのろわれたものである』と書いてあるからです」と記しています(ガラテヤ3:13)。私たちの前に様々な困難があっても、それは神の罰ではなく、「訓練された人々に平安な義の実を結ばせます」と約束されている神の愛の訓練の現われと受け止めることができます(ヘブル12:11)。そして、私たちの父なる全能の神が、「見よ。まことにわたしは新しい天と新しい地を創造する」と断言してくださっていることを心で味わうとき、私たちはそれがすでに実現したかのように、この世で、損得の計算を超えた生き方ができるのです。それをどのような形で、この地で表してゆくのかを考えてみるべきでしょう。私たちは、すでに新しいエルサレムでの市民権が約束されている者として、「地の塩、世の光」として、この世に遣わされています。私たちに与えられた「永遠のいのち」は、もう失われようのないものです。
4.「真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます
また、「彼らが呼ばないうちに、わたしは答え、彼らがまだ語っているうちに、わたしは聞く」(65:24)とは、主がご自身の民に対して御顔を隠しておられたという状態がなくなって、ご自身の御顔をいつも向けておられる親密な交わりが回復することを意味します。ここでは、「わたしは答え・・わたしは聞く」という主ご自身の意思が強調されています。私は、長い間、泣く必要のないほどに心が安定することに憧れましたが、それを意識するほど、不安な自分を赦せなくなるだけでした。ところが、不安のままの自分が、神によって、見守られ、抱擁され、支えられていることがわかった時、気が楽になりました。赤ちゃんに向かって「泣くな!」と説教するかのように、自分や人の感情を非難して空周りを起こすことがあります。母親が赤ちゃんを安定させることができるように、神の御前で、あなたの臆病さ、不安定さ、弱さは、人生の障害とはなりません。
そして、「狼と子羊は共に草をはみ、獅子は牛のように、わらを食い、蛇は、ちりをその食べ物とし、わたしの聖なる山のどこにおいても、これらは害を加えず、そこなわない」(65:25)とは、この世界から弱肉強食がなくなることを意味します。これは先の、11章6-9節の言い換えです。これをもとにパウロは、私たちの救いと被造物の救いを結びつけて、「被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます」(ローマ8:21)という希望を告白しました。私たちはこの世界に平和が満たされることを願っています。しかし、捕鯨反対の平和団体が暴力行為を行うとか、平和を守るという団体が、あまりにも自分の主張を絶対化し、一方的に人の意見を裁くのを見ながら心が痛みます。キリストは何よりもあなたの身近な所に平和を実現するようにと、「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」と言われました。この世界の平和を実現してくださるのは、私たちの想像を超えた神ご自身のみわざであり、それはキリストの再臨によって全うされるものです。政治信条を絶対化するところには、平和ではなく争いが実現するという矛盾があることを忘れてはなりません。
主は最後に、新しい世界の永遠性について、「わたしの造る新しい天と新しい地が、わたしの前にいつまでも続くように・・・あなたがたの子孫と、あなたがたの名もいつまでも続く。毎月の新月の祭りに、毎週の安息日に、すべての人が、わたしの前に礼拝に来る」と記されます(66:22、23)。これこそ主が喜ばれる礼拝の完成のときです。イエスはサマリヤの女との対話で、「真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です」と言われましたが(ヨハネ4:23)、イエスの救いとは、何よりも、偽善に満ちた人間のわざとしての礼拝を退け、イエスが与える御霊と、「わたしが道であり、真理(まこと)であり、いのちなのです」(ヨハネ14:6)と言われるイエスご自身を通して、イエスの父なる神を礼拝することに表されます。私たちのささげるこの礼拝が、いつでも、「新しい天と新しい地」「新しいエルサレム」を思い起こさせるようなものになるように互いに協力し合いましょう。
しかし、同時に、神の敵に対するさばきが最後に、「彼らは出て行って、わたしにそむいた者たちのしかばねを見る。そのうじは死なず、その火も消えず、それはすべての人に、忌みきらわれる」(66:24)と警告されます。「神が愛であるならば、地獄は空になるはずだ」などと言う人がいますが、聖書はそのように語ってはいません。神を恐れる者に対する永遠の祝福と、神の敵に対する永遠のさばきはセットとして記されているのです。
パウロは、「新しい天と新しい地」を目の前に思い浮かべながら、「堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから」と断言しました。しかし、現実を振り返ると、「私の労苦はむだになってしまった・・・どうして、こんなことになってしまうのか・・・」と嘆きたくなることばかりです。そのとき、ふと、「私は目に見える結果より、イエスを見上げなければいけない。私は、イエスがくださる労苦の実としての喜びよりも、イエスご自身を私の喜びとすべきなのだ・・」と思い知らされました。それ以来、「イエスは私の喜び」というドイツの古い賛美歌が私の心の歌になりました。「新しい天と新しい地を待ち望む生き方」とは、「イエスにまみえる」ときを待ち望む生き方に他なりません。しかし、すぐにサタンは、「お前のような偽善者をイエスが歓迎してくれると思うのか・・・」と、心の耳にささやいてきます。そのとき、聖霊は、「私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません・・・大事なのは新しい創造です」(ガラテヤ6:14、15)と語りかけてくださいます。私は、聖霊を受けた結果として、自分の罪深さを知り、同時に、「イエスが私の罪のために十字架にかかってくださった」と信じているのです。私は罪人のままで、イエスの父を、「アバ、父」と呼ぶことができます。そこに「新しい創造」がすでに始まっています。目に見える進歩や成果を測るのではなく、イエスご自身を、今ここで、私の喜びとすることこそ、新しい私たちの生き方であるべきでしょう。私の罪のために十字架にかかってくださったイエスは、全世界の創造主であり、この世界を、「新しい天と新しい地」へと造り替えてくださる方です。そして、その「新しい創造」のみわざは、実現の最終段階にあります。
2009年7月12日
私たちはときに、イエスを信じても、かえって問題が増えるばかりと失望したり、自分を見ても何も成長していないどころか退歩しているようにしか思えないことがあります。また、「この峠を越えたら、見晴らしのよい風景が待っている・・」と一生懸命に歩いてきたのに、「かえって見通しが悪くなるばかり・・・」と思えるようなことがあるかもしれません。 “ルカ21章10〜36節「夜はふけて、昼が近づきました」” の続きを読む
2009年7月5日
私は証券会社にいたせいか、「市場経済」を軽蔑するような最近の世論に反発を感じます。つい、この前までは、家庭の主婦までが株や外国為替でお金儲けができると喜んでいたのですから、人の心の変わりやすさを思うばかりです。私たちは、切れ味のよい包丁は、同時に、恐ろしい武器にもなるということを忘れてはなりません。 “エレミヤ50章〜52章「エルサレムを心に思い浮かべよ」” の続きを読む
2009年6月21日
私の恩師である故古山洋右先生は、「訓練」ということばが大好きでした。ドイツから帰国して間もなくの神学生時代、掃除や片付け、週報の打ち込みや印刷、その他、様々な雑務を私に命じながら、「すべて訓練だから……」と言われました。ただそのとき私は、牧師としての働きに直結するものは「訓練」と思えましたが、それらの雑務をこなしながら「これが何の訓練になるのだろう……」と訝しく思いました。 “箴言12章〜13章「主は、愛する者を懲らしめる」” の続きを読む
2009年6月14日
「あの頃は、本当に楽しかったな・・・」となつかしく思いながら、ふと、「もう、あの喜びはもう過去のことなのだろうか・・」と寂しくなるようなことがないでしょうか。 “エレミヤ44章〜49章「わたしは、あなたがたの繁栄を元どおりにする」” の続きを読む
2009年6月7日
イエスの時代の宗教指導者たちは、一様に、「神の国」の実現を待ち望んでいました。それは目に見えるダビデ王国の再興のときでした。律法学者たちは指導者たちの中でも、特に、目に見えない神のご支配や復活のいのちということに目を向けていました。 “ルカ20章45節〜21章9節「人はうわべを見るが……」” の続きを読む
2009年5月31日
ある方のブログに、「国家とは、他国からの核攻撃や侵略では決して滅びない。むしろ国は、内側から滅びる」と書いてありましたが、それは多くの歴史家が認めている真理です。 “エレミヤ39章〜43章「神のご支配を忘れた民の悲劇」 ” の続きを読む