イザヤ45章15節〜46章13節「胎内にいるときから担われている私」

2010年6月27日

私たち福音派の教会では、イエスを救い主と告白したときから、神の子とされ、新しい人生が始まったという意味で、「救いの証し」を分かち合います。その中で、つい、昔の自分や、生まれ育った家庭環境を悪く描きすぎる傾向があるかもしれません。私もつい最近まで、自分の幼児期を過度に暗く描いてきたような気がします。しかし、「母の胎内にいた時から、あなたは、私の神です」(詩篇22:10)というみことばが心の底に落ちてきたとき、自分の幼児期も、両親も、ずっと優しい目で見られるようになりました。すると、ずっと苛まれていた自己嫌悪感からもしだいに自由になって来られた気がします。何しろ、まるで昔の相撲取りのように、ハングリー精神をばねに頑張ってきたような面がありますから・・・しかし、そんな生き方は疲れます。周りをも疲れさせます。それでは、「キリストの品格」を身につけることはできないことでしょう。今日の箇所で、聖書の神は、イスラエルの民に向かって、「胎内にいる時から担われており、腹の中にいる時から運ばれた者よ・・・しらがになっても、わたしは、背負う。わたしは、そうしてきた。なお、わたしは、運ぼう。わたしが、背負って、解放しよう」語っておられます。私たちの信仰が、私を神の子としたというより、神ご自身の側から、ご自身の「正義」と「救い」を近づけてくださったのです。

1.「隠れた所でわたしは語らなかった」

イザヤ書の核心は、「まことに、あなたはご自身を隠す神。イスラエルの神、救い主よ」(45:15)というイザヤの告白にあると思われます。先日も、マツダの広島工場で、無差別殺人を意図した事件がありました。亡くなられた方の悲惨を思うと、「そのとき神は、何をしておられたのか・・」と思いたくもなります。しかし、そのようなときこそ、「まことに、あなたは、ご自身を隠す神」というイザヤの告白が迫ってきます。預言者イザヤ自身も、ヒゼキヤ王のもとでアッシリヤの攻撃に対する主の勝利を語り続け、エルサレムは奇跡的に独立を保ちましたが、その後、後継者の王マナセのもとで悲惨な殉教の死を遂げたと言われます。そして、エルサレム自身も、没落に向かってゆきます。

そのような中で、人々の目は、大国アッシリヤやバビロンの神々に目が向かいます。それらの神々は、目に見える神々でした。金や銀で飾られ、力と繁栄を約束しているように思えました。しかし、それらの目に見える神々こそが、人々の心のうちにある欲望や快楽への憧れを刺激し、力と力の対決を生み出します。今、歴史上の偉大な大国を生み出した国々の現実を見ると、そのはかなさが身にしみてはこないでしょうか。あの偉大なギリシャの末裔は、国家が破産しようとしています。ローマ帝国で栄えたイタリヤの混乱、モンゴル帝国の末裔はどのような悲惨の中に置かれているでしょう。まさに平家物語の冒頭に、「奢れる者久しからず、唯、春の夜の夢のごとし。猛き者も遂には亡びぬ。偏に風の前の塵に同じ」と述べられるとおりです。そのことを、イザヤは、「みなが、恥を見、はずかしめを受ける」(45:16)とショックを与えるように断言し、その上で、「偶像を細工する者どもは、ともに恥の中に行く」と解説します。力と富を神とする者の空しさは、日本の古典でも繰り返し語られているのに、それでも私たちの心は、目の前の豊かさに惑わされてしまい、人の成功を見ると心が騒いでしまいます。

それに対比するように、ご自身を隠す神を礼拝する民への祝福が、「イスラエルは主(ヤハウェ)によって救われる。その救いは永遠のもの」(45:17)と語られ、その上で、二人称の動詞形で、「あなたがたは恥を見ることも、はずかしめを受けることもない。いついつまでも」と大胆な保障がなされています。このみことばは、聖書の神に信頼するすべての私たちへの約束です。これを前提に使徒パウロは、「彼(イエス)に信頼する者は、失望させられることがない」(ローマ10:11)と言っていますが、これは文語訳の、「すべて彼を信じる者は辱められじ」のほうが原文に忠実だと思われます。神は、目に見える神を求める人々のために、ご自身の御子を目に見える人間の姿で遣わしてくださいました。ご自身を隠す神は、キリストにおいてご自身を現してくださったのです。

とにかく、私たちキリストに属する者は、たとい、この世で恥を見、はずかしめを受けることがあっても、それは一時的なことに過ぎません。永遠の観点から見ると、「イエスに信頼する者は、すべて、はずかしめられることがない」ということが実現するのが確かだというのです。この約束に堅く立つときに、私たちは人々の誹謗中傷や辱めに、耐える勇気をいただくことができます。なんと多くの人が、ほんの些細な辱めにキレてしまうことでしょう。

そして、主は、そのように私たちに保障を与えた方がどのような方であるかを、天地創造の原点に立ち返って、

「それは、主(ヤハウェ)がこう仰せられるからだ。―その方は、天を創造された。この方が神。地を形造り、これを仕上げた。この方が、これを堅く立てられ、これを茫漠としたものに創造せず、人の住みかに形造られた」(45:18)とご自身のことを紹介しておられます。なお、「茫漠としたものに創造せず」とは、神はこの地を、人の住めない砂漠のような状態には創造しなかったという意味です。砂漠化は、多くの場合、人間の環境破壊によってもたらされているのではないでしょうか。また、ここで「形造る」ということばが繰り返されていますが、これは陶器師が粘土で偶像を形造るときに用いられることばでもあります。私たちは、目に見えない神を目に見える姿に造ろうとする代わりに、神が形造られたこの地球の不思議と美しさを見ることによって神をあがめるべきなのです。

イエスも、お金に目が奪われる人に向かって、空の鳥を見なさい、野のゆりを観察しなさいとやさしく命じてくださいました。お金にとらわれる自分を責めるのではなく、神が造られた世界の美しさに目を向け、それを肌で感じるとき、私たちの心は様々な誘惑から自由にされるのです。

その上で、主の語りかけが、「わたしは、主(ヤハウェ)。ほかにはいない。隠れた所でわたしは語らなかった、やみの地の場所では」(45:19)と記されます。これは、目に見える現実の中でご自身を隠しておられる神が、同時に、ご自身のみことばを誰にもわかる形で明らかにされたことを示しています。「隠れた所」「やみの地の場所」とは、神のみことばは異郷の神殿でのように、ある特殊の能力を持つと見られた霊媒者のような人、隠れた暗闇の中で、神のお告げを聞くという人に明かされたものではないという意味です。また、「ヤコブの子らに言ってはいない。茫漠の中にわたしを尋ね求めよとは」とは、人が住むことができないような中で神のみこころを求めるのではなく、日常生活の中に、また、この地に見られる神の美しいみわざの中に神を見出すという意味です。

そして、主はご自身のことを再び、「わたしは、主(ヤハウェ)、正義を語り、公正を告げる者」と紹介されます。神はご自身のことを隠したまま、ご自身への服従を命じているわけではわりません。神から私たちに対するみこころはすでに明らかにされています。そこには、神の「正義」と「公正」が啓示されています。モーセはかつて、「隠されていることは、私たちの神、主(ヤハウェ)のものである。しかし、現されたことは、永遠に、私たちと私たちの子孫のものであり、私たちがこのみおしえのすべてのことばを行うためである」(申命記29:37)と言っていました。

多くの人々が、「私には、主のみこころがわからない・・・」とつぶやきます。しかし、はたしてそうでしょうか。日々の生活の中で、全身全霊であなたの神を愛するということと、あなたの隣人をあなた自身のように愛するという最も大切なことは分かっているのではないでしょうか。神の前に静まるときを聖別せず、また最も身近な人にやさしいことばをかけることもなく、「私にはみこころがわからない・・・」と言うのは、本末転倒もはなはだしいと言わざるを得ません。今、わかっている主のみことばに従うところから、おのずと、主の導きは明らかになるものです。

2.「わたしを仰ぎ見て救われよ。地の果てのすべての者よ。」

20-22節は偶像の神々を拝む世界の異教徒たちに対する神の招きです。最初に、「集まって来い。共に近づけ。諸国からの逃亡者たちよ」という呼びかけがあります。これは、バビロン帝国の安定と繁栄に魅せられて世界の国々から身を寄せてきた人々への招きだと思われます。「彼らは何も知らない。木の偶像を運ぶ者、救えもしない神に祈る者らは」(45:20)とは、彼らが自分の生まれ故郷から木の偶像をお守りとして携えてきたことを指していると思われます。彼らはバビロン帝国がペルシャ帝国に滅ぼされる中で、右往左往するだけで、偶像の神々を拝むことの空しさに圧倒されています。その彼らに向かって主は、「告げよ。近づかせよ。さらに共に相談せよ。だれが、これを昔から聞かせ、以前から告げたのか。それは、わたし、主(ヤハウェ)ではなかったか」(45:21)と言われます。それは、主がペルシャの王クロスを用いて、バビロンを滅ぼし、イスラエルの民を約束の地に戻し、エルサレム神殿を再建するという壮大な主のご計画が実現しようとしているということを指しています。

私たちも様々な不条理に出会いながら、「どうして、このようなことに・・・」と失望を味わうことがあります。しかし、神の時が来ると、すべてが神の御手の中にあったということが見えてきます。おことばひとつで世界を創造された方は、同時に、私たちの細胞の隅々にまで目を向け、この世界の歴史を導いておられる全能の神です。そのことを主は、「わたしをおいて、ほかに神はいない。正義の神、救い主、わたしのほかにはいない」と宣言されます。

その上で、主は世界中の人々に向かって、「わたしを仰ぎ見て救われよ。地の果てのすべての者よ。わたしが神だ。ほかにはいない」(45:22)と招いておられます。今も、多くの人々が、先祖伝来の神々を自分の部族の神として拝み続けています。しかし、聖書の神は、イスラエルを通してご自身を啓示されはしましたが、全宇宙の創造主であり、世界のすべての人々にとっての唯一の神です。これは当時の人々にとって、とうてい理解できないことでした。なぜなら、神はヤコブの神、イスラエルの神とも言われていたからです。今、このように聖書の神が世界中であがめられているのは、使徒パウロがいのちがけで異邦人にイエスこそが神の御子であることを語った結果です。イザヤ書には、このように地の果ての人々に対する福音が告げられています。最近、日本辺境論という本が新書大賞を受けていますが、現代において、イスラエルの地から見た、「地の果て」とは、まさに日本です。この神の招きのことばは、まさに、八百万(やおよろず)の神々を拝んでいるという日本人への招きといえましょう。

その上で、主は、世界の歴史が、主の御口から出ることばによって導かれているということを、「わたしは自分にかけて誓った。正義がこの口から出る。ことば、それは戻ることはない。すべてのひざはわたしに向かってかがみ、すべての舌は誓い、わたしについて、『ただ、主(ヤハウェ)にだけ、正義と力がある』と言う」(45:23、24)と表現しました。ここでは、「正義」とは、神のことば自体であるということが宣言されています。私たちは、アダム以来、自分の正義の基準によって神をさばくようなことをしています。しかし、正義とは、神のことば自体なのです。そして、歴史は神のことばの一つ一つが実現する舞台に過ぎません。神を知る者は、世界がどこから来て、どこに向かっているか、私たちが何のために生かされているかがわかるのです。

ところで、このみことばをパウロは引用して、「私たちはみな、神のさばきの座に立つようになるのです」(ローマ14:10)と言いながら、兄弟を侮ったりさばいたりすることを戒めています。また、ピリピ人への手紙では、「ただ、主(ヤハウェ)にだけ、正義と力がある」ということばをイエス・キリストに当てはめ、「天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、『イエス・キリストは主である』と告白して、父なる神がほめたたえられる」(ピリピ2:10,11)と語っています。そこで示されたのは、自分の正義を振りかざし、自分の世界の中心に据えて争う代わりに、「ご自分を無にして、仕える者の姿をとり・・自分を卑しくし・・・十字架の死にまでも従われた」神の御子の姿でした。誰よりもののしられた方が、だれよりも高くされたという神の逆転を語っています。

そのことが続けて、「主に向かっていきりたつ者はみな、主のもとに来て恥じ入る。イスラエルの子孫はみな、主(ヤハウェ)によって義とされ、誇る」(45:25)と記されています。私たちは、自分の正義を振りかざして争う必要はありません。それどころか、主に向かっていきり立つような必要はありません。霊的なイスラエルの子孫である私たちはみな、主によって義とされ、誇ることが決まっているからです。私たちが正義を実現しようとしなくても、神が正義を実現してくださることが明らかだからです。それに信頼する者は、イエスのように、自分を低くして生きることができます。そして、主は、自分を低くするものを、イエスと同じように高くしてくださるのです。

3. 「しらがになっても、わたしは、背負う・・・なお、わたしは、運ぼう。わたしが、背負って、解放しよう」

「ベル」とはヘブル語にするとバアルでバビロンの主神「マルドゥーク」のこと、「ネボ」とは「ナブー」とも呼ばれ告知者という意味があり、神意を人々に解明する神でした。バビロンでは、新年ごとに、このふたつの神を祭る神殿の間を行進行列がなされたと言われます。そして、ここに描かれている状況は、バビロン帝国が滅ぼされて、このふたつの神々が荷台に乗せられて逃亡する様子で、そのことが、「ベルはひざまずき、ネボはかがむ。彼らの像は獣と家畜に載せられ、あなたがたの運ぶものは荷物となり、疲れた物たちの重荷となる。彼らは共にかがみ、ひざまずく。その重荷を解放することもできず、彼ら自身もとりことなって行く」(46:1、2)と記されています。そこでは、ベルとネボを現す像が、家畜の荷台に乗せられながら、とりこになってゆく姿が皮肉をもって描かれています。しかも、ベルもネボも、人々にとっての重荷となり、人々をその苦役から解放することはできません

それと対照的なのが、「イスラエルの神、主(ヤハウェ)」です。そのことを主は、「わたしに聞け、ヤコブの家と、イスラエルの家のすべての残りの者よ。胎内にいる時から担われており、腹の中にいる時から運ばれた者よ。あなたがたが年をとっても、わたしは、同じだ。しらがになっても、わたしは、背負う。わたしは、そうしてきた。なお、わたしは、運ぼう。わたしが、背負って、解放しよう」(46:3、4)と言われます。聖書の神は私たちを母の胎内にいるときから担い、運び、解放してくださる方です。ここでは、「わたしは」というふだんへブル語では必要のない人称代名詞が敢えて五回も繰り返されています。それは、私たちの信仰心の程度によって神の働きが決まるのではなく、神ご自身が私たちを担い、運び、背負って救い出してくださるということが強調されています。

この箇所から、マーガレットパワーズの美しい詩が生まれています。彼女はあるとき夢を見ます。「私は主とふたりで浜辺を歩いていました。そこで、人生の様々な場面が思い浮かびましたが、そこにはいつも、ふたりの足跡が見えました。しかし、人生の最も厳しかったとき、そこには一組の足跡しか見えませんでした。それで、私は主に疑問を訴えました。私があなたに従うと決心したとき、あなたはいつも私とともにいてくださると約束してくださいました。それなのに、私が最も辛かったとき、そこには一組の足跡しか見えません。私があなたを最も必要としていたとき、なぜ、あなたは私を離れておられたのか、それが分かりません・・と。しかし、主は、そのとき私にささやいてくださいました。「わたしのかけがいのない子よ。わたしはおまえを愛し、決して、決して見捨てたりなどしない。おまえが最も辛かったとき、一組の足跡しか見えないのは、わたしがお前を背負って歩いていたからなのだよ」

私たちは、ほんとうに絶望的な状況に置かれるとき、祈ることすらできなくなります。神が私を忘れるのではなく、私たちが神を忘れてしまうのです。しかし、神は私たちを母の胎にいるときから担い、運び、背負ってくださっています。ここでは、「胎内にいるときから」「腹の中にいるときから」と同義語が用いられています。私の母は未信者でした。でも、私の神は、そのときから私を背負っておられました。まして、あなたの母が信仰者である場合、あなたの母自身が神に運ばれ、背負ってもらっていたというイメージはどれだけ大きな安らぎになることでしょう。あなたが自分の意思で主を信じる前から、主はあなたの神であられるのです。

ところで、「だれにわたしを似せて等しくし、だれにたとえると、わたしたちが似ているのか」(46:5)という表現は、ユダヤ人がかつて自分たちをエジプトから救い出した神を金の子牛で表現したことを思い起こさせます。また、たとえば神はご自身をライオンにたとえて表現することがありましたが、それを、「神はライオンに似ている」と受け取る人がいたのかもしれません。しかし、神は決して、この地の被造物に似せることができるわけでも、また似ているわけでもありません。しかし、高価な金や銀を使って造られた偶像に共通することは、人間に運んでもらわないと移動できないということです。そのことが、「金(きん)を袋から惜しげなく出し、銀をてんびんで量る者たちは、金細工人を雇って、それで神を造り、これにひざまずき、さらに拝む。彼らはこれを肩に載せて運び、背負い、下に置くと、これは立っている。その場から動くことはない」(46:6、7)と描かれます。しかも、その偶像は、「さらにこれに叫んでも答えはしない。悩みから救ってもくれない」ものです。

神はかつて、「先のことを思い出すな。昔のことを思い巡らすな。見よ。新しいことをわたしは行う」(43:18,19)と語っておられましたが、ここでは、それと反対に、「このことを思い出せ。しっかりせよ。そむく者らよ。心に思い返せ。先の事を思い出せ。永遠からの事を」(46:8,9)と言っておられます。それは昔の成功体験に酔いしれることで神の新しい救いのみわざが見えなくなることはあるのですが、一方で、神の永遠の創造のみわざには繰り返し目を留めることが必要だという意味です。そのことが、「このわたしが神、ほかにはいない。わたしのような神はいない」(46:8)と述べられますが、世界の古い宗教の中に創造主の概念があるのは聖書だけです。聖書を知ることがなかったすべての古い宗教のどこにも、無から世界を生み出した神の概念は存在しません。日本の神々だって、すべて、生まれ出た神として描かれています。

それと同時に、主はイスラエルの民に、エルサレム神殿を滅ぼしたバビロン帝国以降の歴史のことを、「終わりの事を初めからわたしは告げる。まだなされていない事を、はるか前から。そして、『わたしの計画は立ち、望む事はすべて成し遂げる』と言う。東から猛禽をわたしは呼ぶ。遠い地からわたしの計画の者を。わたしが語ると、すぐにそれを行わせる。わたしが計ると、すぐにそれを成し遂げる」(46:10、11)と告げられます。神はバビロンの東にあるペルシャ帝国を用いて、イスラエルを救うというのです。

その救いのご計画を前提に、主は、「わたしに聞け。強情な者、正義から遠ざかっている者たちよ。わたしは近づけるわたしの正義を。それは遠くはない。わたしの救いを。それは遅れることがない。わたしはシオンに救いを与える。イスラエルにわたしの光栄を」(46:12、13)と言われます。神の正義から遠ざかっている民に向かって、「わたしの正義」を神ご自身が近づける、また、強情な民に向かって、神ご自身が神の救いを近づけてくださるというのです。そして、神の一方的な恵みによって、神の側からエルサレム神殿の立っていたシオンの丘に救いを与え、イスラエルの民に神の栄光を与えてくださるというのです。イエスがイスラエルの王として、エルサレム神殿に立ってくださったとき、これらの預言はすべて成就しました。

私たちはある意味で、自分の信仰によって、神を担いながら生きるような気持ちになることがあります。いつでもどこでも、神のことを心の中心に置くように自分の心に言い聞かせ、いつでもどこでも、神の救いを証しできるように準備し、神に仕えるような気持ちで誠実に仕事に取り組む・・・それらはすべて大切なことです。しかし、そのような気持ちは、偶像礼拝者も持っています。その点では、創価学会や真如苑の信者のほうがしっかりしているかもしれません。しかし、聖書の神は、天地万物の創造主であり、あなた自身の創造主でもあります。

信仰の成長を目指すことは大切ですが、自分が生まれる前から神によって担われ、運ばれ、信仰の目が開かれているという原点を忘れてしまうなら、せっかくの信仰があなたの心の重荷になってしまいます。改めて、神を運ぶ信仰と、神によって運ばれる信仰の違いに目を向けてみたいものです。イザヤ書のテーマは、神を忘れた民を、神の創造と選びの原点に立ち返らせることにあります。そこには安らぎが生まれます。