イザヤ54章1節〜55章13節「奴隷根性から自由な生き方」

2010年10月10日

日本は不思議な国です。自国通貨の価値をアメリカの視点で計り、「円高!」と表現します。ユーロもオーストラリアドルもスイスフランも韓国のウォンも、それぞれ円に対して一ヶ月あまりで一割から7%近くも上がったことなど見向きもせずに、ドルとの比較ばかりに注目して「円高だ、輸出産業の将来は……」と騒ぎ立てます。円高にプラス面があったとしても、楽観論はすぐに打ち消されます。どう考えても、「ドル安」と言う方が、客観的に余裕のある見方ができるはずなのに、被害者意識を煽る報道の方が好まれ、過剰な危機意識をあおる学者が人気を集めます。

終わりの日の予言などという話題が出ても、戦争や天変地異のような悲観論話がもてはやされます。まるで日本中が脅しと恐怖で萎縮しているかのようです。そして、そのような発想が、聖書理解にも影響を与えているかもしれません。残念ながら、神のさばきに怯え、間違いを起こさないように、人から後ろ指をさされないようにと生きている信仰者が意外に多いのではないでしょうか。しかし、聖書が示す世の終わりの記述は、驚くほど希望に満ちています。しかも、そこで描かれる神のさばきとは、あなたの敵がさばかれ、あなたの労苦に豊かな報いが与えられるという約束です。そればかりか、不信仰に悩む人に、神がご自身を現し安心させてくださると記されています。

「イエスを信じて永遠のいのちを受けた」ということは、死んでも天国に行けるということを超えて、現在の生活に生きる気力と希望を生み出すものです。なぜなら、それは、私たちがあらゆることへの怯えに追い立てられる「のろい」から、すべての労苦が無駄になることはないという「祝福」の世界に移されたことを意味するからです。人がどんな評価を下そうとも、あなたは大胆に、神から促された道に向かって羽ばたいてゆくことができます。あなたの人生のゴールは神の平和(シャローム)で満たされています。それを自覚しながら生きるとき、私たちは、被害者意識、自己憐憫、悲観主義、人の顔色を伺ってばかりいるなどという奴隷根性から自由に生きることができるようになります。「神の子」としての誇りのうちに、神から与えられた人生を自由に堂々と、希望に満ちて生きることができます。

1.「あなたの夫はあなたを造った者」

54章最初の、「歓喜せよ。子を産まない不妊の女よ……」とは、エルサレム神殿が廃墟とされ、神の民の信仰の基盤がなくなるという悲劇を前提に、その後の希望を語ったものです。それは「主のしもべ」によって実現する祝福でした。その確信のゆえに、「歓喜の声をあげて叫べ」(1節)と勧められます。「夫に捨てられた女の子どもは、夫のある女の子どもよりも多い」とは、神の祝福は人間の力がもたらす祝福をはるかに上回るという意味です。

当時の妻の豊かさは、徹底的に夫の力に依存していました。無力で怠惰な夫を持つ妻、また何よりも夫のいない女性は悲惨でした。今も、この世の多くの人々は、自分を保護してくれる権力者を求めています。しかし、主ご自身こそがすべての祝福の源です。私たちはこの世で自分の立場を守るための様々な方策を考えるよりも、すべての祝福の源である主との関係を深めることに心を集中すべきです。

その上で、「あなたの天幕の場所を広げ、住まいの幕を張り伸ばせ……綱を長くし、鉄のくいを強固にせよ」(2節)と命じられますが、その真ん中に、「惜しんではならない」という命令形が入っています。多くの人は、力の出し惜しみ、お金の出し惜しみをして、将来の安心を得ようとしますが、そのような人間的な計算が、神から与えられた祝福の広がりを自分で止めています。現在の日本は一人当たりの資産額では世界一だと言われます。その中心は、土地や預貯金、保険などで、統計に現れないタンス預金も驚くほど多いのではないかと思われます。簡単にいうと、世界一の富を持っていながら、なお将来に対する不安にとらわれて、お金の出し惜しみをして、本当に成長が期待できる分野にお金が回ってこないというのが日本の現実です。マスコミも不安ばかりをあおって、みんなを萎縮させるばかりです。そのような中で、私たちクリスチャンはもっと夢のある生き方をする必要があるのではないでしょうか。もっと今与えられている能力も富も出し切って、神にある冒険をする必要があるのではないでしょうか。もちろん、その際、「鉄のくいを強くせよ」とあるように地道な基礎工事を疎かにしてはなりませんが……。

「あなたは右と左にふえ広がり、その子孫は、国々を所有し、荒れ果てた町々を人の住むところとするからだ」(3節)とは、私たちキリストの教会こそ、この閉塞感に満ちた世界に希望を生み出すことができるという約束です。私たちが、福音を心の底から味わうなら、人々がその魅力に引き寄せられないわけはないのですから。

その上で、「恐れるな。あなたは恥を見ない。恥じるな。はずかしめを受けないから……」(4節)という慰めが語られますが、それは、バビロン捕囚で徹底的な「はずかしめを受け」た後の救いの約束です。そして、「まことにあなたは自分の若いときの恥を忘れ、やもめ時代のそしりを、二度と思い出さない」とは、主の豊かな祝福を味わうことができる結果、バビロン捕囚の苦しみが遠い昔の束の間のできごとにしか思えないようになるからです。

「なぜなら、あなたの夫はあなたを造った者、その名は万軍の主(ヤハウェ)……」(5節)と述べられるのは、イスラエルの民が神にとっての花嫁であるからです。「実に、見捨てられ、心に悲しみのある女かのように主(ヤハウェ)は、あなたを呼んだが」(6節)とは、主が一時的にバビロン捕囚でイスラエルを捨てたように見えたからです。しかし、「若い時の妻を、捨てられようか」とあるように、主はご自身の花嫁イスラエルを決して見捨てたままにはなさいません

私たちは目先の損得勘定に惑わされ、私たちの真の保護者であり、夫である方のもとを自分から離れて、自業自得で苦しみを招くことがありますが、「あなたの夫はあなたを造った者」とあるように、あなたの不信仰、あなたの一時的な裏切りは神にとって想定外のことではありません(48:8)。私たちは何度でも、主のもとに立ち返ることができます。私たちは自分の誠実さと引き換えに、主の祝福を受けるのではありません。主がまず私たちに目を留め、私たちの保護者、夫のなってくださったのです。ですから、自分で自分の身を守ろうとして臆病になって自分の力の出し惜しみをしたり、またこの世の権力者のご機嫌を伺う必要はありません。主に信頼しながら、「あなたの天幕の場所を広げ……」とあるように、大きな夢を抱きながら、明日に漕ぎ出すことができるのです。

2.「ほんのひととき、あなたを見捨てたが……永遠に変わらぬ愛をもって、あなたをあわれむ」

そして、私たちの永遠の夫であられる主ご自身の語りかけが、「ほんのひととき、あなたを見捨てたが、大きなあわれみをもって、あなたを集める。怒りがあふれて、ひととき、わたしの顔をあなたから隠したが、永遠に変わらぬ愛をもって、あなたをあわれむ」(7、8節)です。これは試練の中にある人を繰り返し慰めてきたみことばです。ここでは、怒りが短期間であることと、愛の永遠性が対比されます。「変わらぬ愛」は原文で「ヘセッド」で、新改訳では原則、「恵み」と訳されており、神が、ご自身の契約を守り通してくださる「真実」を言い表しています。これはイスラエルの民がその不信仰のゆえに神のさばきを受け、苦しんだ後で、神がその繁栄を回復させてくださるというプロセスです。彼らは、主の祝福がどれほど豊かであるかを、それを失うまでは理解できていませんでした。

そして、そのことがなお、ノアの日の大洪水が二度とこの地を襲うことがないという神の誓いと結び付けられます。それが、「たとい山々が移り、丘が動いても、わたしの変わらぬ愛はあなたから移らず、わたしの平和の契約は動かない」(10節)と言い換えられます。つまり、この目に見える世界に何が起ころうとも、主の私たちに対する愛は変わることなく、主はこの世界を平和に満ちた世界へと導いておられるという意味です。本当に、今の世の中、目に見える世界は驚くほどの速度で変化を続けていますが、神の救いのご計画は決して変わることがないのです。ここでの「変わらぬ愛」というのも先の「ヘセッド」の訳で、この美しいことばの意味を何よりも言い表しています。そして、これこそが聖書の中心思想、神がご自身の契約、約束を変わらずに守り通してくださるという意味です。

先日、当教会員の家に生まれた子が、「契祐(けいすけ)」くんと命名されましたが、これは聖書のストーリーをひとことで表現した名前とも言えましょう。それは、神は、ご自身が立てた「契約」を守りとおしてくださり、自業自得で苦しむ者を、繰り返し「天から助けてくださる」(祐)ということに現されるからです。

私たちの人生にも、祈りが答えられないように感じ、神が御顔を隠しておられるようにしか思えないときがあります。しかし、あの恩知らずなイスラエルの民を見捨てなかった神は、キリストのうちにとらえられている私たちを見捨てることなどあり得ません。私たちを襲う苦しみは、神の目から見たらほんの一瞬のできごとに過ぎません。パウロは福音を宣べ伝えるために想像を絶する苦しみに会いましたが、そのなかで彼は、「今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらす」(Ⅱコリント4:17)と語りました。また主ご自身が、「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない」(ヘブル13:5)と保障してくださいました。

11、12節では、崩されてしまったエルサレムの城壁が、美しい宝石で覆われる様子が描かれています。そして、これを前提に黙示録21章18-21節の、数々の宝石で飾られた「新しいエルサレム」の様子が後に描かれます。

「あなたの子らはみな、主(ヤハウェ)の教えを受け」(13節)とありますが、これは「主(ヤハウェ)の弟子となる」とも訳することができます。私たちはキリストの弟子として成長しますが、それは人間の努力ではなく、主ご自身のあわれみによるものです。また、「あなたの子らの平和は豊かになる」とありますが、「平和(シャローム)」豊かにしてくださるのも主ご自身のみわざです。そして、「あなたは義によって堅く立てられる」(14節)という表現も、「神の義」の本質を現しています。「神の義」は、神の真実とも言い換えることができます。「私の義」ではなく、「神の義」が私たちを不動の者にするのです。信仰とは、自分が不動の者となるように努力することではありません。

「しいたげから遠ざかっていよ……恐怖から遠ざかっていよ」(14節)とは、「しいたげ」も「恐怖」もあなたに触れることはないという保証として理解できます。私たちを攻めてくる破壊者も、私たちを責めたれる舌も、私たちの敵とはなり得ません。「これが、主(ヤハウェ)のしもべたちの受け継ぐ分、わたしから受ける義である」とは、私たちが自分の正義や真実によって神の祝福を受けるのではなく、すべてが神の一方的な恵みであるという意味です。

私たちの救いがすべて、神の一方的な恵み、真実、義に基づくということは、決して、私たちが何の責任も果たさず、何もしなくてもよいという意味ではありません。そうではなく、これは私たちに希望と勇気を与えることばです。多くの人々は、なぜ、目の前の課題から逃げたり、すぐに成長をあきらめたりするのでしょうか。それは、失敗することを恐れたり、また、「出る杭は打たれる」などのように、人からの中傷におびえているからではないでしょうか。確かに、目に見える現実としては、私たちの目の前には、大きな障害が立ちふさがっていたり、私たちに敵対する圧倒的な力があるように見えます。しかし、それらはすべて、神の御許しなしには私たちに手を触れることはできません。しかも、私たちは、神にある勝利のすばらしさを、何の問題も起きない平凡な毎日の中では味わうことができません。神は、ご自身の真実を証するためにこそ適度の「軽い患難」を与え、それを通して「重い栄光」を見られるようにしてくださいます。私たちが遭遇するすべての人生の嵐は、神にある勝利を体験させていただけるための舞台に過ぎないのです。それは、パウロがユダヤ人たちの激しい攻撃を受けながら、福音のためにいのちを賭けつつ、「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう」(ローマ8:31)と告白したとおりです。

3.「わたしの思いは、あなたがたの思いとは異なり、わたしの道はあなたがたの道と異なる」

55章では、「ああ、渇いている者はみな、水を求めて出て来い」という呼びかけから始まりますが、54章ではエルサレムへの語りかけであったのが、ここでは、「みな」とあるように、それが全世界への招きとなっています。イエスはこれをもとに、「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい」(ヨハネ7:37)と言われました。

その上で、この世の富に支配され、そのために労苦することの空しさが語られ、「わたしによく聴け」(2節)という訴えが記されます。これは、原文では、「聴いて、聴け」と、神に心から聴くようにという命令です。それによって、私たちは、「良い物を食べ、たましいを脂肪で元気づけよ」という恵みを体験することができます。そしてそれがまた、「耳を傾け、わたしのところに出て来い。聴け。すると、あなたがたのたましいは生きる」(3節)と言い換えられます。神のみことばに聴くということを疎かにして、この世の富や成功を追い求めても、それはまるで、海の水で喉を潤そうとする事に似ています。飲めば飲むほど渇きが激しくなります。それこそ依存症の罠です。

そして、「わたしはあなたがたととこしえの契約を結ぶ」と約束されながら、その契約の内容が、「ダビデへの変わらない愛(ヘセッド)の真実を」と言い換えられます。そのことがまた、「見よ。わたしが立てた諸国の民への証人を。諸国の民の君主、司令官を」(4節)と展開されます。これは、ダビデの子孫としての「主のしもべ」が全世界の王として立てられることを意味します。なお5節で「見よ……あなたが呼び寄せる。すると、あなたを知らなかった国民が、あなたのところに走って来る」とあるのは、主のしもべの命令が人々を動かすという王の権威を現しています。そのことが黙示録では、「キリストとともに、千年の間王となる」(20:4,6)と、私たちにも約束されています。

「主(ヤハウェ)を求めよ。お会いできる間に。呼び求めよ。近くにおられるうちに」(6節)とは、どの人の人生にも、「私の神」が、「私をお見捨てになった……私の……うめき……から……遠く離れておられる」と感じざるを得ないとき(詩篇22:1)が必ずあるからです。そして、「悪者」や「不法者」に対してさえも、「主(ヤハウェ)に帰れ。そうすれば、あわれんでくださる。私たちの神に帰れ。豊かに赦してくださるから」(7節)と、優しく希望に満ちた招きが記されます。

わたしの思いは、あなたがたの思いとは異なり、あなたがたの道は、わたしの道と異なるからだ……天が地よりも高いように、わたしの道はあなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い」(8、9節)とは、神の救いのご計画が私たちの想像をはるかに超えたものであるとの宣言です。当時の人々にとって、イスラエルの神が、ご自身の神殿を捨てることを通して、神の民を真の悔い改めに導くなどという救いのご計画は決して理解できないことでした。これは、放蕩息子のたとえに通じます。父は弟息子が放蕩三昧をして一文無しになるのを見越した上で、彼の失敗を見守ろうとしました。挫折を通してしか分からない恵みがあるからです。

私たちは自分の人生を振り返って、とんでもない回り道をしたと思えることがあります。私も、神の導きを必死に求めながら野村證券に入社したはずなのに、その決断をずっと後悔し続けていました。その思いは神学校に入っても消えませんでした。ギリシャ語やヘブル語の学びについてゆけず、もっと若く神学校に入っていれば……と思いもしました。しかし、そんな私が今、聖書翻訳に関わっています。そして、その仕事を心から楽しむことができています。毎日のように為替や株式相場の見通しを考えながら、その見通しは毎日のように変わってゆきました。それに比べて、今、私が取り組んでいる聖書の真理は、二千七百年前から何も変わっていません。そして、その大昔に記されたことばが、現代の人の生き方を変えることができるのです。これがどれだけ感動的かは、回り道をしたからこそ分かることといえましょう。人によっては、就職、住まい、結婚さえも、「あのことのせいで、もう夢も希望も私にはない……」という後悔の対象となることがあるかもしれません。しかし、神の導きのすばらしさは、二十年、三十年単位で初めてわかることが多いものです。この8,9節のみことばこそ、それを理解させてくれる鍵です。

「雨や雪が天から降ってもとに戻らず、必ず地を潤し、それに物を生えさせ、芽を出させ……パンを与える。そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ずわたしの望む事を成し遂げ、言い送ったことを成功させる」(10,11節)とは、イザヤを通して主が語ったことが、当時の誰にも理解されなかったのに、その後の歴史を動かしているという事実に証明されています。イザヤは神がエルサレムをさばかれることを預言しました。当時の人々は、それを理解しかなったばかりか、ヒゼキヤの後継者マナセは、イザヤをのこぎりでひき殺したほどでした。ところが、イザヤの預言の意味は、バビロン捕囚の中で理解されるようになりました。そして、イエス・キリストご自身が、このイザヤのことば、「主のしもべ」としての生き方を文字通りに生きられました。つまり、イザヤのことばがイエスを動かし、私たちのための救いを成し遂げたのです。

「まことにあなたは喜びをもって出て行き、平和のうちに導かれて行く」(12節)とは、イスラエルの民がバビロン捕囚から解放されてエルサレムに戻る様子を示しています。これは現在は、私たちがサタンの支配から解放されて「新しいエルサレム」に向かって旅をすることを意味します。そのときの希望が、「山と丘は、あなたがたの前で歓喜の声をあげ、野の木々もみな、手を打ち鳴らす。いばらの代わりにもみの木が生え、おどろの代わりにミルトスが生える」(12,13節)と描かれます。「いばら」は人を傷つける役に立たない木の代名詞ですが、「もみの木」とは「糸杉」とも訳され、神殿建設にも用いられた高価な木材です。「おどろ」もとげのある雑草ですが、「ミルトス」とはその果実には鎮痛作用があり、祝いの木とも言われます。つまり、ここは、「のろい」の時代が過ぎ去って、「祝福」の時代が来るという意味です。そして、このような自然界の変化こそ、「主(ヤハウェ)の記念となり、絶えることのない永遠のしるしとなる」というのです。これこそ、「新しい天と新しい地」のシンボル的な表現です。残念ながら、かつての私も含めて多くの人は、12,13節のみことばの深みを十分に味わうことができていないように思います。

それは私たちの救いが、全被造物の救いにつながるからです。それはアダムの罪によってのろわれた地が、神の祝福に満たされるという希望の表現です。私たちの希望は、私と身近な人が天国に入れられるという個人的な救いばかりではなく、全世界が神の平和に満たされるという希望です(ローマ8:19,21)。

多くの人々が、期待はずれの人生の中で、「わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い」(55:9)というみことばに慰めと希望を見出しています。キリストにある信仰とは、この世の暗い現実を、神にある「高い」視点から見直すことができるようになることです。そして、それは、「主のみことば」こそが、人のこころを動かし、歴史を変えて行ったという歴史に現されています。イエスのことばは、世界の結婚制度を変えました。また、イエスのことばこそが、ひとりひとりのいのちの尊さを教え、奴隷制度を廃止させ、人種差別をなくしてゆきました。そして、主は、「わたしの口から出ることばも……必ず、わたしの望むことを成し遂げ、言い送ったことを成功させる」と断言しておられます。この世界の歴史は、一見、不条理に満ちているようでありながら、神のご計画通りに進んでいるのです。それは私たちを怠惰にする教えではなく、明日に向かって自分のすべてを差し出す勇気と希望を与えることばです。私たちは、この世界が完成するときの喜びの声を、霊の耳で聞きながら、この世の不条理のただなかに入って、この世界を完成に導く神のみわざの一部に参加させていただけるのです。