エズラ1章〜2章「わざわいではなく平安の計画の実現」

2011年9月11日

私たちは自業自得でとんでもない苦しみに会うことがあるかもしれません。そこで、「もう、私の人生は終わってしまった……」と落胆しながら、後悔の思いで一杯になることがあります。しかし、そこで神に立ち返るとき、どんな悲惨な中からも、不思議な道が開かれてきます。 “エズラ1章〜2章「わざわいではなく平安の計画の実現」” の続きを読む

マルコ6章1〜13節「神の国の福音の大きさ」

2011年9月4日

私たちはしばしば、「どうして分かってもらえないのだろう!」と悩みます。イエスもご自分の郷里で同じでした。大科学者で神の臨在に感動したパスカルは、「気に障るからこそ、その理由が見つかる・・・心情(le Coeur)は、理性の知らない、それ自身の理性を持っている・・神を感じるのは、心情であって、理性ではない」と語りました(パンセ276-278)。自分の「心」が自由でなければ、神のみわざが見えなくなります。 “マルコ6章1〜13節「神の国の福音の大きさ」” の続きを読む

ダニエル11章13節〜12章13節「神の公平なさばきを期待した歩み」

2011年8月28日

「正直者がバカを見る」ような世界、言葉巧みにうまく立ち回る人ばかりが評価される世の中は、誰もが嫌だと思いますが、現実はなかなか期待通りには動きません。それどころか、とんでもない邪悪な人間が権力を握ることがあり、神の民を苦しめるときがあります。ダニエル書は、そのような世界の不条理に対する答えとして記されています。そして、神の公平なさばきの現れこそ、キリストの復活です。キリストの十字架は、サタンの勢力の勝利と見られました。しかし、神はキリストを死者の中からよみがえらせました。 “ダニエル11章13節〜12章13節「神の公平なさばきを期待した歩み」” の続きを読む

マルコ5章21〜43節「あきらめないで、信じ続ける」

2011年8月21日

日本語の「諦める」には、「諦めの境地」などと言われるように英語などには訳しきれない美しさがあります。「諦める」の本来の意味は「明らかにする」ことのようです。そこには、「自分の願望が達成されない理由が明らかになり、納得して断念するというプロセスがあれば、悔い、怨み、愚痴が残らない。それが諦めるである」という思いが込められているようです。 “マルコ5章21〜43節「あきらめないで、信じ続ける」” の続きを読む

ダニエル10章〜11章「権力者たちの争いの狭間で生きる」

2011年8月14日

私たちの周りには有能で影響力のある人々が数多くいます。また、神を知らない人々の中にも、クリスチャンよりもはるかに信頼できそうな人格者がいくらでもいます。その中で私たちは、自分がまわりの世界に「地の塩、世の光」として何らかの影響力を発揮できることを願います。 “ダニエル10章〜11章「権力者たちの争いの狭間で生きる」” の続きを読む

マルコ5章1〜20節「現代的な悪霊支配に目を開く」

2011年8月14日

「原子力発電の安全神話はどのように作られたか・・」という観点からのインタビュー番組を見ました。国策としての原発推進が決まった後は、原発の危険性を指摘する声をあげる人が出ても、誰の目にもわかる形でその人をあらゆる手段を使って苛め抜き、「原子力村」という「村社会」の統一見解を作って行ったということです。 “マルコ5章1〜20節「現代的な悪霊支配に目を開く」” の続きを読む

ダニエル9章「苦難が続く中での希望」

2011年7月24日

今から三十年近く前、私はドイツ銀行が集めてくれた一般投資家を前に、日本株投資の魅力を熱く語っていました。実際、そのとき日本株に投資したドイツ人は、通貨と株価の相乗効果でその後の五年余りのうちに少なくとも投資資産を三、四倍に増やすことができました。しかし、この教会が始まって間もなく、日本経済の成長は止まり、現在の株価も最高値の四分の一近くのままです。 “ダニエル9章「苦難が続く中での希望」” の続きを読む

マタイ5章1〜16節「主にすがり、地の塩、世の光として生きる」

2011年7月17日

「杖にすがるとも、人にすがるな」ということわざがあります。そして、「すがる」ということばをネットで調べたら、「誰かにすがるしかできない……」とタイトルで、「ひとりでいることが辛くて睡眠薬を大量に飲んでリストカットして気を失った……」などという女性の痛々しい記事がすぐに出てきました。「すがる」というのは依存症的な生き方の象徴なのかも知れません。 “マタイ5章1〜16節「主にすがり、地の塩、世の光として生きる」” の続きを読む

マルコ4章35〜41節「わたしがあなたとともにいるから」

2011年7月3日

福島原発5kmに立つ福島第一バプテスト教会から避難民をリードして来られた佐藤彰先生が、今回、自分たちが流浪の教会にならざるを得なくなったことをとおして、初めて、イザヤ43章1-4節が本当に心の底に落ちてきたと言っておられました。 “マルコ4章35〜41節「わたしがあなたとともにいるから」” の続きを読む

ダニエル8章「権力者の脅しは長く続きはしない」

2011年6月26日

この世の多くの人々は、イエスが、「あなたの右の頬を打つような者には、左の頬をも向けなさい」(マタイ5:39) と言われたことばを知っています。しかし、それがしばしば、「泣き寝入り」の勧めかのように誤解されていないでしょうか。 “ダニエル8章「権力者の脅しは長く続きはしない」” の続きを読む