箴言22章1節〜23章11節「主をおのれの喜びとせよ」

2012年3月25日

多くの信仰者の愛唱歌に、「キリストには代えられません」(I’d rather have Jesus than silver or gold) という名曲があります。ただその内容を吟味して歌わないと、富や名誉をさげすむ禁欲的な生き方こそが、信仰者の歩むべき道であると誤解されることになります。 “箴言22章1節〜23章11節「主をおのれの喜びとせよ」” の続きを読む

マルコ9章30〜50節「神の国を今から生きる」

2012年3月18日

多くのクリスチャンの心の中に、「イエス様を信じて、良い人間になって、天国に入れてもらおう・・」という思いがあるかもしれません。しかし、そこでの天国とは、しばしば「極楽」の言い換えに過ぎないのではないでしょうか・・・ “マルコ9章30〜50節「神の国を今から生きる」” の続きを読む

ネヘミヤ13章4〜31節「人の心の限界を超える神の救い」

2012年3月11日

昨年の東日本大震災以来、日本では絆という言葉に代表されるような糸偏のことばが好まれています。日本は、団結力によって難局を乗り切るなどという国民意識の高揚も見られます。そのような中で、ふと、そこに息苦しさを感じる人もいます。なぜなら、はずれた見方をする人は排除されがちだからです。そして、人間関係を何よりも大切にする意識こそが、原発の安全神話を作り、想定外の危機への対処を怠るという構造を作ってきたと思われるからです。 “ネヘミヤ13章4〜31節「人の心の限界を超える神の救い」” の続きを読む

マルコ9章14〜29節「信じます。不信仰な私をお助けください

2012年3月4日

人は誰しも、毎日を楽しく、気力にあふれて目の前の課題に取り組みながら、「生きていて良かった!」という感動を味わいたいと思っているのではないでしょうか。書店に行くと、そのように生きることができるため様々な方法(How to)を書いた本が平積みにされています。しかし、すべてがHow toで解決できるなら、神を求める必要などなくなってしまうことでしょう。 “マルコ9章14〜29節「信じます。不信仰な私をお助けください” の続きを読む

ネヘミヤ12章27〜43節「主を賛美する群れとしての成長」

2012年2月26日

聖書の民の礼拝の最大の特徴は、その中心に豊かな音楽があるということです。そして、その豊かさは、共同体全体として専門の聖歌隊や楽器奏者を支えるということから生まれます。ダビデの何よりの遺産は、その美しい詩篇の賛美とともに、専門家を育て、賛美を組織化したということにあります。ルターの宗教改革の何よりの特徴は、その音楽の豊かさにありました。 “ネヘミヤ12章27〜43節「主を賛美する群れとしての成長」” の続きを読む

黙示録17章1〜18節「信仰と富」

2012年2月19日

信仰と富との関係は微妙です。神を信じればお金持ちになれるという短絡的なご利益信仰は危ないですが、でも反対に、信仰者はお金のことを考える必要はないという発想は、もっと危険です。それはイエスが強く非難したパリサイ人の偽善になります。お金が偶像になるのは、それが私たちの日々の生活にとって何よりも大切であるからです。 “黙示録17章1〜18節「信仰と富」” の続きを読む

マルコ8章34節〜9章13節「栄光の姿から十字架を見る」

2012年2月12日

人の心の中には、矛盾した自分が住んでいます。同じ人が、とてつもなく臆病でおどおどとしているときがあるかと思うと、世間体など気にせずに堂々と自分の意見を主張するときがあります。たとえば、私などは、「僕って、鋭い分析力を持つと同時に、すばらしい優しさを備えている・・」などと思うことがある一方で、「自分は愚図でのろまで、偽善者だ。結局、自分のことしか考えていない・・」と自己嫌悪に陥ることさえあります。それがごくたまに、一日のうちに何度も繰り返されることだってあります。 “マルコ8章34節〜9章13節「栄光の姿から十字架を見る」” の続きを読む

ネヘミヤ9章〜10章「神の真実を思い起こす」

2011年2月5日

キリスト教会では、時に、神のさばきを語り、罪の自覚を強く促した上で、赦しの喜びを告げようとしますが、それは人を委縮させる方向に働きます。しかも、恐怖心によって人を支配するのは、人を奴隷状態に留めることに他なりません“ネヘミヤ9章〜10章「神の真実を思い起こす」” の続きを読む

マルコ8章22〜38節「良い人ではなく、一途なキリスト者に」

2012年1月29日

私たちは多くの場合、自分の力の限界や心の醜さを示され、「より良い人間になりたい・・」と願ってイエスを救い主として告白するように導かれました。しかし、そこから矛盾が始まります。この世には、立派で力のある人々は数多くいます。そこで私たちは、そのような人々に劣らない、「良い人」と評価されることが何よりの証しになると思うようになり、生真面目な、失敗を恐れる臆病な生き方に走ることがあります。 “マルコ8章22〜38節「良い人ではなく、一途なキリスト者に」” の続きを読む