使徒2章「聖霊による礼拝の交わり」

2013年5月19日

しばしば礼拝が、守るべきお勤めになってしまったり、聖書の勉強会になってしまうことがないでしょうか。また、時とともに、出来上がったカルチャーに合わない人が排除されたり、またその反対に、外部の人への配慮ばかりが優先されて信者が駆り立てられるように動かざるを得ないなどということがありえないでしょうか。

1.聖霊によってめいめいの国のことばで話し・・聖霊によって主の名を呼ぶ

使徒の働き2章にはペンテコステの日の出来事が記されています。それは「みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話し出した」(2:4)ということでした。

バベルにおいて人間たちは一致して主に逆らいましたが、それに対して主は人間の言葉を混乱させ、地の全面に散らされました。それは人々が同じ基準で序列を作るような社会を正そうとする神のあわれみでもありましたが、それがために異なった言葉を持つ者たちの間の意思疎通が難しくなり、民族と民族の対立の原因となりました。

このペンテコステのできごとは、みなが同じ言葉を話せるようになることではなく、イエスの弟子たちが、自分たちの間の少数者の言葉を話すようになることでした。

このときエルサレムに来ていたユダヤ人は本来ヘブル語が理解できて当然のはずなのに、この場にはそれができないユダヤ人が集まっていました。そのとき、神の霊が注がれた弟子たちが、そこに集っている人々の出身地の言葉を話すようになったというのです。

それは日本にいる外国出身者に、「日本にいるなら日本語を習いなさい」と言う代わりに、私たちが中国語や韓国語、タイ語、アラビヤ語などを話すようになることに似ています。

つまり、聖霊に満たされるとは、立場の弱い人たちに合わせて話すことができるようになることだったのです。それによって、外国出身のユダヤ人たちが福音を理解できるようになりました。

パウロは自分の伝道の姿勢を「私は誰に対しても自由ですが、より多くの人を獲得するために、すべての人の奴隷になりました。ユダヤ人にはユダヤ人のようになり・・・律法を持たない人には・・律法を持たない人のようになりました・・・弱い人々には、弱い者になりました」(Ⅰコリント9:19-22)と語っています。

これはたとえば、それぞれの感性や使っている言葉の違いに寄り添い、配慮できるようになることこそが聖霊のみわざであると言えましょう。

また、聖霊のみわざは、多くの日本人にとって理解不能な数千年前の中東の文化の中で語られたメッセージを現代の文脈の中によみがえらせる働きをすることにあるとも言えましょう。その働きを聖書の教師が担います。

そして、福音を聞いた人々も、主のことばを理解し、主を呼び求めるように変えられるというのが聖霊のみわざでした。ヨエル書の預言の趣旨は、神の最終的なさばきが下る前に、神が人々の心を造り変えてくださるというものです。

神の命令の中心は、「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主(ヤハウェ)を愛しなさい」(申命記6:5)ですが、イスラエルの民は神を愛することができなくて神のさばきを受けバビロン捕囚となりました。

しかし、神は、終わりに日に、「心を包む皮を切り捨てて、あなたが心を尽くし、精神を尽くし、あなたの神、主を愛し、それであなたが生きるようにされる」(申命記30:6)と約束しておられました。つまり、人々が真心から主を呼び求めるように変えられることこそ聖霊のみわざなのです。

2.この方をあなたがたは殺し・・この方を神はよみがえらせました。

ペテロは、聖霊降臨を、「終わりの日(完成のとき)」(17節)のヨエルの預言の成就であり、それを実現した救い主こそ「ナザレ人イエス」(22節)であることを語ります。

22-24節は、「この方は神によってあなたがたに証しされた・・・この方を・・あなたがたは十字架につけて殺しました・・しかし、この方を神はよみがえらせました」(2:23,24)という展開が記されます。

つまり、ペテロはまず、「神が証しされた救い主を、あなたがたが殺した」という彼らの罪を厳しく指摘しつつ、「しかし、この方を神はよみがえらせました・・」と、神の恵みのみわざが人間の罪のわざを圧倒し、それを呑み込み、救いが成就したと語られています。

そして彼は、「神はこのイエスをよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です」(31節)と宣言します。私たちも常にこれを自分の告白とすべきでしょう。続いて、「神の右に上げられたイエスが・・御父から聖霊を受けて・・この聖霊をお注ぎになったのです」(33節)と言われますが、これは、今、ダビデの王国に代わるイエスの王国が聖霊によって建てられていることを意味します。しかも、その聖霊はイエスの生涯を導いていた方であり、その方が私たちをイエスの代理として用いてくださるというのです。

彼は最後に、「このイエスをあなたがたは十字架につけた」(36節)と厳しく指摘します。これは私たちをも同じように責めることばです。

これを聞いた人々は「心を刺され」、「私たちはどうしたら良いでしょうか」と尋ねます。それに対して彼は、「悔い改めなさい・・バプテスマを受けなさい」(38節)と答えます。

ただし、ここで指摘されている罪は、何よりも、神がお立てになられた救い主を十字架につけたということです。つまり、自分の正しさによって神の好意を勝ち取ることができると思い、自分が罪人の頭であることを認めない傲慢さこそが何よりも責められているのです。

実際、イエスを十字架にかけることを主導したのは、自分に自信を持っていたパリサイ人を初めとする宗教指導者たちでした。

それと反対に、「神様。こんな罪人の私をあわれんでください」(ルカ18:13)と、自分が赦され得ない罪人であることを認めた取税人こそが義と認められました。

「バプテスマを受ける」とは、「私はイエス様なしには生きて行けない・・・」と降参することの象徴です。なぜならバプテスマとは「キリストと葬られる」(ローマ6:4)ことのしるしだからです。

洗礼という儀式を受ければ「賜物として聖霊を受ける」という約束ではなく、自分の肉の力では神を喜ばせることはできないと降参する人に聖霊がくだるという約束です。

私たちも自分の惨めさに圧倒されることがあります。しかも、自分で自分を変えようとあせるほどかえって絶望感を深めざるを得ません。しかし、神があなたに求めておられることは、神の救いのご計画に身を任せることです。

あなたはイエスを十字架につけました。しかし、神はこの方をよみがえらせました。ですから、もう後悔の念にとらわれる必要はありません。神のみわざは人の罪にも関わらず完成に向っています。

私たちもキリストの復活の証人、聖霊を受けた者として、明日に向けて生きることができます。

3.初代教会の礼拝  使徒たちの教え、コイノニア、パン裂き、祈り(賛美)

この日、三千人もの人が、みことばを受け入れ、バプテスマを受けました(41節)。彼らはすべて約束の聖霊を受けた人々です。

その結果生まれた共同体の礼拝の様子が、42節の原文では、「彼らは堅く守っていた」と記され、その内容が、「使徒たちの教え、交わり(コイノニア)、パン裂き、祈り」という四つに分けられます。

それは、第一に、福音書を朗読し、その教えを身につけることです。

第二に、信者となったもの同士が互いのために祈りあい助け合うことです。

第三に、それは聖餐式を守ることです。

そして、第四に神に向かって賛美し、祈ることです。祈りと賛美は、詩篇において融合しているからです。

これらは何よりも聖霊のみわざによる礼拝の姿でした。そして、このことが43節以降具体的に展開されます。「一同の心に恐れが生じた」(43節)とは、47節までのすべての要約です。それは真に恐れるべき方を恐れ、愛することによって自分から自由にされることです。

そして、第一の使徒たちの教えには、「多くの不思議としるし」が伴っていました。それは、彼らの語ることばが、信頼するに値することを保証しました。

第二の「交わり」は、「信者となった者たちはみないっしょにいて、いっさいの物を共有にしていた」(44節)ということで現されました。これは原始共産制などではなく、聖霊のみわざです。

聖霊が、人の心を、自分の所有物はすべて神と人のものであるという気持ちへと変えるのです。そこには一切の強制も、見栄もありません。

第三に、彼らは毎日、「心をひとつにして集まり・・パンを裂き・・食事をともにしました」(46節)。初代教会の時代は、聖餐式と食事の交わりが不可分であり、また聖餐式のない礼拝はあり得ませんでした

なお、カトリックでの「ミサ」ということばは、みことばの説教の後、聖餐式に移る前に、「求道者はこの場から出でてください」と「解散」(ミサ)させたことに起因していると言われます。

聖餐式は、聖霊を受けた者たちだけがあずかることができた信者の交わりでした。たとえば、「主の祈り」なども、求道者はともにすることが許されませんでした。

第四に、彼らは「神を賛美し」(47節)ていました。そして、賛美の中心とは、主の復活の証人として、主の復活を歌うことでした。彼らは歌いつつ、主に祈っていました。

そして、この一見閉鎖的な信者だけの交わりが、「すべての民に好意を持たれ」(47節)というのです。私たちの間に真実の愛の交わりがあるなら、まわりの人々は、「ここに愛がある」と認め、まるでミツバチが蜜に引き寄せられるのと同じになり、その結果、「救われる人々」が仲間に加えられ続けるのです。

聖霊のみわざによって始まった初代教会では、少数者や社会的弱者が尊重されました。説教の中心にはキリストの復活がありました。

そして、「イエスを死者の中からよみがえらせ(raise up)た方の御霊が」、私たちのうちに住み、この「死ぬべきからだをも生かしてくださいます」(ローマ8:11)。

つまり、キリストの復活は、私たちが聖霊によって生かされることと直結しています。私たちは「おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊」(Ⅱテモテ1:7)を受けました。

私たちの心は、しばしば、沈んで、うめき、騒ぐばかりで、空しさを感じます。しかし、それを自分で変えようとする代わりに、そのままを神に差し出すとき、聖霊は私の心を引き上げ(raise me up)てくださいます。

そこに聖霊に導かれた礼拝の交わりが生まれ、また、その礼拝の中で、落ち込んだ人の心が生き返ります。

まさに、キリストの復活は、私たちの「心の復活」につながります。そして、聖霊によって私たちはキリストの復活の証人として用いられて行くのです。