“Um Gottes Willen, mach die Tür auf!“「頼むから、ドアを開けてくれ!」というコックピットから締め出された機長の言葉が、ネットで広がっています。Um Gottes Willenとは、スラングで、「お願いだから」「とんでもない」など、様々な意味に用いられます。でも、これは文字通りには、「神のご意志のために」という意味です。そして、今回ほど、この文字通りの意味が、心に響いたことはありません。 “エゼキエル36章16節〜37章「神のみわざに心を開く幸い」” の続きを読む
出エジプト15章22節〜18章「歓喜の後のつぶやき」
本日は教会歴では「しゅろの主日」と呼ばれる受難週の始まりの日です。イエスは十字架に架けられるたった五日前に、「ダビデの子にホサナ」というエルサレムの人々の歓呼の中を、エルサレムに入城しました。彼らはイエスがローマ帝国からの独立運動を勝利に導く救い主として期待していました。 “出エジプト15章22節〜18章「歓喜の後のつぶやき」” の続きを読む
出エジプト12章43節〜15章21節「主があなたのために戦われる」
自分の身近なところで、犠牲者の血が流されている現実に直面するとき、また、それを思い起こすようなとき、人は、不条理に対する怒りを超えて、自分の人生を厳粛に受け止めるという思いになるということがないでしょうか。神は、イスラエルの救いのために流されたエジプト人の犠牲を、忘れさせないようにしておられます。 “出エジプト12章43節〜15章21節「主があなたのために戦われる」” の続きを読む
ヨハネ7章30〜52節「生ける水の川が流れ出るようになる」
私たちは自分の世界でひとり平安を味わっていても、一歩外に出たとたん心が乱されます。私の予定に入りこみ、私の力を利用し、私の世界をかき回す人で満ちています。そんな人々を愛することは不可能にさえ思え、聖書を読むのが辛くなることがあるかもしれません。何が問題なのでしょう?何が足りないのでしょう? “ヨハネ7章30〜52節「生ける水の川が流れ出るようになる」” の続きを読む
ヨハネ7章1〜31節「神の時を知る幸い」
人の過失や気まぐれで「私の時」が左右されるのは辛いことです。しかし、後で「あれは主の時だった」と思えるなら幸いです。
「御手の中で」という賛美は伝道者の書3章11節の、“In His time, He makes all things beautiful”(神が、すべてをご自身の時に美しくしてくださる)から生まれました。たとい今が絶望的な時に思えたとしても、神はご自身の時に、それを感謝へと変えてくださいます。「時」の支配者を知る中に平安があります。 “ヨハネ7章1〜31節「神の時を知る幸い」” の続きを読む
出エジプト8章1節〜12章42節「心が強くされることの悲劇」
しばしば、人は、信仰の成長を、「心が動じなくなること」と誤解してはいないでしょうか。今日の箇所では、パロの心が動じないことによって、エジプト人がどれだけ苦しんだかが描かれます。そして、現代の世界では、心が動じないテロリストと政治家との狭間で、どれだけ多くの悲惨な犠牲者が出ていることでしょう。 “出エジプト8章1節〜12章42節「心が強くされることの悲劇」” の続きを読む
出エジプト4章18節〜7章25節「この地の真の支配者」
現代の感覚で聖書を読むと誤解が生まれます。今から三千数百年前、民族ごとに異なった神々が礼拝されていました。聖書の神ヤハウェは、奴隷の民「へブル人の神」(5:3)としか見られていませんでした。 “出エジプト4章18節〜7章25節「この地の真の支配者」” の続きを読む
ヨハネ6章52〜71節「このパンを食べる者は、永遠に生きる」
後藤健二さんの最後の様子が繰り返し映されます。それは悲しみをたたえながらも驚くほど静かな祈りの姿のようにも見えます。その意味を語るような彼の数年前のツイートが感動とともに世界に広がりました。 “ヨハネ6章52〜71節「このパンを食べる者は、永遠に生きる」” の続きを読む
ヨハネ6章24〜51節「神のパンは、天から下ってきて、世にいのちを与える」
後藤健二兄殺害のニュースが世界を巡り、イスラム国と称するテロリスト集団への残虐さが、日本人には理解できないかのように報道されています。しかし、今から四百年前、多くのヨーロッパの宣教師たちがはるばる船で来ましたが、その百数十人がこの日本の地で殺され、また、数万という日本のキリスト者が悲惨な死を遂げました。その残虐性はこの国にも存在しました。しかし、それは幸い、復讐の連鎖は生んでいません。なぜなら、死を遂げた方々は、憎しみではなく愛によって行動していたからです。 “ヨハネ6章24〜51節「神のパンは、天から下ってきて、世にいのちを与える」” の続きを読む
出エジプト1章1節〜4章17節「『わたしはある』という方が、私を遣わされた」
ある方がご主人の介護で、危険な場面があったことを振り返りながら、「あのときは、どうして、あのようなことを私ができたのだろう・・・不思議にごく自然に身体が動いた」と言っておられました。それこそ、「主ヤハウェ」が、「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて信頼すれば、あなたがたは力を得る」(イザヤ30:15)と約束してくださったことの成就です。 “出エジプト1章1節〜4章17節「『わたしはある』という方が、私を遣わされた」” の続きを読む