出エジプト31章18節〜34章10節「神との対話」

2015年6月14日

目の前の小さな報酬か、待った後の大きな報酬を選ぶかという心理実験があります。たとえば子供に向かって、「今なら1000円のお小遣いしか上げられないけど、一カ月待ったら1500円あげられるよ」と言って、一か月待つことできる子は、衝動性に打ち勝つとともに、信頼感覚を養ってくることができた子でしょう。

現代人には、「待つ」ということがますます難しくなっています。人は、理性の上では、待つことの恵みを理解していますが、目の前に手っ取り早い解決が示されたらすぐに飛びつきたくなる傾向があります。

出エジプト記24章では、イスラエルの民の長老七十人が「主(ヤハウェ)の仰せられたことはみな行い、聞き従います」(7節)と約束をして、主と契約を結び、「イスラルの神を仰ぎ見た・・・彼らは神を見、しかも飲み食いした」(10,11節)というのですが、主の命令の中心は何よりも「金の神々を造ってはならない」(20:23)ということでした。

偶像を作って拝むのは、神が最も忌み嫌われることであるということは頭では十分に分かっていたはずでした。しかし、モーセがシナイ山に上って、神から幕屋の作り方の指示を受けている間に、民は極度に不安になり、金の子牛を作って拝んでしまいました。民の長老たちは頭では分かっていたはずなのに、目に見える神を作って欲しいという民の声に圧倒されたのでしょうか。

信仰の核心とは、待つことにあります。そして、待つことができるための秘訣は、対話の中に生きることではないでしょうか。

なお、金の子牛を作って戯れた民と、神のために命を賭けることができたパリサイ人は一見対照的なようでありながら、自分のイメージした神を礼拝したという点で一致します。あなたの信仰は、自分の「信念」でしょうか、それともみことばに基づいた「神との対話」でしょうか?

今回の箇所は、慰めと希望に満ちています。神様が一度失われた契約の板を再びお与えくださるのですから・・・。その過程での主とモーセとの対話は感動的です。今も、自分勝手な神様のイメージを作り上げて、信仰生活を自分で息苦しくしている人が本当に多いように思えます。

1.「これ(金の子牛)が・・あなたの神だ」という民への神の怒りとモーセのとりなし

モーセは、幕屋の設計図と礼拝についての教えを受けるため「四十日四十夜」もの間、シナイ「山にいた」のですが(24:18)、皮肉にも、ふもとでは、それにまったく反することが行なわれました。

民はアロンに、「さあ、私たちに先立って行く神を、造ってください。私たちをエジプトの地から連れ上ったあのモーセという者が、どうなったのか、私たちにはわからないから」(32:1)と迫りました。アロンはその声に圧倒され、民の望むままを行うことにしました。

そして彼が声をかけると民は自主的に金の耳輪を持ち寄り、たちまち金の子牛ができあがったというのです。

彼らは、「これがあなたをエジプトの地から連れ上ったあなたの神だ」(4節)と言いました。彼らは、このことばによって、自分たちを「エジプトの地から連れ上った」方を、「あのモーセという者」と呼ぶ代わりに、「子牛の偶像」であると言いました。

彼らは、別の神々を拝もうとしたわけではなく、目に見えない方に信頼するということができなかった結果、「彼らの栄光を、草を食らう雄牛の像に取り替えた」(詩篇106:20)というのです。

神は人をご自身の「かたち(image)」として創造してくださいました。それなのに彼らは、神のイメージを牛の姿で現してしまいました。これは神ご自身を辱めるとともに、自分たちが「神のかたち」として創造されたという恵みを軽蔑する行為でした。

このときアロンも同調し、「あすは主(ヤハウェ)への祭りである」(32:5)と宣言しました。彼らは別に「バアルへの祭り」を祝ったわけではありませんでした。しかし、彼らはいけにえを供えた後、「すわっては、飲み食いし、立っては戯れ」(31:6)たという様子こそ、当時の放縦な喜びに満ちたバアル礼拝の姿そのものです。子牛はその偶像で豊穣のシンボルだったからです。

後にパウロはこの箇所を引用しつつ、「偶像礼拝者となってはいけません。聖書には、『民が、すわっては飲み食いし、立っては踊った』と書いてあります」(Ⅰコリント10:7)と記録しています。

神は、民のあまりにも早急な堕落に怒りを燃やされ、モーセに向かって、「あなたがエジプトの地から連れ上ったあなたの民は、堕落してしまった」(32:7)と嘆き、「わたしの怒りが彼らに向かって燃え上がって、わたしが彼らを断ち滅ぼす」(32:10)と言われながら、同時に、モーセから再び神の民を生み出すと新しいご計画を提示されました。

神がイスラエルの民を奴隷状態から解放し、シナイ山に導き、天から民全体に語りかけ、「十のことば」をお与えになり、また民の長老七十人との契約の食事をされたというそれまでの経緯を見るなら、神がお怒りになる理由が良くわかります。モーセがいなくなったという不安に駆られた民は、神を最も怒らすことをしてしまいました。

それに対しモーセは、神が彼に向かいイスラエルを「あなたの民」と呼ぶ矛盾を指摘し、「あなたが・・連れ出されたご自分の民に向かって、どうして・・」(32:11,12)と、真正面から疑問をぶつけ、「あなたの民へのわざわいを思い直してください」と迫りました。

これは本来、神に悔い改めを迫ることばです。その上で、「あなたのしもべアブラハム」(32:13)との「契約」にさかのぼり、神ご自身の救いの計画の全体像を思い起こして欲しいと願います。

すると主(ヤハウェ)は「思い直された」(32:14)というのです。すべてを支配し、歴史を導く神が、何と、肉なる者の訴えを聞かれて、みこころを変えられました!全世界の創造主が、ひとりの人の訴えを受け止められたのです。

詩篇作者は、このことを、「もし・・モーセが、御前の破れに立たなかったら、どうなっていたことか」(106:23)と歌っています。

多くの人は、人の破れを指摘だけはしても、それを神に向かってとりなすことができません。しかし、モーセは、神ご自身の救いのご計画を心から理解し、神の立場に立つような話し方ができました。そのように彼を整えたのは神ご自身ですが、これを通して、神は何よりも、人との率直な対話を喜ばれることが明らかになります。

2.「あなた自身がいっしょにおいでにならないなら」

ただしモーセは、民の乱れの実態を見ていませんでした。それで、彼が山を降り「宿営に近づいて、子牛と踊りを見るなり」(32:19)、何と、神の贈り物の石の板」を砕いたというのです。その「契約の板」は、神がイスラエルの真ん中に住んでくださることの象徴でした。

このときになって、先に主に向かって、「どうして、あなたは御怒りを燃やされるのですか」(32:11)と訴えた当人であった「モーセの怒りは燃え上がった」(32:19)のです。

なお、モーセはアロンを詰問しますが、彼は「私がこれ(金)を火に投げ入れたところ、この子牛が出て来たのです」(32:24)と言い逃れをしました。それで、モーセは民全体の責任を正すために「だれでも、主(ヤハウェ)につく者は、私のところに」(32:26)と言いました。

モーセと同族のレビ族はみな彼のところに集まりました。何と、彼らは、剣をもって宿営の入り口を行き巡って三千人を殺しました(32:28)。彼らは自分の身を切るような思いで、神への熱心を証しました。それは、民全体が滅びることがないように、神の教えに従って偶像礼拝者を裁くという行為です。

モーセはその上で、再び神に嘆願します。今度は「今、もし、彼らの罪をお赦しくだされるものなら・・・」(32:32)と、心からへりくだって赦しを願いつつ、「しかし、もしも、かないませんなら、どうか・・・あなたの書物から私の名を消し去ってください」と、自分を民全体の身代わりとして欲しいと願います。

神はモーセから新しい民を創造すると言ってくださっているのに、彼はあくまでも民全体の破れ口に立ち続けようとしています。

それで主は、モーセに民を導くように命じながら、不思議にも、「わたしは・・ひとりの使いを遣わす・・・わたしは、あなたがたのうちにあっては上らない・・」(33:2,3)とも言われました。それは、彼らが「うなじのこわい民」、つまり、自分の願望に縛られて、対話が成立しない民であり、そのため、主ご自身が彼らを絶ち滅ぼす結果になると思われたからです。

つまり、神にとっても、民の真ん中に住むということは無理なことと思えたというのです。

ただし、このときの会見の天幕における主とモーセの対話の様子が、「主(ヤハウェ)は、人が自分の友と語るように、顔と顔とを合わせてモーセに語られた」(33:11)と印象的に表現されます。

神はイスラエルの罪に激しく怒っておられましたが、その民の身代わりにさえなりたいと申し出たモーセには、友のように接してくださったのです。

なお、モーセは、神が民と共には歩んでくださらないと聞いてショックを覚え、「今、もしも、私があなたのお心にかなっているのでしたら、どうかあなたの道を教えてください・・この国民があなたの民であることをお心に留め」と、必死にすがりました(33:13)。

それに対し主は、「わたし自身がいっしょに行って・・」(33:14)と、みこころを変えてくださいました。それで彼はすぐに「もし、あなたご自身がいっしょにおいでにならないなら、私たちをここから上らせないで・・」(33:15)と念を押し、「あなたが私たちといっしょにおいでになって、私とあなたの民が、地上のすべての民と区別されることによるのではないでしょうか」(33:16)と、主がともに歩まれるということの本質を訴えます。

後に預言者イザヤは、「モーセの日」(63:11)を思い出しながら、「彼らが苦しむときには、いつも主もともに苦しみ、主の御顔の使いが彼らを救った。その愛とあわれみによって、主が彼らを贖い、昔からずっと、彼らを背負い抱いて来られた」(63:9私訳)と語っています。

金の子牛は、人の荷物になり、運ばれる必要がありますが、反対に、真の神は人を担い、運んでくださるのです。私たちも、神によって背負われ、運ばれ、救い出されるのです。

ここでは「主の御顔の使い」という不思議な表現が敢えて用いられています。新改訳は「ご自身の使い」と訳し、脚注をつけていますが、ここでは先の主とモーセとの対話を思い起こすことが大切です。主はご自身が彼らの真ん中に住む代わりに、御使いを遣わすと言われましたが、モーセは主ご自身が民の真ん中に住んで、彼らを導くことを願いました。主はその訴えに耳を傾け、ご自身の御顔、つまり神の臨在が民の真ん中に住んで、彼らを救うと言われたからです。

この表現をもとに、「足跡」という有名な詩が生まれました。振り返って足跡が一組しか見えない所、人生で最も苦しかった時は、イエスが離れていたのではなく、私たちを背負って歩いておられたのです。

3.「どうか、あなたの栄光を私にみせてください」

ところが、モーセはそのようなあわれみに満ちた主の約束に満足することなく、さらに、「どうか、あなたの栄光を私に見せてください」(33:18)と大胆に願います。彼は、民の心がいかに当てにならないかを知っていました。彼らは、必ず、神の怒りを買うような罪を犯します。その時、主がイスラエルから離れ、彼が取り残されるのではないかと不安だったからです。

そして主は、この大胆な願いをもかなえてくださいました。ただし、主はまず、「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないから」(33:20)と言いながらも、「わたしの栄光が通り過ぎるときには・・この手であなたをおおっておこう」(33:22)と言われます。

私たちにとっては、イエス・キリストこそは、神が差し伸べて覆ってくださった神の御手です。神は私たちを、御子の十字架の影に隠しながら、交わりを築いてくださいます。ですから、もう私たちは問題の直中に置き去りにされる心配もありません。

イエスは、三日目に死の中からよみがえり、神の右の御座に着座され、「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない」(ヘブル13:5)と語っておられます。

そればかりか、主(ヤハウェ)は、ご自身が民の真中にあって歩んでくださる象徴として、再び同じ「石の板」を与えると言われました(34:1)。この度は、石の板をモーセ自身が切り取って用意して行く必要がありましたが、今回も、主ご自身が書き記してくださいました(34:28、申命記10:4)。

本来、一度失ったものを取り戻すことはできませんが、神はモーセが一度砕いてしまった石の板を回復されたのです。神の前で取り返しのつかない失敗はありません。

モーセがシナイ山に登ると、「主(ヤーウェ)は雲の中にあって降りて来られ、彼とともにそこに立って、主(ヤハウェ)の名によって宣言された」(34:5)とありますが、これは主がモーセと同じレベルにまで降りてきてくださったということを強調する表現で、その後に記されている「主(ヤハウェ)は彼の前を通り過ぎるとき・・・」(34:6)という全体にかかる解説だと思われます。

主はその時、「主(ヤハウェ)」というご自身の名を繰り返しながら、ご自身が「あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵み(契約を守る愛)とまこと(真実さ、アーメンの語源)に富み、恵みを千代も保ち、とがとそむきと罪を赦す者」であると改めて証しされました。これは神ご自身の決定的な自己紹介の啓示です。

福音記者ヨハネは、「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た・・この方は恵みとまことに満ちておられた」(ヨハネ1:14)と描きましたが、イエスこそ目に見えない神の栄光の現れでした。

イエスは、罪人、取税人、遊女の友となられました。そして、失敗した弟子たちを立ち直らせてくださいました。しかし、一方、自分を義人だと主張し、他の人を見下しているパリサイ人には驚くほど厳しく立ち向かわれました。それは、彼らが、金の子牛を作った先祖と同じように自分たちの勝手な神の栄光のイメージを作り上げたからです。

神がモーセに現された栄光の核心とは、「恵みとまこと」でした。神が怒るのは、神との対話を勝手に閉じることです。神は、モーセの大胆な訴え、神に思い直しを迫るほどの対話を、喜んでおられました。それこそ私たちが取るべき態度です。神との対話を通して、神の思いと私たちの思いが一致します。

なお、34章7節後半には、「罰すべき者は必ず罰して報いる者。父の咎は子に、子の子に、三代に、四代に」という恐ろしい警告も記されています。多くの人は、この部分に恐怖を覚えますが、ここでは「恵みを千代(約2万年に相当)に保ち」ということと、「咎は・・三代に、四代に」ということが対比されています。

モーセはこの神の語りかけに心から感動し、「地にひざまずき、伏し拝んで」、改めて、「ああ、主よ。もし私があなたのお心にかなっているのでしたら、どうか主が私たちの中にいて、進んでくださいますように」(34:9)と願います。

それに対して主は、「今ここで、わたしと契約を結ぼう」(34:10)と言われます。すべての契約には、祝福の約束と共にそれを破った者へのさばきが記されます。ここでは「咎は・・三代に、四代に」という「のろい」の連鎖が神のあわれみを軽蔑する者へのさばきとして記されています。後のイスラエルのバビロン捕囚が歴史的には約七十年で終わったということは、一代を二十年とすると、三代、四代に相当します。その意味で、バビロン捕囚というのは、神の契約の成就というように見ることができます。

なお、神の怒りは、何よりも、神の「あわれみ深さ」や「情け深さ」に対して感謝も感動も覚えないような恩知らずに向けられているということを忘れてはなりません。自分の弱さや罪深さに嘆き、神のあわれみにすがるしかないと思っている人に向かって神が怒りを発することはないのです。

4.「あなたとともにいるこの民はみな、主(ヤハウェ)のみわざを見るであろう」

主はモーセに向かって「あなたとともにいるこの民はみな、主(ヤハウェ)のみわざを見るであろう。わたしがあなたともに行うことは恐るべきものである」(34:10)と言われました。そして、「イスラエルの全家の者は旅路にある間、昼は主(ヤハウェ)の雲が幕屋の上に、夜は雲の中に火があるのをいつも見ていた」(40:38)という神の臨在がイスラエルを導くことになります。

そして、彼らは四十年間もの間、天からのパンによって支えられ、敵の攻撃からも守られ、最後には彼らよりもはるかに強力なカナンの原住民と戦い勝利を体験して行きます。

現在の私たちにとっての「雲の柱」「火の柱」という主の臨在に導かれて歩むとは、教会の交わりの中に生きることを意味します。なぜなら、教会はキリストのからだだからです。

パウロは教会を建てることに関して、「与えられた神の恵みによって、私は賢い建築家のように、土台を据えました・・・その土台とはイエス・キリストです」(Ⅰコリント3:10、11)と記しています。その際、私たちはどのような材料を用いて建てるかが問われています。

そのことが、「もし、だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、わらなどで建てるなら、各人の働きは明瞭になります・・もしだれかの建てた建物が残れば、その人は報いを受けます。もしだれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、自分自身は、火の中をくぐるようにして助かります」(同3:12-15)と記されています。

これは目に見える建物の建設ではなく、キリスト者どうしの交わりをどのように築いて行くかということです。人と人との交わりには様々な問題が起きますが、その真ん中に主ご自身がいてくださるときに、その交わりはこの世のいかなる組織にもまさる力を発揮します。

私たちはそれを人間的な手段や組織力によって築くのではなく、ともに主のみことばを味わうことを通して築くのです。その材料の良さとはみことばの味わい方を指しています。

そして最後にパウロは、「あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。もし、だれかが神の神殿をこわすなら、神がその人を滅ぼされます。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたがその神殿です」(3:16、17)と言いました。

ここでは「あなた」という単数形ではなく、「あなたがた」という複数形が強調されています。この教会の交わりこそが神殿であり、神の臨在はこの場にあふれているのです。神とともに歩むということと、教会の交わりの中に生きるということは切り離せないことです。

この教会の交わりを軽蔑したり、それを破壊したりする者は、神によって滅ぼされるのです。私たちは何よりも、何かの具体的な目標を達成するということよりも、みことばを土台とした教会の交わりを建てるということを最優先する必要があります。

神がモーセの「前を通り過ぎるとき」にご自分がどのような方かを啓示されたということと、イエスがガリラヤ湖の嵐の中で慌てふためいている弟子たちの前を「通り過ぎようとされた」ことは似ています。

マルコ6章48-51節では、「イエスは、弟子たちが、向かい風のために漕ぎあぐねているのをご覧になり、夜中の三時ごろ、湖の上を歩いて、彼らに近づいて行かれたが、そのままそばを通り過ぎようとのおつもりであった。しかし、弟子たちは、イエスが湖の上を歩いておられるのを見て、幽霊だと思い、叫び声をあげた・・しかし、イエスはすぐに彼らに話しかけ、『しっかりしなさい。わたしだ(エゴー・エイミー)。恐れることはない』と言われ」、その後、「風がやんだ」と記されていました。

弟子たちの乗った舟が、嵐の中で転覆しそうになったことと、キリストの教会がこの世の中に置かれながら、世の様々な価値観の影響を受けて混乱するということは似ています。しかし、それはどちらも、イエスがこの世界の真の支配者であることを知る機会とされました。

教会がこの世の影響を受けることは残念ながら避けられないことかもしれません。しかし、それは教会の主がどのような方かを知る契機とされるのです。このような問題がどうして起きるのかという分析以上に大切なのは、問題のただ中で主にすがることです。主の前に取り返しのつかない失敗はありません。

主はどのような罪人をもまたどのような問題のある教会をも建て直すことがおできになります。すべてのわざわいは、私たちが真に遜って祈りさえするなら、主の栄光が現される機会とされるのです。