ローマ8章12〜30節「神の平和 (シャローム) をこの地であこがれ……」

2015年5月31日

ドイツのことわざに、「分かち合った喜びは二倍の喜びに、分かち合った苦しみは半分の苦しみに」というのがあります。それこそが愛の交わりの中で起きる不思議ではないでしょうか。ともに悲しみながら、またともにうめきながら、そこに何ともいえない希望が生まれているということがあります。

この世は、「ハウ・ツー」で満ちています。しかも、この世が提供する解決は、しばしば、人との競争に勝つということを示しています。そこでは必ず、敗者が生まれ、ひとつの問題の解決の裏に、他の人の悲劇の始まりがあります。

この世界に必要なのは、もっと根本的な解決です。人間的な解決ではなく、神の解決です。人の励ましによって生まれる元気ではなく、神が私たちの心を引き上げてくださることによって生まれる活力です。

そして、そのために何よりも必要なのは、問題解決を考える前に、「ともにうめく」ということです。そこに「御霊のうめき」が生まれます。そこには、この世の常識を超えた希望を生まれます。

1.私たちは御霊によって、「アバ、父」と呼びます。

「私たちは、肉に従って歩む責任を、肉に対しては負ってはいません」(12節)とは、自分の肉の問題を自分で解決するという責任から、私たちを解放するものです。それは一見、真面目な生き方なようで、「あなたがたは死ぬのです」(13節)と宣告された道です。

ハンズ・ビュルキ先生は、「地獄への道は、良い決断で舗装されている」とよく言われました。実際、何と多くの人が、やり直そうとしては失敗し、自己嫌悪に陥り、自暴自棄になっていることでしょう。

それに対し、「御霊によって、からだの行ないを殺す」(13節)とは、自分の内側の肉的な欲求を殺すという以前に、「自分の力で生きる!」という、身体に染み込んだ発想を、御霊によって殺して行くということです。それは、具体的には、「主よ。こんな私をあわれんでください」と祈りつつ、すべての問題を神にお委ねし、神の解決を待つということです。それは神の語りかけに心を開いて、自分の願いではなく、神が望まれることを、結果を恐れず、黙々と行なうという地道な生き方でもあります。

そして、「神の御霊に導かれる人は、だれでも神の息子たちです」(8:14私訳)と記されます。ここはテクナ(子供)ではなく、ヒュイオス(息子)ということばが使われています。女性であっても、イエスと同じ立場が与えられたという面を強調するためにそのようなことばが用いられています。

しかも、それは、「あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく」(15節)とあるように、神のさばきを恐れながら善行に励むことではありません。そうではなく私たちはみな、「子としてくださる御霊を受けた」the Spirit of sonship (15節)と記されます。

それによって、イエスが父なる神を呼びかけておられたと同じように、「アバ(お父様、パパ)」という呼ばせてもらえるという意味です。たとえば、あなたが心から尊敬できる人がいて、その人と親しく話すことに憧れる場合、その人を気軽に「パパ!」と呼んで甘えられるお子さんのことを、幸せな立場と思うことでしょう。

そのことが、「もし、子どもであるなら、相続人でもあります」(8:17)と記されています。もし私たちの親が莫大な財産の所有者である場合、ふだんの関係がどれほど疎遠であっても、時が来たら、相続権は決定的な意味を持ちます。ただし、まともな親であれば、子供の自律のために、お金の苦労を若いときに敢えてさせるとともに、最終的にも、財産の管理能力があることを確信できるまでは相続を許しはしません。

今、私たちも、神の子どもとされている恵みも、すぐにはわからないこともありましょうが、それは、良い親が愛する子どもに敢えて苦労をさせるのと同じようなものです。時が来たら、神の子どもとしての特権のすばらしさを心から味わうことができることでしょう。

そのことが、「私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人でもあります」(8:17)と述べられます。「キリストとの共同相続人」とは、私たちがキリストと同じ神の子どもの立場が与えられ、キリストの弟、妹とされたことを意味します。それは私たちにとっての特権であるとともに、重い責任を自覚することでもあります。

私たちは、今から、「キリストとともに」この世界を治めるという誇りある責任を自覚しながら生きるように召されています。先に、the Spirit of sonshipと言ったのはそのためです。たとえば、英国のヘンリー王子がアフガニスタンの前線で2度にわたって従軍したなどという記事があります。その是非は別として、少なくとも英国の王子には、特権以上に王族としての義務(noblesse oblige)が期待されています。

当教会においては、worship(礼拝)、 fellowship(交わり)と並んで、sonship(神の子として世に遣わされる)ことが強調されてきました。それも神の子としての誇りに満ちた働きです。

イエスは、全地に平和を実現する救い主(キリスト)です。主は、そのために私たちひとりひとりを用いようとしておられます。アダムは、この地を治める者として創造されたのに、その責任を放棄し、この地に「のろい」をもたらしました。しかし、私たちは今や、神の子どもの立場が回復され、キリストとともに、この地に神の平和を実現するのです。

ただし、それには意外なプロセスがあります。私たちは無意識のうちにアダムの生き方が身についています。それは、「自分を神とする」生き方です。私たちは心のどこかで、「私は正しい!問題の原因は、周りの人々にある」と自分を中心に世界を見ています。ときには、「この問題は、こうしたら解決するはずなのに、首相が愚かだから・・・」などと議論することがあります。しかし、それこそが権力闘争を生み出し、理想を実現するために、反対者を力でねじふせることが正当化されます。それは家庭に始まり、あらゆる組織に及びます。

もちろん、ひとつの組織の中にいろんな考え方があるときに、リーダシップによる決断はほんとうに大切です。しかし、その際、リーダーはこの世の権力者のようではなく、キリストの姿に習うことが求められています。私たちの主キリストは、敢えてご自身の力を捨て、仕える者の姿を取り、弟子の足を洗い、ついには私たちの罪の身代わりとして十字架にかかってくださいました。それは自分を神としたアダムの生き方を逆転させた生き方でした。

そして、それは苦難を力で退ける代わりに、人の苦難までも引き受けようとする生き方です。そのことが、「キリストと苦難をともにする」(17節)という生き方です。

2.「私たちが、キリストとともに苦しむことによって、ともに栄光を受けることになる」

17節の後半の文章は、「私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人です。それは実に、私たちが、キリストとともに苦しむことによって、ともに栄光を受けることになるからです」と訳すことができます。私たちがキリストの弟、妹とされているということは、しばしば、「ともに苦しむ」ということを通して表されます

家族は、苦しみをともに味わうことによって、喜びをもともに味わうことができるようになります。しかも、「ともに苦しむ」ということは、常に、「ともに相続する」ことと、「ともに栄光を受ける」こととセットにされています。私たちに与えられた救いとは、新しい身体を持ってよみがえり、「キリストと、栄光をともに受ける」ことです。そのとき、目に見える平和が実現されます。

ところで、パウロは、「今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます」(18節)と告白しますが、彼は何度も投獄され、五度にもわたって最高限度の39回の鞭打ちの刑を受け、船が難破して一昼夜、海上を漂い、飢え乾き、寒さに凍え、裸でいたこともありました(Ⅱコリント11:23-28)。そればかりか、自分が開拓した様々な教会からの知らせを受けて心を痛め、特に、コリントの教会などからは偽使徒で献金泥棒かのような非難を受けていました。まさに四面楚歌です。

しかし、パウロは、その苦しみは、将来の自分に約束されている栄光に比べれば取るに足りないと断言しました。彼が苦しみに耐えることができたのは、「キリストとともに栄光を受ける」ことのすばらしさをいつも心に思い浮かべて生きていたからです。

それにしても、「被造物も、切実な思いで神の子どもたち(sons)の現われを待ち望んでいるのです」(19節)とは不思議です。大地震や火山噴火、日照りや台風、子羊が狼に食い殺され、子ヤギが豹に、子牛がライオンに食べられとき、パウロは、被造物が切実な思いで神の救いの完成を待ち望んでいるとイメージしました。これは私たちがペットの死を心から悲しみ、その痛みに共感する気持ちに似ているかもしれません。

なお、「神の子どもたちの現われ」とは、私たちの復活、つまり、救いの完成のときです。それが全被造物の救いにつながるのは、「被造物が虚無に服した」のが、人間が神に服従することをやめ責任を放棄したことに始まっていたからです。そして、被造物を人間に「服従させた方」は万物の創造主であるという意味で、全被造物に「望みがある」というのです(20節)。

そして、今、神はこの世界を混乱に陥れた人間を造りかえることから全世界を新しくしようと、ご自身の御子を遣わして私たちの罪を赦し、またご自身の御霊を遣わして私たちを心のそこから造り変えようとしてくださいました。その希望のことが、「被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたち(children)の栄光の自由の中に入れられます」(21節)と記されます。

ここで「神の子どもたちの栄光の自由」とは、私たちが名実ともに新しい復活の身体を与えられることを意味し、そのとき全被造物の世界も自然災害や弱肉強食の不条理がなくなるのです。

私たちはこの世界で様々な苦しみを担うように召されていますが、それはキリストと苦難を共にすることによって、キリストとともに栄光を受けるというプロセスの中で起きていることです。そして、私たちがキリストとの共同相続人であることの恵みは、「新しい天と新しい地」に復活の身体をもって入れられ、その世界をキリストとともに治めるというときになって初めて、心から味わうことができます。

多くの人は、この世の様々な矛盾を見ながら、心を痛め、また怒ったりしますが、この世界が完成に向かっているということを確信できるなら、この世界の矛盾に耐えることができるのではないでしょうか。しかし、身近でありすぎる理想は危険です。ヒットラーだってスターリンだって人々の心にアピールできる理想を掲げて権力を握りました。しばしば性急な問題の解決には、恐ろしい破壊力が伴います。

3.「御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら・・」

「私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています」(22節)とあるように、この現在の世界には、様々な不条理と悲しみがあり、うめきが満ちています。そして、キリストはそのうめきをともにするために二千年前にベツレヘムに生まれました。そのとき、その「うめき」は、希望のない嘆きではなく、期待に満ちた「産みの苦しみ」に変えられたのです。

私たちがキリストとの共同相続人にされたのは、このキリストの「うめき」を自分のものとするため、またキリストに習い、この混乱に満ちた地に派遣されるためなのです。

「そればかりでなく、御霊の初穂(初穂としての御霊)をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら」(23節)とあるように、「御霊」は「初穂」として描かれています。「初穂」は喜びの始まりを意味します。私は、母が手作りの初生り(初穂)のいちごを食べさせてくれるのが喜びでした。そこには、トマト、メロン、西瓜、とうもろこしが次々と食べられる期待がありました。

パウロは、この世界が新しくされる希望を、「神の子どもたち(sons)の現われ」(19節)、「神の子どもたちの(children)栄光の自由」(21節)、「子にしていただくこと(sonship)、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます」(23節)と表現しています。

私たちは既に「神の子ども」とされましたが、それは目に見える形になっていません。しかし、私たちは確実に、キリストと同じ朽ちることのない新しい身体を受け、「栄光の自由」を味わいます。その「望み」に満ちた喜びの「初穂を味わうことを可能にして下さるのが御霊の働きです。

ところが、御霊を受けると反対に、「心の中でうめく(嘆きのため息)」というのです。しばしば、人は、悲しみに蓋をして自分を保ちます。しかし、心が自由にされると涙が出ます。人によっては、幼い時の悲しみを、中年期を過ぎて初めて心の底から泣けるということもありますが、不思議にそこには、表現できないほどの感謝と喜びが伴います。

また、御霊の導きによって、自分が知らずにどれだけ人を傷つけていたかが示され、深く「うめく」こともあります。しかし、同時に、そこには十字架の愛への圧倒的な感謝の喜びが伴います。つまり、「産みの苦しみ」と同じように、「うめき」と「喜び」とは、表裏一体のものとしてあるのです。

そして、何よりも、この世界の悲惨は、多くの人が、他の人の痛みや、世界の痛みに自分の心の耳を塞いで、それをいっしょに悲しむことができないところから始まります。マザー・テレサが繰り返し言っていたように、愛の対極にあるのは、憎しみではなくて、無関心なのですから・・。

「私たちは、この望みによって救われているのです」(24節)とあるように、御霊は、何よりも、救いの完成の「望み」を私たちの心に芽生えさせます。そして、目に見える現実がどんなに厳しくても、自分のいのちは神の御手に守られているという心の余裕が、人や世界の痛みとともに「うめく」という祈りを可能にします。これは、電車のつり革をつかむときに、足を踏ん張らなくてもよくなることに似ています。そして、世界の痛みに合わせてあなたの心が揺れるところから、真実の愛が生まれ、あなたの行動が変えられ、世界に愛が満たされます。

そして、「目に見える望みは、望みではありません。だれでも目で見ていることを、どうしてさらに望むでしょう。もしまだ見ていないことを望んでいるなら、私たちは忍耐を持って待ちます」(24,25節)とは、なかなか期待通りにならない信仰生活を原点に立ち返らせる美しい表現です。それは、現在の私たちの苦しみを、「産みの苦しみ」と見ることです。そして、その苦しみをともに味わうという交わりの中から愛が生まれます。

私たちはみな基本的に、母親の出産の「うめき」によって生まれてきました。しかし、そのとき、あなたの父親は何をしていたでしょう?最近になって、夫が妻の出産に至る「うめき」をともにすることが、その後の子供の成長にどれだけ大切かが分かってきました。私の心が不安定な理由のひとつは、そこにあるのではないかと思います。

多くの男性は、ともに「うめく」よりも、「分析」をしがちだと言われますが、そこに痛みに共感するという心が感じられなければ、そこから「うらみ」が芽生えるということがしばしばあります。

「ともにうめく」交わりから、真の家族愛が成長します。私たちはこの神の家族の交わりにおいて、互いの苦しみを「産みの苦しみ」として捉えなおし、ともに苦しみ、ともに希望に生きることを大切にしたいものです。なぜなら、私たちがともに待ち望んでいることは、いかなる人間の努力も超えた神の救いの完成の世界、神のみわざの完成のときだからです。

ともに苦しみに耐え、ともに待ち望むとき、来たるべき栄光の喜びをともに味わうことができます。

4.「御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって・・・」

多くの人々は、どのように祈ったらよいかが分かっていながら、神がどのような結論に導かれるかが分かっていません。しかし、パウロは「どのように祈ったらよいか分からない」(26節)と言いながら、同時に、「神がすべてのことを働かせて益としてくださることを・・知っています」(28節)と断言します。

多くの人の問題は、自分の願望を明確にしながら、最終的な「望み」は見えていません。そのため、それを実現しようと必死になり、新たな争いを生み出し、この世界の問題を複雑化します。

たとえば、「人に変わって欲しい」と期待する人は、自分の不幸を他人の責任にしています。心の寂しさが結婚で解決するはずだと信じている人は、結婚に失望することでしょう。また、「仕事がうまくさえ行けば、すべて満足できる」と思う人は、仕事に駆りたてられ休むことができなくなることでしょう。

しかし、御霊による祈りは「うめき」から始まります。それは、まず、寂しさや不安、人への恨みや後悔を、そのまま神の御前で沈黙しつつ、深く味わいながら「うめく」ことです。その時、「御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによってwith groanings too deep for words」(26節)とあるように、御霊が、私たち以上に私たちの悲しみを味わい「ことばにできないうめき」によって「私たちのためにとりなし」、父なる神の御手に問題を差し出してくださいます。

しかも、「神は、私の悩みを軽蔑されず、ともに味わって下さる」という感動は、私たちのうちに「神を愛する」思いを生み出します。そして、「神を愛する人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださる」という約束の成就を確信させてくれるのです。実際、この「望み」によって、目の前の責任を黙々と果たして行くなら、神が、私たちの思いもつかなかった解決を備えてくださっていたことが、しばしば確認されます。

多くの人は、自分が取るべき態度を分かっていながら、そうできない自分を責めて苦しんではいないでしょうか。その際、下手なアドバイスは、悩んでいる人への軽蔑として伝わり、苦しみを倍化させてしまうことがあります。そのようなとき、私たちの責任は、まず「ともにうめく」ことではないでしょうか。私たちは、「何か解決を示してあげなければ・・・」と思うからこそ、人の悩みを聞けないという面もありますから、第一の務めが「ともにうめく」ことであると納得することは、かえって、人の悩みに耳を傾ける勇気を起こさせるものです。

問題の解決は、そこにある御霊ご自身のうめきから生まれるのです。それこそ、現実に、神の愛を分かち合う行為です。このような「うめきのミニストリー」に、私たちはもっと目を開くべきでしょう。

なお、「神がすべてのことを働かせて益としてくださる」とは、神の家族全体、いやそれ以上に、この世界全体にとっての「益」とされることを指します。たとえば、創世記のヨセフ物語は、ヨセフが奴隷として売られ、無実の罪で牢屋に入れられたけれど、夢を解き明かすことでエジプトの総理大臣の地位にまで引き上げられたというサクセスストーリーではありません

ヨセフは、兄たちに向かって、「あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを良いことのための計らいとなさいました。それはきょうのようにして、多くの人々を生かしておくためでした」(創世記50:20)と言いました。そこで、「良いことのための計らい」とは、ヨセフの出世ではなく、ヤコブ一族がエジプトにおいて星の数のような民族にまで増やされること、つまり、イスラエル全体の「益」ということがテーマなのです。

続けて、ここでは、「なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです」(29節)と記されます。これは、先の、「キリストとともに苦しみ、ともに栄光を受ける」というプロセスの中に招き入れられることを指します。

ヨセフは、奴隷に売られ、無実の罪で牢獄に入れられることがなければ、決してエジプトの総理大臣に引き上げられるという道は開かれませんでした。私たちも、何よりも、キリストとともに苦しむという生き方に招かれていることを忘れてはなりません。私たちは他人の犠牲の上に自分の成功を積み上げるようには召されていないのです。

私たちはイエスの弟、妹となるように「あらかじめ定められ」ました。それはこの地において、キリストの生き方に習うということです。

また、「神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました」(30節)とは、キリストの受肉、バプテスマ、復活、昇天という歩みの御跡に私たちが従うということを指しています。

「あらかじめ定められている」とは、小さなキリストとして生きるべくこの世に誕生したということ、「召された」とは、神のみことばを自分への語りかけとして聴いたということです。「召し」のしるしのバプテスマを受けた者は、キリストとひとつとされ、天の父なる神から、「あなたはわたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ」という語りかけを聞いたのです。

「義と認め」とは、私たちの心に復活の希望が芽生えることです。私たちは自分の変化の遅さや惨めさに「うめき」ますが、そこで、御霊ご自身がともに「うめき」、復活の希望を確信させてくださいます

そして最後に、「栄光をお与えになりました」とは、私たちが文字通り、神のみもとに栄光の身体とされて引き上げられるときを指します。それはまだ先のことでしょうが、「あらかじめ定め」「召し」「義と認め」「栄光を与えられる」というのは、神の救いの一連のプロセスを指します。

そして、今、私たちは、目の前の問題が、全く解決していないと思える中で、「ともにうめき」ながら、それを「産みの苦しみ」のうめきと受け止め、「すべてが益とされる」という確信に満たされることができます。私たちは今ここで、うめきながら、同時に、喜んでいるのです。それこそ、キリスト者の不思議です。

あなたの周りの具体的な人を思い浮かべ、経済的不安、仕事の重圧、夫婦の争い、離婚、不治の病、心の病、引きこもり、子育ての悩み、失恋、挫折感、老いの痛み、身体の衰え、愛する人の喪失、将来への不安、敗北感などの「悲しみ」を、まずともに味わってみましょう。

また世界中の様々な悲惨を思い浮かべながら、それを自分の「うめき」としましょう。そして、最後に、あなた自身の心の奥底にある不安や孤独感の叫びにも、蓋をすることなく、耳を傾けましょう。そして、御霊のとりなしを待ち望みましょう。

世界が平和に向かう変化は、その「御霊のうめき」から始まるのです。世界の悲しみを引き受けようとするとき、一時的に、とっても心が沈むかもしれません。しかし、それは自分の問題ばかりで心がいっぱいになる状況と根本的に異なるものです。

私たちは自分の心を軽くしようと、世界の痛みから目を背けるとき、孤独と倦怠感が生まれます。しかし、世界のうめきに心の目と耳を開いてゆくとき、そこには神と神の世界に対する連帯が生まれ、同時に、神の示す希望に心を躍らせることができることでしょう。