出エジプト24章12節〜31章17節「主が求めておられる礼拝とは?」

2015年6月7日

多くの人が言い知れない倦怠感、空虚感や孤独感を味わっています。それは、「自分の都合」を最優先できる世の中になった結果かもしれません。真に畏敬されるべき方を知ることなしに、命を賭けるに価する喜びも、生きる意味も目的も見出すことはできるのでしょうか。

礼拝においては、人間的に見ると、矛盾すると思える要素がからまってきます。多くの方が、近年の礼拝があまりも「人間的な営み」になって、本来、罪ある人間には近づきがたい聖なる神を礼拝するという健全な意味での「恐れ」がなくなってはいないかと警告します。

一方、近年の礼拝改革を導いてきた方々は、イエス様が当時の社会の底辺の人に寄り添ってくださったという面に注目します。そして、理性ばかりではなく、感性全体で神を礼拝できるための、人の心の動きに寄り添った礼拝の環境や霊的な流れを重視します。一見、対立するように思えますが、両方の要素が大切ではないでしょうか。

1. 神が民の真ん中に住むために

神は、イスラエルの長老たちを契約の成立を祝う食卓へと招き、その上でモーセに、「山へ行き、わたしのところに上り、そこにおれ。彼らを教えるために、わたしが書きしるしたおしえと命令の石の板をあなたに授けよう」(24:12)と言われました。

そして、「主(ヤハウェ)の栄光はシナイ山の上にとどまり」(24:16)、「山の頂で燃え上がる火のように見えた」(24:17)中で、「モーセは雲の中に入って行き・・四十日四十夜、山にいた」(24:18)のでした。

そして31章の終わりでは、主ご自身が、「神の指で書かれた石の板をモーセに授けられ」(31:18)ました。そして、25章から31章までは、この「石の板」が納められる幕屋の設計図と礼拝の仕方が語られます。

主(ヤハウェ)が、火の中にあってシナイ山に降りて来られた時、煙は溶鉱炉のように立ち上り、全山が激しく震え、雷と稲妻と角笛の音が響いていました(19:16-18)。太陽に近づく者がその熱で瞬間的に蒸発するように、人は神に近づくことができません。ところが主(ヤハウェ)は、「彼らがわたしのために聖所を造るなら、わたしは彼らの中に住む」(25:8)と言われました。

ただし、それは神ご自身の設計図どおりでなければならないことが、「幕屋の型と幕屋のすべての用具の型とを、わたしがあなたに示すのとまったく同じように作らなければならない」(25:9)と記されます。

このときのイスラエルは、逃亡奴隷の集団に過ぎませんでした。しかし、天地万物の創造主が真ん中に住んでくださるなら、何をも恐れる必要はありません。どんな強い敵にも立ち向かえますし、パンも水の心配もありません。

黙示録にはやがて実現する「新しい天と新しい地」の姿が、「見よ。神の幕屋が人とともにある・・・神ご自身が彼らとともにおられ・・目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである」(21:3,4)と描かれています。つまり、神が民の真ん中に住んでくださることこそが、すべての祝福に満ちた世界の実現の前提なのです。

ただそのためには、神ご自身のみこころに従う必要があります。それは、当時のイスラエルの民にとっては、主の設計図に忠実に従った幕屋を建てることでしたが、現代の私たちにとっては、イエスを自分の人生の主として告白し、イエスの御跡に従うことです。

そして、幕屋の心臓部こそ「十のことば」が書かれた石の板です。それを収める契約の箱を作り(25:10-21、長さ2.5キュビト:約1.1m、幅と高さ1.5キュビト:66cm)、それを二つのケルビムを載せた「贖いのふた」で覆うなら、主は「わたしはそこであなたに会見し、その『贖いのふた』の上から、すなわちあかしの箱の上のふたつのケルビムの間から、イスラエル人について、あなたに命じることをことごとくあなたに語ろう」(25:22)と約束されました。

この後モーセは、山に登らなくても、この移動式の幕屋の中で主に出会い、みこころを聞く事ができます。

ローマ人への手紙3章25節の「なだめの供え物」ということばは、最近は「贖いのふた」と訳すのが正しいという学説が一般的になっています。その前後は次のように訳すことができます。

「すべての人は罪を犯したので、神の栄光に達することはできず、ただ、神の恵みにより、値なしに義と認められます。それはキリスト・イエスによる贖いのゆえにです。この方を神は『贖いのふた(mercy-seat)』として公にお示しになりました。それは、この方の真実による、その血によってです・・それは今の時にご自身の義を現わすためであり・・・イエスに信頼する者を義と認めるためです」。

なお、新改訳で「なだめの供え物」と訳されている言葉の原文はヒラステリオンで、それはヘブル9章5節では贖罪蓋と訳されています。これは主がモーセに、また大贖罪の日に大祭司と会見し(レビ16:2)、ご自身のみこころを示す場でした。

「贖いのふた」は、何よりも聖なる神が、罪人である私たちの真ん中に住んでくださることの象徴、また、そこにおいて、神がみことばを語ってくださるということの象徴でした。

そして今、イエスご自身が新しい「贖いのふた」として私たちの真ん中に住み、父なる神を示し、新しい天と新しい地へと導いてくださいます。

その上で主は、契約の箱を至聖所に置き、垂れ幕で隔てた聖所に、パンを置く机(25:23-30)を作るように命じられ(長さ2キュビト:90㎝、幅1キュビト:45㎝、高さ1.5キュビト:66㎝)、「机の上には供えのパンを置き、絶えずわたしの前にあるようにする」(25:30)と命じられました。

これは安息日ごとに整えられ、一並び六個ずつ二並び十二枚が置かれました(レビ24:5-9)。これは主が民にとっての「いのちのパン」となってくださることの象徴だと思われます。

また、主はアーモンドの木を現わす七つのともしび皿を持つ「純金の燭台」を作るように命じられました(25:31-39)。なお、この大きさは指定されていません。これは毎日、夕方から朝まで会見の天幕の中を照らし続けるように「ともしびを整える」ことが命じられました(27:20,21)。

これは、エデンの園にあった「いのちの木」を象徴するものとも言われます。これは、主ご自身が「いのちの光」であることのしるしだったと思われます。

そして、この終わりに、「よく注意して、あなたが山で示される型どおりに作れ」(25:40)と念を押されます。それは、これが主ご自身の作品であることを強調するものです。なお、聖所の中のものは基本的にすべて純金で作られ、幕屋の幕も最高の材料が使われました。

しかも、材料は、民からの強制徴収ではなく「心から進んでささげる人からの・・奉納物」(25:2)でした。それはこの世の全ての王にも勝る栄光を主ご自身に帰するためでした。

人はアダム以来、神を自分のレベルに引き下げる傾向があります。しかし、それこそが、この世界の混乱のすべての原因でした。それに対して、神は、幕屋を用いてご自身を礼拝することを教えられたのです。

2.幕屋の構造と祭司の装束、祭司の任職の贖い

神の幕屋は(26章)、長さ30キュビト(1.5キュビト×20枚の板):13.2m、幅12キュビト(1.5×8枚):5.3m、高さ10キュビット:4.4mで、中の至聖所は10キュビト(約4.4m)の立法形でした(当教会の礼拝堂のスペースは長さが10.9m(廊下のガラスブロックまでが約13.5m、階段の踊り場を含めた最長部分は14.29m)、幅が7.65m、高さが4.65mです)。

天幕は四層の構造になっていて、一番内側は「幕屋」で、上質の布製でケルビムの模様が織り込まれていました(26:1-6)。その上には「天幕」がかけられ、やぎの毛で幕が作られました(26:7-13)。また、その天幕の上に「赤くなめした雄羊の皮のおおい」とその上にさらに「ジュゴンの皮のおおい」がかけられました(26:14)。

また26章15-30節には、アカシヤ材の板で骨組みの構造を作るように命じられ、それも金をかぶせるように命じられました(26:29)。そして、ここでも、「あなたは山で示された定めのとおりに、幕屋を建てなければならない」(26:30)と記されています。

26章31-37節には幕屋の内部の構造が描かれます。幕屋の奥の「至聖所」は、ケルビムを織り出した最高の質の青、紫、緋色の撚糸と亜麻布による幕屋で仕切られ、その中には「あかしの箱」とその上に「贖いのふた」が置かれました。また天幕の入り口も美しい布の幕屋でおおわれました。

ここには年に一度、大祭司だけがいけにえの血を携えて入り、「贖いのふた」にふりかけることによって主(ヤハウェ)と出会うことができました。

ヘブル人への手紙10章19、20節では、「私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所に入ることができるのです。イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道をもうけてくださったのです」と記されます。

幕屋の中は祭司しか入ることができませんでしたが、現在は、すべてのキリスト者が「王である祭司」として、幕屋の中に入ることが許されているのです。幕屋は集会所ではなく、基本的に神の住まいとして作られています。

また、幕屋の前にはいけにえを火で焼くための「祭壇」が置かれました(27:1-8)。その大きさは、長さ、幅とも5キュビト(約2.2m)、高さ3キュビト(約1.3m)でした。

また、それらは、それは掛け幕によって仕切られた庭(27:9-18)の中にあり、それは長さ44m、幅が22mでした。そして、いけにえを携えてきた人がこの場に入ることができました。

また、聖所の中の燭台には夜の間中、上質の純粋なオリーブ油によって、ともしびを絶えずともすように命じられました(27:20,21)。それは、真っ暗な中でも、あかしの箱が入れられた至聖所を仕切る垂れ幕が照らされるためでした。それによって、暗闇の中でも、そこを聖なる場として覚えることができました。

また、大祭司のために、「栄光と美を表す聖なる装束を作る」(28:3-40)ように命じられました。祭司は民に対して神の栄光と美を現わす必要がありましたから、金色、青色、紫いろ、緋色の最高の撚糸でエポデが作られました。これは、祭司の両肩から祭司の前の部分全体を覆う特別な装束でした(28:6-14)。

また胸には、イスラエルの十二部族の代表者であるしるしの宝石をはめ込んだ「さばきの胸当て」が付けられました(28:15-30)。これは大祭司が十二部族全体を代表するという意味と同時に、イスラエルのそれぞれの部族が、神の目に高価で尊いかけがえのない存在であることのしるしでした。

なお28章30節で、「アロンが聖所に入るときには、さばきの胸当てにあるイスラエルの子らの名をその胸の上に載せ、絶えず主(ヤハウェ)の前に記念としなければならない」とあるのは大祭司がイスラエルを代表することを示しています。現在は全てのキリスト者が、「王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民として」世界の人々の代表とされています。

また同時に、「さばきの胸当てには、ウリムとトンミムを入れ・・・絶えず主(ヤハウェ)の前に、イスラエルの子らのさばきを、その胸の上に載せる」(28:31)とは、大祭司がイスラエルの民に対して神のみこころをくじのようなもので示しながら、神のご支配(さばき)を民に現すことを意味します。「さばきの胸当て」とは、何よりも、神がイスラエルの民を治めて、守り導いてくださるということのしるしだったのです。

また祭司の服のすそには金の鈴がつけられました。それは、「彼が死なないためである」(28:35)とありますが、彼は聖なる神に近づく聖所の奉仕をいのちがけでするということを、この鈴の音が自覚させるのだと思われます。

また、かぶりものには「主(ヤハウェ)への聖なるもの」と彫られた純金のふだがつけられました(28:36)。それはアロンの聖所での、すべての神へのささげものの奉仕が、民全体を代表するという使命を明確にするしるしでした。

その上で、祭司の任職のためには、七日間に渡り、贖罪のために毎日雄牛一頭を全焼のいけにえとしてささげる必要がありました(29:10-35)。それは、牛が祭司の身代わりになって死ぬことによって初めて、罪が贖われ、彼が神の前に立てる者とされるからでした。

祭司の任職のためにどれだけ大きな犠牲を払う必要があるのかを見る時に、祭司の勤めの大切さが分かります。後に民の堕落は、何よりも祭司から始まっていることがわかります。

現在の教会の牧師は旧約の祭司とは異なり、民全体の代表者としていけにえをささげるような責任はありませんが、民に主のみこころを示すという働きにおいては重なる部分があります。

七日間にわたる祭司の任職式、七日間にわたる祭壇の贖いを見る時に、私たちは牧師職や礼拝のための設備の聖別にも心を傾ける必要がありましょう。サタンは、牧師と礼拝施設を攻撃することから、教会を破壊し始めるということを忘れてはなりません。

3.神が真ん中に住まわれるために救われた

会見の天幕の前の祭壇では、毎日絶やすことなく朝と夕方、雄羊一頭を全焼のいけにえとしてささげるように命じられました(29:38,39)。それはイスラエルが常に神の民として自分自身を主(ヤハウェ)に献げるしるしでした。

その上で主は、「その所でわたしはあなた方に会い、その所であなたと語る。その所でわたしはイスラエル人に会う。そこはわたしの栄光によって聖とされる。わたしは会見の天幕と祭壇を聖別する・・・わたしはイスラエル人の間に住み、彼らの神となる」(29:42-45)と言われました。

幕屋は、イスラエルが持ち物と時間を献げ、主に仕えるための舞台でした。主は、幕屋の中に住まれるというよりは、ご自身が定めた方法による礼拝を、民が全身全霊でささげているその中にこそ住み、出会ってくださるのです。

神が真ん中に住んでくださるためには、イスラエルの民の側でなすべき大きな犠牲をともなう礼拝がありました。今は、イエスご自身が永遠の贖いを成し遂げてくださったので、私たちはいけにえをささげる必要はありませんが、その代わりに、私たちは自分自身を日々主にささげるように召されています。

そのことをパウロは、「あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です」(ローマ12:1)と記しています。

30章1-6節には香をたくための壇を作ることが命じられています。それは高さ約90㎝で幅と奥行きは45㎝のアカシヤ材の壇で、純金がかぶされ、「あかしの箱の上の贖いのふた」の手前、至聖所を仕切る幕屋の前に置かれました。

聖所の中では、毎日、朝と夕に「かおりの高い香」がたかれる必要がありました(30:7、8)。その香油は、特別に調合された聖なるもので、決して人間のために用いてはならないものでした(30:22-33)。香は「聖徒たちの祈り」(黙示5:8)を表します。

30章17-21節では「洗盤」の作成が命じられます。これは祭司が会見の天幕に入るために手と足を洗うためでした。ここにも「彼らが死なないため」と記されていました。神に近づくのはいのちがけでした。

最後に主は、これら礼拝に用いるすべての設備を作るためにふたりの職人を神の霊で満たし、ご自身の働きのために用いました(31:1-11)。また、主に聖別する日としての「安息日」についての教えを繰り返されました(31:12-17)。

神と出会い続けるためには、私たちの側でなすべきことがあります。イスラエルに命じられた礼拝の背後にどれだけの働きが必要だったことでしょう。そこでは、最高の「栄光と美」が見られ、最高の「香り」がささげられ、大切に育てた動物を身代わりの「全焼のいけにえ」とするという痛みがありました。

私たちはどこかで、自分たちが心地よさを感じることができる機会としての礼拝を求めてはいないでしょうか。しかし、安さや手軽さを第一とする生き方は長期的な満足をもたらしはしません。真の出会いを体験するためには高価な犠牲も必要です。

神は、幕屋建設を具体的に命じるに当たってまず、「彼らがわたしのために聖所を造るなら、わたしは彼らの中に住む」(25:8)と言われました。また、「贖いのふた」の上から、モーセに語ると言われました(25:22)。そして、幕屋の構造を示した後に、「わたしは会見の天幕と祭壇を聖別する・・・わたしはイスラエル人の間に住み、彼らの神となる」と言われ(29:44,45)、また「彼らは、わたしが主(ヤハウェ)、彼らの神・・であることを知るようになる」(29:46)と言われました。

ところが、イスラエルはこの後すぐに、自分たちの都合に神を合わさせ、持ち物と時間を惜しむようになり、「主(ヤハウェ)を知る」ことができなくなりました。それで、神は、ご自身の側から、最も高価な犠牲を払ってくださいました。何とご自身のひとり子をいけにえとされ、私たちのすべての罪を赦してくださいました。それは、神ご自身が私たちの間に住んでくださり、私たちが主(ヤハウェ)と出会い、知ることができるためでした。

しかも、今は、「あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っていることを知らないのですか」(Ⅰコリント3:16)とあるように、私たち自身が、神がその真ん中に住んでくださるところの幕屋、または神殿とされています。私たちが建てている幕屋は、ひとりひとりがキリストのからだの一部として結び合わされ、組み合わされている愛の共同体です。

神は、「真の礼拝者たち」を求めておられます(ヨハネ4:4)。ただ、それは、神ご自身が私たちを恋い慕ってくださったというところから始まっていることを決して忘れてはなりません。神は私たちの献身を、また真実な愛を求めておられますが、それはアダムの子孫には不可能なことでした。それで、神はご自身の御子とご自身の「御霊」をお与えくださったのです。

その意味で、礼拝は、一方的に恵みを受けることから始まることは間違いがありません。しかし、そこから愛のキャッチボールが始まるのでなければ、より深い出会いを体験はできないのです。

イエスご自身がいけにえとなってくださったので、私たちはもはや、牛や羊のいけにえをささげはしません。今、ささげるいけにえは、「御名をたたえるくちびるの果実」と「善を行うことと、持ち物を人に分けること」(ヘブル13:15,16)、つまり、礼拝(Worship)と分ち合い(Fellowship)の二つです。この「賛美のいけにえ」とは、神のみわざを一致して告白するということで、音楽はその一部です。

黙示録の礼拝には、幕屋と同じように、金の燭台、香の煙、金の冠をかぶった長老、美しい宝石などが出てきます。私たちももっと工夫を凝らし、全身全霊をもって神の栄光をたたえるべきでしょう。しばしば、プロテスタントの教会は人間の五感の部分を軽視し過ぎると言われています。

神の尊厳が現されるところでは、ひとり子イエスと同じ立場にされた私たち自身の尊厳(Sonship)も覚えられます。そして、私たちは自分自身が、小さなイエスとされた誇りを持って、地の塩、世の光として派遣されるのです。

人はみな、「神のかたち」に創造されました。それは、神のイメージをこの世界で現すためでした。ところが人は、神のかたちとして、神の愛とあわれみを現わす代わりに、「神のかたち」に創造された自分を神の競争者にしてしまいました。神の栄光を忘れたことによって、人は神からあずけられた栄光を失ったのです。

神を侮る者は、「神のかたち」として創造された自分をも軽蔑しているのです。しかし、神をあがめる者は、いのちの尊厳を体験できます。