ダニエル11章40節〜12章13節「思慮深い人々は星のようになる」

2014年4月12日

トマ・ピケティ著「21世紀の資本」では貧富の格差拡大の様子が分析されていますが、実は、戦後日本の高度成長期には歴史上稀有な中間層の成長が見られ、一億総中流などとさえ言われました。

私が生まれた1953年から1973年のオイルショックまでの20年間、実質国民所得は年率10%近くも増え続け、一人当たり国民所得も約5倍になりました。1973年以降この教会が始まる1989年まで経済成長率は4%程度にまで落ちましたが、それでも歴史上未曽有の成長水準でした。

客観的には、経済成長率が4~5%もある社会では、持てる者と持たざる者との格差は縮小し、努力が経済的にも報われるという現実が確認できるのです。

ただ、立川での礼拝が始まると同時に日本経済の成長率はゼロに近づいています。それとともに貧富の格差は急速に拡大しています。残念ながら、それこそが歴史的には常識だったのです。第二次大戦後どの国でも格差が縮まりましたが、それは二つの大戦による未曽有の破壊からの回復過程の特殊要因だったのです。

たとえば昔から、土地を初めとする様々な資産は、普通に運用していれば年率5%程度で自己増殖を続けます。もし5%を複利で増やせば、世代交代が起こる30年間たつと資産は何と4.3倍にもなります。一方、普通の労働者は、真面目にこつこつ働いても、年率1%で資産を増やせる程度です。これを複利にすると30年で35%の増加です。

つまり、強い者が何らかの手段で一度資産を手にするとそれはどんどん自己増殖し、格差は拡大するばかりという現実があるのです。そして、ヒンズー教のカースト制度を代表例に、多くの宗教は格差を身分制として正当化する方向に作用してきました。

「正直者がバカを見る」ような世界、言葉巧みにうまく立ち回る人ばかりが評価される世の中は、誰もが嫌だと思いますが、現実の経済では、一度富を手に入れた者は黙っていても豊かになり、貧しい者はどんなに努力しても貧困から抜け出ることができないのです。

しかし、聖書は、そのような冷酷な現実の中にも、神のあわれみのご支配が働き、すべてを逆転すると記しています。その代表がダニエル書です。そして、イエスの復活こそ神の公平なさばきの現れです。十字架はサタンの勢力の勝利と見られましたが、神はイエスを死者の中からよみがえらせて、この世的な勝ち負けの基準を逆転してくださいました。

神のあわれみとイエスの復活を知らない人にとっては、富と権力こそが幸福の基盤に見えるというのは致し方のないことかもしれません。しかし、イエスは、ご自身の復活を知っておられるからこそ、「悪い者に手向かってはいけません……右の頬を打つような者には、左の頬をも向けなさい」と言われたのです。それは神が最終的に公平なさばきを下されるということを知っている者としての告白です。

1.「彼は不意にやって来て、巧言を使って国を堅く握る」

ダニエル11章にはアレクサンダー大王の後継者たちの国々の争い、北の王と呼ばれるセレウコス朝シリアと南の王と呼ばれるプトレマイオス朝エジプトの間の戦いの様子が預言的に記されています。11節から19節までは、紀元前223年から187年にシリアを支配した北の王アンティオコス三世(大王)による南のエジプト王との戦いの様子が驚くほど正確に描かれています。

しかも、そこに当時、急速に勢力を増してきたローマ共和国が彼の前に立ちはだかることが、「ひとりの首領が、彼にそしりをやめさせる」(11:18) と描かれています。このときにローマに人質として差し出されていながら、10年後に王となったのが、アンティオコス4世(エピファネス)です。

アンティオコス四世(エピファネス)は権謀術数によって政治の実権を握り、兄の息子を葬り去って、40歳で王になります。「彼は不意にやって来て、巧言を使って国を堅く握る」(11:21) とはそのような行動を指していると思われます。

その後、彼はエジプトとの戦いに決定的な勝利を収めますが、ローマ共和国の介入に譲歩せざるを得なくなることが、「キティム(キプロス)の船が彼に立ち向かって来るので、彼は落胆して引き返し」(11:30) と記されます。

なお、その間に、ユダヤでの独立運動が起こります。彼は紀元前167年にエルサレムを急襲し、三日間で4万人のユダヤ人を殺し、4万人を奴隷にします。そして、エルサレム神殿をゼウス・オリンポスの神殿に作り変え、安息日を守っていた人々を虐殺しました。そのことが、「彼は、聖なる契約にいきりたち、ほしいままにふるまう。彼は帰って行って、その聖なる契約を捨てた者を重く取り立てるようになる。彼の軍隊は立ち上がり、聖所のとりでを汚し、常供のささげものを取り除き、荒らす忌むべきものを据える」(11:30、31) と記されています。

そのような中で堕落してゆく者たちと、神を恐れる人々との関係が、「彼は契約を犯す者たちを巧言をもって堕落させるが、自分の神を知る人たちは、堅く立って事を行う。民の中の思慮深い人たちは、多くの人を悟らせる。彼らは、長い間、剣にかかり、火に焼かれ、とりことなり、かすめ奪われて倒れる。彼らが倒れるとき、彼らへの助けは少ないが、多くの人は、巧言を使って思慮深い人につく。思慮深い人のうちのある者は、終わりの時までに彼らを練り、清め、白くするために倒れるが、それは、定めの時がまだ来ないからである」(11:32-35) と記されています。

「思慮深い人」ということばが原文では33節と35節の冒頭に記されていますが、これは32節の、「巧言をもって」、また34節の「巧言を使って」と対比されます。

そして、誰よりもアンティオコスこそが、「巧言を使って」権力を握った人の代表者であり、その同じ生き方をする人が王の側に付いたり、また反対に、「思慮深い人」に「巧言を使って」付いたりします。

そして、33、35節ともに、「思慮深い人たち」が、その信仰のゆえに殉教の死を遂げる様子が記されていますが、これは旧約では極めて珍しく、最初の殉教者の記録とさえ呼ばれることがあります。

このような殉教が続く中で、紀元前164年にアンティオコス四世の軍隊を打ち破って神殿を聖めたのがユダ・マカベオスで、彼の死後、兄弟がユダヤ人の独立王朝を始めます。イエスの時代には彼が英雄としてあがめられており、人々が期待した救い主の姿でした。

しかし、イエスはご自分をダビデの子と呼ばせながら、「剣を取る者はみな剣で滅びます」(マタイ26:52) と言います。そしてローマ帝国の総督のもとで、何の弁明もせずに十字架刑の死を迎えます。それはダリヨス王のもとでライオンの穴に投げ込まれたダニエルの姿と同じです。神は、ユダ・マカベオスのような武力闘争を避けさせるために、「思慮深い人たち」の生き方を指し示したのではないでしょうか。

結局、エルサレム神殿がゼウスの神殿とされ、徹底的に汚されていたのは、たった三年間のことに過ぎませんでした。確かにユダ・マカベオスの軍事的な勝利がこれほど早い神殿の回復につながったのですが、アンティオコスの後継者たちとの戦いは熾烈を極め、ユダは三年後に戦死します。彼はその前に、ローマ共和国との軍事同盟を締結します。その後、せっかく生まれた独立国家は内紛を続け、その百年後にエルサレムはローマ軍に占領されます。

それにしても、ユダヤ人はその後のローマ帝国の支配下で、ユダ・マカベオスのような武力闘争を賞賛したがために、最終的にはエルサレム神殿まで滅ぼされ、二千年間の流浪の民となったのではないでしょうか。

11章36節にはこの王の高ぶりの様子が描かれますが、そこには同時に、「この王は……憤りが終わるまで栄える」とあるように、横暴な王は、神ご自身が、時が来たらさばいてくださいます。それこそがダニエル書の核心です。

11章40節以降の記事は、それまでの傲慢な王に対して南の王が戦いを挑み、北の王が決定的な勝利を収め、エジプトの南までをも支配すると描いており、アンティオコス四世の最後とは全く異なります。しかし、北から南に攻め入る王が、自分の背後である「東と北」からの知らせに脅えて軍を撤退させ、その途上でエルサレムを攻め滅ぼそうとするというのは、極めて彼らしい行動です。

その要点は、人間的に考えると、この横暴な王の攻撃にエルサレムの敗北は避けられないということです。しかし、ここではその危機存亡のときこそが、この横暴な王の最後になると記されます。

この箇所の記述により、このダニエル書11章は、アンティオコス四世だけのことを描いているのではなく、神の民を迫害するこの世のすべての権力者を現しているものであるということが明らかになります。

たとえば、日本では、「巧言を使って」支配者になった代表者と言えば豊臣秀吉です。彼は世界制覇への第一歩として1592年に朝鮮半島に16万人もの兵を送ります。一時は朝鮮半島の全域を支配するところまで行きましたが、朝鮮水軍に敗北し、続いて北の明国からの出兵により、撤退を余儀なくされます。

そして、その直後、サンフェリペ号事件 を通して、スペイン、ポルトガルがカトリックの宣教師を通して世界制覇を計っているという計画を聞き、キリシタンへの迫害を本格化、1597年の長崎での26聖人の処刑を強行することになります。

豊臣秀吉は、朝鮮半島にとんでもない災いを及ぼしたばかりか、キリスト教徒の大迫害への道を開いた支配者ですが、世界制覇の夢が破れたことが神の民の大迫害に結びつくという点では、アンティオコス四世につながります。つまり、ダニエル11章の記事は、すべての時代を通しての、この世の権力者による神の民への迫害に通じる記事なのです。

2.「思慮深い人々は大空の輝きのように輝き……」

「その時、あなたの国の人々を守る大いなる君、ミカエルが立ち上がる。国が始まって以来、その時まで、かつてなかったほどの苦難の時が来る。しかし、その時、あなたの民で、あの書にしるされている者はすべて救われる」(12:1) という記事は、時間的には、「彼は、海と聖なる麗しい山との間に、本営の天幕を張る」(11:45) というエルサレムの絶体絶命の時を指しています。

そしてこの時の苦難が、バビロンに神殿を滅ぼされた時に勝るほどのものであると描かれながら、同時にそれが「いのちの書に……名が記されている者」(黙示3:5、13:8) の救いの時でもあるというのです。つまり、神の救いは、人間の目には絶望と思われるときに突如としてやってくるというのです。

「地のちりの中に眠っている者のうち、多くの者が目をさます。ある者は永遠のいのちに、ある者はそしりと永遠の忌みに。思慮深い人々は大空の輝きのように輝き、多くの者を義とした者は、世々限りなく、星のようになる」(12:2、3) とは、旧約における復活の記事の代表と見られています。

ここで、栄光の復活にあずかることができるのは「思慮深い人々」、つまり、11章33、35節にあった大迫害の中で真の神を礼拝し続けた人です。「定めの時」(11:35) に至るまで「巧言を使う」ような権力者が横暴を働き続けますが、今、神がさばきを下されるのです。

そして、N.T.Wright は、この11章後半から12章初めの記事は、2章31-45、7章2-27節で記されていたと同じ出来事を、別のレンズを通して見たものであると語っています (the resurrection of the Son of God. P115)。

2章では、「一つの石が人手によらず切り出され」この世の王国を砕いて全地を支配することが描かれます。そこでは、エルサレム神殿を滅ぼしたバビロンのネブカデネザルが「金の頭」として描かれ、胸と両腕が銀、腹とももは青銅、すねは鉄、足の一部が鉄と粘土でできていましたが、それは一連の帝国を示している以上に、ネブカデネザルのような独裁者の帝国が、切り出された一つの石によって砕かれることを示しています。

その直後、金の像を拝むことを拒否したダニエルの友人三人が火の燃える炉に投げ入れられながら救い出され、ついにはネブカデネザル自身がイスラエルの神ヤハウェを礼拝するようになるという物語が記されています。

7章では、バビロン帝国に続く四つの帝国が、四頭の獣、獅子、熊、ひょう、十本の角を持つ獣として描かれます。そして、第四の獣の時代に、「いと高き聖徒たちを滅ぼし尽くそうとする」(7:25) 王が現れるが (7:8、24)、そのときになって、「人のような方が天の雲に乗って現れ」(7:13)、その支配を打ち砕いて全世界を治めるばかりか、その方につながる「聖徒」たちも世界をともに治める者となると描かれています。

そして、ダニエルはこのような幻を見せられて、神に従い続けますが、その晩年にバビロンを滅ぼしたメディヤの王ダリヨスのときに、王以外の者に祈願する者をライオンの穴に投げ込むと脅されながら、黙って投げ込まれ、神によって救い出されます。

つまり、これらの物語では、地上の一連の帝国支配の絶頂期に神の支配が明らかにされるということと、その先駆けとして、「思慮深い者」としてのダニエルとその三人の友人たちが、無抵抗のままで、しかも、脅しに屈せずに殺されそうになりながら、イスラエルの神のみを礼拝するという姿勢を守って、救い出されることがセットになっているのです。そして、それは死にまで神に忠実に従ったイエスの復活を指し示すことでもあります。

そして、私たちにとっては、イエス・キリストの復活こそが、「思慮深い者」の復活の「初穂」なのです。パウロはそのことを、「今やキリストは眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました」(Ⅰコリント15:20) と述べています。

ダニエルはバビロン捕囚が「七十年」で終わることを期待しましたが、そのとき御使いガブリエルが、神の民の最終的な勝利のときまで「七十週」(七の七十倍)の時が必要であると語りましたが、12章3節はその成就を示しているのです。そして、このキリストの復活において成就したことが、私たちにもやがて成就することになります。

ですから、イエスもこのダニエル書を前提に、「墓の中にいる者がみな、子の声を聞いて出て来る時が来ます。善を行った者は、よみがえっていのちを受け、悪を行った者は、よみがえってさばきを受けるのです」(ヨハネ5:28、29)、また、「そのとき、正しい者たちは、彼らの父の御国で太陽のように輝きます」(マタイ13:43) と言われました。

3.「あなたは終わりまで歩み、休みに入れ」

ところで、このとき、10章以来ダニエルに語ってきた「ひとりの人」は、「ダニエルよ。あなたは終わりの時まで、このことばを秘めておき、この書を封じておけ。多くの者は知識を増そうと探り回ろう」(12:4) と不思議なことを言いました。

これは、ダニエルに啓示されたことは、キリストを通してしか理解できないことを指します。「終わりのとき」とは、最終的な滅びの時というよりは、キリストによって実現する新しい時代を指すからです (使徒2:17等)。

12章5、6節では三人の御使いのような人の会話が描かれます。ヘブル語では、6節最初の「私は言った」ということばは、「彼は言った」と記され、「この不思議なことは、いつになって終わるのですか」という質問は、ダニエルではなく川の両岸にいた御使いのひとりが、川の水の上にいるダニエルにずっと語りかけていた御使いに対して質問したと言うことになっています。

そこで、「川の水の上にいる、あの亜麻布の衣を着た人」が、「その右手と左手を天に向けて上げ、永遠に生きる方をさして誓って」、「それは、ひと時とふた時と半時である。聖なる民の勢力を打ち砕くことが終わったとき、これらすべてのことが成就する」と言います(12:7)。このことばは、アンティオコスの迫害に関してではなく、7章にある終わりのときの第四の帝国における反キリストの迫害の際に用いられたことばです (7:25)。

そして、ダニエルは、「これを聞いたが、悟ることができなかった」(12:8) というのです。聞いた本人が理解できないことを、私たちが分かるでしょうか。ですから、私たちもキリストによって明らかにされた枠を超えてこの記事を通して、世界の終わりのことがわかると思ってはなりません。

多くの未来予言が、ダニエル書の数字の解釈から今も生まれていますが、それらは神の主権を侵して勝手な推測をすることになりかねません。

ダニエルがここでさらに、「わが主よ。この終わりは、どうなるのでしょう」と尋ねたことに対し、「ダニエルよ。行け。このことばは、終わりの時まで、秘められ、封じられているからだ。多くの者は、身を清め、白くし、こうして練られる。悪者どもは悪を行い、ひとりも悟る者がいない。しかし、思慮深い人々は悟る。常供のささげ物が取り除かれ、荒らす忌むべきものが据えられる時から千二百九十日がある。幸いなことよ。忍んで待ち、千三百三十五日に達する者は」(12:9-12) と言われます。

ここで、「思慮深い者は悟る」とは、「千二百九十日」とか「千三百三十五日」という数字自体に込められた意味を悟るということではありません。「ひと時とふた時と半時」とは三年半、つまり、当時の太陰暦で一年を360日とすると1260日であり、「千二百九十日」とはそれより30日長い期間、また、「千三百三十五日」とはそれよりさらに45日間長い期間を指します。

つまり、ここでは、もうこれで苦しみの期間が終わると待ち焦がれながらも、さらに30日、さあになお45日間続くことがあるかもしれない不安を受け止め、忍耐して待つという「悟り」のことが記されているのです。「思慮深い人」は、神の民の苦しみの時期は、常に、限られた期間に過ぎないということを「悟って」、迫害に耐えることができる人です。

だからこそ、御使いは最後にダニエルに、「あなたは終わりまで歩み、休みに入れ」と語ります。これは黙示録で、「死にいたるまで忠実でありなさい」(2:10) と言われるのと同じ意味です。

そして、彼への最終的な保障として、「あなたは時の終わりに、あなたの割り当ての地に立つ」と言われます。これは、先の「思慮深い人々」の栄光に満ちた復活と同じことを意味します。

以前、米国の保守的な教会では預言書の学びが盛んでした。それを通して世界情勢の未来予測をして信仰を励まし合うような風潮がありました。その際、ダニエル書の七十週や北の王、南の王などの記事を、現実の世界情勢に合わせて読むようなことがありました。

しかし、そのような中で育ったひとりの姉妹は、「もう、預言書の学びは疲れました。私は、今、ここで、どのように生きるべきかを聖書から知りたいのです」と言うようになりました。しかし、ダニエル書こそは、未来予告の書などではなく、異教徒や巧言を使って権力を握る人々が権力を握る中で、私たちがどのように誠実を保って生きることができるか、死に至るまで忠実に歩むことができるための励ましとして記されている書なのです。

その意味で、ダニエル書は最初から最後まで一貫したメッセージが記されています。

多くの人々は、この世の不条理を見て「神はいない……」と思うか、また「神は不義である」という結論に達します。詩篇の作者も、「こうして彼らは言う。『どうして神が知ろうか。いと高き方に知識があろうか。』見よ。悪者とはこのようなものだ。彼らはいつまでも安らかで、富を増している」(73:11、12) と嘆いています。

しかし、そこで著者は、「神の聖所に入り、ついに、彼らの最後を悟っ」て、「まことに、あなたは彼らをすべりやすい所に置き、彼らを滅びに突き落とされます」(73:18) と告白します。

ルターはこの世の不公平に哲学者たちが沈黙せざるを得ないことを述べながら、「これらの不可解な疑問に対しては、ただ一言ですむ簡潔な解決がある。すなわち、この世の生の後にもう一つの生がある。その生においては、この世において罰せられず報われなかったことが、罰せられ報われるであろう。

なぜなら、現在の生は未来の生の先駆、いや開始以外のものではないからである」と記しています。私たちは復活のいのちを目の前に見ることで、不条理の中でも誠実に生きる勇気を持つことができるのです。