私たちは「子にしてくださる御霊」 (the Spirit of Sonship) を受けたのです

立川チャペル便り「ぶどうぱん」2015年春号より

私たちはしばしば、自分たちにすでに与えられている「神の子」としての立場をあまりにも過小評価してはいないでしょうか。キリスト者はすでに神の御子と同じ立場が与えられています。ただ、同時に、現実の私たちの姿は、王子や王女の立場にはふさわしくない気品の欠けた状態でもあります。私たちはまだまだ、キリストに似た「神の子」にまで変えられるという「途上」にあります。

ですから私たちは、すでに与えられている立場を自覚しながら、キリストの代理大使として、この地に「地の塩、世の光」として遣わされる責任を覚え、成長させていただく必要があります。

使徒パウロは、神が私たちに聖霊を与えてくださった意味を次のように記しました。

「あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊 (the Spirit of Sonship) を受けたのです。私たちは御霊によって、『アバ、父』と呼びます……

私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たちも、心の中でうめきながら、子にしていただくことを待ち望んでいます」(ローマ8:15、22、23)

その結果、それぞれが主人から「あなたはわずかなものに忠実だったから、私はあなたにたくさんの物をまかせよう」(21、23節) と全く同じ賞賛を受けます。これほどの多額な金額が、「わずかなもの」と呼ばれ、さらに大きな責任を与えるための試験だったというのです。私たちは自分に預けられた賜物を過小評価してはいないでしょうか。

ここには聖霊を受けた者が、自分の特権を覚えて感謝することと同時に、世界の様々な不条理、また自分自身の惨めさを覚えて「うめく」様子が描かれています。「感謝」と「うめき」が共存するというのが信仰者に起きている神秘なのです。

当教会のステンドグラスはイザヤ11章8-9節の「狼は子羊とともに宿り……主を知ることが……地を満たす」、イザヤ65章17-25節「わたしは新しい天と新しい地を創造する……いついつまでも楽しみ喜べ……彼らはむだに労することがない」のイメージを現わしています。それをヘブル語のひとことで表現すると「シャローム」となります。そこには、平和、平安、繁栄、被造物の回復のすべての意味が含まれています。それこそ、神が聖書を通して啓示してくださった歴史のゴールです。聖書全体がこのシャロームを指し示しています。

「イエス様信じて、天国へ!」というのは、そのとおりではありますが、この地への責任を忘れさせる危険もあります。福音書の中心テーマは「神の国」です。それは、将来的に完成するものでもありますが、同時に、「今ここに」存在する現実でもあります。

旧約聖書に多くの人々が抱くような「天国への憧れ」ではなく、この地への責任が描かれていますが、それは実は、新約でも一貫していることなのです。

当教会のステンドグラスには、羊が神の平和を憧れる姿が描かれています。そこには、この世の不条理に対する「うめき」とともに、神のみわざの完成への「期待」もあります。私たちはそれを「この地で憧れ」、「うめき」ながら「期待する」のです。

ところで、聖書には人間の徹底的な罪深さと存在の高価さの両面が記されています。「救い」の確信を与える前提で人間の堕落を過度に強調する面もあったかもしれませんが、それだけでは、未信者の隣人を「地獄落ちにふさわしい罪人」という面ばかりで見ることになりかねません。

人間の創造のすばらしさの根本は、「神は人をご自身のかたちとして創造され……男と女とに創造され……地を従えよ」と言われたことにあります。つまり、未信者であっても「神のかたち」という立場に変わりはないのです。しかし、キリストを知らない者は、「神のかたち」としての特権の生かし方を知らない、また、どのように生きることが「神のかたち」としてふさわしいかを自覚していません。

それに対し、「御子は見えない神のかたち」(コロサイ1:15) とあるように、イエス・キリストこそが神のかたちとしての生き方を、見えるように示してくださいました。それは、この世の人々の称賛を得るような歩みではなく、自分の十字架を負ってイエスに従う歩みです。ただし、それは悲壮感が漂うような歩み方ではなく、御子の御霊、自由の御霊を受けて、この世界の悲しみを引き受けながらも、同時に、復活の喜びに生かされる歩みなのです。

「謙遜さ」は、私たちにとって非常に大切ですが、それがこの世界への影響力を発揮する積極的な生き方を否定する言い訳になってはなりません。「私のような者が……」と神から与えられた賜物を隠すことは、イエス様を悲しませることです。事実、イエスは、「わたしを信じる者は、聖書が言っている通りに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる」(ヨハネ7:38) と「約束」してくださいました。これは努力目標ではありません。求められている行動は、「渇き」を覚えて、イエスのところに来て水を求めることです。

ステンドグラスの右上には鳩が描かれています。それは、十字架にからまったオリーブの木とともに「平和」のシンボルではありますが、同時に、聖霊が下ることのしるしでもあります。御霊は鳩のように神の御子の上に下りました。そして、神からの光を通す十字架こそは、「生ける水の川」が流れ出る源になっています。エゼキエル47章9節には、「この川が流れて行く所はどこででも……すべてのものが生きる」と約束されています。

私たちではなく、私たちのうちに住んでおられるイエスの御霊が、世界を潤し、生かすことができるのです。私たちが隣人のためにお祈りできることから世界が変わり始めます。