民数記22章〜24章「主は、のろいを祝福に変えられた」

2016年5月15日 ペンテコステ

キリスト教世界ではペンテコステを「聖霊降臨日」と理解しますが、本来の意味は五十日目を意味するに過ぎず、イスラエルの民はそれを「七週の祭り」(出エジプト34:22)と呼び、春の収穫感謝祭として祝いました(レビ23:15-22)。 “民数記22章〜24章「主は、のろいを祝福に変えられた」” の続きを読む

コロサイ1章24節〜2章7節「キリストにあって歩むとは?」

2016年5月8日

多くの人は自分の生活が期待通りに進んでいるときは心を平静に保つことができます。しかし、様々なストレスを抱えるたびに、覆い隠していた古い自分の姿が表に出てきてしまいます。それは、アダム以来の全ての人の心を支配する「恐れ」が芽を出すからです。 “コロサイ1章24節〜2章7節「キリストにあって歩むとは?」” の続きを読む

コロサイ1章1〜20節「イエスの愛に包まれて歩む」

2016年5月1日

私たちは幼い時から、「問題を解決する」ことを最優先するように教えられてきました。早く正確に解くことができる人が「優秀な人」と見られます。

しかしこの地では、一つの問題の解決は必ず、次の問題を生み出します。貧富の格差を無くそうとした共産主義は、恐ろしい政治権力を生み出しました。自国の安全を切望する思いが、恐ろしい核爆弾を作りました。選択の自由を尊重する市場経済が、格差を生み出しました。 “コロサイ1章1〜20節「イエスの愛に包まれて歩む」” の続きを読む

民数記19章〜21章「困難と共存しつつ、主を仰ぎ見る」

2016年4月24日

現代は、しばしば「心地よさ」や「手軽さ」が大切にされます。そして米国の教会などでも一時、「求道者に優しい礼拝」という新しい動きが注目されましたが、最近は、その見直しが起き始めていると言われます。なぜなら、聖書に記された礼拝はそれと正反対とも言えるものだからです。 “民数記19章〜21章「困難と共存しつつ、主を仰ぎ見る」” の続きを読む

ヨハネ13章1〜20節「究極の愛ー弟子の足を洗うー」

2016年4月17日

現代の聖餐式の起源は最後の晩餐ですが、イエスはこの時、弟子たちの足をも洗われながら、「あなたがたも互いに足を洗い合うべきです」と命じられました。それを根拠に受難週の木曜日に「洗足の儀式」を守る教会もあります。 “ヨハネ13章1〜20節「究極の愛ー弟子の足を洗うー」” の続きを読む

民数記15章〜18章「父は真の礼拝者を求めておられる」

2016年4月10日

「ストレス」に関する研究が盛んになっていますが、ついこの前までは、「ストレスは健康に悪いから、なるべく避けたり減らしたりして管理したりする必要がある」という見方が多くありました。しかし最近は、「ストレスは役に立つから、なるべく受け入れて利用し、うまく付き合って行く必要がある」と言われるようになっています。それをテーマにした、「スタンフォードのストレスを力に変える教科書」が多くの書店で売れています。その著者ケリー・マグゴニガルは、「ストレスは健康に悪い」と力説し過ぎたことで人々をかえって病気にしてしまったのではないかと反省し、本書を執筆したとのことです。 “民数記15章〜18章「父は真の礼拝者を求めておられる」” の続きを読む

イザヤ54章〜55章「神のみことばが歴史を動かす」

2016年4月3日

イエスはイザヤ52章13節から53章12節にある「主のしもべの歌」をご自分の歌としておられました。そこでは、イスラエルの神が「全世界の王となる」と約束されながら、その「主(ヤハウェ)の御腕」が「現れた」のは、「さげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で、病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった」方であると記されていました。 “イザヤ54章〜55章「神のみことばが歴史を動かす」” の続きを読む

イザヤ52章〜53章「見よ。わたしのしもべは栄える」

2016年3月27日

福音書には、「さげすまれ、人々からのけ者にされた」救い主の姿が描かれています。それは人として最悪の苦しみです。人は最もひ弱な生き物であるからこそ、協力関係の中に生きる必要があります。孤立ほど恐ろしいことはなく、人はそこで精神を病むしかありません。 “イザヤ52章〜53章「見よ。わたしのしもべは栄える」” の続きを読む

ヨハネ12章27〜50節「世をさばくためではなく、救うために」

2016年3月20日

米国の大統領は世界最強の存在ですが、不思議にも、何らかの依存症の傾向を持つ人がその座についています。しかし、隠されもせず、強がりを押し通すことがないことが、あの国の魅力とも言えましょう。 “ヨハネ12章27〜50節「世をさばくためではなく、救うために」” の続きを読む

民数記11章〜14章「誰を恐れて生きるのか」

2016年3月13日

人は心の底で、「もっと良い生活があるはずでは・・・」という期待を持ちます。それは、「神はまた、人の心に永遠を与えられた」(伝道者3:11)とあるように、人の心には、失われたエデンの園への憧れがあるからです。それは、エジプトから出たイスラエルの民にとっての「約束の地」への憧れと同じです。 “民数記11章〜14章「誰を恐れて生きるのか」” の続きを読む