2016年紅白歌合戦のテーマは「夢を歌おう」でした。その中でひと際、歪んだ夢が歌われていました。高橋真梨子さんの「ごめんね」です。そこでは、「好きだったのに、それなのに貴方を傷つけた。ごめんねのことば涙で言えないけど……世界中きっと、いちばん大切な恋を無くしたのね……連れて行って、別離(わかれ)のない国へ」と歌われています。自業自得で苦しみながら、永遠への夢が歌われています。 “イザヤ40章「主を待ち望む者は新しく力を得る」” の続きを読む
マタイ2章1〜23節「神のときを生きた人々」
最近、お金や経済に関する話で他教会に招かれます。次のような文章をどのように思われるでしょう。
「経済が国家の決定的な支配者の地位にのぼるのにきっちり応じて、貨幣は神となり、あらゆるものはこれに奉仕し、だれもがこの前に屈服しなければならなかった。天上の神々はますます時代遅れで、すたれたものとなり、隅の方へしまわれてしまい、代わりにマモン(富)の偶像に香がたかれた。まことに困った堕落が始まった・・・崩壊の究極的原因は、もっと外の領域に・・あるに違いない・・旧帝国の破滅のもっとも深い究極的原因は、人種問題および、それが民族の歴史的発展に対して持つ意味を、認識しなかったことにある」・・・ “マタイ2章1〜23節「神のときを生きた人々」” の続きを読む
イザヤ11章1〜10節「神の平和 (シャローム) をもたらす救い主」
聖書ではイエスの誕生という重大なことが、驚くほど簡潔に記されています。
「ところが、彼らがそこにいる間に、マリヤは月が満ちて、男子の初子を産んだ。
それで、布にくるんで、飼葉おけに寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。」
救い主の誕生の様子は、たったこれだけしか描かれていません。たとえば、しばしば聖誕劇では、ヨセフとマリヤがベツレヘムに着いてすぐに宿屋を捜したけれどもどこも満室でどうにか馬小屋に入れてもらったかのように描かれますが、そのようなことは何も記されていません。 “イザヤ11章1〜10節「神の平和 (シャローム) をもたらす救い主」” の続きを読む
マタイ1章「ダビデの子としての救い主の誕生」
先日の子供クリスマス会で「靴屋のマルティン」の人形劇を上演しました。マルティンはロシアの田舎の評判の良い働き者の靴屋さんでした。若くして結婚しましたが、奥さんとお子さんたちを早くに亡くしてしまい、ひとり残った息子を育てながら後継ぎにすべく訓練していました。しかし、その子も病気でアッという間に死んでしまいます。彼は絶望の底に落とされます。 “マタイ1章「ダビデの子としての救い主の誕生」” の続きを読む
申命記27章〜30章「のろいの誓いから祝福の契約へ」
2016年12月11日
星野富広さんは、身体が不自由になり、イエスに出会うという過程での心境の変化を、「いのちが一番大切だと思っていたころ、生きるのが苦しかった。いのちより大切なものがあると知った日、生きているのが嬉しかった」と簡潔に描いています。
意識が自分に向いすぎる人は苦しくなります。聖書に記された神の救いのご計画に心を向け、その中に自分を置くなら、人はいつでも幸せを味わうことができます。 “申命記27章〜30章「のろいの誓いから祝福の契約へ」” の続きを読む
申命記23章〜26章「主の聖なる民となるために」
2016年12月4日
三千数百年前の遠い国の細かな教えを学ぶことにどんな意味があるのかと、ふと思われることがあります。しかし、当時の文化背景を理解しながらここを読むと、知らずに微笑が湧いてきます。
現代は、普遍のドグマ(教義)よりも個別が重んじられる時代と言われますが、その原点が既に記されています。 “申命記23章〜26章「主の聖なる民となるために」” の続きを読む
ヨハネ15章26節〜16章24節「悲しみは喜びに変わります」
キリストの十字架と復活によって、「新しい創造」が起きました。どんなに世界が暗くても、そこで私たちは希望を見出し、悲しみのただ中でさえ、喜ぶことができます。それは、人生の不条理を悲しみ、うらみ、あきらめ、自己憐憫に浸る日本の演歌の世界とは異なります。 “ヨハネ15章26節〜16章24節「悲しみは喜びに変わります」” の続きを読む
申命記19章〜22章「地に足の着いた愛の交わり」
私たちの生きている世界では、「これは絶対にあってはならない」と思える悲劇や不条理が必ず起きます。日本ではそこで、あらゆる問題の可能性を「想定」しながら、未然に備えることが求められがちですが、それでは「息が詰まる」ことになりかねないばかりか、「想定外」という事態への対処ができなくなります。 “申命記19章〜22章「地に足の着いた愛の交わり」” の続きを読む
申命記16章18節〜18章22節「あなたが従うべき権威とは」
「幸せは持つものではなく、感じるものだ」と言われます。フーストン師は、「幸福とは、痛みのないことでも享楽にふけることでもなく、鍛練、自己洞察、他者への貢献、個人的な充足感、安心感、心の平安などという特定の生き方から生まれる実です」と定義しています。 “申命記16章18節〜18章22節「あなたが従うべき権威とは」” の続きを読む
ヨハネ15章9〜25節「イエスの友とされ、互いに愛し合う」
多くの信仰者は、「私はイエス様を信じて、このように変えられました」と、自分が結ぶことができた「実」の現実から、イエスのすばらしさを証ししようとします。しかし、これはイエスご自身よりも自分に目を向けるという信仰の落とし穴にはまる危険があります。 “ヨハネ15章9〜25節「イエスの友とされ、互いに愛し合う」” の続きを読む