イエスは、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」と言われましたが、これはときに、他の宗教を否定する独善的な主張と受け止められることがあります。私もそのように誤解していたことがあります。 “ヨハネ13章36節〜14章14節「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」” の続きを読む
民数記27章12節〜30章「あなたがたの霊的な礼拝」
以前、米国行きの飛行機に一人で乗った時、出発直前に、エコノミーの料金でビジネス・クラスへの変更をしていただけました(重量バランス対策)。そこで初めて受けた待遇はとても気持ちの良いものでした。同時に、エコノミークラスに乗ることが初めて惨めに思えたばかりか、「ファーストクラスに乗ってみたいな・・」とまで思ってしまいました。 “民数記27章12節〜30章「あなたがたの霊的な礼拝」” の続きを読む
ハバクク「神の真実に応答する者は生きる」
2016年6月12日
ハバクク書は多くの人に縁遠い箇所かもしれません。世界的なピアニストのイングリッド・フジ子ヘミングは無名だったとき聖路加病院でボランティアとして患者さんたちの前でピアノを演奏していました。その頃、ある教会で、預言者ハバククのみことばの小冊子をもらいます。その2章3節に、「たとえ、遅くなっても、待っておれ。それは必ず来る、遅れることはない」と記されていました。 “ハバクク「神の真実に応答する者は生きる」” の続きを読む
民数記25章〜27章11節「ねたむほどに恋い慕われている者として」
多くの人々は、自分の心の醜さや弱さに失望しながら、もっと輝いた人間に変わりたいと思って神を求めるようになります。また、世の人々も、教会を、高潔な人間になるための修練の場であるかのように期待します。 “民数記25章〜27章11節「ねたむほどに恋い慕われている者として」” の続きを読む
ヨハネ13章21〜35節「互いに愛し合いなさい」
海外の外国人中心の教会から日本の教会に入ってきて戸惑うことがあります。それは家族のようにファーストネームや愛称で呼び合う関係から、急に、距離を置いたような呼びかけ合いになることです。 “ヨハネ13章21〜35節「互いに愛し合いなさい」” の続きを読む
民数記22章〜24章「主は、のろいを祝福に変えられた」
キリスト教世界ではペンテコステを「聖霊降臨日」と理解しますが、本来の意味は五十日目を意味するに過ぎず、イスラエルの民はそれを「七週の祭り」(出エジプト34:22)と呼び、春の収穫感謝祭として祝いました(レビ23:15-22)。 “民数記22章〜24章「主は、のろいを祝福に変えられた」” の続きを読む
コロサイ1章24節〜2章7節「キリストにあって歩むとは?」
多くの人は自分の生活が期待通りに進んでいるときは心を平静に保つことができます。しかし、様々なストレスを抱えるたびに、覆い隠していた古い自分の姿が表に出てきてしまいます。それは、アダム以来の全ての人の心を支配する「恐れ」が芽を出すからです。 “コロサイ1章24節〜2章7節「キリストにあって歩むとは?」” の続きを読む
コロサイ1章1〜20節「イエスの愛に包まれて歩む」
私たちは幼い時から、「問題を解決する」ことを最優先するように教えられてきました。早く正確に解くことができる人が「優秀な人」と見られます。
しかしこの地では、一つの問題の解決は必ず、次の問題を生み出します。貧富の格差を無くそうとした共産主義は、恐ろしい政治権力を生み出しました。自国の安全を切望する思いが、恐ろしい核爆弾を作りました。選択の自由を尊重する市場経済が、格差を生み出しました。 “コロサイ1章1〜20節「イエスの愛に包まれて歩む」” の続きを読む
民数記19章〜21章「困難と共存しつつ、主を仰ぎ見る」
現代は、しばしば「心地よさ」や「手軽さ」が大切にされます。そして米国の教会などでも一時、「求道者に優しい礼拝」という新しい動きが注目されましたが、最近は、その見直しが起き始めていると言われます。なぜなら、聖書に記された礼拝はそれと正反対とも言えるものだからです。 “民数記19章〜21章「困難と共存しつつ、主を仰ぎ見る」” の続きを読む
ヨハネ13章1〜20節「究極の愛ー弟子の足を洗うー」
現代の聖餐式の起源は最後の晩餐ですが、イエスはこの時、弟子たちの足をも洗われながら、「あなたがたも互いに足を洗い合うべきです」と命じられました。それを根拠に受難週の木曜日に「洗足の儀式」を守る教会もあります。 “ヨハネ13章1〜20節「究極の愛ー弟子の足を洗うー」” の続きを読む