ヨハネ18章28〜40節「私たちの不真実を変えるイエスの真実」

2017年4月16日

「イエスはどうして、十字架に架けられたのですか?」と聞かれたら、どのように答えるでしょう。ある人は、歴史的な観点から、「イエスの人気があまりにも高くなって、当時のイスラエルに混乱を起こすと見られたから」と答えます。またある人は、「神はイエスを、私たちの罪の身代わりとして十字架にかけられた」と神学的な視点から答えます。

一見、まったく別のことを言っているようでありながら、ヨハネはそれを、「ひとりの人が民に代わって死ぬ」(18:14)ということばでまとめます。イエスは独立戦争を引き起こす「ユダヤ人の王」として死刑判決を受けました。それは極めて不当でしたが、彼がユダヤ人の使命を成就する「王」であられたことも事実です。その背後には、私たちを「罪の支配」から解放しようという「神の真実」がありました。

私たちは物理学の真理を知ったところで、生き方が変わるわけではありません。しかし、真実な人の真実な愛を体験したら変わるのではないでしょうか。ギリシャ語の「真理」は、「まこと」とか「真実」とも訳され、ヘブル語のエメット(アーメンと同根)「真実」「信仰」の翻訳として用いられます。

事実、米国留学中に物理学で博士号を取られた方が、その学びの途上で人生の方向に深く葛藤しているときに、クリスチャンの利害関係を越えた真実の愛に感動し、またそこに真実な交わりがあるのを見て信仰に導かれました。

1.「ひとりの人が民の代わりに死ぬことが得策である」

「アンナスはイエスを、縛ったままで大祭司カヤパのところに送った」(24節)とありますが、カヤパは最高議会を召集してイエスの裁判を行ないました。その様子は他の福音書に記されていますが、不思議にもヨハネはこれらの部分を全部省いて、ペテロの二、三回目の否認だけを記録し、「彼らはイエスをカヤパのところから総督官邸に連れて行った。時は明け方であった」(28節)という場面に移ります。

これによってユダヤ人の最高指導者アンナスと、十二弟子のリーダーのペテロというふたりの対極にいる人物に焦点が合わされ、彼らの不真実が前面に出ます。彼らは自分たちの身を守るために不正と嘘に身を任せていました。

なおヨハネは、それ以前の最高議会での大祭司カヤパの発言を記しています。それは11章に記されたラザロの復活の直後、数か月前のことでした。カヤパは、「ひとりの人が民の代わりに死んで、国民全体が滅びないほうが、あなたがたにとって得策だ」と言って、裁判の前に、既に議会を説得し結論を出していました(11:49,50、18:14)。

当時のユダヤ人たちはローマ帝国の重税に苦しみ、自分たちの国を独立に導く指導者を求めていました。それこそが当時の人々が期待した「ユダヤ人の王」、またはメシア(救い主)のイメージでした。しかし、ローマ帝国はそのような動きが見えると、すぐに軍隊を送って鎮圧しようとします。そしてその運動が大きくなれば、結果的に、ユダヤ人の信仰の自由さえ奪われることになりかねません。それは何よりも当時の宗教指導者が避けたいことでした。

彼らにとっては、イエスが多くのユダヤ人たちから信頼を集めているということ自体が何よりの脅威でした。それで彼らはイエスの話しを聞こうともせずに、独立運動の指導者として処刑することによって、民の独立運動の芽を事前に摘み取ろうとしたのです。

彼らは、ラザロの復活によってイエスの人気が絶頂に達した時点で、イエスを死刑にすることを既に決めていました。その意味でヨハネは、ユダヤ人による裁判の様子を報告する必要を感じなかったのかと思われます。

福音記者ヨハネは、一人のサマリヤの女、38年間ベテスダの池に伏せっていた人、姦淫の現場で捕らえられた女、生まれつきの盲人など一人一人にイエスがどのように向き合われたかに焦点を合わせ、イエスがキリストであることを明らかにします。

一方、私たちの罪は、家族や友人という近しい個人との関係において顕にされます。神は、あなたが一人の人にどのように向き合っているかに関心を持っておられます。

2.「イエスのことばが成就するため」

イエスが総督官邸に連行されたのは、死刑執行の権威をローマ総督が握っていたからです。興味深いのは、「彼らは、過越の食事が食べられなくなることのないように、汚れを受けまいとして、官邸に入らなかった」(28節)ことです。

愚かにもユダヤ人指導者たちは、イエスの言動について審査するという手続きに関して罪を犯すことに無頓着な一方で、食事律法を守ることには極めて注意深という本末転倒に陥っていました。

彼らは、死刑執行が過越の祭り前に行なわれるようにと急いでいましたが、官邸の前で立っているしかありませんでした。するとピラトは、混乱を何よりも恐れているので、自分から出て来て、「何を告発するのですか」(29節)と尋ねます。

彼らは、「もしこの人が悪いことをしていなかったら・・・引き渡しはしなかった」と不思議な答えをします。ユダヤ人はイエスを「神への冒涜罪」で死刑に定めましたが、それはローマ法では通用しない論理でした。それで彼らは告発理由を明確にできないまま、「私たちには、だれを死刑にすることも許されてはいません」(31節)と言って、死刑判決を要求しました。

十字架刑は「神にのろわれた者」であることの象徴でしたから、それによって彼らはイエスの教えを絶滅できると考えたのです。

 

ところが、これらすべては、「ご自分がどのような死に方をされるかを示して話されたイエスのことばが成就するためであった」(32節)と記されます。その「ことば」とは何を指すのでしょう。12章33節には「イエスは自分がどのような死に方で死ぬかを示して」と同じ表現がありました。

その内容は、その直前でイエスがご自身の十字架について、「今がこの世のさばきです。今、この世を支配する者は追い出されるのです。わたしが地上からあげられるなら、わたしはすべての人を自分のところに引き寄せます」(12:31,32)と言われたことを指します。それは主の十字架が、ユダヤ人をローマ帝国の奴隷状態から解放するためばかりではなく、すべての人を死の脅しから解放するためという意味でした。

主はユダヤ人宗教指導者の謀略、その不信実によって殺されようとしています。しかし主はその時、人々の背後にいるサタンの勢力、「この世を支配する者を追い出すことで、「すべての人を自分のところに引き寄せ」、救おうとしておられたのです。

実は、イエスはご自身の肉体を「過越のいけにえ」とされたのです。そのことは1章36節で、バプテスマのヨハネが自分の弟子たちにイエスを指して、「見よ。神の小羊」と言ったことに現されています。イスラエルの民はかつてエジプトの奴隷状態でしたが、神がエジプトのすべての長男を殺した時、「小羊の血」が鴨居と門柱に塗られた家を神の怒りが「過ぎ越し」ました。

イエスの時代のユダヤ人たちも自業自得の罪で外国の支配下に苦しんでいました。それはバビロン捕囚が続いていたことを意味します。その外国の異教徒の支配から救い出されるために、イエスは新しい「過越のいけにえ」になろうとしておられるのです。

イエスはユダヤ人をローマ帝国の支配から救い出すために戦っておられました。しかし、それは人々が期待するような独立運動ではありませんでした。剣の脅しによる暴力支配の背後にはサタンがいます。イエスはご自分がサタンの手にかかって死ぬことで、「死の力」による支配権の正当性を奪いました。

サタンは、罪人を告発し、殺すという権利を委ねられていましたが、罪のない者を殺した時、立場を失いました。そのことがヘブル人への手紙2章14,15節で、「そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした」と記されています。

これは理解が難しい理屈ですが、C.S.ルイスの童話(ナルニア国物語)第一巻「ライオンと魔女」に分かり易く描かれています。これは大人の方々にもぜひお読みいただきたい信仰書と言えましょう。とにかく、神の救いは、「死の力」を無力化し、私たちを死の恐怖の奴隷状態から解放することだというのです。

この福音書で最初に十字架のことが示唆されるのは、最も有名な3章16節、「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された」の直前です。そこで、「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまたあげられなければなりません。それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです」(3:14,15)と記されています。

荒野の蛇のことは民数記21章4-9節に記されています。イスラエルの不従順に対するさばきとして神は、「燃える蛇」を送られ、蛇が民にかみつき、多くの人々が死にました。民が悔い改めると、神は毒蛇を取り去る代わりに、モーセに「青銅の蛇」を作らせ、「旗ざおの上につけ」させました。

そこで実現された救いは、「蛇が人をかんでも、その者が青銅の蛇を仰ぎ見ると、生きた」というものでした。神の救いは、毒蛇を無くすことではなく、毒蛇にかまれても、死ななくなることでした。それは、イスラエルの民が、神の恵みとあわれみを忘れる天才であり、苦しみや痛みを通してしか、真剣に神を求めるということがなかったからです。

私たちも人生が順調な時は、自分の知恵や力を誇って神を忘れがちかもしれません。神のみわざとは、この世で様々な苦しみに会いながらも、イエスの十字架を仰ぎ見て、救われることに現されます。

蛇にかまれることも、ローマ軍に殺されることも、とても辛いことで、それを避けたいのが人情です。しかし、それが神の救いの偉大さを現わす舞台とされ、ローマ軍の脅しが効力を失い、「永遠のいのち」を生き始めているクリスチャンの愛の真実が人々を次々と回心させて行きました。

3.「あなたは、自分でそのことを言っているのですか」

ピラトはもう一度官邸に入って、イエスを呼んで尋問します。その最初の問いは、「あなたは、ユダヤ人の王ですか」(33節)というものでした。

それに対しイエスはすぐに答える代わりに、「あなたは、自分でそのことを言っているのですか。それともほかの人が、あなたにわたしのことを話したのですか」(34節)と反対に質問を投げかけます。なぜなら、これがローマ人ピラト自身から出た尋問であれば、帝国の支配を否定する革命主義者として死刑の対象になりますが、これがユダヤ人から出た概念であればさばきの対象とはなり得ないからです。

それで、ピラトは、「私はユダヤ人ではないでしょう」と答えることで、それがユダヤ人の問題であることを認め、自分がユダヤ人の問題に関わりたくないという本音を述べます。そして、「あなたの同国人と祭司長たちが、あなたを私に引き渡した」(35節)と答えて、自分の受身的な立場を認めます。

不思議にも、イエスは尋問に答えながら、ピラトの微妙な不安定な立場を反対に明らかにしたのです。

そして、ピラトは改めて、「あなたは何をしたのですか」と尋ねます。それに対し、イエスは、「わたしの国は、この世から出たものではありません」(36節私訳)と答えます。これはイエスの支配がこの地に及ばないということではなく、この世の国の上にあるという意味です。

イエスの王権は軍隊で守られ税金で支えられるようなものではありません。その上で、「もしこの世からのものであったとしたなら、わたしのしもべたちが、わたしをユダヤ人に渡さないように、戦ったことでしょう。しかし、事実、わたしの国は、そのようなものではありません」(36節私訳)と付け加えます。

イエスはご自分の王国がこの世的な種類のものではないことを強調しながら、同時に、たといこの世から生まれたものであったとしても、それはローマ人に対してではなく、ユダヤ人に対する戦いになるはずのものだと、ローマは敵ではないことを明確にします。

つまり、主は、「これはあなたがさばく性質の問題ではない」と示して、ピラトをこの問題から解放しようとされたのです。

ところがピラトは、イエスが「わたしの国は・・」と言われたことば尻を捉えて、「それでは、あなたは王なのですか」(37節)と尋ねます。しかし、イエスは、「わたしは王です」と答える代わりに、「あなたが、わたしのことを王である、と言っている」(37節私訳)と、ピラトになお考えさせようとしています。

そして、「わたしは、このために生まれ、このことのために世に来たのです。それは、真理を証しするためです」と、ご自身が天の父から遣わされた目的に話を展開します。

それはこの書の初めで、「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた・・・この方は恵みとまこと(真理)に満ちておられた」(1:14)と記されていた通りです。イエスは、目に見えない神の「まこと(真理)」を目に見えるようにするために、人となられたのです。

その上でイエスは、「真理に属する者はみな、わたしの声に聞き従います」(37節)と決定的なことを言われます。これは、ピラトを真の問題に直面させ、ご自身のもとへの招くことばです。彼は今ユダヤ人に気を使い不真実なさばきをくだそうとしているからです。

後にパウロはテモテに向かって、「ポンティオ・ピラトに対してすばらしい告白をもって証しされたキリスト・イエス」(Ⅰテモテ6:13)の模範に習うように命じています。イエスは、裁判を受けている立場でありながら、真実な牧者としてピラトに向かっておらます。

私たちは、自分が人から責められていると感じたとき、自分を弁護することに夢中になってはいないでしょうか?

4.「真理とは何ですか?」

ピラトは、「真理とは何ですか」と尋ねながら、その答えを待たずにユダヤ人のところに行きます。彼は、悪い官僚の見本で、波風をたてずにユダヤを治めることにしか関心がありません。彼は、世界で最も愚かで絶望的なことばを発しました。イエスこそ「真理」であられるのに、その方との対話を自分から切ったのです。

ただ彼には明確になったことがあります。それはイエスをローマ法の基準で死刑にすることはできないということでした。それで、彼は「私は、あの人には罪を認めません」(38節)と語ります。

ただそこで終わればよかったのですが、彼は、「過越の祭りに、私はあなたがたのためにひとりの者を釈放するのがならわしになっています。それで、・・・ユダヤ人の王を釈放しましょうか」と言いながら、イエスを恩赦にするという妥協案を提示します。イエスを無罪とすることも、不当な裁判で死刑にすることも回避できるからです。

しかし、ユダヤ人たちは納得せず、「この人ではない。バラバだ」と言って、ローマ法から見て死刑がふさわしい強盗バラバを釈放するように叫びました。彼は「真理(真実)」に背を向けて安易な妥協を模索し、墓穴を掘ってしまいました。

ピラトは「真理とは何か」と尋ねながら、真理に真っ向からそむく判決を下さざるを得なくなります。イエスはかつてご自分を信じたユダヤ人に向かって、「もしあなたがたがわたしのことばに留まるなら・・・あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします」と言われました(8:31,32)。

しかし、ピラトは自分がローマの自由を体現しているつもりでありながら、実は、ユダヤ人に操られる存在に成り下がっています。もし、彼が真にイエスに聞こうとしていたら、彼は自由になり得たはずです。真理とは、人に真の自由を与える神のご支配の真実です。真理とはイエスであり、イエスはあなたを自由にできます。

それにしても、ピラトは無自覚にも「過越の祭り」ということばを使うことによって、イエスが「過越のいけにえ」になることを印象付けています。しかも、ピラトの思惑に反して、本来死刑にふさわしいバラバを釈放することになってしまいました。イエスはバラバの身代わりに死刑になったとも言えます。

しかし、そこに神のみこころが現されました。イエスは、ローマ法から言えば、バラバがつくべき十字架にかかります。しかし、それは同時に、それはユダヤ人すべてが受けるべき苦しみ、彼らが飲むべき「神の憤りの杯」でした。

イエスは、私たちを剣の支配から、この世の力の支配から、またその背後にあるサタンの支配から解放する「過越のいけにえ」となるために十字架にかかろうとしておられます。そして、私たちはイエスを主と告白することによって真理に属する者とされ、あらゆる力の脅し、お金の支配などから自由になることができます。

私たちも自分の身を守ろうとして真理に反する行動を取ることがあります。イエスは人々の不信実によって、無実の罪で十字架にかけられました。しかし、それはユダヤ人にとってのスケープゴート、身代わりのいけにえでもありました。

私たちは真のいのちのみなもとであるイエスに属することによって、死の脅しから解放されました。私たちは、死の脅しに屈することなく真理に従う自由を与えられたのです。

当時のユダヤの権力者たちは、エルサレム神殿を中心とした既得権益と自治権を守るために、その基盤を揺るがす運動を起こしそうなイエスを、抹殺しようとしました。ピラトはただただ、自分の任期中にユダヤ人の暴動が起きないことだけを願っていました。その両者の利害が、イエスを殺すことにおいて一致しました。

彼らにとっての真理とは、誠実な生き方ではなく、権力を守ることであり、真理とは力でした。しかし、「永遠のいのち」ご自身であるイエスは、すでに「死の力」に打ち勝っていることを、彼らの手に架けられて死ぬことによって明らかにされました

そしてイエスに従う者も、様々な苦難を通して、イエスにあるいのちを証しすることができます。「真理」とは何よりも、私たちに対する「神の真実」を意味します。どれほどの知識を持ち、学問に通じていたとしても、これを知らない者の人生は、サタンの不真実に負けてしまいます。

私たちに何よりも求められているのは、イエスの真実に素直に応答することです。私たちの信仰(真実)とは、イエスの真実への応答なのです。真理であるイエスご自身が、あなたに真の自由を与えてくださいました。なぜなら、あなたのうちには既に、創造主である「自由の御霊」が住んでおられるからです。

私たちはもう自分で自分を守ろうと頑張る必要はありません。すでに復活のいのちに生かされているからです。

人はときに、保身のために嘘をつくことがありますが、イエスは私たちの心の奥底にある不安に寄り添って、損得勘定を越えた真実な生き方ができるように力を与えてくださいます。イエスの「真実」こそ力の源です。