Ⅱコリント5章11〜21節「キリストのうちにある、新しい創造」

2017年4月23日

教会暦では、イエスの十字架への歩みを覚える四十日間の受難節に、自分の欲望を制するための様々な節制の実践が勧められました。しかし、実は、イースターの季節も四十日間あります。「使徒の働き」では、「イエスは苦しみを受けた後、四十日の間、彼らに現れて、神の国のことを語り…ご自分が生きていることを使徒たちに示された」(1:3)とあるからです。

受難節は、あなたの心の畑から雑草を抜き取るときです。しかしイースターの季節は、そこに新しい花を植えるときです。あなたはどんな種を蒔きますか?このバランスを忘れると、寂しくなった心にサタンの誘惑を招き入れることになりかねません。

イエスの十字架と復活は「新しい創造」(New Creation)の始まりです。先日、ある神学校で面白い人と出会いました。刑務所でエゼキエル37章の「干からびた骨」の復活の話しを聞いて、キリストにあって新しい歩みを始めた方です。

そこでは、イスラエルの民が、「私たちの骨は日からび、望みは消え失せ、私たちは断ち切られる」と絶望していましたが、主(ヤハウェ)は、「わたしがあなたがたの墓を開き・・・わたしの霊をあなたがたのうちに入れると、あなたがたは生き返る」と約束されました(11-14節)。そして、干からびた骨がつながり、筋がつき、肉が生じ、皮膚がおおい、そこに神の息が入って、彼らは生き返り多くの集団が自分の足で立ち上がったと描かれています(4-10節)。

その方は、主の霊を受けて人生をやり直し、三谷地区にこのエゼキエルのビジョンを実現したいと、慣れない勉強に励んでおられます。

「新しい天と新しい地」の完成に向かっての「新しい創造」が既にこの世に始まっています。それはこの世界を創造主ご自身の視点から見直すことです。日々の生活の中に、新しい創造のつぼみを見ることです。

「キリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました・・・アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされる」(Ⅰコリント15:20,22)とあるように、復活のキリストは、どんな絶望的な人をも、生き返らせることができます。それこそ「新しい創造」です。

1.「キリストの愛が私たちを取り囲んでいるからです」

コリント教会は様々な教師の教えを受けて混乱していました。そして多くの人々がパウロの使徒としての権威を疑い、彼が伝えた福音から離れそうになっていました。それに対し彼は、必死に自分の使徒権を弁明します。なぜなら、パウロの教えを拒絶する者は、彼を召したキリストご自身を拒絶することにつながり、いのちを失うからです。

そのことが、「私たちは、主を恐れることを知っているので、人々を説得しようとするのです」(11節)と言われます。その際、彼は、「うわべのことで誇る人たち」(12節)のことを意識しながら、「私たちのことは神の御前に明らかです。しかし、あなたがたの良心にも明らかになることが、私の望みです」(11節)と言います。

人の行動の動機を知るのは神ご自身です。そして、キリストの福音は、何よりも「人間の最奥の聖所」とさえ呼ばれる「良心」において明らかになります。私たちは「罪の赦し」による「新しい創造」という福音を、「良心」において体験するのです。

福音の正しさは、外面的な権威付けによって納得させられるものではなく、心の奥底での「神との和解」として体験させられるものです。

なお、「もし私たちが気が狂っているとしたら、それはただ神のためであり、もし正気であるとすれば、それはただあなたがたのためです」(13節)と記されているのは、コリントの人々が神秘体験や恍惚になって「異言」を語ることに憧れていたからです。そのようなものは、人に見せたり自慢したりするものではなく、隠れた所でなされる神への愛の表現なのです。

しかし、人に対しては、人の理解度に配慮しながら、分かる言葉で語るべきです。ここでパウロは、「あなたがたのため」ということばを強調しています。

そこでパウロは、「キリストの愛が私たちを取り囲んでいる(新共同訳「駆り立てている」)からです」(14節)と言いました。彼はここで、「キリストの愛が逃れ場のないほどに押し迫って来たので、あなたがたを愛さずにはいられない」と証したのです。

そしてその霊的な事実の根拠を、「私たちはこう考え(判断してい)ます」と記しつつ、福音の本質を語ります。それは「ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのです」(14節)という説明です。ひとりのアダムによって、人が死に支配されるようになりましたが、創造主であるキリストが第二のアダムとして、すべての人の死を引き受けてくださったのです。

これは、パウロ自身の体験に遡ると理解しやすいと思われます。彼は自分の力でキリストを見出したのではありませんでした。それどころか彼は、「主の弟子たちに対する脅かしと殺害の意に燃えて」(使徒9:1)いたほどでした。

しかし、ダマスコへの途上で、「突然、天からの光が彼を巡り照らし・・・『サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか』という声を聞いた」(同9:3,4)とあるような予想外の展開でキリスト者とされました。つまり、彼が救いを求めていたのではなく、キリストが彼をとらえ、主のものとしたのです。

そしてパウロは自分の身に起こったことを、「すべての人」に結び付けます。なぜなら、キリストは私たちすべての創造主であり、王であり、私たちと一体となるために人となってくださったからです。

すべての人間は、キリストの御手の中にあります。キリストはすべての人の代表者として、すべての人を背負って十字架にかかられました。そのとき、「すべての人が死んだ」(14節)ということが起こったというのです。

そして続けて、「キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです」(15節)と記されます。

それはたとえば、「あなたの日々の生活の必要をわたしが満たしてあげるから、これからはお金を目的に働く必要はないんだよ。わたしがあなたの心の中に夢を生み出し、あなたを生かすから、世の中の評価など気にせずに、自由に大胆に、わたしを喜ばすために生きてごらん」と言われるようなものです。それが芸術活動であったなら、キリストこそがあなたのパトロンであり、その作品に評価を下してくださる方という意味です。

それは先に、「私たちはみな、キリストのさばきの座に現れて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受ける」(10節)と記された通りです。キリストは私たちの創造主であり、真の雇用主であり、最終的な評価を下してくださる方であり、私たちにとってのすべてです。

私たちはキリストの愛が押し迫ってきた結果として、キリストのために生き始めました。あなたはそのような最初の出会いを忘れ、信仰生活を肉の力で全うしようとして疲れを覚えてしまうということがないでしょうか。

そのような誤解は初代教会の時代からありましたが、パウロはそのような人に向かって、「あなたがたはどこまで道理が分からないのですか。御霊で始まったあなたがたが、いま肉によって完成されるというのですか」(ガラテヤ3:2,3)と熱く語り、原点に立ち返るようにと促しています。

しかし、パウロの例にも明らかなように、イエスは主です(Ⅰコリント12:3)とあなたが告白できるのは、主があなたをとらえてくださったことの結果に過ぎません。あなたは神の好意を勝ち取るために毎週礼拝に参加しているのではなく、神にとらえられ、愛されたことの現れとして礼拝に来ているのです。

確かに、この世の誘惑を退け、様々な犠牲を払わなければ礼拝に出ることもできません。しかし、そのように礼拝を守ってきた人々は、自分が「キリストの愛」に捕らえられ、押し迫られ、駆り立てられてきたという一様に告白することでしょう。

2.「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です」

「ですから、私たちは今後、人間的な標準で人を知ろうとはしません」(16節)とは、生きる方向が異なった結果として、自分や人の見方が変わるということではないでしょうか。

「人間的な標準で」とは、原文では、「肉にしたがって」と記されています。私たちが自分を中心に人を見るとき、「あの人と親しくすると良いことがありそう・・・」とか、「あの人は私を必要としてくれる」などと、自分の価値を上げてくれる人か、反対に下げる人かというような基準で見ていないでしょうか。

しかし、この世界を、キリストを中心に見て行くときに、人間の能力や成功や失敗の尺度は根本から変わります。キリストはすべての人のために死んでくださったのであり、キリストはすべての人を神の栄光のために用いることがおできになるからです。

パウロは続けて、「かつては人間的な標準でキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません」(16節)と記します。当時の人々にとって、「十字架に架けられた者」とは、「神からのろわれた者」であり(ガラテヤ3:13)、イエスは神の国の実現に失敗した人でした。

かつてはパウロもそのように見てクリスチャンを迫害しました。しかし、イエスはご自身の十字架の「死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放して」くださったのです(ヘブル2:14,15)。

それによって、ローマ帝国は、剣の脅しで神の民を支配することができなくなりました。イエスが「死の力」を滅ぼしたので、神の国はイエスによって生かされた人々によって世界に広がり始めたのです。

しかも、最初の使徒たちは、パウロのような博学な貴族からしたら、無学で無能な人々と見えたことでしょう。しかし、パウロは彼らの中に、キリストが生きて働いているのを見ることができました。

それは、彼らが「この世の取るに足りない者」(Ⅰコリント1:28)であるからこそ、そこに「干からびた骨」を「生き返らせる」神の霊の圧倒的な働きを見ることができたのです。パウロは、主の「新しい創造」に圧倒されたのです。

そして、「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です」(17節)という感動に満ちた宣言がなされます。「新しく造られた者です」と訳されたギリシャ語は、ガラテヤ6章15節では、「新しい創造です」と訳されています。

この世界の始まりは、「初めに、神が天と地を創造された」と描かれていますが、この世界のゴールについて、神は、「見よ。まことにわたしは新しい天と新しい地を創造する」(イザヤ65:17)と約束しておられます。つまり、新しい天と新しい地に生きる「いのち」が、すでにこのときから始まっているというのが、ここでの「新しい創造」です

イエスを主と告白するすべての人のうちには、すでに創造主である聖霊が宿っており、あなたは既に「キリストのいのち」をここで生き始めているのです。

これを、「クリスチャンになったら、嫌な自分の性格や気質が変わるはず・・・」というような意味に誤解してはなりません。最初に述べた方も、「俺は頭が悪いから、レポートに苦労する」と言っておられました。でも、同時に、「俺だからこそ、分かり合える人がいるんだ」と、自分の使命に誇りを持っておられます。

私も昔は、「自分の中にある孤独感や不安感が信仰によって克服される・・・」というように願っていましたが、その期待は見事に裏切られました。それどころか、ますます感情が揺れやすく、涙もろく、傷つきやすくなってきている面もあります。

しかし、私はキリストとの交わりを深めることで、自分の気質を喜ぶことができるようになりました。そして、自分の傷つきやすさは、人の痛みに共感する窓になってきているように感じます。自分の感性を、神からの賜物と受け止めるように変えられてきました。

私たちの基本的な気質は、生まれながら決まっている面があります。そして、主は敢えて、異なったタイプの人々を使徒として選ばれました。「新しく造られた者」は、自分のいのちを神の視点から新しく見直すことができるのです。

3.「私たちはキリストの使節(大使Ambassadors)なのです」

私たちは「キリストのうちにある」ことによって、この世の基準に別れを告げます。そのことが、「古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」と記されます。

「新しい天と新しい地」とは、この世界が神にある平和と平安、愛と喜びという祝福で満たされるときを指します。これはヘブル語で「シャローム」と表現されます。

世界はシャロームの完成に向かっていますが、私たちはその基準から、自分や人を見るようになるとき、それぞれの人をまったく異なった尺度で見ることができるのではないでしょうか。

たとえば、企業では、一人ひとりの生産性の違いによって給与に差がつけられるとき、その企業は公平な人事を行っていると言われます。しかし、キリストにある共同体にその基準を持ち込んではなりません。存在の意味が違うからです。

教会の目標は、シャロームの完成です。そこにはあらゆる民族が平和のうちに集められています。教会は、この地での「新しいエルサレム」を指し示す「つぼみ」です。ですから、逆説的に言うなら、「話の通じない」と思える人同士が集まっているところに存在意義があるのかもしれません。

多様性を大切にすると言われても、「もっと気持ちが通い合う者どうしが集まっているほうが、気が休まる・・」と思うこともあるかも知れません。しかし、それでは仲良しサークルと同じです。

教会に一時的な争いが起こることを悲観的に見すぎてはなりません。「言葉も気持ちも通わない・・」と感じあうような人同士が、それでもともに集まり、同じ主を礼拝していること自体が、この世の奇跡なのですから。

パウロは続けて、「これらのことはすべて、神から出ているのです。神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ、また和解の務めを私たちに与えてくださいました」(18節)と記します。

これによると、和解の務め」を与えられている者どうしが和解できていないことは自己矛盾です。私たちは互いに話が通じない状態のままに留まってはなりません。

ただし、その際、順番が何よりも大切です。あなた自身が、キリストによって、神との和解を、心の底から味わうということこそが、話の通じない人に向き合う前に何よりも必要です。私たちが人を赦すことができないのは、神の赦しを自分の中で十分に体験していないことの現れだからです。それこそイエスが弟子たちに教えた主の祈り、「私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目ある人を赦します」という祈りの核心です(マタイ6:12私訳)。

しかも、その際、人を赦すことができない自分の不信仰を責めることも自己矛盾になりえます。それは、まず最初に、「これらのことはすべて、神から出ているのです」と記されている通りです。先に述べたように、自分の信仰が神からの最高の賜物であることを振り返り、感謝し、味わうことこそがすべてに先立つべきです。

その上でパウロは、「私たちはキリストの使節なのです」と自分の使命に言及します。「使節」ということばをほとんどの英語訳ではAmbassador(大使)と訳しますが、この方が誇りを感じられます。

そしてその意味が、「ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい」(20節)と驚くべき表現で描かれます。

神は、あなたの反省の程度によって赦してくださるというのではなく、神の側から、「わたしはおまえを赦したい。わたしの赦しを受け入れてくれ」と懇願しておられるというのです。その神の「懇願」を私たちは取り次ぐのです。

そして、最後に、「神は罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです」(21節)という「新しい創造」のことに再び目が向けられます。

キリストの十字架は、個人的なたましいの救い以前に、「新しい出エジプト」をもたらす「神の小羊」の犠牲と見るべきです。かつてイスラエルがエジプトでの奴隷状態から解放されたように、私たちがこの世のサタンの支配から解放されることです。

サタンの中心的な意味は「告発者」(ゼカリヤ3:1)、「なじる者」とも訳されます(詩篇109:6,20)。それに対し、私たちが受けるべき罪の告発をイエスご自身が引き受け、主が私たちに「白い衣」を着せてくださいました(黙示3:4,5)。私たちはキリストともに死に、ともによみがえった者として、「神の義(真実)」を体現する、キリストの「大使とされているのです。

サタンはそれに対し、「おまえのような前科者が・・・」とか「おまえのような心の闇を抱えている者が・・・」と、私たちが「大使」として失格者であることを「告発」し続けます。

それに惑わされて、「私などは何の役にも立てない」と思う者こそが、エジプトの奴隷状態に留まっている人です。しかし、神はキリストにあってあなたをその奴隷状態から解放してくださいました。イエスが十字架で死んだとき、あなたを無力化する「人間的な基準」も死んだのです。

「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」というみことばは、「心機一転、嫌なこと、すべてを忘れて、一からやり直そう!」というような意味ではありません。

「平安の祈り」にあるように、「神様。私にお与えください。変えられないことを受け入れる平静な心(Serenity)を。変えられることを変えて行く勇気を。そしてふたつのものを見分ける賢さを・・」と祈ることが大切ではないでしょうか。

私たちには、「過去と他人は変えられない」ばかりか、自分の基本的な体型も、基本的な気質も変えられません。あなたには変えられない弱さがあり、能力の欠けがあります。しかし、それはあなたに他の人の助けが必要であること、また他の人の様々な能力の大切さを教えるために与えられた「賜物としての弱さ」ではないでしょうか。

一方、あなたは神と人とに対する行動を「変えて行く」ことができます。それには「勇気」が必要ですが、臆病なために自分のことばかりを最優先するあなたを、「キリストの愛が取り囲んでいる」のです。それこそ私たちの信仰の出発点です。

そして、「神の和解を受け入れなさい」という勧めは、求道者や未信者ばかりに向けたことばではありません。これは私たちが自分の「良心の呵責」を感じるたびに、立ち返るべき神の招きなのです。

そこで告発者であるサタンの声ではなく、「新しい創造」の創始者であるイエスの御声を聞きましょう。