「どうしても心が満たされない人たち」という題の本の中に、「苦悩の75%は自分で作り出したもので、それは避け難い25%の苦悩を取り除こうとすることから派生する」とありました。 “マタイ12章1〜14節「安息日……真のよろこびの回復」” の続きを読む
創世記4章25〜5章3節「創造主の哀しみを知る」
劣等感ということばを普及させた は、「われわれ人間すべての文化は、劣等感情に基いている……すべての目標の中に……神のようになるという努力を見いだすことができる」と言いました。事実、人はみな小さい時から「より賢く、より強く、より美しく、より早く生きる」ことができるように訓練されています。 “創世記4章25〜5章3節「創造主の哀しみを知る」” の続きを読む
マタイ11章16〜30節「人々の期待から自由に生きる」
多くの日本人は、「敬虔なクリスチャン」ということばにあるイメージを重ねます。その枠の中にはたぶん株式投資を勧める営業マンは入らないことでしょう。その後、僕は牧師への召しを受けながら、自分の中にある神経症的な不安感を受け入れられずに悩んでいました。柔和で平安な雰囲気を醸し出す牧師像にはとうていふさわしくないと思ったからです。しかし、今は、そのように人々の期待に沿うことができることの虚しさを思わされます。イエスでさえ、「大食いの大酒飲み」と呼ばれました。それは当時の人々の期待を裏切る自由な振舞いの結果でした。しかし、そこにこそ、人々の常識を覆す、真の自由があります。 “マタイ11章16〜30節「人々の期待から自由に生きる」” の続きを読む
Ⅰペテロ2章13〜25節「職場と信仰 ― ”不当な要求”を受けたとき」
創世記2章4節~3章24節「神のようになることの悲劇」
最初の1分が聞きにくくなっています
「神がいるなら、なぜ世界にこのような混乱があるのか?」という疑問を多くの人が抱いています。今回の箇所はそれに対する答えが記されます。ただ、そこには更なる疑問として、「神はなぜ禁断の木の実をエデンの園に置いたのか?」が湧いて来ることでしょう。しかし、それこそ私たちの発想が、神のようになったアダムと一体化したしるしとも言えましょう。 “創世記2章4節~3章24節「神のようになることの悲劇」” の続きを読む
マタイ11章1〜15節「新しい創造の中に生かされる恵み」
バプテスマのヨハネはヨルダン川で「悔い改めのバプテスマ」を授けていました。それはかつてモーセとヨシュアに導かれたイスラエルの民が、約束の地に入って「神の国」を建てるはずであったという原点に人々を立ち返らせるためでした。 “マタイ11章1〜15節「新しい創造の中に生かされる恵み」” の続きを読む
創世記1章1節~2章3節「神のかたちとして、神の神殿なる世界を治める」
コロナショックによる不況下で、多くの人は明日の生活に不安を覚えています。しかし、聖書にはこの世界の始まりと目的地の両方が記され、私たちの心の目を近視眼的な視点から解放してくれます。「初めに、神が天と地を創造した……」以降の記事は、創造主の偉大さを指し示し、多くの人々の人生観を変え続けてきました。 “創世記1章1節~2章3節「神のかたちとして、神の神殿なる世界を治める」” の続きを読む
マタイ10章24〜42節「神の真実に信頼する真実な歩み」
日本最古の道徳規範として西暦604年に聖徳太子が作ったと言われる十七条の憲法があります。その第一条は「和を以って貴しと爲し、忤(さから)ふこと無きを宗と爲す」です。そして第十七条は、「それ事は独り断(さだ)むべからず、必ず衆とともに宜しく論(あげつら)ふべし」と記されています。 “マタイ10章24〜42節「神の真実に信頼する真実な歩み」” の続きを読む
Ⅱ歴代誌34章8節~36章最後「新しい神殿での礼拝への道筋」
私たちは今、新型コロナウィルス感染対策のため、史上初めて礼拝に集まることが困難なばかりか、賛美の声を上げることができない特殊な時間を過ごしています。インターネットを通して、多くの名説教家のメッセージも聞くことができますが、聖書の基本は、一つの場所に集まり、ともに主をたたえ、みことばの朗読をともに聞くという交わりを築くことであることを忘れてはなりません。 “Ⅱ歴代誌34章8節~36章最後「新しい神殿での礼拝への道筋」” の続きを読む
マタイ10章5〜23節「天の御国を今この地に」
「神がおられるなら、どうしてこんなことが許されるのだろう」ということが、ときに「キリストの教会」の中でさえ起きることがあります。しかし、周りにいる人々も私たちもそれぞれ固有の痛みや不安を抱えて生きながらも、神の導きの中で問題のただ中に置かれるとき、そこに痛みと同時に、様々な恵みと新たな愛の交わりを体験することができます。 “マタイ10章5〜23節「天の御国を今この地に」” の続きを読む