マタイ13章24〜43節「毒麦へのさばきと私たちが受ける栄光」 

2020年11月8日

今回のアメリカの大統領選挙では、二極対立が先鋭化し、互いを徹底的に罵りあっていますが、日本アニメとして世界中で話題になっている「鬼滅の刃」では、主人公の炭治郎は、鬼の勢力を徹底的に憎む鬼殺隊士となりますが、同時に、肉体的に鬼にされた妹の禰豆子を、仲間の攻撃から必死に守り通そうとします。

彼はそのような二極対立を超えた生き方から、鬼に変えられたと思われる人の心にさえ寄り添うようになり、やがて鬼の始祖である鬼舞辻無惨を、人の心を保つ鬼の助けを得て倒すことになります。

善悪が徹底的に色分けされそうな戦いの中に、サタンの手下とされたような人にも寄り添い、その人のうちにある善意を引き出し、最終的な平和を作り出す物語があります。

今回の聖書箇所「毒麦のたとえ」にも似た面があります。この世の悪を退治しようとして、善意に満ちた人まで巻き添えにしてしまうのが、二極化した対立の恐ろしさです。最終的なさばきを神に任すところから、真の平和がこの地に実現します。

1.毒麦を抜き集めるとき、麦も一緒に抜き取るようなことがあってはいけない

13章24-30節に描かれた「毒麦のたとえ」は、36-43節の解き明かしを待つまでもなく明らかになることがあります。

24-26節は、「天の御国は、ある人が自分の畑に良い種を蒔いたことに比べることができます。人々が眠っている間に、その人の敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて立ち去りました。植物が芽を出して実を結ぶと、毒麦も現れました」と記されています。

まず、「天の御国」は、蒔かれた良い種が成長して、実を結ぶことに比較して語られます。決して、天の御国の中に毒麦が含まれているというわけではありません。

なお、ここでの「毒麦」とは、麦に似た成長力のある雑草で、黒い実を結び、その実は特にかびの菌と合わさると強い毒性を発揮すると言われます。初期の段階は麦と区別がつきにくい面がありますが、大きくなって実を結ぶ時期になると誰の目にも明らかになります。

そして、ここではその毒麦を蒔いたのは、「ある人」ではなく、「その人の敵」が、麦畑に混乱を生み出すためにやったことだと思われます。

そのように「毒麦が現れることになった経緯」に関して、「この人の家のしもべたちが主人のところに来て、『主よ、畑には良い種を蒔かれたのではないですか、どこで毒麦を持つことになったのでしょう』と」(27節) と尋ねました。

それに対し、「主人は、『敵対する人が、それを行ったのだ』と」答えています (28節)。つまり、毒麦は自然に生えてきたものではなく、敵対する人が、意図的に蒔いた結果であるというのです。

それに対し、当然のように、「すると、しもべたちは、『私たちが行って毒麦を抜き集めることを、あなたは望まれるでしょうか』と」と尋ねます (28節)。そして、その答えが29、30節で次のように記されます。

「主人は言った。『いや、毒麦を抜き集めるとき、麦も一緒に抜き取るようなことがあってはいけない。収穫まで、両方がともに育つままにしておきなさい。収穫の時期になったら、狩る者たちに、まず最初に、毒麦を集めて焼くために束にしなさい、そして、麦のほうは集めて私の倉に納めなさい、と言おう』」

イエスの時代のパリサイ人たちは、当時のユダヤ社会から律法違反者を無くすことによって神の国が実現すると思っていました。そのため、特に、安息日律法の違反者を摘発することに夢中になり、イエスが安息日に、命の危険にさらされていない人を癒したと言って、偽預言者として殺す相談まで始めました。それはまさに、目の前の律法違反を正そうとして、神の律法の本質を忘れさせる行為でした。

律法と訳されることばはヘブル語のトーラーで、その直訳は「教え」です。律法学者やパリサイ人は、神の愛に満ちたみ教え(トーラー)を、人々が互いを非難し合う基準としての律法に変えました。

それに対しイエスは、ホセア書6章6節の神のことば、「わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない。全焼のささげ物よりむしろ、神を知ることである」を引用しながら、「医者を必要とするのは、丈夫な者ではなく病人です……わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです」(9:12、13) と言われました。

この世の信仰者の共同体は、その構成員が純粋な信仰者で満たされることを望む傾向があります。私たち福音自由の群れも、もともと、真心からイエスを救い主として信じる者たちだけで聖餐式を守ろうとした運動から始まっています。ですから、聖餐式に招く際にも、洗礼を受けているかどうか以前に、毎回、一人ひとりに改めて、イエスを救い主として信じているかを問います。

福音自由のモットーに、「信者のみ、しかし、すべての信者」という告白があります。だからこそ入会の際にも一人ひとりがイエスと出会った体験を証してもらいます。

そこでは、ある種の霊的な新生体験をした人でなければ教会員として受け入れないという、断固とした排除の論理が働く傾向があるかもしれません。それはこの例えでは、「収穫の時」を待つことなく、神の民の群れから「毒麦を抜き集め」ようとする危ない共同体論理になり得ます。

しかし、どのように立派に見える信仰共同体にも、毒麦は存在しますし、それを排除しようとすると、「良い麦」さえも失うことになり得るというのが、このたとえの趣旨です。

ですから私たち福音自由教会の群れは、新しく生まれた人だけで教会を、理想を目指すことは良いのですが、その際、決して、聖書の基準を超えた人間的な尺度を作って、互いが真の信仰者であるかを評価し合うようなことになってはいけません。

正直、最終的に、だれが真の神の国の民とされているかは、神のみが判断できることです。純粋な共同体を目指そうとすればするほど、そこは互いの評価を気にする息苦しい集まりになってしまいます。

2.「からし種、パン種に見られる神の国の爆発的な成長力」

続いてイエスは「別のたとえ」を群衆に示して言われます。それは、「天の御国は、ある人がからし種を取って畑に蒔くことに比べることができます。それはどんな種よりも小さいのですが、生長すると、どの野菜よりも大きくなって木となり、空(天)の鳥が来て、その枝に巣を作るようになります」(31、32節) というたとえでした。

ここでも「種を蒔く」こと自体がたとえの中心になっています。なお、「からし種」は、当時の人が育てる植物の中で最も小さなもので、「畑に蒔いた」ときも誰も気づかないほどですが、その成長はすさまじく、「空の鳥が枝に巣を作る」ほどの大きな木になり、4.6mの高さになるものもありました。

また33節では、さらに群衆に対しての「別のたとえ」が話されます。それは、「天の御国は、女の人がパン種をとって、三サトンの小麦粉の中に隠すと、全体がふくらむようになることに比べられます」と記されます。

ここでも「パン種」は、地に蒔かれる種のように、小麦粉の中に隠されることの効果が描かれます。なお「三サトン」は約40ℓで、当時焼くことができた最大量、百人分のパンに相当しました。「パン種」はその中で隠れる程小さなものでしたが、これほど大量の小麦粉を膨らませる力がありました。

34、35節ではさらに、「イエスは、これらのことをみな、たとえで群衆に話された。たとえを使わずには何も話されなかった。それは、預言者を通して次のように語られたことが成就するためであった。『たとえにおいて、私の口を開くことにしよう。世界の創生から隠されていたことを宣言しよう』」と記されます。

先の14、15節では「たとえによって話す」ことの理由が、イザヤ6章の人々の「心を頑なにする」預言の成就として記されていましたが、ここではその反対に、「たとえによって話す」ことの理由が、世界の始まりの時から隠されてきたことを群衆に知らせるためであると記されます。

そしてここで引用されるのは詩篇78篇2節のことばです。そして、その詩全体では、イスラエルで最も名誉ある立場にあったはずのヨセフの子のエフライムに関して、その代表者がモーセの後継者ヨシュアでしたが、神はそのエフライムを退け、ユダ族のダビデを選んでイスラエルの指導者としたという不思議な神のみこころが告げられています。

それはこの時代としては、当時の人々が期待していたイスラエルの回復が、ダビデ王国の復興としてではなく、イエスから始まる天の御国の爆発的な成長を予期させる「たとえ」として解釈することができましょう。

事実、イエスがこの地にもたらした「天の御国」(神のご支配)は、ローマ帝国の片隅で、誰も気づかないほど小さく始まりながら、やがてローマ帝国全体を変える力を持つようになることにつながります。

たとえば、世界の医療システムを根本から変え、国際赤十字の生みの母とさえ呼ばれるフローレンス・ナイティンゲールは1820年にイギリスの貴族の家に生まれましたが、17歳のときに「神に仕えなさい」という明確な声を聞いたと日記に記しています。

そして、22歳の頃「病める者、悲しむ者に仕える」ことを使命と自覚します。しかし、当時の上流階級のしきたりに従い結婚を迫られる中で、ノイローゼになり身体も衰弱し、三ヶ月間寝たきりになります。そして、回復と共に重病に陥った祖母や乳母の看護をする中に大きな喜びを感じます。

ただ、当時の英国では、看護の仕事は、身を持ち崩した女が最後に行き着く働きと軽蔑されていました。しかし、諦めず道を進む中で33歳に、ロンドンの婦人家庭教師のための病院の看護婦長に任じられます。

そして、34歳で英国がロシヤと戦ったクリミヤ戦争に派遣され、昼夜を問わず傷病兵の看護を続け、多くの人の心を動かし、ついにはビクトリア女王の支援を受け40歳で看護学校を創設、それに習った看護学校はまたたくまに世界に広がります。

またその頃、彼女に感化されたアンリ・デユナンが敵味方の境を越えて傷病兵の治療に励み、それが国際赤十字社の発足に至ります。

ナイティンゲールは、いつも完全な看護を求める思いを抱き続け、同時に、かけ離れた現実に忍耐をしながら、一歩一歩、働きを進めましたが、その心はまさに神に捉えられていたのです。

しかし、そんな彼女も、神の求める完全より、自分の完全を性急に求める傾向を反省し、「ああ、主よ。いまも私は、あなたが見ておられる世界の管理を、あなたの御手から奪い取ろうとしているようです……」と悔い改めつつ祈っています。

彼女は自分を、神の国、神のご支配に服従する「しもべ」として位置づけ、委ねられた仕事を、神の方法で成し遂げるようにと心がけていたからです。そして、そのような謙遜さこそが、多くの人の心を動かしました。

私たちは、このような事例を、特別な偉人の記録と見てしまいがちですが、これは人のわざというより神のみわざ、神の国の成長力の証しです。神は、目に見える人を用いられるのです。

3.「正しい人たちは彼らの父の御国で太陽のように輝きます」

36節では、「イエスは群衆を解散させて家に入られた。すると弟子たちがみもとに来て、『畑の毒麦のたとえを説明してください』と言った」と描かれます。
つまり、これまでの話しは群衆に向けての話しであり、これからは身近にいる弟子たちに向けての話しになるという、聴衆の変化が記されています。

イエスはまず、「良い種を蒔く人は人の子です。畑は世界で、良い種は御国の子らです」(37、38節)と言って、イエスのことばを聞いて生まれる弟子たちの共同体、キリスト教会の成長が、ここでのテーマであるということを明らかにします。それは23節にあったように、百倍の実を結ぶ新しい時代の到来を意味します。

また、24節でも、「天の御国は、ある人が良い種を自分の畑に蒔いたことに比べられます」と記され、31節でも、「天の御国はある人がからし種を取って畑に蒔くことに比べられます」と記され、33節でも「天の御国は女の人がパン種を取って三サトンの小麦粉の中に隠すことに比べられます」と記され、それぞれ、蒔いた種が爆発的な成長を生み出すという前提で記されています。

ところが、「毒麦のたとえ」の核心は、その天の御国の成長の陰で、毒麦もともにそこに混ざって成長することに現わされています。

そのことが「毒麦は悪い者の子らです。毒麦を蒔いた敵は悪魔であり、収穫は世の終わり、刈る者は御使いたちです」(38、39節)と記されます。

全能の神がなぜ、悪魔が毒麦を蒔くことを許し、また爆発的に成長する天の御国の中に、毒麦が成長することを許すのか、その理由は分かりません。ただ、先のたとえにあったように、神は毒麦を私たちが勝手に早まって抜くことをお許しになりません。

私たちは天の御国の成長の傍らで、毒麦がともに成長する不条理を見ながら、それに忍耐するしかありません。また、私たちが自分たちの教会の中から、毒麦を取り除くことに一生懸命になりすぎてもいけません。それは、世の終わりにおける御使いたちの働きに任せざるを得ない面があります。

ただし、それは私たちキリスト教会が、自分たちの群れの中にある悪を放置するということではありません。

使徒パウロは道徳的に乱れたコリントの教会に対して、「兄弟と呼ばれる者で、淫らな者、貪欲な者、偶像を拝む者、人をそしる者、酒におぼれる者、奪い取る者がいたなら、そのような者とは付き合ってはいけない、一緒に食事をしてもいけない……外部の人たちをさばくことは、私がすべきことでしょうか。あなたがさばくべき者は、内部の人たちではありませんか。外部の人たちは神がおさばきになります。『あなたがたの中からその悪い者を除き去りなさい』」(Ⅰコリント5:11-13) と厳しく戒めています。

この教えは毒麦のたとえと矛盾するようにも思えますが、聖書の教えはその状況により多面的に捉える必要もあります。最終的には神がすべてをさばきますが、私たちが自分の兄弟の悪に無関心であったなら、彼らは悔い改めの機会を失い、終わりの日に毒麦として集められて火の中に投げ込まれるということを覚えるべきです。

そのことが、40-42節で、「ですから、毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終わりにもそのようになります。人の子は御使いたちを遣わします。彼らは、すべてのつまずきと、不法を行う者たちを御国から取り集めて、火の燃える炉に投げ込みます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです」と記されます。

ここでは、「人の子」が終わりの日に、御使いたちを遣わして、ご自身の支配する全世界の中から、すべての罪を引き起こすつまずきの石となる者たち、また神の御教えに真っ向から反することを行う者たちを集め、熱く燃える炉の中に投げ込むと警告されています。それはイエスご自身がさばき主のなるときです。

なお、「歯ぎしりする」ということばは詩篇112篇10節からの引用かと思われますが、そこではまず、「主 (ヤハウェ) を恐れ その仰せを大いに喜ぶ人」の「祝福」と「繁栄」が描かれながら、その文脈の中で「直ぐな人たちのために 光は闇の中に輝き昇る」と記されます (112:1-4)。

その一方で同時に、「悪しき者はそれを見て苛立ち 歯ぎしりして消え去る。悪しき者の願いは滅び失せる」と記されます (112:10)。

ただし、マタイ25章14-30節の「タラントのたとえ」では、「泣いて歯ぎしりする」人々の中に、リスクを恐れるあまり、一タラントを地の中に隠したという「怠け者のしもべ」「役に立たないしもべ」が含まれているということです。

一見、何の問題も起こさず、何の失敗もしないようでありながら、その人が自分に与えられた賜物を出し惜しみして、困っている人を見ても、見ないふりをするような人であるならは、同じように神から厳しくさばかれることになるのです。

先の詩篇112篇でも、「歯ぎしりして消え去る」人の対比で記される正しい人は、「彼は貧しい人に惜しみなく分け与えた」(9節) と記されています。つまり、何の間違いも犯さないように見えながら、隣人愛を実勢しない人は、その意味で「毒麦」と同じ扱いになるというのです。

その対比で、この43節ではこの毒麦のたとえの結論として、「そのとき、正しい人たちは彼らの父の御国で太陽のように輝きます。耳のある者は聞きなさい」と記されます。

この背後にはダニエル書12章2、3節の預言があり、そこでは、「ちりの大地の中に眠っている者のうち、多くの者が目を覚ます。ある者は永遠のいのちに、ある者は恥辱と永遠の嫌悪に。賢明な者たちは大空のように輝き、多くの者を義に導いた者は、世々限りなく星のようになる」という明確な復活預言が記されています。

それは、私たちキリストによって良い種としてこの地に蒔かれた者が受ける、あらゆる人知を超えた、驚くべき栄光を指します。

名曲 Amazing Grace の四番の英語の歌詞には、このマタイ13章43節のみことばが引用されながら、「When we’ve been there ten thousand years, Bright shining as the sun, we’ve no less days to sing God’s praise Than when we’d first began(そこに私たちが一万年住んで、太陽のように輝いているとき、神の栄光をほめたたえて日々を過ごしながら、それが今始まったかのように感動していられる)と歌われます。

それが、日本語の歌詞では「御国につく朝、いよよ高く、恵みの御神をたたえまつらん」と、私たち自身の復活の日の喜びの感動が示唆される歌詞になってはいますが、もととなった「正しい人たちは彼らの父の御国で太陽のように輝きます」というみことばを歌詞に込めることができませんでした。

私たちはいわゆる天国と呼ばれるパラダイスで一万年過ごすのではなく、「新しい天と新しい地」、または「新しいエルサレム」に、栄光の身体に変えられて復活し、そこで最初の復活の朝の感動を味わい続けることができるのです。

この世界にあっては、最初の感動は必ず色あせてしまい、「もっと、もっと」という駆り立ての欲求を生み出します。それはこの限りある肉体に結び付いた感覚の故です。しかし、新しい復活の身体を受け取るとき、そのような感動が色あせ、退屈につながるという論理から解放されます。

神の御子が「人の子」の姿で現れ、罪と死とサタンの力に打ち勝って、天の父なる神の右に着座され、この地にキリストの支配が現れ、世界は変えられ続けています。私たちが昔の戦いの歴史を聞いて、当時の常識を野蛮と思えるようになっているのは、この世にキリストが蒔かれた種が実を結び続けているからです。

しかし、サタンはその変えられつつある世界に、毒麦の種を蒔きました。ですから、神の国の広がりの傍らで、サタンの影響力も目につきます。

私たちは毒麦の芽を早い段階から摘み取りたいと思いますが、そうすれば今芽生え始めたばかりの神の民の成長の芽を一緒に摘み取ることになりかねません。私たちはこの地で忍耐しながら、神の御子が御使いを遣わして毒麦を刈り取ってくださるときを、忍耐を持って待つしかありません。

しかし、その忍耐は必ず報われます。なぜなら天の御国の成長力は、からし種やパン種に見られるように爆発的な力を持っているからです。毒麦を摘み取る以前に、サタンの支配下にある人々の心に良い種を蒔き続けることが大切です。

みことばの種が悪魔の子の心さえ変えることができます。そして、私たちは互いの成長が遅すぎるように見えても、私たちの心に蒔かれた種は、この心と身体を、太陽のように輝く栄光の姿へと変える力を持っています。それを待ち望むことこそが信仰の核心です。