マタイ5:1〜12、16:24「大いなる招き」(下村明矢先生)

2020年10月25日

僕は大ちゃんより2歳上ですが、35年前、彼と会ったのは、当時通っていた大阪の20人弱の小さな教会で(我が東京センターチャーチよりは大きいのですけど)、それは僕がクリスチャンになってまだ数年のことでした。ある日その教会の牧師は、大ちゃんに前に出て話をするように言いました。実は大ちゃんはことばがちゃんと喋れないという問題があるんです。ダウン症と、口唇口蓋裂を持って生まれ、その後整形手術はしましたが、言っていることがなかなか聞き取れず、お母さんが通訳をしなければならないという状態でした。だからその日は、牧師が代わりにしゃべって、それに大ちゃんが「そうだ」という時には大きく頷き、「違う」いう時には首を横にフルという、ま、掛け合い方式で話は始まりました。「大ちゃんは『スペシャルオリンピック』でメダルをいっぱい取ったんだよね。楽しかった?」このスペシャルオリンピックというのは知的障害者がスポーツを発表する場で、近くの長居公園に「身障者スポーツセンター」というのが日本で初めて出来、そこで最初の国際試合が行われたばかりでした。大ちゃんは「うんうんうん」と猛烈に首を振って、メダルを高く掲げて、もう満面の笑みです。すると牧師はこっちを向いて、「実はその日、大ちゃんは、本当はもっとメダルが取れたのに、どのレースも転んだり遅れたりした人のことを助けてあげたんです」と言いました。「大ちゃん、そうだよね」同意求めると大ちゃんは、「うん」うなずきながら、でも今度はちょっと恥ずかしそうでした。続いて牧師は、「大ちゃんは、先生が知っている中で一番幸せな人だと思う。それは大ちゃんは、いつも喜んでるから。それはなんでやと思いますか、大ちゃん?」大ちゃんはまっすぐ上を指さします。「神様?」牧師が聞くと、「ウンウンその通り」と言わんばかりにまた何度も首を振ります。でもそのあと、手を挙げて何か言いたげな、また訂正したそうなそぶりです。「え?もっと何か言いたいの?」牧師が聞くと、もう一度「うん」と首を縦に振り、両手を左右いっぱいに伸ばしました。見た人はすぐ十字架のことだとわかりました。「イエス様のこと?ああそうよね、イエス様が大ちゃんのために死んでくださったという事が言いたいんだね」すると大ちゃんは、興奮して「うーん」うなり声上げながら動き始めて、自分も、みんなも、全員イエス様に愛されてるいうことを、身振り手振りで伝え始めました。手話の分からない僕でも、何が言いたいのかはすぐにわかりました。礼拝堂のみんなは泣いていました。牧師も「ありがとう(ありがとう)、ようわかった、大ちゃん」と言いながら涙を拭いていました。なんか僕自身すごいメッセージを聞いて感動した後のような気持ちでした。ほぼ同年代だった僕は、その日仕事で疲れて、ふらふらの状態で礼拝に来てましたが、その証しを聞いてからものすごい元気をもらったし、山上の説教の意味も少しわかった気がしました。

先ほどお読み頂いた箇所は、イエスによって語られた有名な「山上の説教」の最初の部分で、キリスト教に詳しくない人も一度は聞いたことがある箇所かなと思います。イエスは (3)「心の貧しい人」(4)「悲しむ人」(6)「義に飢え渇く人」そして (11)「迫害されている人」は「幸いだ」と言いました。本来、こんな人が幸いなはずないじゃないですか。何がどうなって幸いなんか。なんかまた逆説的な難しいこと言うとるなと。当時はまだ信仰持って数年でしたから、そんな風にも思いました。でも、そうじゃないんですよね。これはもうすでに存在している祝福です。僕らはそれに招かれてるいう事。だって、大ちゃんはそこにいるんだもん。そしてそのために大ちゃんが、何か必死で頑張った訳じゃやないことも確か。それが不思議でした。僕は必死で頑張ってふらふらやったからです。ところで、イエスはこの、山上の説教の最初のところで何を語ろうとされたんでしょう。3つのポイントで皆さんと考えてみたいと思います。

1つ目のポイントは「すでに天の御国は到来し、あなたはそこに招かれている」ということです。

まず3節から10節にかけて、「……の者は幸い」と8回繰り返されてて、これは一般に「8つの祝福」などと呼ばれてます。でもこの8つは、ばらばらの内容じゃないんですね。本当は1つの祝福で、それが8つの側面を持ってるいうのが正しい理解です。そして、3節と10節の後半に2回「天の御国はその人たちのものだから」と同じ言葉が並んでいます。ここで言おうとしているのは、「天の御国というのはこういうところだよ」ということ。天の御国にいるなら、その人はいろんな状況に在っても、それを幸いを感じることができるいうことなんですね。これは、ガラテヤ5:22以降「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、……うんぬん」と。これ「聖霊9つの実」と呼んだりしますが、これは、聖霊によってできた1つの人格の9つの側面ということも可能です。ですから、先ほどの「8つの祝福」も、実は1つの祝福の8つの側面。この世界にいるなら、たとえ四方八方からいろんな風が吹いても、その人はびくともせんどころか、盤石の幸いの中にいるということです。魅力的ですよね。ところでここで言われている「幸いです」は、原語では、8回とも、文章の頭に来てるんですね。新改訳2017では、「……は幸いです」と平板に訳されてますが、この文章、実はBE動詞がなくて、本来感嘆文として読まれるべきなんですね。実際古い訳では3節「幸いなるかな、心の貧しき者」、4節も「幸いなるかな、悲しむ者」となってて、よっぽどこのほうが順当な訳やと私は思います。さて、「幸いです」の意味ですが、これは「本当に裕福だ」「すべてがうまくいっている」いうような非常に強い意味を持つ言葉です。だからそのまま読むと「なんと裕福なことよ、貧しい者は」というびっくりするような内容なんですよね。ある意味これはユダヤ人たちにショック与えるために語られた言葉でした。実はユダヤ教のラビの教えにも、似たような言い回しがあって、でもそこで言われてるのは、「今この世は大変だけど、後の世は大丈夫だから」みたいな意味で、イエスの言おうとしている事とは次元が違いました。イエスはあえて近い言い回しで、でも「今だよ」「あなたが幸いなの今なんだよ」と言ってるわけです。

3節と10節「天の御国はその人たちのものだ」は現在形で、これを聞いた人はすぐそう言う意味だとわかりました。一方それ以外の4節から9節は未来形。これは何を言おうとしているのか。ちょっとたい焼きをイメージしてください。たい焼きは皮とあんこでできていますが、尾っぽから食べたら、一口目は皮しか口に入らないですよね。(僕個人的にはこの尾っぽも好きなんです。立川の「天然たい焼き」おいしいですよね。冬場はしょっちゅう買いました。)でも2口目はあんこが待ってる。「あなたは今、この天の御国に招かれているよ」これは、目の前にたい焼きがある状態です。そして「今はおいしメリケン粉だけど、あなたには、約束がある。終わりの日にはあんこだよ」ということです。

ところで3節の「心の貧しい者」は、普通の貧しさではないんです。言い換えると「心がゼロな者」「神の前に居場所がないと感じてる者」という意味です。そんなあなたも神の国に招かれているよと。「え?私が招かれているのですか?」いつもは恥ずかしくて下ばっかり見てた人がイエスの呼び掛けで、ぱっと目を上げる、そんな状況がここにあるわけです。

「イエス様、わたしのことですか?未来のことか、それともほかの人のことやとばっかり思ってましたが、いまここに天のみ国があるというんですか?それも僕のために開かれているんですか?」と。これが良い知らせです。

「天の御国は到来した。そしてあなたはそれに招かれている」これが1つ目のポイントです。

2つ目のポイントは「未来には、更なる幸いが約束されている」

このあと、幸いの約束が並びます。それを一つずつ簡単に見て行きたいと思います。最初に、4節「悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるから」ここでは「慰められる」と受け身で言われています。この主語は本来「イエスによって」「神によって」つまり神が直接あなたを慰めてくれるということを、あえて主語をはっきりさせずに受動態で言う、これを「神の受動態」と言います。さて、世の悲しみの中でも喪失の悲しみは最大です。大切な人、愛する人を失った悲しみをなぐさめることは、実際本当に難しい。実質不可能と言ってええぐらいです。ところで皆さんは旧約聖書のヨブ記のお話をご存知でしょうか。彼は信仰深い人でしたが、サタンが神の許可を得たということで、健康も、財産も、はたまた10人もいた息子むすめ達も一瞬で失ってしまいます。そんな想像絶する悲劇、痛み、苦しみの中ででも彼は神を信じ続け、最後に「忠実なしもべよ」と呼んで頂き、失った分を回復されただけでなく2倍の祝福を手にしたとあります。もともと大富豪でしたが、何もかもが最初の2倍になったと話は締めくくられています。ところが、家族だけは、10人失って、10人戻って来ただけなんですよね。2倍には成らんかった。どうしてかなと長い間分かりませんでした。が、それは、天国で再会することの楽しみを、神はヨブへの最大のご褒美として取っておられたいうことです。天国で最愛の人と再び会うことができる、それもそれは確実なこと、かつ今度は永遠の再会です。これこそが、神の約束下さる最大の慰めだ、最高の喜び楽しみだということなんじゃないでしょうか。

次に5節「柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐから」について考えたいと思います。ここで言う「柔和な者」は、神の目線を持ってるので人の評価に振り回されない落ち着いた人の事です。魅力的ですよね。モーセは、自分の最も信頼している人たちから非難されましたが、それに対して一切弁解せず、自らの使命を果たしました。自分を正しく評価して、他人には心低くして仕え、悪に惑わされない姿をここに見ます。じゃ5節後半の「地を受け継ぐ」はどうなってんのんか。モーセは確か1㎡の土地も手にすることなく、ピスガの山で死んだと聖書にあります。「矛盾するやん」言うことですが、これはこう考えてください。もし彼が望むなら、この地はすべて父なる神のものですから、神に愛されている者が受け継ぐことはごく自然なことだということです。神の国は、他でもない、僕らが今行きているこの世で完成されるのですから。

次に6節「義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるから」を見てみましょう。この「義に飢え渇く者」とは正しい事をしようと頑張っている人ではなく、キリストの義を待ち望んでいる人のことです。そして「飢え渇く」とは、それなしでは生きていけないほど、それを必要としている状態です。が、イエスは、この不義が正されるために来ました。この世を正し、あなたを正し、すべてを新しくするためにこられたんです。僕らはそのイエスを「飢え渇く」思いで待ってるでしょうか。この世の不義のためにとりなしてるでしょうか。諦めてしまっていないでしょうか。今日本は、新内閣がスタートし、まさに変化の時です。政治が良くなるように、もっと祈りたいと思います。されば「その人は満ち足りる」と聖書が約束してくれているからです。

次に7節「あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるから」この「あわれみ」とは「行動に現われる愛」で、「人の必要を満たす行為」です。そしてこの憐れみを持つ人は、神にあわれまれるって。これも「神の受動態」で、もし僕らがあわれみ深いなら、やがて神のあわれみを受けるということ。これは約束です。ですから僕らがもし人の必要を満たすなら、僕らの必要は満たされるいうことなんですね。逆に自分の必要が満たされてないとしたら、人の必要を十分に満たしてあげてないんちゃうか、周囲にほったらかしの人がいるんちゃうかと、ちょっと考えてみるのは良いことかもしれません。

次に8節「心のきよい者は幸いです。その人は神を見るからです。」。「ナルニヤ国物語」を書いたC.S.ルイスは「私は無私になったことは一度もない」と言っています。正直なコメントです。罪とは自己中心と言いますが、C.S.ルイスのことばを借りると、僕らは、つねにええもんと悪いもんの混合物やいうことです。しかし、ここで用いられている「きよい」は「純粋」が原語です。イエスがこれを語られた時、詩篇24:3-4を念頭に置いて語られたことは間違いないと思います。「だれが、主の山に登り得るのか。だれが、聖なる御前に立てるのか。手がきよく、心の澄んだ人。そのたましいを、むなしものに向けず、偽りの誓いをしない人。」ぼくらは、どこまでそのきよさを求めているかなと考えさせられます。でも僕らの努力では絶対きよくなんかなれないんですね。この福音書が書かれたのはAD70年、すでにイエスの十字架の死後40年近く経ってます。つまりイエスの十字架による贖いは終わっている。イエスの死と復活を通して贖いに与った人たちは、まさにその血潮によって罪がきよめられた人たち、きよくされた人たちです。もちろん2000年後の僕たちを含め。そしてその人たちは、やがて「(神の)み顔を仰ぎ見る」と黙示録22章に約束さています。これも壮大な約束ですね。

9節「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。」平和をつくると言うのは、平和を希望するとか、平和に生きるみたいな、静的なものではなく、もっと動的なものです。もともと「平和をつくり出す」といえばローマ皇帝の仕事で、その結果「パックスロマナ」(ローマの平和)というものが、当時生み出されてたわけです。でもそれは、皇帝に背かない限りの平和という、条件付き、かつ今でいう忖度の世界。これに対して、神の子どもと呼ばれる peace maker は、本当の平和のためには火中の栗をも拾う人のことです。いじめられっ子がいたときに、僕らそれを見てどうするかですよね。もし取りなすなら、(心の中で祈るのももちろん素晴らしい取りなしです)、僕らは神の子どもと呼ばれるという、この約束を覚えたいと思います。「未来に幸いが約束されてる」2つ目のポイントです。

3つめのポイントが、「十字架への招き」です。

10節「義のために迫害されている者」が出て来ます。その前6節には「(義に)飢え渇く者」が出てきましたから、その「飢え渇き」が高じて行動に出ると、その反発から迫害を受ける可能性があるということです。悪い事して苦しむのを「罰」と言いますが、いいことして苦しむのを「迫害」と言うんですね。でも僕らは迫害は嫌いです。しかし義に飢え渇いて、それを本気で求めるなら、場合によってはそういう可能性もあると。イエスに従うということはそういう危険も伴ういうことです。正義を主張する、あるいは戦争や争いではなく平和を求める時、周りから反発され、攻撃受けるいうのはよくあることです。今年の夏は、終戦75周年で、いろんな特集がありましたが、すでに百歳近い元陸軍兵が、「今だから言うけど、何であの時、上官に言われるままに中国人の捕虜殺したんやろう」と、この75年間誰にも言えずそのこと、一人で苦しんで来た」という告白の文章が新聞に載っていました。「でも喋って楽になりました。戦争は絶対いけません」と。もちろんあの環境で若干二十歳の二等兵が上官の命令に逆らうなんてことあり得たのかどうか分かりません。でもその後、丸3/4世紀、両親にさいなまれ、たった一人で苦しむことがあの時わかってたらもう一つの選択肢もありえたんちゃうかなと思います。もちろん僕ができるというわけじゃないです。でもそういう選択肢があると無いとじゃ大違いです。聖書は、その時受ける迫害は幸いだと言うんですよね。「迫害は幸いだ」と。それは「天の御国はその人たちのものだから」と。この「天の御国」こそが、さっきの8つの約束の前提であり、結論なんです。私たちは今この神の国に招かれているということです。

実際この山上の説教を聞いた人たちは、いわゆるきれいごとの通用する人たちではありませんでした。孤独で、不安で、毎日のパンにも事欠くような人たちでした。でも、こういう人たちに対するリアルな約束としてこの言葉が語られたいうことです。迫害があっても、あなたは預言者と一緒だよ。天の報いは大きいよって。だから喜べって。僕もリアルな語り掛けとしてこの言葉を聞きたいと思います。

でも、そう思いつつも、この山上の説教は、まだまだこの社会とは距離あるなというのが、僕の正直な実感でした。ところが、あの大ちゃんの、あの喜ぶ姿を見たとき、初めて、今の世界にある神の祝福を見た気がしたんです。ああ、これがあの山上の説教の言う天の御国なんやと。訳も分からず涙が止まりませんでした。僕は人が「幸いや」と言うものばっかり求めてやって来ました。でも大ちゃんは別の方向向いてるんですよね。180度。大ちゃんの様子見て、この世的には幸いと思う人いないでしょう。大ちゃんは、いつも隅に追いやられて、仲間外れにされ、無視されてる。だれもそんな大ちゃんのようになりたいとは思いませんよね。でも大ちゃんは神の国では歓迎され、評価され、価値あるものとされてる。だから大ちゃんは微笑むのです。大ちゃんは決して競争をしません。神の国には競争はないからです。僕らは、天の御国にいる限り、みんな同じ家族ですよ。同じチームです。だからみんなが勝つんです。イエスによって。それを大ちゃんは知ってるということです。

大ちゃんは、僕らの教会には高齢の独身の3姉妹が居たんですが、大ちゃんは、長女のまさよさんが亡くなった時、悲しむ2人の妹さんのところに行って、2人の顔見つめて、涙が流れない自分の目から、涙が流れていることを指で示して、手を組んで下を向いてお祈りの恰好をし、そのあともう一度二人の顔を見て、しっかり2人の手を握って、さっと立ち去りました。僕らその一連の動作見てましたが、一言も言葉は発せんかったけど、でも大ちゃんの言いたいことは全部伝わりました。「僕はあなた達と同じ思いで、まさよさんの死を悼んでます。だからあなたのことをお祈りします。元気を出してください」って。大ちゃんの慰めは、言葉介さんかったけど一番心に響いたと妹さんたちは言っていました。大ちゃんはこの世からは拒絶されてますが、大ちゃんの中にはイエス様が住んでおられる。だから、これだけの慰めが伝わるのですよね。さて僕らは、ここから何を教えられるでしょうか。僕ら自身、もっとイエス様に近いクリスチャンライフを送りたいと思うし、どうしたらそうなれるのかなと思う日が、それからしばらく続きました。

そして何年もたって示されたのが、最初に朗読頂いた2つ目のみことばやったんです。そのこと短くお話して終わります。マタイ16:24「それからイエスは弟子たちに言われた。『だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、私に従って来なさい。」このみ言葉有名ですけど、皆さんどんなイメージですか?「自分を捨て」言うのは、自我を殺して思い十字架背負ってという、難行苦行を思い浮かべますか。以前の僕はそうでした。でも神学校の授業で、それは逆だと教えられたんです。「自分を捨て」とは、自分に徹することだって。他人に成ろうとしない。与えられた賜物に正直に生きる。神の計画を自分の賜物の中身読み取って、それに喜んで生きる。これまで知らず知らずやって来た、人まね人生を捨てるいうことです。仏教が己をゼロにして無色透明になることを理想とするなら、僕らはその逆に、自分を愛し、自分に与えられた個性に生きる。それに生き切るということ。これが自分の十字架を負うことなんだと教えられました。ニック・ブイチチ、野口英世、ヨハン・セバスチャン・バッハ、マザー・テレサ、レーナ・マリア、大ちゃん、誰かの真似なんかしてたらああは成れんかったということです。彼らは自分に生き切った、だから死んだときには「自分の人生はこれでよかった」と心から思えたことでしょう(もちろんまだ生きておられる方はおられますけど)「十字架への招き」3つめのポイントです。

「8つの幸い」と、「自分の十字架を負う」ということ、マタイの残したこのイエスの2つのことばの共通メッセージは、世の基準で自分の人生判断するなって。一時的な状況見て一喜一憂するなって。そして天のみ国に生きる者として、今の祝福と将来の約束に目を留める。中でも自分の賜物に神の計画を読み取って、他人に成ろうとせんと、自分に徹し、もっと自分らしく、もっとあなたらしくいきるということ。人の評価は二の次だっていうことです。大ちゃん見ててそう思いました。そこに幸いがあると。そして心に悲しみを持つ人こそ、心貧しい人こそ、イエスの声に気づいてはっと目を上げることができる。それに気づいて「お従いします」「与えられた賜物に徹します」と言えたら、その時、天のみ神の国が、僕らの中に豊かに出現するんじゃないでしょうか。


祈り

あなたの到来によって天のみ国に、今招かれていることを心から感謝します。世に浸りすぎて、その御国への招き、十字架の招きを聞き逃すことがありません様に。またあなたが私たち一人ひとりに備えてくださった賜物を最大限大切にし、こだわり、喜んでその実をあなたと周りの人たちにお捧げできるように導いて下さい。その中にあなたから頂く不動の喜びがあるからです。そしてあなたの約束された8つの祝福を思う存分味わう人生となります様に。