ヨブ記1章「主 (ヤハウェ) は与え、主 (ヤハウェ) は取られる」

2020年12月6日

この世界の出来事に、「原因があって、結果がある」という因果律を見ることは、物事を成し遂げるために大切な真理です。ただ、開拓農民の倅として育った私は、「怠けていると、冬に凍え死ぬ」という恐怖が心の底に焼き付きすぎて、ゆっくりと日常生活の中に楽しみを見出すことが疎かになったのかもしれません。それどころか、心の底のどこかに、頑張ることができない人への冷たさがあることに気づかされることがあります。

しかし、ヨブ記は、そのような因果律を超えた意味での「わざわい」にあった人の物語が描かれています。人生を因果律ばかりで考える人には、心の余裕が失われます。そればかりか、人の痛みへの共感が生まれず、愛の交わりが育まれません。

大切なのは、今、このままの自分に神の眼差しが向けられていることを知ることです。その愛の眼差しの中で、わざわいを見ることができるなら、心の余裕が生まれます。

1.「彼は必ずや、あなたの顔に向かって呪うに違いありません」

ウツの地に、その名をヨブという人がいた」(1節) と記されますが、「ウツ」がどこなのかは分かりません。ヤコブの母リベカの実家であったハランの地であるという解釈と死海の南のエドムの地であるという解釈があります。

記された時期については、エゼキエル14章14節に、「たとえ、そこにノアとダニエルとヨブの、これらの3人の者がいても、彼らは自分たちの義によって自分たちのいのちを救い出すだけだ」と記されているところから見ると、バビロン捕囚期前のことかとも思われますが、定かではありません。

ただ、内容は大昔のことのようでも、ヘブル語文体はバビロン捕囚期以降という言語学者の判断があります。

ヨブの人格について、「この人は誠実で直ぐな心を持ち」(1節) と記されますが、これは「この人は完全で、まっすぐで」と訳した方が直訳的かと思われます。かつて (ヤハウェ) がソロモンに対し、「もしあなたが、あなたの父ダビデが歩んだように、全き心と正直さをもってわたしの前に歩む……なら……あなたの王国の王座をイスラエルの上にとこしえに立たせよう」(Ⅰ列王9:4、5) と言われましたが、そこでの「全き」と「正直」ということばがここでの「誠実」と「直ぐな心」に対応します。

これは何の欠点もない人という意味ではなく、生きる方向の問題です。そのことがここでは、「神を恐れて悪から遠ざかっていた」と描かれます。ただ、この後半も含めた四つの性質を重ねて用いられるのはアブラハムにも勝る人格者であるという響きが感じられます。

そして2、3節にはヨブには7人の息子と3人の娘と多くの家畜と多くのしもべを所有する、「東の人々の中で一番の有力者であった」と描かれます。

そして、彼の家がアブラハムの子孫やダビデに家よりはるかに健全だったようすが、「彼の息子たちは互いに行き来し、それぞれ自分の順番の日に、家で宴会を開き……よく一緒に食べたり飲んだりしていた」(4節) と描かれます。

そして、ヨブが息子たち一人ひとりを大切に訓練し、導いている姿が、5節において、「宴会の日が一巡すると、ヨブは彼らを呼び寄せて聖別した。朝早く起きて、彼ら一人ひとりのために、それぞれの全焼のささげ物を献げたのである。ヨブは、『もしかすると、息子たちが罪に陥って、心の中で神を呪ったかもしれない』と思ったからである。ヨブはいつもこのようにしていた」と描かれています。

ここには、イサクにもヤコブにも決定的に欠けていた理想的な父親の姿が描かれているとも思えます。一人ひとりの子どもたちを等しく大切にしているからこそ、子どもたちは互いを喜び合うことができます。

そして、息子たちの罪に向き合うことができなかったダビデとは違い、一人ひとりが創造主なる神との健全な関係が守られるように真剣に向き合い、真剣に祈っています。

ところが、「ある日、神の子らがやって来て、主 (ヤハウェ) の前に立った。サタンもやって来て、彼らの中にいた」(6節) と記されます。「神の子ら」とは御使いのことだと思われます。

Ⅰ列王記22章19節以降には、預言者ミカヤが、「私は主 (ヤハウェ) が御座に着き、天の万軍がその左右に立っているのを見ました。そして、主 (ヤハウェ) は、『アハブを惑わして攻め上らせ、ラモテ・ギルアデで倒れさせるのはだれか』と言われました。するとある者はああしよう、別の者はこうしよう」と語り合っている天の御座のようすが描かれています。

詩篇82篇には「神は、神の会議の中に立ち、神々のただ中でさばきを下す」と記されるように、神の王座を囲んだ御使いたちの会議があったと考えられます。

そこで、サタンも御使いの中に立っていました。サタンとは、「告発する者」(詩篇109:6) とも訳されます。ゼカリヤ3章1、2節には、大祭司ヨシュアの「右手に立って」、彼を訴えるサタンの姿と、それに対し、主ご自身がサタンを「とがめる」ようすが描かれています。

とにかく、サタンの働きは、主 (ヤハウェ) にその人が「主の前に立つ」のに相応しくないと告発することにあります。

とにかくその天の会議において、主 (ヤハウェ) はサタンに、「おまえはどこから来たのか」と問われます。そして、サタンは主 (ヤハウェ) に、「地を行き巡り、そこを歩き回ってきました」と答えます。そこでサタンは、神の厳しいさばきを与えられて当然ともいえる存在を探していたのかと思われます。

そこで、主 (ヤハウェ) はサタンにご自身のしもべヨブを自慢するかのような口調で、「おまえは、わたしのしもべヨブに心を留めたか。彼のように誠実(完全)ですぐな心を持ち(まっすぐで)、神を恐れて悪から遠ざかっている者は、地上には一人もいない」と、1節の表現を繰り返しながら、ヨブが地上で最高の人格者であると言われました。

それに対し、サタンは、「ヨブは理由もなく神を恐れているでしょうか」(9節) と答えます。それは、神がヨブに特別な恵みを施しているからこそ、その当然の応答として「神を恐れている」にすぎないということを、「あなたは垣を巡らされたではありませんか、彼の周りに、その家の周りに、またすべての彼に属するものの周りのすべてにわたって。あなたが彼の手の働きを祝福されたので、彼の家畜は地に増え広がっています」と言いました。

つまり、ヨブは神から特別な保護を受け、その働きが豊かな実を成らせるように導かれた結果として、神を恐れているのにすぎないというのです。働きが豊かな実を結ぶというのは神の特別な「恵み」なのですが、ヨブが神を恐れているのは、そのような打算に基づいているというのです。

サタンはそれに対して、「しかしながら、あなたの手を伸ばして、彼に属するすべてのものを打ってごらんなさい。彼は必ずや、あなたの顔に向かって呪うに違いありません」(11節) と神に提案します。

人は、自分に利益をもたらさない存在を否定することが多く、神を恐れ敬うのも、自己中心性の延長に過ぎないというのがサタンの理解です。残念なのは、神は、そのようなサタンの提案に乗っかって、「では、彼に属するすべてのものをおまえの手に任せる。ただし、彼自身には手を伸ばしてはならない」(12節) と言われたことです。

ここでサタンは、神が直接、ヨブに攻撃をしかけるように言ったことに対し、主はその攻撃をサタンの手に任せると言われていることが驚きです。ヨブにわざわいを下すのは、サタンの「」なのですが、それが神の許可の中で起きていることなので、神がわざわいをもたらしたことと同じ意味になります。

イエスも、「そんな雀の一羽でさえ、あなたがたの父の許しなしには地に落ちることはありません」(マタイ10:29) と言われました。雀が地に落ちるのは、疲労困憊の結果かもしれませんが、そのような直接的な理由の背後に、神が雀の落下を容認したという神の御手のわざがあったというのです。

私たちがわざわいに会うのにも、直接的な加害者がいる場合がありますが、それも神の御支配の中にあって起こることです。

2.「私一人だけが逃れて、あなたに知らせに参りました」

13節では、第一のわざわいが起こったようすが、「ある日のことであるが、彼の息子、娘たちが、一番上の兄の家で食べたりぶどう酒を飲んだりしていた。一人の使者がヨブのところにやって来て言った。『牛たちが耕し、そのそばでロバたちが草を食べていましたが、シェバ人が襲いかかってこれを奪い取り、若い者たちを剣の刃で打ち殺しました。私一人だけが逃れてあなたに知らせに参りました」と記されます。

シェバ人とはアラビア半島の部に住む民族で、彼らはヨブの家畜を奪い取り、家畜の世話をしていた「若い者たち」を「剣の刃で打ち殺し」てしまったというのです。

これは、のどかな生活の中に、突然の大きなわざわいが下ったことを意味します。それをもたらしたのは、シェバ人という人間たちですが、彼らはサタンに動かされてヨブの家畜を奪い取ったのです。ただ、それも「神の御手の中で」起きたことです。

さらに第二のわざわいが下ったようすが、「この者がまだ話している間に、もう一人が来て言った。『神の火が天から下って、羊と若い者たちを焼き滅ぼしました。私一人だけが逃れて、あなたに知らせに参りました』」(16節) と記されます。

ここでの「神の火」とは雷のことかと思われます。これは天から来たわざわいです。突然、「神の火」が下って多くの若い者たちが焼き滅ぼされるというのは、何か神から特別な怒りを買う理由があったのかと思わされるようなわざわいです。しかし、これも淡々と悲劇だけが描写されます。

さらに第三のわざわいが、「この者がまだ話している間に、もう一人が来て言った。『カルデア人が三組になってらくだを襲い、これを奪い取り、若い者たちを剣の刃で打ち殺しました。私一人だけが逃れて、あなたに知らせに参りました』」と描かれます。

イスラエルの民の感覚としては、カルデア人は北から攻めてきます。これは北から襲ったわざわいで、当時は非常に大切な「らくだ」が奪い取られ、またその世話をしていた「若い者たち」が「剣の刃で打ち殺」され、またたった一人の使者だけが生き延びたというのです。

第四のわざわいが、この者がまだ話している間に。もう一人が来て言った。『あなたのご子息お嬢さんたちは、一番上のお兄さんの家で食べたりぶどう酒を飲んだりしておられました。そこへ荒野の方から大風が吹いてきて、家の四隅を打ち、それがお若い方々の上に倒れたので、皆さま亡くなられました。私一人だけが逃れて、あなたに知らせに参りました』」と描かれます。

ここでは、第一のわざわいが起きた時の兄弟たちがともに食事をし、ぶどう酒を飲んでいるというのどかな喜びの場面が描かれながら、そこに荒野の方からの強大な風が吹いてきて、長男の家をたちどころに倒壊させ、みなを殺したと描かれます。この際の、「荒野の方からの強大な風」は当時のイスラエルの民の感覚では、東から吹いて来ます。

しかも、ここでの「お若い方々」とはヨブの子どもたちのことを指しますが、これまでの三回のわざわいで犠牲となった「若い者たち」と同じヘブル語が用いられています。

若い者たち」が、二回にわたって「剣の刃で打ち殺され」、また他の一回は天からの「神の火」で焼き滅ぼされたのですが、最後に、建物の下敷きになって死んだ「若い者たち」はヨブ自身の子どもたちでした。

ここではわざわいの程度がどんどん激しくなるようすが描かれています。そして、その報告が、わざわいを逃れた「たった一人の使者」によってもたらされるのですが、毎回、その報告がなされている最中に、次のわざわいの報告が入ってきています。

まさにヨブにとっては、一瞬のうちに彼に属するすべての財産や子どもたち、またしもべたちが失われたことを意味します。それはみな、何と神の御許しの中で、サタンがもたらしたわざわいでした。

横田早紀江さんは、めぐみさんを北朝鮮に拉致されて半狂乱になるかのように嘆いていました。当時はまさか北朝鮮の工作員が新潟県に入りこんで少女を拉致するなど、思いもよらないことでした。どうしてめぐみさんが忽然と自分の前から姿を隠したのか、考えれば考えるほど、絶望感に打ちひしがれました。

ヨブの場合もそうです。自分の身に突然、南から、天から、北から、また東からわざわいが降ってきました。詩篇31篇13節の以前の訳で、「四方八方みな恐怖だ」ということばがありましたが、まさにそんな状況です。

早紀江さんもそのよう中で、友人から聖書を送られ、ヨブ記を読むようにと勧められました。彼女は、自分以上の苦しみに会った人のことが、神に特別に愛されていた人であることが分かって、不思議な気持ちになりました。それはまさに、因果応報を真っ向から否定する視点だったからです。

彼女はヨブの気持ちに自分を重ねることで、祈ることができるようになりました。彼女は、その結果を、「息がしやすくなった」と表現しています。

私たちのまわりにも、原因不明のわざわいに会って苦しんでおられる方がいるかもしれません。そのときに、安易に原因を分析されることが、どれだけ人を傷つけることかを知る必要があります。

大切なのは、すでに起きてしまっているわざわいの中で、呼吸ができるようになることとも言えましょう。早紀江さんの場合は、めぐみさんが北朝鮮に拉致されたとわかるまで、20年もの年月が必要でした。

3.「これらすべての中にあって、ヨブは罪を犯さなかった。また、神に対しての非難をしなかった」

それを聞いたヨブの動作が、「このとき、ヨブは立ち上がって上着を引き裂き、頭を剃り、地にひれ伏して礼拝した(「地に身を投げ、ひれ伏した」(共同訳))と描かれます。それは激しい悲しみの表現であると同時に、神の御前に徹底的に身を低くする姿勢です。

その上でヨブは、まず、「裸で私は母の胎から出てきた。また裸で、そこに戻ろう」と言います。これは文字通りには、母の胎に「戻るように描かれていますが、母の胎では何も無いところにいのちが誕生したことを指しているのですから、何もないところから裸で生まれ出て、何も無いところに裸で去って行くということを描いたものです。

伝道者の書5章15節では、「母の胎から出て来たときのように、裸で、来たときの姿で戻って行く」と記されています。

Ⅰテモテ6章6-8節では、金銭愛から自由な生き方が、「満ち足りる心を伴う敬虔こそが、大きな利益を得る道です。私たちは、何もこの世に持ってこなかったし、また、何かを持って出ることもできません。衣食があれば、それで満足すべきです」と描かれています。

私たちは誰もが、裸で生まれ出て、裸で去って行くのです。

それに続いてヨブは、「 (ヤハウェ) は与え、主 (ヤハウェ) は取られる。主 (ヤハウェ) の御名はほむべきかな」と告白します。それは、彼が持っていた多くの財産と子どもたちは主の一方的な恵みであったと受け止めながら、同時に、主はご自身の時にそれを取り上げられたと理解したことです。

ここで「 (ヤハウェ) 」という御名が三回続きます。そこには、主ご自身が、「わたしは『わたしはある』という者である」(出エジ3:14) とご自身を紹介されたことの意味が隠されています。そこには、主 (ヤハウェ) こそが、すべての存在に先立ち、すべての存在を生み出す方であるという意味が込められています。

後にパウロは、「すべてのものが神から発し、神によって成り、神に至るのです。この神に栄光がとこしえにありますように」と祈っています (ローマ11:36)。

横田早紀江さんも、めぐみさんが生きていることを信じながらも、自分たちのもとからめぐみさんが取り去られたことは確かであり、そのめぐみさんを与えてくださった方も、神であることを知りました。早紀江さんの聖書には、このみことばにマーカーがついていました。

その後、早紀江さんは、ヨハネの福音書9章にまた感動します。イエスの弟子たちが、生まれつきの盲人を見て、「先生、この人が盲目で生まれたのは、誰が罪を犯したからですか。この人ですか、両親ですか」と尋ねました。まさに無神経極まりない質問ですが、意外にみんな心の底で、わざわいに会った人をそのように見ている場合があります。

それに対しイエスは簡潔に、「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神のわざが現れるためです」と答えられました。わざわいの原因ではなく、それから何が生まれるかを語られたのです。

早紀江さんは、めぐみさんのことを通して、北朝鮮の闇が暴かれ、世界中の人々に独裁政権の恐ろしさが顕わになり、また闇の中にいる人に目が向けられそこから新しい動きが生まれていること自体を喜んでおられます。

一人の少女の拉致を通して様々な世界情勢の動きが見えるようになり、そこに働く神のみわざも見えるようになっているとも言えます。拉致が正当化されることは決してないですが、その痛みが無駄にはなりませんでした。

最後の22節では、「ヨブはこれらすべてのことにおいても、罪に陥ることなく、神に対して愚痴をこぼすようなことはしなかった」と記されます(新改訳)。

これは原文を忠実に生かすと「これらすべての中にあって、ヨブは罪を犯さなかった。また、神に対しての非難(攻撃)をしなかった」と訳すこともできます。

新しい共同訳では、「このような時でも、ヨブは罪を犯さず、神を非難しなかった」と訳しています。

なお、2章以降には、ヨブの「嘆き」ばかりが記され、これは神への「愚痴」としか言えないようなものですが、それはヨブの罪とは描かれていません。

42章7、8節を見ると、神の正義を弁明したつもりになっていたヨブの三人の友人に対して神は怒りを燃やして、「あなたがたは、わたしのしもべヨブのように、わたしについて確かなことを語らなかった」と言っておられます。

つまり、神への「愚痴」のように見えるヨブの「嘆き」のことばは神に受け入れられた一方で、神の正義を弁明したはずの3人のヨブの友人のことばは神の怒りを買っているのです。

サタンは、神がヨブにわざわいを与えるときに、「彼はきっと、面と向かってあなたを呪うに違いありません(彼は必ずや、あなたの顔に向かって呪うに違いありません)」と言っていました。

つまり、ヨブがわざわいの中で、「神を呪う」か、それともその反対に、「神にすがりつく」か、それが課題となっているのです。

神とサタンとの対話の中で、ヨブがこのような不当な苦しみを受けるというのは、人間が将棋の駒のように扱われているようで納得し難いことです。しかも、ヨブは最後までその背後にある理由を知ることは許されません。何ともやるせない思いになります。

しかしよくよく見ると、主 (ヤハウェ) はヨブの存在自体を喜びとされる一方で、サタンはヨブに神を呪わせようと、わざわいを下しています。サタンの働きの目的は、「神を呪わせる」ことにあるということを知ることは大切です。

それに対し神は、サタンにヨブを傷つけることを許すことによって、サタンに対するご自身とヨブの勝利を証ししておられます。テーマは、「神にすがる」か「神を呪う」かの二者択一にあります。神はそれをすべての人に明らかにするためにヨブを用いられたとも言えます。

神はヨブを愛し、信頼しておられるからこそ、彼に途方もないわざわいを与えました。そして、この書を読む人が同じように、不条理なわざわいに会う中で、神の愛の眼差しを見られるようになることこそが鍵です。