創世記35章16節~42章9節「夢を見させ実現してくださる神」

2020年11月15日

1990年以降のバブル経済崩壊、1995年のオウム真理教事件、2011年の原発事故は、多くの日本人から信仰的な面での「」を奪い取りましたが、今もその後遺症に支配されている人が多いのかもしれません。たしかに、高度成長時代の多くの人々の「」は、持ち家やマイカーという「空しいもの」だったかもしれませんが、どんな夢であっても、夢を持っているということ自体が人々に生きる力を与えていたと言えるかもしれません。

それにしても、私たちはこの世を支配する不条理の中で、本当の意味での「」を忘れてはいないでしょうか。夢を見させ、それを実現してくださる神のみわざにともに目を向けてみましょう。なお、それは同時に、私たちが自分の人生を神の視点から再定義(リフレイミング)することでもあります。

1.ベニヤミンの誕生、ルベンの罪、エサウの家系

ヤコブがベテルでの礼拝の後、さらに南下する旅の途中、ラケルは「ひどい陣痛」とともにベニヤミンを出産します (35:16、17)。彼女は「死に臨み」ながら、その子を「私の苦しみの子」という意味で「ベン・オニ」と呼びますが、ヤコブは彼を「右手の子」という意味で「ベニヤミンと名づけ」ます (35:18)。

この子の誕生はヤコブにとって最愛の妻ラケルを失うという犠牲を伴いましたが、彼はその子を自分の右手のような名誉ある、かけがえのない子と見たのです。これによってイスラエルの十二部族の父がそろうことになります。

ところがそこで「ルベンは父のそばめビルハのところに行って、これと寝た」(35:22) と記されます。これは父に対する最大の侮辱で、これによって彼は長子の権利を失います (49:3、4、Ⅰ歴代5:1)。

彼は、母のレアが父ヤコブから愛されるようにと、「恋なすび」を持ってきたようなアダルト・チャイルドでした (30:14)。ビルハは、母と愛を競っていたラケルの女奴隷ですから、ルベンには抑えられない情欲とともに、歪んだ家族関係への怒りがあったのかもしれませんが、神は、彼を家族の被害者かのように見はしません。

その上でヤコブの十二人の子の名が母の名とともに記され (35:23-26)、ヤコブが「ヘブロンのマムレにいる父イサクのところに着いた」(35:27) という記述の直後に「イサクは年老いて満ち足り、息絶えて死に」と描かれます。

そこでは、「エサウとヤコブが彼を葬った」(35:29) と、二人の和解が示唆されています。

36章では、「エサウの歴史」が記されます。不思議なのは、「エサウは……弟ヤコブから離れてほかの地へ行った。一緒に住むには所有する物が多すぎて」と記されている点です (6、7節)。エサウはヤコブがこの地に帰って来る前から既にセイル住んでおり (32:3)、一緒に住むにはカナンの地が狭すぎたので「セイルの山地に住んだ」(36:8) わけではないはずだからです。

しかし、ここは時間的な因果関係を超えて、神の視点からエサウとヤコブの和解を描き、彼らの持ち物が多すぎたために、分かれて住むようになったと描かれていると言えましょう。これはアブラハムとロトが分かれて住んだことを思い起こさせる記述です (13:6)。それは、神がヤコブの兄エサウの子孫一人ひとりをも導いておられるというしるしです。

なお31節で「イスラエルの子らを王が治める以前、エドムの地で王として治めていた者は……」と記されますが、これはⅠ歴代誌1:43と同じ表現で、エサウの子孫がエドムと呼ばれ、比較的早い時期に王制を敷き、後にイスラエルの王に支配されることを描いたものです。

また40-43節のエサウから出た11人の首長の名は歴代誌にも描かれます。なお申命記23章では、「エドム人を忌み嫌ってはならない……彼らに生まれた子どもたちは、三代目には、主の集会に入ることができる」(7、8節) と特別待遇にされています。

ベニヤミンという命名、ルベンの罪、エサウに関しての記述すべての共通するのは、人間的な原因結果を超えて、神の視点から目の前の出来事の意味づけを見直す(リフレイミング)必要があるということです。

2.「あの夢見る者」と兄弟たちから憎まれたヨセフ

37章2節には「これはヤコブの歴史である」と記され、ここからヨセフ物語が始まります。まず、「ヨセフは17歳のとき」の悲劇が記される前に、その原因として、「イスラエル(ヤコブ)は、彼の息子たちのだれよりもヨセフを愛していた……ヨセフの兄たちは……父が兄弟たちのだれよりも彼を愛しているのを見て、彼を憎み、穏やかに話すことができなかった」(37:3、4) と描かれます。

ヤコブ自身、「イサクはエサウを愛していた。猟の獲物を好んでいたから」(25:28) という関係で傷ついていたにも関わらず、親の過ちを繰り返しています。

しかも、ヨセフは、兄たちの思いに無頓着に、自分が見た夢を兄たちに告げます。それは、畑で束を作っていたところ、ヨセフの束がまっすぐに立って、兄たちの束が周りに来てヨセフの束におじぎをするというものでした。それを聞いた兄たちは、「おまえが私たちを治める王になるというのか」と言って、「ますます彼を憎むようになった」と描かれます (37:8)。

ところが、ヨセフはなおも別の夢を、「太陽と月と十一の星が私を伏し拝んでいました」と語ります。それは父と母と11人の兄弟たちすべてが彼を伏し拝むという意味でした。父はそれを聞いて怒りながらも、「このことを心にとどめていた(37:11) と記されます。そして、この夢を見させてくださったのは神ご自身でした。その後の記述は、その夢が実現するという物語です。

その後、兄たちはシェケムで父の羊の群れを世話するために出かけ」、父ヤコブは、兄たちの思いに無頓着に、へブロンから約80㎞北に離れたその地にヨセフを使いにやります (37:12、13)。

なお、シェケムはアブラハムが約束の地に入って最初に祭壇を築いた場所であり (12:6、7)、またヤコブがラバンの家から帰ってきた時に土地を購入し、同時に現地の人との恐ろしい争いになった場所で (33:18-35:4)、ヤコブが兄たちと羊の群れを心配するのも当然ですが、彼は息子たちの葛藤を全く見ようとはしていません。

兄たちはそこから約20㎞北のドタンにいましたが、「兄たちは遠くにヨセフを見て……互いに『見ろ。あの夢見る者がやって来た。さあ、今こそあいつを殺し、どこかの穴の一つにでも投げ込んで……凶暴な獣が食い殺したと言おう。あいつの夢がどうなるかを見ようではないか』と話し合った」(37:18-20) と描かれた悲惨が待ち受けていました。

この際、ルベンはヨセフを救い出し、父のところに返そうとしますが、穴に投げ込むことには同意します。しかし、ルベンのいないうちに、ユダの主導で、ヨセフはイシュマエル人の隊商に売られます。それはユダが、兄弟たちに弟ヨセフを殺させないためでした。

この時点から、ルベンに代わってユダが兄弟たちを導く姿が見られます。それにしてもイシュマエル人も、アブラハムの子孫ですが、女奴隷ハガルの子でした。ここに、約束の子が、奴隷の子に売り飛ばされるという皮肉が描かれます。

兄たちはヨセフの長服を雄やぎの血に浸して送り届けます。ヤコブはそれを見て彼が獣にかみ裂かれたと思い、何日も嘆き悲しみ「慰められるのを拒んでみ」、「私は……わが子のところに、よみに下って行きたい」とまで言います (37:35)。

彼にはまだ死後の「いのち」という視点はなかったのだと思われます。それにしても、かつて、やぎの毛を用いて父を騙したヤコブは、息子たちからやぎの血で騙されたのです。

ヨセフはエジプトでファラオの重臣の侍従長ポティファルに売られます (37:36)。ヤコブの息子たちの罪が彼を奴隷に売りました。

確かに神は、それを差し止めることもできたはずですが、ただじっと見ておられました。神は沈黙しておられるかのようです。しかし、すべては神の御手の中で起きていました。

3.「タマルがユダに産んだペレツの家のように」

38章ではユダの物語が記されます。彼はレアから生まれた四男です。ルベン、シメオン、レビはその悪行によりヤコブから疎まれます。しかしユダもカナン人の娘を娶り、三人の息子を生みます。

ユダは「長子エルにタマルという妻を迎え」ますが、エルは主 (ヤハウェ) の目に悪しき者で……主 (ヤハウェ) は彼を殺されたと描かれます (6、7節)。

タマルはそれで次男オナンを通して、長子エルの子孫を残す使命が課せられます。ところがオナンは、タマルを通して兄の子孫を生むことを拒否し、精を地に流します。これはオナニーの語源の罪とされます。それは(ヤハウェ) の目に悪しきことで……主は彼も殺されたと描かれます (10節)。

タマルはユダの三男シェラを通して子孫を残すべきはずでしたが、ユダは息子の死を恐れて、タマルを「やもめのまま」(11節) に残します。彼女は遊女のふりをして、舅のユダと関係を持ち、彼の印形とひもと杖を代金代わりに預かり、妊娠したときそれを彼に見せ、誰の子かを明らかにします。

彼女は、焼き殺される危険を犯して子どもを得ました。それを見てユダは「あの女は私よりも正しい」(26節) と言います。

それが後の時代に、ユダの家系の祝福を願うことばが、「タマルがユダに産んだペレツの家のように」(ルツ4:12) と言われるほどになり、彼女の名はキリストの系図にも登場します。

舅と嫁が関係を持って、子孫を残そうとするということは、神のみこころに明確に反するはずです (レビ記18:15)。しかし、神は、タマルの使命感の方に目を留めて、それを喜んでくださったのです。ここにもリフレイミングが見られます。

4.「主 (ヤハウェ) が彼とともにおられ、彼が何をしても、主 (ヤハウェ) がそれを成功させてくださった」

ところでヨセフの痛みや悲しみが描かれないまま、エジプト侍従長の家で、(ヤハウェ) がヨセフとともにおられたので、彼は成功する者となり……彼の主人は、(ヤハウェ) が彼とともにおられ、主 (ヤハウェ) 彼のすることすべてを彼に成功させてくださるのを見た」(39:2、3) と描かれ、その家の全財産の管理を委ねられます。

さらに「主 (ヤハウェ) ヨセフのゆえに、このエジプト人の家を祝福され」(39:5) ます。奴隷に売られたヨセフが「成功する者」と呼ばれ、彼のゆえにエジプト人の家が祝福されると描かれるのは何とも不思議です。

ただ、「ヨセフは体格も良く、顔だちも美しかった」(39:6) ことに惹かれた主人の妻は、彼に関係を迫ります。しかし、彼は「どうして……神に対して罪を犯すことができるでしょう」(39:9) と拒絶します。ここで初めて彼の信仰が表現されます。それは主の祝福を体験できたことへの応答です。

しかしある日、彼女は彼の上着をつかんで関係を願い、拒絶されると、「私にいたずらをしようとして私のところに入ってきました」(39:17) と濡れ衣を着せます。その結果、彼は「王の囚人が監禁されている監獄に」入れられます (40:20)。

ここでもヨセフの無念の気持ちには触れられないまま、(ヤハウェ) はヨセフとともにおられ、彼に恵み(ヘセド)を施し、監獄の長の心にかなうようにされた。それで、監獄の長は……すべての囚人をヨセフの手に委ねた。ヨセフは、そこで行われるすべてのことを管理するようになった……それは、(ヤハウェ) が彼とともにおられ、彼が何をしても、(ヤハウェ) がそれを成功させてくださったから」(39:21-23) と描かれます。

この描写は、2、3節とほとんど同じで、「 (ヤハウェ) が彼とともにおられ」が二回繰り返され、「 (ヤハウェ) が成功させてくださる」という結果が描かれます。

なお、37章から始まるヨセフ物語には「 (ヤハウェ) 」という名が50章までに12回登場しますが、そのうち8回がこの39章に集中します。他の三回は38章におけるユダの子たちへの怒り、他の1回は49章18節の祈りだけです。

つまり、39章こそがヨセフ物語の核心部分であり、そのテーマは、主は苦難のただ中に、ともにおられ、それを益に変えてくださるということです。

主がヨセフとともにおられるなら、なぜ兄弟から奴隷に売られ、無実の罪で監獄に入れられるのかと思います。その悲劇をもたらしたのは人間の罪ですが、その中で神のご計画は着実に進んでいました。

ですから私たちも、置かれている状況が人々の罪の結果であっても、それも神の御手の中にあることを覚え、そこで誠実に生きることが求められます。神の祝福は、その不条理のただ中に現されるからです。

5.「解き明かしは、神のなさることではありませんか」

40章では、献酌官長と調理官長が「王に対して過ちを犯し」、監獄に拘留され、ヨセフが彼らの「付き人」になったと描かれます。

ある時、この二人は自分たちが見た夢のために悩んでいました。それに対し、ヨセフは「解き明かしは、神のなさることではありませんか。さあ、私に話してください」(40:8) と自分の信仰を告白しながら、彼らに促します。ここでの二人の高官の葛藤と、ヨセフの余裕が何とも対照的です。

献酌官長の夢は、三日のうちに彼がもとの地位に戻されるというものでした。ヨセフはそれを解き明かしながら、「あなたが幸せになったときには、どうか私を思い出してください。私のことをファラオに話して……私に恵み(ヘセド)を施してください」(40:14) と訴えます。

彼は「監獄にいるのが、神のみこころ……」などと諦めることなく、あらゆる機会を用いて、不当な状況から抜け出るように努力しています。一方、調理官長の夢は、三日のうちに木につるされるというもので、すべてがヨセフの解き明かしの通りになります。

ただその後のことが、「ところが、献酌官長はヨセフのことを思い出さないで、忘れてしまった」(40:23) と描かれます。ヨセフの落胆が偲ばれます。そして「それから二年後、ファラオは夢を見た」(41:1) と記されます。ヨセフは二年間も監獄で待ち続ける必要がありましたが、神はご自身の時に、ファラオに不思議な二つの夢を見させ、「心が騒ぐ」ようにされました (41:8)。

そして、献酌官長はこのとき初めてヨセフのことを思い出し、ファラオに紹介しました。王がヨセフに夢の解き明かしの能力を尋ねると、彼は「私ではありません。神がファラオの繁栄シャローム)を知らせてくださるのです」と答えます (41:15、16)。

そして、ヨセフはその夢が、七年間の豊作の後に七年間の飢饉が続くことを意味すると解き明かしました。その際、彼は「神が、なさろうとしていることをファラオに示された」(41:25、28) と繰り返し、「神によって定められ、神がすみやかにこれをなさる」(41:32) と、神のご支配を強調します。

そしてその上で、「さとくて知恵のある人を見つけ、その者をエジプトの地の上に置かれますように……」(42:33) 以下の具体的な政策提言までします。

それに対しファラオは、「神の霊の宿っているこのような人が、ほかに見つかるだろうか……神がこれらすべてのことをおまえに知らされたからには、おまえのように、さとくて知恵のある者は、ほかにはいない。おまえが私の家を治めるがよい……私はおまえにエジプト全土を支配させよう」(41:38-41) と言います。

ファラオはヨセフが語った「神のご支配」の現実を認め、彼がその神に目を留められていることを理由に、彼にエジプトの支配を委ねました。自分を現人神と称するファラオがヨセフの神を認め、彼を囚人から総理大臣へと引き上げたのです。これはいかなる成功物語も及ばない、神が演出された逆転劇です。

ただ、ヨセフは同時に、エジプト人としての名を与えられ、現在のカイロの北東12㎞にある「オン」という町の、太陽神を礼拝する「祭司の娘と結婚させられます。

これは彼がエジプトの支配層に完全に受け入れられたことを意味しますが、同時に、それは彼が支払わざるを得なかった代償と言えましょう。

ここで、「エジプトの王ファラオに仕えるようになったとき、ヨセフは三十歳であった」(41:46) と記されます。これは奴隷に売られて13年後です。彼は苦しみを通して祝福を受けたという思いを、マナセとエフライムという二人の名に表わします。

そこには「神が私のすべての労苦と父の家のすべてを忘れさせた」とか、「神が私の苦しみの地で、私を実り多い者としてくださった」という痛みも込められます (41:51、52)。二人の母親が異教の祭司の娘であるのも何とも皮肉です。

不思議にもここに至るまで、ヨセフの心の悲しみについては描かれていませんでした。それは私たちの目が、ヨセフの信仰に向けられる代わりに、神ご自身に向けられるためと言えましょう。私たちはこのヨセフ物語を、決して偉人伝説にしてはならないのです。

42章では、七年間の飢饉が始まった中で、ヤコブのもとからが十人の兄たちが穀物買い付けに来ることが描かれます。ベニヤミンは最愛のラケルの一人息子なので止め置かれました。十人の兄たちは、「顔を地につけて彼を伏し拝んだ」と記されます (42:6)。

その時ヨセフは「かつて彼らについて見た夢を思い出し(42:9) ます。まさに、神がヨセフに夢を見させ、成就してくださったのです。ヨセフが奴隷に売られても、無実の罪で監獄に入れられても、そこで主の臨在を覚えられたのは、すべての苦難の初めに、神からの夢を見ていたからかもしれません。

もちろん彼は、自分の見た夢がこのような形で実現するとは、夢にも思わなかったことでしょうが、彼の生涯が苦難のまま終わることはないということは、どこかで確信していたのではないでしょうか。その希望の確信こそが彼に困難に耐える力を与えたのではないでしょうか。

聖書的なで世界を動かした代表者と言えばマルティン・ルーサー・キングでしょう。1963年8月に彼は、「I have a dreamと繰り返しながら、自分が暗殺されることを予期し、「」を語りました。彼は、白人と黒人との平和を、イザヤ11章の「狼は子羊とともに……」のレトリックを用いて次のように表現しています。

「今日も明日もいろいろな困難や挫折に直面しているが、それでも私にはなお夢がある……それは、いつの日か……かつての奴隷の子孫とかつての奴隷主の子孫が、ともに兄弟愛のテーブルにつくことができることである……

私には夢がある。それは、いつの日か私の幼い4人の子供たちが、彼らの肌の色によってではなく、人格の深さによって評価される国に住めるようになることである。私は今日、夢を持っている……それは悪意に満ちた人種差別主義者に牛耳られているアラバマ州で、いつの日か、幼い黒人の子たちが白人の子たちと手をつなぎ、兄弟姉妹として歩けるようになることである……

こういう信仰があれば、私たちはこの国の騒々しい不協和音を、兄弟愛の美しいシンフォニーに変えることができる」

それから五年後、彼は「この目で、主が来られる栄光を見た」と言った翌日、メンフィスで暗殺されます。それから40年たったアメリカで、ある一人の黒人と白人との間に生まれた子が大統領になりました。

オバマ大統領の政策への批判から、トランプ大統領が誕生したように、その政策に批判があるのは当然ですが、キング牧師の夢が実現したということは、誰も否定できない事実であったと言えましょう。

主の再臨によって実現する「」と、目の前の平和の「は切り離せない関係にあります。イザヤの預言の成就を信じているからこそ、私たちは目の前の問題に、平和の使者として向かって行くことができます。永遠の夢を持つからこそ、私たちの中に、この世の悪に屈しないための力が生まれるのです。

人は、自分の過去の過ちを正当化したり後悔したりと、原因結果ばかりに目が向かい、それを超えた神のみわざを忘れがちです。ベニヤミンの誕生、ルベンの罪、エサウとヤコブの関係、ユダとタマルからの子孫の誕生、そしてこの偉大なヨセフ物語のすべてが、神の視点からその意味付けが変えられています。

私もあるときから、自分の出生とその後の歩みを、神の視点から再定義(リフレイミング)でき、健全な誇りを持つことができました。私たちはどのような暗い中でも、今ここで、「主がともにおられる」ことを信じるなら、そこに希望が生まれます。それこそヨセフ物語の核心です。

神はあなたの人生を確かに導いておられます。人生のゴールは、失望ではなく、神のご支配が誰の目にも明らかな、平和 (シャローム) の完成です。それこそ聖書が描く、「新しい天と新しい地」また「新しいエルサレム」という「」が実現するときです。