多くの人々は信仰を二つの観点から考えるように思います。第一は、人々から尊敬されるような人格者になるための道です。それはイエスの時代のパリサイ人が示していたものでした。彼らは政治や社会の事情がどのような状態であっても、神の前に敬虔な生き方を貫くという生き方を教えていました。 “マタイ16章1〜12節「時のしるしを見分ける」” の続きを読む
ヨブ記24〜28章「主を恐れること、これが知恵である」
目の前の人と争うことが自分にとって損であると思うとき、相手の方に圧倒的に非があると思っても、1%でも自分の側に非があることに関して謝罪することがあります。しかし、そこには相手への不信感が残ります。 “ヨブ記24〜28章「主を恐れること、これが知恵である」” の続きを読む
ルカ24章13〜36節「疑う者とともに歩まれる復活の主」
「復活さえなければキリスト教を受け入れられるのに……」と言う人がいます。何しろ、十字架で殺されたはずの人が、新しいからだをもってよみがえり、番兵が見守り封印されている墓の中から忽然と姿を消し、部屋に閉じこもっている弟子たちの真ん中に突然現れ、幽霊ではないしるしとして魚を食べたというのです。 “ルカ24章13〜36節「疑う者とともに歩まれる復活の主」” の続きを読む
ヨブ記20〜23章「私は金のようになって出て来る」
クリスチャンとは、「十字架にかけられた犯罪人を救い主として信じる」、世にも奇妙な人種です。そこではときに、苦しみ嘲りを受けることの中に「新しい創造」があると不思議なことが教えられます。 “ヨブ記20〜23章「私は金のようになって出て来る」” の続きを読む
マタイ15章29-39節「イエスのあわれみが生み出す大変革」
昨年は日本での未成年女性自殺者数が前年比で44%も増加し95人になったということが話題になりました。日本の自殺者数は昨年21,081で、新型コロナの累積死者数8,700人を大きく超えています。特に20代の自殺者数が前年比19.1%、10代の自殺者数前年比17.1%も増えています。 “マタイ15章29-39節「イエスのあわれみが生み出す大変革」” の続きを読む
ヨブ記18、19章「私自身の目がこの方を見る」
市場経済の世界では、人の価値はしばしば、その生産能力で測られがちです。成功しているうちは人々が擦り寄ってきますが、立場を失うと周りの人から見向きもされなくなることがあります。お金持ちの方々も、周りの人々が自分を評価してではなく、自分のお金を求めて近づいてくることに疑心暗鬼になりがちだとも言われます。 “ヨブ記18、19章「私自身の目がこの方を見る」” の続きを読む
マタイ15章21〜28節「ダビデの子に救いを求めたカナン人の女」
閉塞感ということばが流行って久しくたっていますが、東日本大震災も新型コロナ蔓延も、逆説的な意味で、日本がその閉塞感の呪縛から解放される契機にもなるのではないでしょうか。
キルケゴールが言っているように、「絶望できるとは、無限の長所」であるけれども、同時に「絶望は、罪」です。なぜなら、「罪」とは「不信仰」に他ならないからです。 “マタイ15章21〜28節「ダビデの子に救いを求めたカナン人の女」” の続きを読む
ヨブ記15〜17章「ヨブが憧れたとりなし手とは」
私たちは小さいころから、「誠実さは報われる」と教わっています。ですから、「道徳と経営は合一すべきである」と説いた渋沢栄一の物語などが励ましになります。それを単なる理想と斜に構えていては人生の喜びを失います。 “ヨブ記15〜17章「ヨブが憧れたとりなし手とは」” の続きを読む
マタイ15章1〜20節「口に入る物より、心から出るものが人を汚す」
イエスは、「口に入る物は人を汚しません。口から出るもの、それが人を汚す」と、不思議なことを言われました。それを聞いたある人が冗談に、「クリスチャンは、酒は良いけど、タバコはだめなのですね。だって、酒は口から入るけど、タバコの煙は口から出るから……」と言いました。 “マタイ15章1〜20節「口に入る物より、心から出るものが人を汚す」” の続きを読む
ヨブ記11〜14章「人は死ぬと、また生きるでしょうか?」
今から四、五十年前、欧米に行った人は、町の中に何らかの障害を持つ方が多いことに驚きました。ただ、日本でそのような方が少なく見えたのは、その存在を家族が恥じて、家の外に出さない結果だったと言われます。 “ヨブ記11〜14章「人は死ぬと、また生きるでしょうか?」 ” の続きを読む