イザヤ7章1節~9章7節「御顔を隠しておられる方への信頼」

2021年12月19日

ときに「何も変わりはしない……こんな人生に何の意味があるのか……」と、失望する信仰者がいるかもしれません。しかし、ユージン・ピーターソンはベストセラーとなった信仰の旅路に関する詩篇解説書のタイトルを「A Long Obedience in the Same Direction」としました。

これは無神論者フリードリッヒ・ニーチェの名言、「この天と地において本質的なことは、同じ方向への長い忠実さが必要だということ、それを通してこそ結果が生まれ、それは常に長い期間を通して実現されることである。それこそ、人生を生きるに値するものにするのである」に由来します。

牧師の息子として生まれたニーチェは、そのように人生を豊かにする「生きる力」をキリスト教会の中に見ることができませんでした。教会は幻想を教え、弱さに妥協する傾向を助長していると見えたのです。しかし、今日のイザヤ預言は、当時の人々の幻想を破り、あらゆる妥協を退ける強さに満ちています。ニーチェもこれを理解していたら、聖書の教えを「弱者の道徳」とは非難しなかったことでしょう。

それは悲観的に見えるようで希望に満ちており、破壊的なようでも建設的、争いを助長するようで平和をもたらします。その逆説を味わってみましょう。

1.「注意深く、落ち着きなさい……」

イザヤ7章の時代は、紀元前735年頃、北方からアッシリア帝国が勢力を増し加え、今まさに北王国イスラエル(首都サマリア)とアラム(その北東の国、首都はダマスコ)を滅ぼそうとする時でした(紀元前732年ダマスコ陥落、紀元前723年サマリア陥落)。この危機に、アラムの王レツィンとイスラエルの王レマルヤの子ペカとは、南王国ユダ(首都エルサレム)を同盟に誘いますが、ユダの王アハズはそれを拒絶しました。それで、二人の王レツィンとペカはユダを服従させようと攻撃をしかけました (7:1)。

エルサレムはそれをどうにか退けますが、「ダビデの家(エルサレム)に『アラムがエフライム(サマリアが中心)と組んだ』という知らせがもたらされ」、アハズ王の心も民の心も、「林の木々が風で揺らぐように揺らいだ」と描かれます (7:2)。そしてそのようなときになって、主 (ヤハウェ) が預言者イザヤにアハズへのことばを授けます。

7章4節には原文で、「目を見張り、落ち着きなさい。恐れてはならない。心を弱らせてはならない」という三つの命令が連続で記されます。それはこの危機的な状況を人間的な知恵で解決しようとせず、目を見張りながらも落ち着いて、また、恐れを祈りに変え、そして、心を弱らせずに神の救いを待ち続けるようにとの勧めです。

このときアハズは、目先の恐怖に圧倒され、何とアッシリアに助けを求めていました。それは近隣のチンピラにおびえて広域暴力団に助けを求めるようなことです。一瞬、息をつけても、逃げ場のない恐ろしい支配が待っています。

現実の情勢に「目を見張り」、注意深く観察するなら、二人の王の「燃える怒り」など、「煙る木切れの燃えさし」に過ぎず、エルサレムにとっての真の脅威こそ、アハズが助けを求めたアッシリア帝国でした。

私たちは目の前に恐怖が迫っているときこそ、そこでより大きな問題を引き起こすことがないように、「落ち着いて」、冷静に状況を見る必要があります。

二人の王はエルサレムに傀儡政権を立てようとして攻めてきていますが、それに対し、「神である主(原文「アドナイ [主人] である ヤハウェ」)」は、「それは起こらない。それはあり得ない」と断言します (7:7)。そればかりか北王国イスラエルの中心部族であった「エフライムは65年のうちに、打ちのめされて、一つの民でなくなる」(7:8) と、神の民としてのアイデンティティーを失うと預言されました。これはアッシリア王がサマリアを滅ぼしてその住民を遠くに移し、紀元前671年には別の民族をこの地に移住させ、イスラエルの帰還を不可能にしたことを指します。つまり、二人の王の計略など取るに足りないことなのです。

私たちの問題は、真に恐れるべきことを恐れず、恐れなくて良いことを恐れることにあります。

カール・バルトというスイスの神学者は、「勇気とは、祈りの中で述べられた恐れである」(Courage is fear that has said its prayers) という逆説を述べました。つまり、恐れ」は恥ずべきことではなく、祈りを通して真の勇気」の源泉となるというのです。

私たちの生活にも、激しく動揺せざるを得ない危機が訪れることがあります。しかしそれこそ、神が備えられた祈りの学校です。なぜなら、「問題の深刻さを理解すればするほど、自分の力が及ばない……」と思うときこそ、祈りが真実になるからです。そこでは親の前の幼子のように、葛藤や不安や怒りを、正直に神に訴えることが許されます。

しかもそのとき、「神があなたがたのことを心配してくださる」と約束されます (Ⅰペテロ5:7)。その後は、ぐっすりと眠り、明日の新しい展開を待てばよいのです。詩篇46篇10節では、「やめよ(静まれ)。(そして)知れ、わたしこそ神」と記されます。パニックに陥ったとき、動き回るのを「やめる」ことが何よりも大切だからです。

ドイツのメルケル前首相の机には、(In der Ruhe liegt die Kracht:静寂の中にこそ力がある)と記された置物がいつも置いてありました。

2.「あなたの神、主からしるしを求めよ。」

このとき、主 (ヤハウェ) はアハズ王に、「あなたがたは、信じなければ 堅く立つことはできない」(7:9) と言われました。これは、「信じるか滅びるか、二つに一つだ」という信仰の決断への招きです。

ただし、同時に主は、信じることができないアハズにご自身を「あなたの神、主 (ヤハウェ) 」と紹介しながら、「しるしを求めよ」と招かれました (7:11)。しかもそれは「よみの深みにでも、天の高みにでも」という超自然的なもので、その目的は、不信仰な彼に信仰を生み出させるためです。それは後にアハズの子ヒゼキヤが「アハズの日時計に落ちた時計の影を十度後に戻す」という奇跡を見せてもらったことに似ています (イザヤ38:8)。

ところがアハズは、「私は求めません。主 (ヤハウェ) を試みません」(7:12) と答えます。これは一見、敬虔なようでありながら、文脈を無視してみことば引用するサタンの態度と同じです。なぜなら、「主を試みる罪」とは、「しるしを見せてくれなければ信じない」という態度を指すからです。

実は、主はここで、「しるしを見せてあげるから、信じる者になりなさい」と招いておられたのですが、アハズの心の声は、「主を信じたら、今までの生き方を変えなければならない。しかし、それは嫌だ。もう既に手がけていることがあるのだから……」と言っていました。彼は、「信じたくない!」という思いで一杯だったのです。

これは私たちの場合も同じです。「信じます」とは、「私は生き方を変えます」と同じ意味を持つからです。多くの人の問題は「信じられない!」ではなく、「信じたくない!」ということにあります。もし、ほんとうに「私は信じたい!」と心から願うなら、神は不思議な方法で信仰を与えてくださることでしょう。

そしてアハズが神の招きを拒絶したとき、イザヤは「ダビデの家」に向かい、「あなたがたは人々を煩わすことで足りず、私の神までも煩わすのか」(7:13) と非難します。ここには、主 (ヤハウェ) はイザヤの神ではあっても、もはやアハズの神ではないという意味が込められています。それはアハズが、預言者たちばかりか、神の忍耐までも軽蔑したからです。

そしてここでの「それゆえ……」(7:14) とは、神の慈愛に満ちた申し出を拒絶したことへのさばきが来るという意味です。

ですから、有名なキリスト預言の「主は自らあなたがたに一つのしるしを与えられる」とは、ダビデの家(アハズの子孫たちを含む)にとっては、もはや信仰を生み出すしるしではありません。事実、「見よ。処女がみごもっている…………」と言われても、妊娠した人が処女であるなどと誰が信じることができましょうか。これは反対に、世の人々をつまずかせるためのしるしとさえ言えます。今も、「処女懐胎などと言わなければ信じられるのに……」という人が後を断ちません。

ところが、これこそ、自分の惨めさを知る人にとっては、神が悩む者の仲間となってくださったというしるしになります。なぜなら、救い主は、人々から誤解され中傷される誕生の方法を敢えて選びとられた理解できるからです。実際、たとえばイエスの誕生物語を思い巡らす人は、人々から無視されたマリアやヨセフの姿に慰めを受けることでしょう。

そして生まれる子に関して、「その名を『インマヌエル』と呼ぶ」と記されますが、それは「神は私たちとともにおられる」という意味です。ここには神が悩む者、不安に耐える者の友であるという思いが込められています。

実際、これから七百年後に処女マリアから生まれたイエスを救い主として信じるのは、知恵と力を誇る王侯貴族ではなく、社会の底辺の羊飼いたちでした。彼らは現代のワーキングプアーと呼ばれるような人々で、神の真実により頼む以外に救いがないと思われる人でした。

これは、「神を信じる以外に、救いの希望が見えない」という人への「しるし」となったと言えましょう。なぜなら、それは神が人間のあらゆる常識を超えて、苦しみのただ中に降りて来られたという意味になるからです。ダビデは神の救いを、「主は天を押し曲げて降りて来られた」(詩篇18:9) という表現で描いています。

なお、7章15–17節の解釈は難しいですが、インマヌエルと呼ばれる方が、「二人の王が滅ぼされる前に、アッシリアの王が攻めてくる前に、すぐに生まれる……」という意味として理解できるでしょうか?もしそうなら、神のあわれみの「しるし」と言えますが、事実はその反対です。

ここには三つのことが記されています。第一は、その子が「悪を退けて善を選ぶことを知る」という年齢に成長するまで、「凝乳と蜂蜜」という貧しい砂漠の食物で育つということです (7:15)。つまり、ダビデの子孫である救い主は、王家が廃れた後の貧しさの中に生まれるという意味です。

そして第二に、その子が善悪を選択できるほどに成長する前に、「あなたが恐れている二人の王の土地が見捨てられる」ということ (7:16)、つまり、その子が成長する前に二つの国は亡びるので、その子の誕生は目の前の危機の解決には何の関係もないという意味になります。

そして第三に、主は「エフライムがユダから離れた日(イスラエル王国が分裂しとき)以来、まだ臨んだこともない日々」、つまり、北王国の分離以来の最大の「恐怖の日」として、「アッシリアの王」の攻撃を「もたらす」と記されます (7:17)。つまり、アハズが頼みとしたアッシリアは、自分たちを救うどころか、エルサレムに最大の恐怖をもたらす者に変わると描かれています。しかも、それは皮肉にも、イスラエルの神のみわざであるというのです。

神の信仰への招きを拒絶したアハズに与えられた「しるし」、それは希望ではなく、さらに大きな悲惨を迎えるという神のさばきの宣言でした。

自分の知恵や力で問題を解決しようと思う人は、救い主を求めることができません。そのため神は、ときにその人に悲惨や苦しみを敢えて与えることで、まずその人の傲慢の心を砕くということがあります。

事実、イエスを身ごもったマリアは、かの有名な大頌栄(マニフィカート)で、「主は……心の思い高ぶっている者を追い散らされ、権力のある者を王位から引き下ろし……低い者を高く引き上げられ、飢えた者を良いもので満ち足らせ、富む者を何も持たせずに追い返されました」(ルカ1:51–53) と歌います。

それは、もし、人が傲慢になるなら、主ご自身からさばかれるということ、しかし、私たちがへりくだるなら、主ご自身が引き上げてくだるということを意味します。

3.「私は主を待ち望む。ヤコブの家から御顔を隠しておられる方を」

7章18節~25節には、「その日」という名のもとに、主の御手の中でアッシリア帝国がもたらす災いが描かれます。主はまず約束の地を襲う災いが、エジプトを含む二大強国の勢力争いの結果であると思い起こさせながら、それぞれを「あの蠅(はえ)」とか「あの蜂(はち)」と呼び、神の御手にある小さな存在に過ぎないと言われます。

その上でアッシリアの王を「かみそり」と呼び、彼がイスラエルを辱める様子が、「頭」ばかりか「足」(厳密には男性器を指すと思われる)の「毛を剃り」、また当時の男性の誇りの「ひげまでも剃り落とす」と描かれます。

そして、21、22節は家畜を十分に飼うことができないほどの貧しさを、23、24節は「乳と蜜の流れる地」と呼ばれたところが荒地とされる様子が描かれます。

そして8章1、3節に記された「マヘル・シャラル・ハシュ・バズ」とは、「速い餌食、急ぐ分捕り」という意味不明のことばです。これはイザヤが女預言者を通して生んだ第二子です(7:3によると第一子はシェアル・ヤシュブ:残りの者が帰って来るという意味)。

その意味は、「この子が『お父さん、お母さん』と呼ぶことを知る前に」(8:4)、アッシリアがダマスコとサマリアを滅ぼし、その宝を持ち去ることを預言するということで、滅びが目の前に迫っているということの警告です。

8章6節の「この民はゆるやかに流れるシロアハの水を拒み……」とは、神が将来的にエルサレムのギホンの泉から城壁の中の南のシロアムの池に至るトンネルを導くというような不思議な計画が実現することを期待する代わりに、アラム王レツィンとイスラエル王レマルヤの子ペカを退けたことを「喜んでいる」ことを皮肉ったものです。

彼らはそれによって神の怒りを買って墓穴を掘り、その結果、アッシリア帝国の真ん中を流れる「大河の水」が、ついには「ユダに勢いよく流れ込み、あふれみなぎって首にまで達する」(8:8) と警告されます。

しかしそのときになって初めて、神はユダ王国に対して、「その広げた翼は、インマヌエルよ、あなたの地をおおい尽くす」と約束されます。それは、絶体絶命のときが来て初めて、「インマヌエル(神が私たちとともにおられる)」ことの祝福の意味が理解されるという意味です。

8章9節の「国々の民」とはイスラエルの神を知らない人々を指し、彼らは自分の力を誇り、ユダ王国を滅ぼそうとしますが、最終場面で「はかりごと」は「破られ」ると言われます (8:10)。なぜなら「神が、私たちとともにおられるから」です。なお、このことばもヘブル語では「インマヌエル」と記されています。

つまり、7:14、8:8、8:10と三回、「インマヌエル」ということばが用いられながら、神の救いはこの世の人々が理解できない形で実現することが預言されているのです。

その上で、8章11–16節において、神は敢えて預言者イザヤに向かって、「この民の道に歩まないように」と、「イスラエルの二つの家」から分離する生き方を命じます。その中心にあるみことば、「万軍の主 (ヤハウェ) 、この方を、聖なる方とし、あなたがたの恐れとし、おののきとせよ」(8:13) こそ、現代の私たちにも通じる警告です。それは、「神を信じている」と言いながら、人の顔色を伺いながら行動しがちだからです。

しかも神は、イザヤのメッセージが人々の心をかえって閉ざすことになると告げましたが (6:9、10参照)、ここではさらに彼の存在自体が、「妨げの石、つまずきの岩、罠、落とし穴」(8:14) にしかならないと言われます。

しかし同時に、神が「わたしの弟子」と呼ぶ人々は皆無ではないとも示唆されます。そこでのイザヤの使命は、「このおしえ」を聞く耳のある人々の「うちで封印」することなのです (8:16)。

これに対するイザヤの応答が、「私は主 (ヤハウェ) を待ち望む。ヤコブの家から御顔を隠しておられる方を。私はこの方に望みを置く」(8:17) と記されます。それは、主が今、イスラエルにわざわいをもたらそうとしていることを知っていながら、なおこの方に望みをかけるという意味です。

そして続けてイザヤ自身が、「私と、主 (ヤハウェ) が私に下さった子たちは……イスラエルでのしるしとなり、また不思議となっている」と告白します。これは、主が信じることを拒絶したアハズや同じ立場をとる人々にとって、イザヤとその子の生き方こそが証しになるという意味です。

なお不思議なことにヘブル2章11–15では、このイザヤの告白がイエスご自身の告白となっていると記されます。イエスご自身が、父なる神に向かって「わたしはこの方に信頼する」と告白しつつ苦難の道を歩み、また自分の弟子たちを、「神がわたしに下さった子たち」と呼びながら、私たちと同じ不自由な肉体をとってくださいました。

つまり、預言者イザヤは救い主の先駆けとして、当時の人々から拒絶され、嘲られ、つまずきとなると言われているのです。そして「インマヌエル」と呼ばれる救い主ご自身も、そのような孤独な歩みをする者の仲間となるために「ひとりの処女」から敢えて誕生されると預言されました。

それを思うときに私たちも、主が「御顔を隠しておられる」としか思えないような苦しみと孤独の中でも、なお「この方に望みを置く」ことができます。そして、そのような信仰者の歩みの後には、なお多くの「神の子たち」が従うようになります。

つまり、キリストにあっては、絶望が望みに、孤独が交わりに、苦しみが喜びに変えられるのです。それは幻想ではなく、キリスト者の確信です。

4.「ひとりのみどり子が私たちのために生まれる」

8章19、20節では、「霊媒や……口寄せなど」のような死んだ者の霊との交信を否定しながら、神のみことばから離れて生きる者には「夜明けはない」と宣告されます。

そして8章21節から9章1節は一つのまとまりで、神の民がアッシリア帝国によって苦しめられることが描かれます。特に「ゼブルンの地とナフタリの地は辱めを受けたが」(9:1) とは、イズレエル平原からガリラヤ湖西岸に広がる肥沃な地に、異教徒が強制移住させられ「異邦の民のガリラヤ」と呼ばれる屈辱を指します。

しかし今、この地も栄誉を受ける」と約束されます。それは「インマヌエル」と呼ばれる救い主がこの地に誕生するからです。そしてそのことが、「闇の中を歩んでいた民は 大きな光を見る」(9:2) と記されます。

さらに「あなたはその国民を増やし、その喜びを増し加えられる……」(9:3) とは、繁栄の時代の到来を意味しますが、そこでかつて収穫を奪われた民が「借り入れ時に喜び」、大切な宝を奪われた民が「分捕り物を分けるときに楽しむ」という立場の逆転が起きます。

それは今までの圧制者に裁きが下されるからで、それが「ミデアンの日になされたように」(9:4) とは、主がギデオンを立ててイスラエルをミデアン人の支配から解放したようなことが起きることを指します。

さらに「戦場……の履き物……衣服は焼かれて」(9:5) とは、戦いの武具が必要なくなる平和の時代の到来を指します。

その上で、そのような解放と平和をもたらす救い主の出現が、「ひとりのみどり子が、私たちのために生まれる」(9:6) と預言されます。これは7章14節の「インマヌエル」の誕生を指します。両者に共通するのは、救い主は赤ちゃんとして生まれるので、救いの実現には時間がかかるということです。

当時の人々は、救い主の登場と共に、すべての問題が解決することを期待しましたが、神のご計画はそうではありません。そして救い主の名が、『不思議、助言者(カウンセラー)、力ある神、永遠の父、平和の君』と呼ばれ」ます (9:6)。

「不思議」とは、かつてサムソンの父に対し、主の使いが自分を「わたしの名は不思議という」と言われたようなことを指します (士師13:18、イザヤ8:18参照)。

また救い主は私たちにとって最高のカウンセラーであると同時に「力ある神」です。イエスは男だけで五千人の人々の腹を満たすことができました。

さらに「永遠の父」とは、イエスが私たちにとって心から信頼できる父のような権威者であるという意味です。

また「平和の君」と呼ばれるのは、イザヤ11章において「狼は子羊とともに宿り、豹は子やぎとともに伏し……乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ、乳離れした子はまむしの子に手を伸ばす」(6–8節) と描かれるような完全な平和をこの方が実現してくださるからです。私たちは、救い主のみわざをあまりにも小さくとらえているのではないでしょうか。

さらに、その神の国の成長が、「その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に就いて、その王国を治め」(9:7) と描かれます。それは今滅亡しようとしているダビデ王国が再建されることを意味します。

そして最後に「万軍の主 (ヤハウェ) の熱心がこれを成し遂げる」と強調されます。つまり主は、自業自得で滅びる国を、まったく新しい形で建て直してくださるというのです。そしてこの預言がこの後、七百年後に実現しました。

私たちの世界は今、平和の完成の途上にあります。ですから私たちは、今が、どれほど希望に満ちた時代なのかを、いつでもどこでも意識しながら生きる必要があります。イエスによって世界はすでに変わりました。そして、主のみわざは今も続いています。

人生には、神がご自身の「御顔を隠しておられる」と思えることがしばしばあります。しかしそれはイエスご自身が歩まれた道であり、すべての時代のキリスト者が体験してきたことでした。

ニーチェの言うようにキリスト者は幻想を見ながら生きるものではなく、神の平和の実現という真のビジョンを見ながら、その方向へと旅をしている者たちです。それこそが、キリスト者の不思議です。それは一人ひとりが預言者イザヤのように、神にとらえられているからです。

アハズのような夢のない現実主義者は目先の解決に走り、より大きな悲劇への道を開きます。しかし、私たちは夢を掲げた現実主義者です。今、目の前に置かれている課題を、神の視点から見直しましょう。