エズラ記9、10章「この世と調子を合わせてはいけません」

2021年11月28日

2001年3月当時のアフガニスタンを支配していたタリバンは、バーミヤンの巨大な仏像をロケット砲で破壊し、全世界の人々を敵に回し、その後まもなく政権が崩壊しましたが、20年たって復権しました。ただし、支配地の偶像を破壊するように命じた最古の文書こそ聖書なのです。それは特に申命記7章に明確に命じられています (5節)。

そして、今日のエズラ記では、異教徒の妻を娶った人に、妻と子供を追い出すように命じられています。聖書は文脈を無視して読むと恐ろしい破壊を生み出すことがあります。

教会の歴史の中では、教会がこの世と妥協しすぎたことの反動として、厳しい分離を強調することがありました。たとえば未信者との結婚を奨励する教会が増えると、その反動として、未信者との結婚を決めた人を除名する?ような教会が生まれました。

私たち日本の福音派は、この世との明確な分離を強調するアメリカの教会から生み出されました。そして私たちも聖書から、同じ信仰に立つ人との結婚を勧めます。しかし、その教えに反する行動をした人を教会から締め出すようなことは、より大きな問題の引き金になります。

イエスは、この世との分離ばかりを主張するパリサイ人から、「大食いの大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ」と非難されるほどでしたが (マタイ11:19)、それは決して、この世の悪と妥協することを意味はしませんでした。

ですから使徒パウロは、「この世と調子を合わせてはいけません」(ローマ12:2) と言いながら、すべてを原点に立ち返って、祈りながら考えるように勧めています。多くの信仰者は、「主のみこころがわからない……」と悩みますが、迷いながら祈っている生活自体が主のみこころの中にあります。

1.「聖なる種族がもろもろの地の民と混じり合ってしまいました

これらのことが終わった後」とは、エルサレム神殿が再建された約60年後、「ペルシアの王アルタクセルクセス王の第七年」(7:7) の紀元前458年に、エズラがペルシア王の勅令を受けて、エルサレムの住民の信仰生活を建て直すために遣わされ、王から預かった多額のささげ物を、主 (ヤハウェ) に献げた後のことを意味しています。

そこでエルサレムに既に住んでいた指導者たちからの訴えが、「イスラエルの民、祭司、レビ人は、カナン人、ヒッタイト人、ペリジ人、エブス人、アンモン人、モアブ人、エジプト人、アモリ人など異国の忌み嫌うべき習慣と縁を絶つことなく、かえって、彼らも息子たちも、これらの国々の娘を妻とし、聖なる種族がもろもろの地の民と混じり合ってしまいました。しかも、指導者たち、代表者たちがこの不信の罪の張本人なのです」(9:1、2) となされました。

それを聞いたエズラは、「衣と上着を引き裂き、髪の毛とひげを引き抜き、茫然と座り込んでしまった」(9:3) と描かれます。この反応は、同胞たちが自分たちの歴史をまったく理解せず、まったく同じ過ちをしようとしていたことがわかったからでした。

私はモーセ五書の解説書のタイトルを、「 (ヤハウェ) があなたがたを恋い慕って……」とさせていただきましたが、それは申命記7章7節のみことばです (新改訳第3版)。

ただその直前には、神がイスラエルの民に約束の地を占領させてくださるときには、「彼らを必ず聖絶しなければならない。彼らと何の契約も結んではならない。また、彼らにあわれみを示してはならない。また、彼らと姻戚関係に入ってはならない」(同7:2、3) と厳しく命じられています。

これは結婚の誓約に似ています。そこでは、たとい何があっても、決して浮気はしないと約束する必要があります。ですから、神の愛を受ける民とされることと表裏一体に、他の神々を決して拝まないばかりか、そのような風習を断固退けると約束することが求められます。

そして、日本の法律でさえ、浮気によって結婚が壊れた場合には、浮気をした方が慰謝料を支払わなければなりません。まして、神との約束を軽く見て、霊的な浮気をする者は、厳しいさばきを受けるのは当然です。

ただし、モーセ五書の時代は、約束の地の先住民の罪をさばく手段としてイスラエルの民が用いられていますから、そこでは「カナン人やヒッタイト人」などの先住民族を容赦せずに絶滅することが命じられていました。それは癌細胞を早期に破壊して、健全な細胞を生かすことに似ています。

ところがイスラエルの民は先住民たちとの共存の道を探りました。その結果が士師記に描かれたイスラエルの民の堕落の歴史です。しかし、神は彼らを繰り返し苦難の中から救い、民を導く指導者を立ててくださいました。その最高の指導者がダビデでした。

しかし、後継者のソロモンは、神殿建設後、近隣諸国の美女を集め、彼女たちの偶像礼拝を支援しました。その結果、イスラエルの全体が偶像礼拝に流れ、神はエルサレム神殿を捨て去らざるを得なくなり、民はバビロンの地に奴隷として引っ張って行かれることになりました。

エズラはその歴史をイスラエルの民が理解していないことに驚きながら、「私の神よ。私はあなたに向かって顔を上げることを恥ずかしく思います。私たちの咎は増し、私たちの頭より高くなり、私たちの罪過は大きく、天にまで達したからです」(9:6) と心から祈っています。

聖書全体のストーリーを読むと、イスラエルの民の何よりの問題は、神の愛の語りかけを忘れ、神の明確な命令を非現実的なことと軽蔑したことにあります。彼らは先住民との戦いのただ中にありましたから、彼らと戦うよりも結婚関係を結ぶことによって共存の道を選ぶほうが、現実的に思えます。

しかし、そのようにするとき、彼ら自身が現地の悪い習慣に染まってしまい「地の塩」としての役割を失うことになります。目の前のことに現実的に対応しようとすることが、神がイスラエルを選んでくださったということの原点をまったく無に帰させてしまうのです。

河合隼雄が「日本人という病」という著書で、震災のときに暴動も略奪も起こさず静かに助け合っている日本人の姿と、政治のリーダーシップの欠如は表裏一体であると書いています。以心伝心で合意を形成する文化は明確なビジョンを示す指導力を排除する傾向に結びつきます。

かつての日本が一致団結して第二次大戦に突入して行った姿と、原発安全神話という合意を作って大事故に至った過程は非常に似ています。その場その場での人と人との結びつきを大切にするために、将来を見据えた決断ができず、問題を先送りしてしまうのです。その結果が年金基金の破綻や国内総生産額の2.4倍にも及ぶ国家債務の問題になっています。

村社会の和を乱すこと自体が最大の悪とされる文化の中では、長期的にはベストの選択ではあっても、当面の痛みを伴う外科手術のような問題解決は困難になります。

聖書の教えも日本では、「日本人という病」の影響を受けます。しかし、私たちは神との交わりを第一とするために、どこかで対決をしなければならないときも起き得ます。

たとえば私は入社一年目の札幌支店営業時代に、本社の人事部の要請で新入社員の採用のお手伝いをしました。命令系統を超えた依頼でしたので、本社の次長から、「もしできたら、日曜日に出勤して採用の手伝いをしてほしい」と優しく要請されたとき、とっさに私は「日曜日の朝は礼拝に行くことにしていますから、そちらを優先させてほしいのですが……」とお断りしました。

人事部の要請を断る新入社員ということで強烈な印象を与えたように思いますが、それは自分の立場を明確にする大きな契機になりました。ただし、私の場合は礼拝生活を第一としていたという割には、礼拝メッセージ中はほとんど居眠りをしていたという矛盾もありました。

私たちもどこかで、この世との区別を明確にする必要があります。この世との融和を優先すると、神に召された理由が見えなくなります。

イエスも、「人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも、天におられるわたしの父の前で、その人を知らないと言います」(マタイ10:33) と厳しく言われました。この世に埋没してしまうクリスチャンは、自分でイエスの助けを拒絶し、自分で自分の首を絞めているのです。

2.「私たちの目を明るくし、奴隷の身の私たちを少しでも生き延びさせてくださるため

北王国イスラエルはアッシリア帝国に滅ぼされ、他の地域に強制移住させられた後、民族としてのアイデンティティーを失ってしまいました。しかし、南王国ユダの民は異なりました。

そのことをエズラは、「しかし今、しばらくの間……主 (ヤハウェ) はそのあわれみによって、私たちに逃れの者を残し……ご自分の聖なる所の中に一本の杭を与えてくださいました。これは……私たちの目を明るくし、奴隷の身の私たちを少しでも生き延びさせてくださるためでした」(9:8) と述べています。

ここでの「」とは天幕を張るときに用いるもので、フランシスコ会訳では、「聖なる所に住処を与えられました」と訳されています。これは神が、バビロンにおいてご自分の民を守り通し、エルサレムへの帰還を導き、そこに住処を与えてくださったことを指します。

そればかりかエズラは、ここで事実、私たちは奴隷ですと告白しながら、神は「奴隷の身の私たちを見捨てることなく」、「ペルシアの王たち」を用い、「神の宮を建て直させ」てくださったと感謝します。ところが彼らは今、神のあわれみを軽蔑し、神の民としての独自性を捨てようとしていたのです。

9章11節でさらにエズラは、レビ記18章24、25節を引用しますが、その中心テーマは「地の汚れ」です。彼らはその地の偶像礼拝の習慣によって「汚れた地」をきよめる必要がありますが、その汚れに呑み込まれてしまっては、彼ら自身もその地から「吐き出」されることになるという警告です。

それに続く12節では申命記7章の要約として姻戚関係に入ることの禁止が記されますが、申命記では偶像礼拝に流れるなら、主は「あなたをただちに根絶やしにする(同7:4) と警告されると同時に、主の愛に応答して生きるなら、「あなたはあらゆる民の中で最も祝福される(同7:14) とも約束されていました。

しかし彼らは滅亡を選びました。ただここでエズラは、「私たちの神、あなたは、私たちの咎に値するよりも軽い罰を与え、逃れた者をこのように私たちに備えてくださいました」(9:13) と、神のあわれみのさばきを感謝します。

ところが彼らは、エルサレム神殿の再建を見ていながら、昔と同じ過ちに陥ろうとしています。そのことを覚えてエズラは、「私たちは再び……忌み嫌うべき行いをする……民と、姻戚関係に入ってよいでしょうか。あなたは怒って……私たちを絶ち滅ぼし、残りの者も、逃れの者もいないようにされるのではないでしょうか……主 (アハウェ) よ。あなたは正しい方です……私たちは逃れの者として残されています。ご覧ください。私たちは罪過を負って……御前におります。この……状態で、だれもあなたの御前に立つことはできないにも関わらず」と必死に祈ります (9:14、15)。

エズラはここで、神の憐れみによりかろうじて「残された者」としての自覚を忘れる者は、存在の意味すらなくなり、神の御前から消し去られて当然と思っていました。

神はキリストのうちに生きる私たちの罪を赦してくださいますが、神学校の恩師は、「キリストの十字架を罪の消しゴムのように甘く捉えてはならない」と繰り返しておられました。

私たちはみな、罪に満ちた世界のただ中に置かれ、奴隷であったイスラエルの民と同じように、自分で自分の行動を決めることができない部分がありますが、それでも信仰を捨てることを迫るような迫害からは守られています。ですから、イエス以外の「救い」を求める偶像礼拝だけは避けることができるはずです。

確かにアジアの文化においては、親分子分のような序列の関係がいたる所に生きており、それを無視しては、自分のやりたい仕事すらできなくなるということも忘れてはなりません。ただ、どんなに目をかけてくれる権力者がいても、神との関係よりもそれを優先してはなりません。最高の権力者を忘れてしまっては、すべての働きは最終的に無に帰してしまいます。

目に見える人間の恩義よりも、神の恩義の方がはるかに重いからです。

3.「この地の民、異国人の女たちから離れなさい

10章1節ではその後のことが、「エズラが神の宮の前でひれ伏して、涙ながらに祈り告白しているとき、男や女や子どもの大会衆が……集まって来た。民は涙を流して激しく泣いた」と描かれます。これは捕囚から帰還した民が、エズラに倣って罪を深く嘆いたことを示します。

そればかりかエラム族シェカンヤが代表して彼を応援する発言をします。なおエラム族は帰還した民の中心部族であると同時に (2:7、31)、シェカンヤの父エヒエルは外国の妻を娶っていた可能性があります (10:26参照)。

そこで彼は、「これらの(外国の)妻たちと、その子どもたちをみな、追い出しましょう。律法に従ってこれを行いましょう。立ち上がってください。このことはあなたの肩にかかっています。私たちは……協力します。勇気を出して、実行してください」(10:3、4) と驚くべき提案をします。

そこで彼らは、「捕囚から帰って来た者はみなエルサレムに集合するように」と命令を出すとともに、三日のうちにそれに応じない者は、「全財産を聖絶され……除名される」という警告までつけました (10:7、8)。

その後のことが、「それで、ユダとベニヤミンの男はみな、三日のうちにエルサレムに集まって来た。それは第九の月の二十日であった……すべての民は神の宮の前の広場に座り、この件で、また大雨のために震えていた(10:9) と記されます。これは現在の暦の12月頃で、彼らは寒さと恐れで震えていました。これほど大規模で悲しみに満ちた集会はなかったことと思います。

その中で「祭司エズラは立ち上がってあなたがたは神の信頼を裏切った。異国人の女を妻にし、イスラエルの罪過を増し加えた。だから今、あなたがたの父祖の神、主 (ヤハウェ) に告白し……この地の民、異国人の女たちから離れなさい(10:10、11) と命じました。

それに「全会衆は大声をあげて必ずあなたの言われたとおりにします」と応答しました (10:12)。ただ、該当する民が多すぎるので、それぞれの氏族の代表者だけが残り、議論を重ねました。

そこに「アサエルの子ヨナタンとティクワの子ヤフゼヤだけはこれに反対し、メシュラムとレビ人シャベタイの支持を得た」と記されますが (10:15)、妻も子もすぐに追い出すという提案に異論が出るのは当然のことと言えましょう。

それ以上に、大多数の者がエズラのことばにそのまま従ったということ自体が驚きです。それは彼らが、自分たちの罪の深刻さを悟ったからです。

その上で、「祭司エズラは……一族の……かしらの者たちを、みな名ざしで選り分け」ました。それは調査チームをエズラの権威の下でまとめるためです。そして検討が「第十の月の一日」から始まり、「第一の月の一日まで」に、「異国人の女を妻にした男たちについて、みな調べ終え」ました。何とすべてを調べるのに二ヶ月も要したというのです。

その上で、外国の女を娶った祭司の名が記されます。彼らは民を指導する立場でありながら、自分も同じ罪を犯し、民を誤った道に引き入れてしまいました。それで「彼らはその妻を離縁すると誓い、自分たちの罪過のために、雄羊一匹を代償のささげ物として献げた」と記されます (10:19)。

その上で、外国の女をめとった人々の名が記されます。調査に二ヶ月がかかったにしては短いリストですから、これは抜粋と言えましょう。その上で最後に、「これらの者はみな、異国人の女を妻にした者であった。彼らの妻たちの中には、すでに子を産んだ者もいた」(10:44) と記されています。彼らを「追い出す」とは、何とも心が痛みます。

ただそこには、罪を明確にすることによって、二度と同じ過ちを繰り返さないという決意を表す意味がありました。しかし、ネヘミヤ記13章23節以降を読むと、この約25年後にはるかに小さな規模にせよ、イスラエルの民は再び同じ問題に直面せざるを得ませんでした。

なお、私たちは当時のイスラエルの民とは異なり、聖霊を受けることによって新しい「神の民」とされています。その証として私たちはレビ記で食べることが堅く禁じられている豚肉もイカもタコも食べることができます。ですから、エズラによる分離の命令を、そのまま新約の時代に適用する必要はありません。

そのことをパウロは、Ⅰコリント7章12-14節で、自分の個人的な見解と注意しながら、「これを言うのは主ではなく私です。信者である夫に信者でない妻がいて、その妻が一緒にいることを承知している場合は、離婚してはいけません。また、女の人に信者でない夫がいて、その夫が一緒にいることを承知している場合は、離婚してはいけません。なぜなら、信者でない夫は妻によって聖なるものとされており、また、信者でない妻も信者である夫によって聖なるものとされているからです。そうでなかったら、あなたがたの子どもは汚れていることになりますが、実際には聖なるものです」と、明らかにエズラ記を修正するようなことが記されています。

エズラ記では、信者の方が偶像礼拝者との結婚によって「汚される」という趣旨のことが書かれているのに対し、コリント書では、信者のうちに聖霊が宿って聖別されているという霊的な事実が、結婚の契約を結んだ未信者をも「聖別する」と記されています。それこそ聖霊のみわざです。

ただし、信仰に反対する「不信者と、つり合わないくびきをともにしてはいけません」(Ⅱコリント6:14) という命令も覚えるべきです。

ですからパウロはここでも、「しかし、信者でないほうの者が離れて行くなら、離れて行かせなさい。そのような場合には、信者である夫あるいは妻は、縛られることはありません。神は、平和を得させようとして、あなたがたを召されたのです。妻よ。あなたが夫を救えるかどうか、どうしてわかりますか。また、夫よ。あなたが妻を救えるかどうか、どうしてわかりますか」(同7:15、16) とも記しています。

それは神と自分との関係は、夫婦の契約にも優先するという意味です。聖書は基本的に、夫婦の関係をすべての人間関係の基礎と見て尊重しています。しかし、それを守ろうとすることが、神との関係を壊してしまうことになるなら、離婚もあり得るという点ではエズラとパウロに矛盾はありません。

エズラの命令は、あくまでも、「主があなたがたを恋い慕って……」を中心聖句とする申命記7章との関係で理解される必要があります。そして、それを新約のことばで言うと、「この世と調子を合わせてはなりません」(ローマ12:2) という原則になります。

私たちは自分を愛し、選んでくださった方を喜ばせるために生きるのです。決して、この世の人々の歓心を得ることやこの世と衝突しないことを優先してはなりません。イエスも、「塩が塩気をなくしたら……人々に踏みつけられるだけです」(マタイ5:13) と警告されました。

私たちを支えてくださる神を忘れて、世の人々の歓心を得ようとしても、最終的には、神と人から見捨てられ、踏みつけられるだけです。しかし神は、ご自身との交わりを大切にしようとする者は、どんな非道な罪を犯した人であっても、赦し、守り通してくださいます。

神の命令の背後には、「主があなたがたを恋い慕って」おられるという、主の燃える愛の語りかけがあることを忘れてはなりません。周りの人から敬虔なクリスチャンと評価されることよりも、神にすがり、神のあわれみに感謝しながら生きることを第一に求めましょう。