北朝鮮に拉致された横田めぐみさんの救出を巡って、本人情報の公表に関して当初ご両親の間に葛藤があったとのことです。そのときお父様は、「きちんと出して覚悟して進まなければだめだ」と言われ、お母様は、それに従ったおかげで「北朝鮮のことが世界中に分かってもらった」と言っておられます。 “ヨブ記38章〜40章14節「腰に帯を締めよ、勇士のように」” の続きを読む
マタイ16章21〜28節「自分の十字架を負って、イエスに従う自由」
この時代は、何においても最短の時間で問題を解決することが求められます。何かをするにしても、「それが何の役に立つのか」と自問自答することがあります。しかし、それでは、「神がこの世界の問題を解決するためにご自身の御子を十字架にかける必要があった」などという奥義は分かり得ません。 “マタイ16章21〜28節「自分の十字架を負って、イエスに従う自由」” の続きを読む
ヨブ記32〜37章「神の奇しいみわざを、立ち止まって考えよ」
私たちはみな、親しい人から理解されることを求めます。しかし、「私の正しさを理解して欲しい……」という構えが強すぎる人は、周りが見えなくなります。そのようなとき、自分を敵対的に見ている人から、驚くべき視点を示されることがあります。それは関係が近すぎないゆえに発想の転換が起きやすいからです。自分の正当性を主張することに熱くなっていたヨブに、エリフは新たな視点を提示しています。 “ヨブ記32〜37章「神の奇しいみわざを、立ち止まって考えよ」” の続きを読む
ダニエル7章「人の子の王としての支配の中で生かされる」
私たちはキリストの十字架と復活で、世界がまったく新しく変えられたということをどれだけ理解しているでしょうか?イエスがユダヤの最高議会で死刑判決を受けた直接の理由は、ご自身がダニエル書7章13節の預言を成就する「人の子」であると言って、神を冒涜したと評価されたためです。 “ダニエル7章「人の子の王としての支配の中で生かされる」” の続きを読む
マタイ16章13〜20節「わたしのエクレシアをわたしが建てます」
ここでの礼拝を始めた時、イエスご自身が「わたしの教会をわたしが建てる」と言われた約束を大切にしてきましたが、今は、組織に目が向かいすぎることの危険を感じるようになってきました。教会とは神の民の共同体(エクレシア)に他なりませんから、問われているのは組織的な成長よりもそこに愛の交わりが生まれているかということです。 “マタイ16章13〜20節「わたしのエクレシアをわたしが建てます」” の続きを読む
ヨブ記29〜31章「全能者が私に答えてくださるように」
子どものいじめで、いじめられている子を守ろうと戦ったことで、かえって自分がいじめの新たな標的とされ、誰よりも苦むという話を聞くことがあります。 “ヨブ記29〜31章「全能者が私に答えてくださるように」” の続きを読む
マタイ16章1〜12節「時のしるしを見分ける」
多くの人々は信仰を二つの観点から考えるように思います。第一は、人々から尊敬されるような人格者になるための道です。それはイエスの時代のパリサイ人が示していたものでした。彼らは政治や社会の事情がどのような状態であっても、神の前に敬虔な生き方を貫くという生き方を教えていました。 “マタイ16章1〜12節「時のしるしを見分ける」” の続きを読む
ヨブ記24〜28章「主を恐れること、これが知恵である」
目の前の人と争うことが自分にとって損であると思うとき、相手の方に圧倒的に非があると思っても、1%でも自分の側に非があることに関して謝罪することがあります。しかし、そこには相手への不信感が残ります。 “ヨブ記24〜28章「主を恐れること、これが知恵である」” の続きを読む
ルカ24章13〜36節「疑う者とともに歩まれる復活の主」
「復活さえなければキリスト教を受け入れられるのに……」と言う人がいます。何しろ、十字架で殺されたはずの人が、新しいからだをもってよみがえり、番兵が見守り封印されている墓の中から忽然と姿を消し、部屋に閉じこもっている弟子たちの真ん中に突然現れ、幽霊ではないしるしとして魚を食べたというのです。 “ルカ24章13〜36節「疑う者とともに歩まれる復活の主」” の続きを読む
ヨブ記20〜23章「私は金のようになって出て来る」
クリスチャンとは、「十字架にかけられた犯罪人を救い主として信じる」、世にも奇妙な人種です。そこではときに、苦しみ嘲りを受けることの中に「新しい創造」があると不思議なことが教えられます。 “ヨブ記20〜23章「私は金のようになって出て来る」” の続きを読む