詩篇55篇「あなたの重荷を主 (ヤハウェ) にゆだねよ」

2019年5月5日 

花粉症に苦しむ方が、「昨夜、私は鼻が詰まって眠られなかった……」と言ったことに、ある尊敬されるカトリックのシスターは、「あら、お薬をちゃんとお飲みになったの?」と応答してしまい、後で自分の配慮のなさを深く反省したとのことです。

私はそれを伺い、その気づき方に感心しました。人は、誰でも、自分の気持ち、自分の辛さをわかって欲しいと願います。そのときに、苦しみの原因を分析されたのではかえって気が滅入るかもしれません。私たちも、しばしば、そのような反応をすることを反省すべきでしょう。

この詩には、人の味わうマイナスの感情が驚くほど豊かに表現されます。それは自分と人の気持ちに優しく寄り添いながら、神に心を注ぎだすことの第一歩ではないでしょうか。

1.「私はうろたえ、うめき、わめくばかりです」

ダビデはかつて何の落ち度もなかったのにサウル王から命を狙われ、死と隣り合わせの逃亡生活を続けざるを得ませんでした。そのとき同族の者たちからも裏切られました。

また、王権が安定した後にも、息子アブシャロムの反乱によってエルサレムから逃げざるを得ないことがあり、そのときは自分の顧問であったアヒトフェルに裏切られ、「(ヤハウェ) よ。どうかアヒトフェルの助言を愚かなものにしてください」(Ⅱサムエル15:31) と必死に祈ったほどです。そのように人から裏切られた痛みが12-14節に次のように描かれます。

私をののしる者が敵ではありません。それなら忍べたでしょう。
私に高ぶる者が仇(あだ)ではありません。それなら彼から身を隠したでしょう。 
しかし、おまえが。私と同等の者、私の友、私の親友が……。 
私たちは親しい交わりを楽しみ、神の家へと群れの中を歩いたのに……

この詩がいつ記されたかは分りませんが、そのような危機的な状況の中で生まれたことは確かです。

最初のことばは、「聴いてください!」という必死の叫びです。それは神が、「私の訴えから、身を隠している」ように感じられたからです。著者は、親しい友から裏切られ、胸も張り裂けるほどに悩み苦しんでいるのですが、神は何もしてくださらないかのようです。

そして同じような強い訴えが、9節で「絶やしてください!」と、自分を裏切った人への神のさばきがすみやかになされるようにと記されます。

1〜5節に記されたような絶望的な気持ちは無縁と思う人もいるでしょう。しかし、感情は説明し難いものです。たとえば、ヘンリ・ナウエンという世界中で尊敬されていたカトリックの神学者は、50代半ばの頃、心の奥底を分かち合える友に出会い、急速に依存して行きました。しかし、あまりにも多くを求め過ぎたため友情は破綻しました。彼は、世界が崩れたと感じ、眠られず、食欲もなく、生きる気力を失いました。

ヘンリ・ナウエン

彼はその鋭い霊的洞察力によって世界中の人々から尊敬されていましたが、その信仰が何の助けにもならないと感じました。(ヘンリ・ナウエン「心の奥の愛の声」「まえがき」参照)。別に、友が裏切って命を狙ったわけではないのですが、それでも彼はこの詩篇にあるとの同じ気持ちを味わったというのです。

私たちは、失恋でも、失業でも、夫婦喧嘩や約束の時間に遅れた時でさえ、「私はうろたえ、うめき、わめくばかりです」 (2節) という感情を味わうかもしれません。そんなとき私たちは、その混乱したままの気持ちを、この詩篇を用いて神に訴えることが許されています。

その時、ゲッセマネの園で、「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです」(マタイ26:38節) と悶え苦しまれたイエスに出会うことができます。イエスご自身も、孤独でした。愛弟子のユダに裏切られ、弟子たちが逃げ去ることが分かっていたからです。

その千年前、ダビデもアヒトフェルに同じように裏切られていました。それはいつの世にもある悲劇とも言えます。神の御子は、そのような悲しみをともに味わい、担うために人となられました。

イザヤは、それを、「彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で、病を知っていた……まことに彼は私たちの病を負い、私たちの痛み(悲しみ)を担った」(イザヤ53:3、4) と預言しました。まさに、イエスは、私たちの心が些細なことで混乱することを、軽蔑することなく、いっしょに悲しんでくださる方なのです。

最初に引用させていただいた方は、50才の時にうつ病になったとのことです。一人のクリスチャンドクターは、「シスター、運命は冷たいこれども、摂理は暖かいものですよ。今、あなたが病気になったいうことは、運命ではない、神様のお計らいなのです」と言われました。そして、いつしか感謝に変わったとのことです。

あなたは、心の内側に湧き起こった感情を、自分で制御しようとして混乱を深めたことがないでしょうか?不安こそ、怒りの源泉と言われます。しかし、それを押し殺してばかりいると、不機嫌を撒き散らして周りの人を傷つけたり、また、自分を責めて鬱状態になることがあります。

ところが、ダビデは、「私の心は奥底から悶え、死の恐怖に襲われています。恐れとおののきにとらわれ、戦慄に包まれました」(4、5節) という四つの並行文で、自分の恐怖心をやさしく受け止め、それを神に訴えています。

彼は自分の心の状態を、分析することも、言い訳することもなく、そのまま言葉にしました。それこそ、感情に振り回されないためのステップではないでしょうか。

ライオンの口から羊を救い出し、打ち殺したこともあるというあの勇気に満ちたダビデが、自分の気持ちを、ひとりぼっちで身体を震わしている少女のように描いているのです。彼はその微妙な感情を優しく丁寧に受け入れています。

感情を、いじるのではなく、自分のたましいに向って、「おまえは不安なんだね……さみしいんだね」と言ってそれを優しく受け止めた上で、それを私たちの感情の創造主に打ち明けるのです。

その際、「私って何て可愛そうなんでしょう!」などという自己憐憫に逃げ込むことなく、ただ、「主よ。私は不安です……さみしいです」という祈りに変えて訴えるのです。

それは、心の奥底で神との交わりを体験する絶好の機会です。それこそ御霊に導かれた祈りではないでしょうか。しかし、自分の気持ちを受けとめられない人は、人の気持ちも受けとめられないばかりか、神との交わりも浅いものに留まってしまうと思われます。

2.「鳩の翼が私にあったなら……」

ああ、私に鳩のような翼が私にあったなら。そうしたら飛び去って、休みを得ることができるのに……」(6節) という祈りを最初に読んだとき、思わず微笑んでしまいました。それは私が常日頃、自分に向って「この問題から逃げ出そうとせずに、しっかりと向き合え!」などと自分を叱咤してきたからです。

しかし、私よりはるかに勇敢なダビデは、逃げ出したいような自分の気持ちにも優しく寄り添っています。

しかもその上で、逃げ場のない自分の現実を描きます。彼の住む町の中には、「暴力と争い」、「不法と苦しみ」、「虐げとあざむき」が満ちているというのです (9-11節)。

人によっては、現在の職場がそのような環境かもしれません。そのようなときは、逃げ出したくても、生活のためには逃げられません。

そればかりか、最も近しいはずの人が最も恐ろしい敵となっていることがあります。たとえば家庭で精神的な虐待を受けるなら、どこに逃げ場があるでしょう。

しばしば、彼らは自分の悪意を巧妙に隠しながら「滑らか」で「優しい」言葉を用いて語りかけてきますが、そのことが 21節では次のように記されます。

彼の口はバターより滑らかだが、その心には戦いがある。
彼のことばは香油よりも優しいが、それは抜き身の剣である

実際に、そのような人々は、「私はあなたのためを思って……」となどと言いながら、実際には「そのままのあなたには生きている資格がない」いう隠されたメッセージを伝え、生きる気力を奪い取っているということがあります。残念ながら、そのように内側に悪意を隠した美しいことばは意外に多くあることです。

ところで、著者は何と、「荒野」を「私の隠れ場」と描きます (7,8節)。それは人の目からは、誰の保護も受けられない、孤独で不毛な場所でしょうが、だからこそ「神だけが頼り」となります。

つまり彼は、「翼が私にあったなら……」という白昼夢に逃げているようでも、「あらしと突風」のただ中で、そのたましいは神のみもとに引き上げられているのです。

それは、今は、「密室の祈り」と呼ばれる一対一で神に向き合うときに体験できることかもしれません。それは、独りぼっちであることが、神にあって益とされる機会です。

2001年にスイスで開かれたハンズ・ビュルキ先生による牧師向けのセミナーでのことですが、私があることへの感想を述べた時、それが自分の問題を他者のせいにしているような部分があったのを先生は鋭く察知し、厳しく突っ込んで来られました。私は皆の前で恥をかかされた気持ちになりました。

その時、先生は、皆に向かって「彼に安易な慰めの言葉をかけてはならない」と命じられました。また私には、「湧いた感情をいじってはならない。自己弁護してはならない。受けるべきケアーを受けられなくなる……」と言われました。

しばらく悶々とした気持ちでいましたが、徐々に予期しない形で不思議な慰めが与えられ、一週間近く経って、黙想の時に読まれたみことばが、心の奥底に迫って来て、感動に満たされました。後で先生が、「説明は、多くの場合正しくない。弁解の延長線上にあるからだ。『自己弁護する (excuse) 者は、自分や人を非難 (accuse)している』と語ってくださいました(フランス語の諺 qui s’excuse s’accuse)。

私はそれまで、何か悪いことが起こると、自己弁護をしたり、人に慰めを求めたり、また、自分で自分をカウンセリングし続けてきたように思えました。本当の意味で、問題を抱えたままで神の御前に静まり、神の解決を待ち望むということができていませんでした。

しかし、ダビデは、この祈りを通して、恐怖におびえた心を、そのまま神にささげました。その結果、彼の心は、まさに鳩のような翼を得て、神のみもとに引き上げられ、安らぐことができたのではないでしょうか。

その結果、彼はサウルやアブシャロム手から逃れるときに、驚くほど冷静な判断を下し、明日への布石を打つことができたのです。

1~8節の祈りを一九世紀ドイツの作曲家フェリックス・メンデルスゾーンが「わが祈りを聴きたまえ」 (hear my prayer) という十分間余りの曲にしています。暗く重い調子で始まった音楽が、「ああ、鳩のような翼が私にあったなら……」というところから、すみきった希望の調子に変わります。

それは、私たちが自分の暗く沈んだ気持ちを正直に神に訴えながら、しだいに、たましいが神のみもとに引き上げられ、やすらぎを得てゆく展開を表しています。それは、神の前に独りぼっちになることから生まれる恵みです。

3.「主 (ヤハウエ) は私を救ってくださる」

私が、神に呼ばわると、主 (ヤハウェ) は私を救ってくださる」(16節) という告白では、不思議に「」と「(ヤハウェ)」という言葉の使い分けがなされています。ここでは「」という人称代名詞が、23節と同じように特別に強調されて記されています。

これは、「」が、神のご性質を漠然としか知らないまま、ただ切羽詰って、「神様!」と呼ばわるようなときにも、(ヤハウェ) は、「わたしは『わたしはある』という者である」(出エジ3:14) というご自身の名を示しながら、親しく私に答えてくださるという意味と解釈できます。

主 (ヤハウェ) は、あなたの祈る前から、それを知っていてくださると詩篇139篇4節に記されていました。

そして、「夕、朝、真昼、私はうめき、嘆く。すると……」(17節) とは、私たちが一晩中ばかりか翌日の昼まで「うめき、嘆き続ける」様子を、神はじっと聴き続けた上で、初めて答えてくださるというリズムが表されているようです。神の答えは、遅すぎるように感じるのが常だからです。

私たちは、「主は私の声を聞いてくださる」という実感を味わう前に、余りにも早く訴えるのを諦めてしまってはいないでしょうか。

私たちの目の前には、神が「私の訴えから、身を隠しておられる」(1節) と思える現実が繰り返し起こるかもしれません。

しかし、ダビデは、苦しみのただ中で、諦めることなくじっと祈り続けることを通して初めて、自分の訴えの声が確かに神に届いていたことを、繰り返し体験することができました。それは頭での理解ではなく、腹の底からの確信となりました。私たちも同じ体験をすることができます。

なお、「絶やしてください!主よ、彼らを……死が襲いかかれば良い……」(9,15節) という表現は、「のろい」を祈っているように感じられます。しかし、それは、自分の気持ちを正直に神に述べ、公正な裁きを訴えたものであり、復讐ではありません。

先に述べたように、これは1節の「聴いてください!」という切実な訴えと重なるこの詩篇の核心部分です。それは、ダビデが自分で戦おうとしなくても、神が「迫り来る戦いから、このたましいを平和のうちに贖い出してくださる」(18節) と告白できているからです。

私たちは、しばしば、神のさばきを信じることができないからこそ、敵を赦すことができないのではないでしょうか。

そして、このような「」を中心とした祈りの後に、突然、「ゆだねよ!主 (ヤハウェ) に、あなたの重荷を」(22節) と、他の人への勧めが記されます。これは、神の沈黙に悩んでいたダビデが、「私の祈りは答えられた!」という実体験を経た上で、周りの人々や後世の人々に、神への信頼を訴えるものです。

しばしば、これに至るプロセスを飛び越えて、この「勧め」ばかりが強調される場合がありますが、それは人の心の繊細さや揺れを軽蔑した心の暴力になりかねません。

そう簡単に目に見えない神にすべてを任せきることができるぐらいなら、神の御子が人となって十字架にかかる必要などなかったことを覚える必要があります。イスラエルの民は、それを繰り返し聞きながら、実行できなかったということを忘れてはなりません。

信仰は人のわざではなく神が生み出してくださるものです。しかも、「ゆだねる」の本来の意味は「放り投げる」」ことで、自分の思い煩いや恐怖感を、そのまま全宇宙の支配者であるヤハウェの御前に差し出すことです。

わたしたちは、「あなたの御心のままに……」と祈る前に、自分の混乱した感情を、正直に、あるがままに注ぎ出す必要があるのではないでしょうか。

マルティン・ルターはこれに関して次のように記しています。「このようにゆだねる(放り投げる:Werfen)ことを学ぶことができた者は、それが確かに真実であることを体験している。しかし、そのような委ねる(放り投げる:Werfen)ことを学ぶことができなかった者は、投げ捨てられた (verworfen)、仲たがいさせられた (zerworfen)、屈服させられた (unterworfen)、投げ落とされた (abgeworfen)、ひっくり返された (umgeworfener) 人間のままに留まらざるを得ない」。

それにしても、「主は、あなたのことを心配してくださる」とは、何と優しい表現でしょう。

これは「あなたを支える」とも訳されますが、神の救いは、あなたの重荷を取り去ることではなく、重荷や思い患いを抱えたままのあなたを支えることだからです。現代の飽食な世界の問題は、「悩みを抱える力」が衰えていることですが、その力を神は与えてくださいます。

ペテロはこの詩篇の結論部分を次のように要約しています。

みな互いに謙遜を身につけなさい。
『神は高ぶる者には敵対し、へりくだった者には恵みを与えられる』のです。
ですから、あなたがたは神の力強い御手の下にへりくだりなさい。
神は、ちょうど良い時に、あなたがたを高く上げてくださいます。
あなたがたの思い煩いをいっさい神にゆだねなさい。
神があなたがたのことを心配してくださるからです」
  (Ⅰペテロ5:5-7)

最後に、「主は、正しい者がいつまでも揺るがされるままにはされない」(22節c) と記されますが、主の目に「正しい者」とは、主に向かって叫び続ける者に他なりません。そのような人を、主は「いつまでも揺るがされるまま」には放置されず、試練の中で立つことができるように支えてくださるのです。

しかし、神を忘れ、自分の強さを誇っている者は、死後のさばきを受けるか、「自分の日数の半ばも生きられませんと言われます (23節)。

病院で手術を受ける患者さんなどに、「大丈夫」と書かれた小石を手渡し、握らせながら、「あなたが願っているようになる大丈夫ではなくて、どちらに転んでも大丈夫の小石なのですよ」と言ってくださる方がいたそうです。

そのように私たちの不安に寄り添ってくれる人は本当に支えになります。同じように、イエスはこの祈りを通して私たちの気持ちに寄り添ってくださいます。

しかも、私たちの主イエスは死の力に打ち勝つことで、人生の途中に何が起ころうとも最終的な勝利が保証されていることを証ししてくださいました。

私たちは、そのことのゆえに、どんなときでも、「それゆえ、私は、あなたに、より頼みます」(23節) と告白できるのです。

ヒトラーによって指導されたナチスドイツに多くの教会が妥協をしてゆく時期に、ディートリッヒ・ボンヘッファーが、生きたキリスト者の交わりについて記した「共に生きる生活」 (1939年) は今も、多くの人々から愛読されています。

彼は、そこで共同体としての賛美歌が斉唱(ひとつの声)によって歌われるべきことを強調する一方で、多くの詩篇は並行法を生かした二つの声で朗読されるべきこと、そして、詩篇を、神であり人であるキリストご自身の祈りとして再評価すべきことを訴えています。

ディートリヒ・ボンヘッファー

彼はその際、多くの人が、ひとりでいることを恐れるがゆえに交わりを求めること、また交わりを自分自身からの逃避の手段とすることを厳しく戒めています。

なぜなら、ドイツの破局は、それぞれのキリスト者が、ひとりで神の前に立つことを忘れた結果でもあるからです。そして、これは集団主義的な日本の教会の問題でもありましょう。

キリスト者の交わりは、自分の不安や寂しさを、相手構わずぶちまけるような共依存的な関係になってはなりません。

ボンヘッファーは、「ひとりでいることができない者は、交わりに入ることを用心しなさい。彼は自分自身と交わりをただ傷つけるだけである。神があなたを呼び給うたとき、あなたはただひとりで神の前に立った……ひとりであなたは自分の十字架を負い、戦い、祈らなければならなかった……あなたは自分自身から逃れることはできない」と語っています。ただし、これは交わりの中にいることと不可分です。

私たちの心は、いつでも、どこでも、霊的な意味での、「鳩のような翼」をもって神のもとに憩うことができます。その導きがこの詩篇です。交わりの中で、自分と他者の声を交互に聴きながら、このたましいの叫びを読むとき、不思議な安心が生まれることでしょう。

そして後は、ひとりで自分の心を注ぎだして祈ることができます。そのような神との交わりこそ、人との交わりの力の源泉となります。


詩編55編(2007年 高橋秀典私訳)