ヘブル4章1〜13節「神の安息に入るための励まし合い」

2018年12月9日

私たちはイエスを救い主と信じることによって、「永遠のいのち」をすでに与えられていると教えられてきました。ところがこのヘブル書では、「神の安息」に入ることができなくなる可能性が示唆され、そうならないように「日々互いに励まし合う」ことが勧められています。

しかし、失う可能性があるものを「永遠のいのち」と呼ぶことができるでしょうか?実は、「永遠のいのち」とは、「来たるべき世」(2:5)の「いのち」と呼び変えることもできます。それが今日の箇所では、「神の安息に入る」と言われます。イスラエルの民がせっかくエジプトの奴隷状態から救い出されても、「約束の地」という「神の安息」に入れなかった人々がほとんどでした。

同じように、私たちが「神の安息」に入れない危険性は、目の前にあります。しかし、私たちは悲観的になる必要はありません。実は、ここに逆説があります。「私は大丈夫!」と思う人は、「信仰の破船にあい」ますが(Ⅰテモテ1:19)、「とうてい私の力では達成できることではありません。主よ、私をあわれんでください!」と、神にすがる人の信仰を、神は守り通してくださいます。

しかも、そのために私たちには、この神の民の共同体と、神のみことばが与えられています。「永遠のいのち」とは、私たちが所有する財産のようなものではなく、三位一体の神との生きた交わり、また神の民との生きた交わりです(Ⅰヨハネ1:2,3)。私たちはみことばに基づく交わりによって支えられ、同時に、愛の交わりが完成する世界へと招き入れられるのです。

1.「神の安息に入るための約束」

4章1節は、「こういうわけで、私たちは恐れる心を持とうではありませんか」という不思議な書き出しになっています。聖書ではしばしば、「恐れてはならない」という命令が記されていますが、それは「恐れ」の感情を否定的に見るものではありません。

マタイ10章28節の原文では、「恐れてはならない、からだを殺してもたましいを殺せない者たちを」と記され、それと並行して、「恐れなさい、たましいもからだもゲヘナで滅ぼすことができる方を」と記されています。「恐れてはならない」と「恐れなさい」の相反する感情は両立するのです。問われているのは「恐れる」べき対象と理由が何かということです。

ここでは、「神の安息に入るための約束がまだ残っているのに、あなたがたのうちだれかが、そこに入れなかったということのないように」、「恐れなさい」と命じられているのです。これは3章12,13節で、「それゆえ兄弟たちよ、よく見なさい。あなたがたのうちに、だれも悪い不信仰な心になることがないように、それによって生ける神から離れてしまうことがないように・・・。そればかりか、互いに日々励まし合いなさい。『今日』と言われている間に、あなたがたのうち誰も、罪に惑わされて頑なになることがないようにと・・・」(私訳)と記されていたことを思い起こさせるものです。

私たちは信仰の友が、「生ける神から離れてしまうことのないように」、また「罪に惑わされて頑なになることがないように」、「互いに日々励まし合う」ことが求められているのです。

なお、ここで「神の安息に入る」とは、「死んでたましいが天国に憩う」という霊肉二元論的なことを語っているのではありません。なぜなら、3章18節に記されていた、「神がご自分の安息に入らせないと誓われた」人々とは、モーセに導かれてエジプトの支配から解放された二十歳以上の男性たちだったからです。彼らは、神の約束を信じようとせずに、繰り返し神に逆らったために、約束の地を自分の足で踏むことはできませんでした。

当時のヨシュアに与えられた約束は、「あなたがたの神、主(ヤハウェ)はあなたがたに安息を与えこの地を与えようとしておられる」(ヨシュア1:13)というものでした。つまり、「神の安息に入る」とは、ヨシュアの時代には、約束の地を占領できるということを意味したのです。そして、その「約束がまだ残っている」とは、「神の安息」はイスラエルが約束の地に入れられたことで完成はしなかったことを意味します。

さらに続けて、「というのも、私たちにも良い知らせが伝えられていて、あの人たちと同じなのです」(4:2)と記されますが、私たちにとっての「良い知らせ」とは、新しいヨシュアであるイエス(ヘブル語名はヨシュア)に導かれて、「新しい天と新しい地に入る」ことを意味します。

ただここでは続けて、「けれども彼らには、聞いたみことばが益となりませんでした。みことばが、聞いた人たちに信仰によって結びつけられなかったからです」と記されます。これはイスラエルの民が、彼らの益となるはずの「みことば」を「聞き」ながら、それが「信仰と結びつかなかった」、または「信仰と一つにされなかった」という悲劇が起きたという意味です。

なぜなら、神の約束の「みことば」は私たちのうちに「信仰」を生み出すはずなのですが、自分の願望でいっぱいになっている心には届くことができないからです。

そのような現実との対比で3節は、「ところが、信じた私たちは安息に入るのです」と記されますが、ここで一呼吸置くべきでしょう。それは、ここには、「彼らは安息に入らなかった」一方で、信じた私たちは安息に入る」という対比が強調されているからです。

その上でここでは続けて、「それは神が、『わたしの怒りのうちに、彼らがわたしの安息に入ることはあり得ないと、誓うことによってであった』と言われたとおりです」と記されています(3節私訳)。つまり、神が何よりも怒っておられるのは、神のそれまでの圧倒的なみわざを忘れて、神の約束のことばに真剣に耳を傾けようとしない態度なのです。

そうなるのは、人々が自分の目の前の問題が消えることばかりを望んで、神の救いのご計画の全体像に関心を向けられないことから生まれています。なお、いわゆる「不信仰」(3:12)とは、楽観的になれないことではなく、神のみことばに信頼しようとしない心の姿勢を意味します。

続いて、「もっとも、世界の基が据えられたときから、みわざはすでに成し遂げられています。なぜなら、神は第七日目について、あるところで、『そして神は、第七日目に、すべてのわざから休まれた』と言われているからです」(3,4節下線部私訳)と記されています。これはギリシャ語七十人訳からの引用です。

なお、ヘブル語の創世記2章2節では、「すべてのわざをやめられた(シャバット)」と記され、出エジプト記20章20節では、「休んだ`(ヌーアッハ)」ということばが用いられます。つまり、創世記では「働きを止める」ことに強調がある一方で、出エジプト記では、「安息に入られた」という意味が前面に出ているのです。

そしてこの後者は、ダビデが神殿の建設を計画するに当たって、「主よ、立ち上がってください。あなたの安息の場所(メヌーアハ)に、お入りください」(詩篇132:8)と述べたことを思い起こさせます。それは、神がそこに昼寝をするために入るという意味ではなく、アメリカの大統領がホワイトハウスに入るような意味で用いられたことばとも言えましょう。それは、神がこの世界のコントロール・ルームに入られるという意味に理解できます。

事実イエスは、38年間も臥せっていた人を、敢えて安息日に癒されましたが、それを宗教指導者が非難した時、「わたしの父は今に至るまで働いておられます。それで、わたしも働いているのです」(ヨハネ5:17)と言われました。

つまり、ここで「神が休まれた」と記されるのは、神が六日間の創造のみわざを完成して、ご自身の「安息に入り」、この世界を天の御座から治めておられるという意味と理解できるのです。

この5節ではさらに、「そして再びこの箇所で、『彼らは決してわたしの安息に入りはしない』と言われたのです」(私訳)と記されます。

つまりここでは、すでに「神は安息に入っておられる」ことを前提としながら、その「神の安息」に入る可能性は「世界の基が据えられたとき」から原則的に開かれていたはずと記され、同時に、人間が神に反抗したために、神はその可能性を敢えて閉じられたと記されているのです。

2.「安息日の休みは、神の民のためにまだ残されています」

それをもとに、再び1節に立ち返りながら、「ですから、その安息に入る人々がまだ残っていて、また、以前に良い知らせを聞いた人々が不従順のゆえに入れなかったので、神は再び。ある日を「今日」と定め、長い年月の後、前に言われたのと同じように、ダビデを通して、『今日、もし御声を聞くなら、あなたがたの心を頑なにしてはならない』と語られたのです」(6,7節)と記されます。

これは、モーセに導かれたイスラエルの民が不従順のゆえに約束の地に入ることができなかったことを振り返りながら、ダビデが改めてイスラエルの民に向かって、詩篇95篇を用いて、神の「牧場の民、その御手の羊」として、神の招きに応じるようにと呼びかけていると記されています。だからこそ、心を頑なにせずに、心を開く必要があるというのです。

そして、「もしヨシュアが彼らに安息を与えたのであれば、神はその後に別の日のことを話されることはなかったでしょう」(8節)と記されますが、これはヨシュアによる約束の地の占領が、不徹底に終わったことを示唆しています。

興味深いことに、神がダビデ王の支配を確立されたときの表現が、「王が自分の家に住んでいたときのことである。主(ヤハウェ)は、周囲のすべての敵から彼を守り、安息を与えておられた」(Ⅱサムエル7:1)と記されますが、その「安息」とは一時的なものでした。つまり、神が与えられた「安息」とは、最終的な安息の完成の前味のようなもので、完成の時は、まだ先に残されていたのです。

事実、ダビデは、神が与えた「安息」の中で、気が緩んでしまい、家来ウリヤの妻を奪って、その偽装工作の中でウリヤを死に至らしめました。その後、彼の長男アムノンが腹違いの妹のタマルを強姦し、同じ腹から生まれた兄のアブサロムがアムノンを殺し、最後にはアブサロムがダビデに反旗を翻すところまで至ります。つまり、安息を与えられたダビデは、自分でその安息を壊してしまい、不安な日々を過ごすことになったのです。

そのようなことを前提に、「したがって、安息日の休みは、神の民のためにまだ残されています」(9節)と記されますが、「安息日の休み(サバティスモス)」という表現はここにしか登場しない特別なことばですが、これは、アダムが神に背く前のエデンの園の調和の回復であり、来たるべき「新しい天と新しい地」、「新しいエルサレム」を指す状態です。

そして、「神の安息に入る人は、神がご自分のわざを休まれたように、自分のわざを休むのです」(10節)と記されますが、神の「休み」とは、先に述べたように、神のご支配が全地に満ちて、誰の目にも明らかになることです。

それと同じように、私たちの「休み」とは、何の活動もなくなるというのではなく、エデンの園でアダムがすべての生き物に名前を付けたような喜びの働きの回復です。

神はご自分に背いたアダムに向かって、「大地は、あなたのゆえにのろわれる。あなたは一生の間、苦しんでそこから食を得ることになる。大地は、あなたに対して茨とあざみを生えさせ、あなたは野の草を食べる。あなたは、額に汗を流して糧を得、ついにはその大地に帰る。あなたはそこから取られたのだから。あなたは土のちりだから、土のちりに帰るのだ」(創世記3:17-19)と言われました。それ以来、この地での労働は、苦痛になってしまいました。

それに対し、完成した「安息日の休み」に入る者は、労働が喜びに変わるのです。それは今ここで、私たちが自分の働きをキリストの働きの一部と見ることから生まれます。あなたにとっての仕事は、「お金を得る手段」である前に、「いのちの喜びを体験する機会」とされるのです。

3.「生きているのです、神のことばは。そして、力強いのです」

4章11節は、原文の順番では、「ですから、努めようではありませんか、この安息に入るように。それは、だれも、あの不従順の悪い例に倣って落伍しないためです」と記されています。

私たちに与えられた「救い」とは、「イエスは私の主です」と皆の前で発表することで、自動的に天国行きの切符を貰えるというような安易なものではありません。なぜなら、「イエスを主と告白する」ことは、「この世と調子を合わせる」生き方と衝突することでもあるからです(ローマ12:2)。

この世には様々な誘惑があり、サタンも今、神の民を落伍させようと、必死に活動しています。イエスはこの戦いに勝利を保証してくださいましたが、苦難と誘惑は続くのです。

イエスが与えてくださった「永遠のいのち」は、確かに、「失われることがない」からこそ、「永遠」という名で呼ばれます。それをイエスは、「わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは永遠に、決して滅びることがなく、また、だれも彼らをわたしの手から奪い去りはしません」(ヨハネ10:28)と約束してくださいました。

ただ、この約束を思い起こし続けることが私たちを敵の攻撃から守るというのであって、私たちがこのイエスの約束を軽蔑して投げ捨てたら、私たちはサタンの力に呑み込まれることになるのです。

12節は原文の語順では、「生きているのです、神のことばは。そして、力強いのです(エネルゲイス)。また、両刃の剣よりも鋭いものです。それは、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目までも刺し通し、心が考えていることや意図していることをも見分けます」と記されています。

つまり、ここには、みことばの剣としての「鋭さ」以前に、私たちを生かすエネルギーのことが描かれているのです。まさに、神のことばは「生きていて」、力強く働き、私たちの心の奥底にまで達して、人の目には区別できない関節と骨髄の分かれ目にさえも働いて、私たちが考えていることや意図していることを見分け、それを正すことができるという意味です。

さらに13節も、「いかなる被造物も、神の御前に隠されていることはなく、すべてが、神の目には裸で、さらけ出されています。この方に対して私たちは説明をするのです」と訳することができます。これは私たちが「どなたの眼差しを意識して生きるのか」という人生の方向を指し示すことばと言えましょう。

なお興味深いことに、12節の「ことば」と13節の終わりの「説明」とは、同じギリシャ語のロゴス(ことば、理由、説明)の訳語です。つまり、神の「ことば」こそが私たちを真の意味で「生かす」力となるのですが、同時に私たちは、神の「ことば」の基準で「説明」責任を果たす必要があり、特に隠された心の動機が問われるのです。

イスラエルの民にとって荒野の四十年は、神から与えられた試験期間でした。そこで、神の約束に信頼したヨシュアとカレブは約束に地に入ることができましたが、他のすべての成人男性は落伍してしまいました。

ただ、「試験……」というと、自分は大丈夫かと不安に思う人も多いかと思います。しかし、私たち一人ひとりのうちには、旧約の預言者たちが憧れて記した「神の霊」がすでに宿っています。その「聖霊」こそが私たちに神のことばを理解させ、みことばを私たちの内側に働かせ、信仰を生み出してくださいます。

たしかに私たちの肉の力では、この荒野の旅路として課せられた試験に合格はできませんが、自分の貧しさを自覚するときに、神のことばが聖霊によって私たちの内側の闇を照らし、頑なな心を柔らかくしてくれるのです。

そのために大切なことがマザーテレサの「空っぽ」の詩に次のように記されています。

神はいっぱいのものを満たすことはできません。
神は 空っぽのものだけを 満たすことができるのです。
本当の貧しさを、神は 満たすことができるのです。
イエスの呼びかけに 「はい」と答えることは、
空っぽであること、あるいは空っぽになることの 始まりです。
与えるためにどれだけ持っているかではなく、
どれだけ空っぽかが問題なのです。
そうすることで、私たちは人生において十分に受け取ることができ、
私たちの中で イエスがご自分の人生を生きられるようになるのです……
自我から目を離し、あなたが 何も持っていないことを 喜びなさい。
あなたが何者でもないことを、そして 何もできないことを 喜びなさい。

クリスマスは、キリストの初臨を祝う時です。旧約の民はキリストの到来とともにすべての問題が解決すると期待していましたが、最終的な解決は、キリストの再臨のときまで待つ必要があります。それこそ「安息日の休み」が完成する時です。

私たちは一週間に一度の安息日ごとに、すでに実現した「神の安息」を喜びながらも、同時に、その完成のときを待ち望んでいます。私たちはそのために互いに励まし合うのです。

そして、このキリストの初臨と再臨の間に、三つ目の来臨、つまり、私たちの心にキリストが来臨してくださるときがあります。それこそ、私たちの心の中に神のみことばが働くときです。私たちはそれがどのようにして起きるかがわかりませんが、不思議にあるとき、神のみことばが私たちの心の奥底に響き、目に見えない神に従う信仰を生み出してくれたのです。

たとえば、私の中にはいつも神経症的な不安があります。自分の枠から外れたことを受け入れることが難しいのです。他の人は私の歩みを見て、社会的には成功者の部類に入るものと評価するかもしれません。しかし、それは自分の枠から出なかっただけかもしれません。

国際的な金融ビジネスから日本ではあまり評価されない牧師への道に進むのだって、神のみことばによって導かれ、何の劇的な体験もなく、まさにこれが自分にとっては自然なことと思えるように導かれました。

神学校に入学したとき、驚くほど劇的な体験や痛みを通ってきた学友たちの証しを聞きながら、「こんな生ぬるい信仰の私が入ってきてよかったのか……」と悩んだことがありました。

それを神学校の創立者に相談したところ、その先生は、「あなたは聖書のことばが心の底に響いてきた、という体験を持っていますか」と尋ねてくださいました。私は、「もちろんです。それで私はここに来ているのです」と答えました。

その先生は、「それで十分じゃないですか。神があなたを動かしていてくださるのですから」と言ってくださいました。

ここにおられるほとんどの人は、何らかのかたちでキリストがみことばを通してあなたの心に現れてくださったという体験をお持ちのはずです。それを自覚していない人も多くいらっしゃるかもしれませんが、誰からも強制されているわけでも、礼拝に集ったら必ず良いことが起きるという保証があるわけでもないのに、この場に集っていること自体が、ある意味で神の奇跡なのです。

もちろん、私たちの人生には霊的な浮き沈みがあります。だからこそ、「私たちは恐れる心を持とうではありませんか。神の安息に入るための約束がまだ残っているのに、あなたがたのうちだれかが、そこに入れなかったということのないように」と勧められています。

三位一体の神への信仰は、兄弟姉妹との愛の交わりとして現わされます。教会は神の家族の集まりです。私たちは家族として互いを心配し、気遣うのです。そのために祈り合うことこそ、神に喜ばれる最高の奉仕です。

しかも、互いのために祈っていることは、人と人との出会いに中で自ずと明らかになってきます。祈っている結果として、その人に会ったときに、その痛みに寄り添うことばが生まれるからです。