神の平和(シャローム)を完成する救い主

立川チャペル便り「ぶどうぱん」2018年クリスマス号より

信仰に導かれた二十歳過ぎのとき、僕にとっては、「いつも主にあって喜びなさい」(ピリピ4:4) というみことばがとっても新鮮でした。でも信仰生活が長くなるうちに、それが偽善のように思えてきました。このみことばをいくら思い起こしても、自分のぼやき癖がどうしても直らなかったからです。しかも、世界の悲惨を見て、そう簡単に喜んでいてはならないとも思えたからです。

米国のある牧師は結婚カウンセラーでありながら、彼の結婚は子供が6歳になったときに奥さんに去られるという形で破綻しました。それ以来、鬱病と不安に苦しんで来られたとのことですが、その方が、再び鬱のモードに入りつつあると言われながら、本当に心から次のように言われました。

「痛みについて私が学ばされたことをお分かちしましょう。痛みと歓びは共存できるのです。痛みがなくならないと、喜べない、と思う必要はありません。痛みのただなかに主は来られたのですから。Immanuel(主は私たちと共におられる)。Rejoice!(喜びましょう)」。

ヘンデル作曲のオラトリオ「メサイア」において、そのハレルヤコーラスはあまり有名ですが、それは黙示録19:6、11:15、19:16にある天の賛美を描いたものです。これは使徒ヨハネが迫害のまさにただ中で、天の門が開かれ、聞かせていただいた賛美をイメージしたものです (4:1)。つまり、私たちの世界は混乱に満ちているようでも、イエスの復活以降、天では今既にハレルヤコーラスが響き渡っているのです。私たちは、天での賛美を、この悲しみに満ちた地において霊の耳で聞きながら、今ここで、主にあって喜ぶことができます。また私たちはやがて実現する全地の平和を先取りして、この地で余裕をもって生きることができます。何が起ころうと、それはサタンの最後の悪あがきに過ぎないのですから。

預言者イザヤの時代、イスラエルは二つの国に分かれて争っていました。そして、今まさに北王国イスラエルはアッシリアによって滅ぼされようとし、南王国ユダに対しても来るべき裁きが宣告されていました。そのような中でイザヤは、神の不思議な救いの御計画を人々に知らせようとしていました。

イザヤ11章では、驚くべきことに、クリスマスの預言と新天新地の預言がセットになっています。つまり、二千年前のキリストの降誕は、全世界が新しくされることの保証として描かれているのです。

「エッサイの根株から新芽が生え」とありますが、エッサイはダビデの父です。ダビデから始まった王家はそれ以降堕落の一途をたどりバビロン捕囚で断絶したように見えましたが、ダビデに劣ることのない理想の王がその同じ根元から生まれるというのです。そして、6節からはこの第二のダビデ、理想の王が、ダビデが成し得なかったような完全な平和をエルサレムに実現し、エデンの園を再興すると語られます。この世界こそが、イザヤ65:17-25によると、「新しい天と新しい地」と呼ばれるのです。

「狼は子羊とともに宿り、豹は子やぎとともに伏し、子牛、若獅子、肥えた家畜がともにいて、小さな子どもがこれを追って行く……」(イザヤ11:6) とは食べる側と食べられる側の関係ですが、新しい世界においては弱肉強食がなくなり、それらの動物が平和のうちに一緒に生活できるというのです。

なおここで、「小さい子供がこれを追う(導く)」とは、エデンの園における人間と動物との関係が回復されることです。人が神に従順であったとき、園にはすべての栄養を満たした植物が育っていましたから、熊もライオン(獅子)も、牛と同じように草を食べることで足りました。新しい世界では、それが一時的な変化ではなく、それぞれの子らにも受け継がれます。また8節では「乳飲み子」や「乳離れした子」が、「コブラ」や「まむし」のような「蛇」と遊ぶことができると記されますが、これはエデンの園で蛇が女を騙したことへの裁きとしてもたらされた、「蛇の子孫と女の子孫との間の敵意 」(創世記3:15) が取り去られることを意味します。これは、蛇がサタンの手先になる以前の状態に回復されることです。

「わたしの聖なる山」(9節) とは、エルサレム神殿のあるシオンの山を指しますが、それが全世界の平和の中心、栄光に満ちた理想の王が全世界を治めることの象徴的な町になるというのです。現在のエルサレムは、残念ながら民族どうしの争いの象徴になっています。それは、それぞれの民族が異なった神のイメージを作り上げてしまっているからです。しかし、完成の日には、「主(ヤハウェ)を知ることが、海をおおう水のように、地を満たす」ので、宗教戦争などはなくなります。本来、ペンテコステの日に、教会の集まりに御霊が下ったのは、この預言の成就でした。そのとき、神はご自身の律法を人々の心の中に書き記し、もはや「主(ヤハウェ)を知れ」と互いに教える必要もなくなるからです (エレミヤ31:34)。 つまり、神の救いの御計画の目標は、人間を含めるすべての被造物が、「主(ヤハウェ)を知る」ことにあるのです。この世界の悲惨は、根本的には、人間が主を忘れたことに起因します。ですから、私たち人間が本当の意味で、心の底から「主(ヤハウェ)を知る」ときに、この世界は神の平和で満たされます。 今、私たちはこの世の悲惨に涙を流しながらも、このイザヤ11章に思いを巡らすとき、この世界が神の平和の完成に向かっていることに心の目が向けられ、いつでも喜ぶことができることでしょう。