ヘブル4章14節〜5章10節「苦しみを通して大祭司となられた主イエス」

2018年12月16日 

私たちプロテスタントの教会では、聖母マリアに向かって執り成しを願う祈りはしません。それはイエスご自身が私たちのすべての弱さを理解して、父なる神の右の座に着いて、私たちのために執り成していてくださると信じているからです。

イエスは最終的にこの地をさばくために再臨されますが、だからと言ってイエスを過度に恐れる必要はありません。しばしば誤解されますが、栄光の座に着いておられるイエスは、人間であることを止めた方ではありません。神の御子はこの世界の創造主でありながら、不条理と混乱に満ちた世界に住む私たちと同じ痛みを体験するために、マリアを通して肉の身体を持つ者となり、私たちの罪を負って十字架にかかられましたが、この方は、死に打ち勝つことで「完全な者とされ」(5:9)、「本物の模型に過ぎない……聖所」ではなく「天そのものに入られ」(9:24)、神の右の座で私たちの代表者として、この世界を治めておられるのです。

多くの人々は自分の友人が国会議員になると嬉しく思います。それは自分が行政機関から不当な受けることがあっても、いざとなったらそれを正してくれると期待できるからです。イエスはあなたのとして、あなたの弱さやそこから生まれた失敗を代弁して全世界の支配者である父なる神に執り成してくださる方です。

私たちはそのような大祭司を持っていることによって、この世の様々な不条理のただ中に出て行くための勇気をいただけるのです。

1.私たちの弱さに同情できる大祭司

ヘブル書の著者は、3,4章で詩篇95篇(7-11節)を引用しながら「今日、もし御声を聞くなら、あなたがたの心を頑なにしてはならない」ということばを三回も繰り返しています(3:7,8,15,4:7)。それは、多くのクリスチャンになったはずのユダヤ人が、彼らの「救いの創始者」(2:10)であるイエスから目を離し、今日」ではなく、昔に家族とともに守ってきた神殿礼拝の儀式に戻ろうとしていたからだと思われます。

14節の原文は、「さて、私たちは、もろもろの天を通られた偉大な大祭司を持っているのですから」ということばから始まります。「もろもろの天を通られた」とは、イエスが死んで葬られ、三日目によみがえり、御父の右の座に着かれるまでの過程を指していると思われます。

使徒パウロは自分が体験した「主の幻と啓示の話」を客観視するように、「私はキリストにある一人の人を知っています。この人は十四年前に第三の天にまで引き上げられました。肉体のままであったのか、私は知りません……彼はパラダイスに引き上げられて、言い表すこともできない、人間が語ることを許されていないことばを聞きました」と描いています(Ⅱコリント12:1,2,4)。

パウロは私たちと同じ「キリストにある人」ですが、「異邦人への使徒」という特別な使命に選ばれた者として、もろもろの天を通られた」イエスの御跡を特別に見ることができたのだと思われます。

なお、当時のユダヤ人たちは天が七層に分かれていると考えていたようですが、イエスはどん底の死の領域から最上階の「神の右の座」にまで引き上げられました。しばしば、ヘブル人への手紙には、キリストの復活についての明確な記述がないなどと言われることがありますが、このような記述に、イエスの復活が当然のこととして前提とされていることは明らかです。

そして「大祭司」とは「神の子イエス」であると呼び、「信仰の告白を堅く保とうではありませんか」と続きます。これは先に、神が「多くの子たちを栄光に導くために、彼らの救いの創始者を多くの苦しみを通して完全な者とされた」(2:10)という告白を思い起こさせながら、それを堅く保つことの勧めとも言えましょう。

イエスが「完全な者とされた」という背後に、「今やキリストは眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。死が一人の人を通して来たのですから、死者の復活も一人の人を通して来るのです」(Ⅰコリント15:20,21)という、主の復活がすべての人間の復活の「初穂との考え方があります。

ただし、ユダヤ人が「イエスは私の救い主です」と告白することには、異端者として殺される危険がありました。ですから、「信仰の告白を堅く保とうではありませんか」という呼びかけの直後に、「それは私たちが、私たちの弱さに同情することができない大祭司を持っているわけではないからです」(4:15私訳)と続きます。

英語の「同情」(Sympathy)は、このギリシャ語の名詞形(スンパセス)に由来し、基本的な意味は「ともに苦しむ」ことです。イエスは、私たちの痛みや不安を見下ろしているのではなく、いっしょに味わって下さる方です。

そのようになられた理由が、続けて、「この方は、まさに、すベての点において、同じように試みにあわれたからです。罪は別としてですが」と記されます。イエスご自身が公生涯の初めに、荒野で、パンまたは富、神を試みる不思議、この世の権力という三つの誘惑に直面されました(マタイ4:1-11)。これは、「肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢」(Ⅰヨハネ2:16)とも表現されます。

ですから、私たちは、これらの誘惑を、イエスが真剣に戦う必要のあるほどのものだったことを認め、主の助けを大胆に願う必要があります。イエスはこの肉体から湧き起こる欲求の強さをご存知なのですから。

なお、14,15節では「私たちが」どのような「大祭司を持っている」かが描かれています。「大祭司を持つ」という表現は、一見、失礼な表現のように感じられるので日本語訳では避けられます。しかし、これは、私たちが自分たちの代表者としての国会議員を「持っている」という表現に似ているとも言えましょう。大祭司は、私たちを生かすために神に仕える私たちの代表者でもあるからです。

ここにはイエスが、この世の苦しみの中に生きる私たちの代表者として御座に就いておられるという確信があります。

それを前提に原文の語順では、「ですから私たちは、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか」(4:16)と言われます。それは私たちが「大祭司として持っている」がゆえに、恐れる必要がないからです。

そして、その目的が「折にかなった助けとしての、あわれみを受け、恵みを見出すためです」と記されます。これは、私たちが神の「恵みの御座」に近づくときに、神が、ちょうど良いときに、「あわれみ」と「恵み」という助けの御手を差し伸べてくださることを体験できるという意味です。

神が何よりも悲しまれるのは、私たちが心を閉ざしてしまうことです。私たちは、様々な苦しみや試みにあったとしても、そこで、単なる、アドバイスや精神的励ましを受けるだけではなく、実際的な「折にかなった助け」を受けられます。ですから、いつでも大胆に自分の必要を、また自分の弱さを訴えることができるのです。

2.「神に召されて大祭司とされた方」 

5章1節は「それは、すべての大祭司が、人々の中から選ばれ、神に対することにおいて人々を代表するからです。それは、ささげ物と犠牲を罪のためにささげるためです」(私訳)と記されます。

つまり、大祭司の働きは、罪人の代表者として、「ささげ物と犠牲(いけにえ)」神に献げることにあるのです。

続けて「彼は無知で迷っている人々に優しくなることができます。それは、自分自身も弱さを身にまとっているからです」(5:2私訳)と記されます。ここで強調されるのは、人々に優しくなることができるという大祭司の資質ですが、その理由が、大祭司自身も弱さを身にまとっているので、弱い人の気持ちが分かるということにあります。

そして3節では2節の原文の終わりの「弱さ」ということばを受けて、「そのことのゆえに、民のためだけでなく、自分のためにも、罪のためにささげる必要がありました」と記されます。レビ記では、民の罪のために犠牲をささげる大祭司自身が、自分の罪のための高価な犠牲をささげなければならないことが繰り返し実際的に規定されていました。

もちろん、キリストは何の罪も犯されなかったので、自分の罪のためのささげものをする必要はありませんでした。しかしここでは、大祭司が自分の罪のためにささげ物をする必要があったことで、大祭司は民の「弱さに同情」(4:15)できて当然であったということが強調されています。

つまり、キリストこそが、「無知で迷っている人々に優しくなることができる」という点において最高の大祭司であったという不思議な説明がされているのです。

そしてだれも、自分でこの栄誉を受けることはありません。アロンがそうであったように、神に召されてのことなのです。そして、同様にキリストもご自分を大祭司とするために自分を栄光ある者としたのではなく、ご自身に対し次のように語りかけられたからです」(5:4,5私訳)と記され、その神からの語りかけが詩篇2篇7節の、「あなたはわたしの子、わたしが今日、あなたを生んだ」として引用されます。

これは1章5節にもあったことばですが、これは詩篇2篇の文脈では、この世の支配者たちが結束して主(ヤハウェ)と油注がれた者(メシア)に逆らっている中で、主ご自身が、「わたしは わたしの王を聖なる山シオンに立てた」という布告を述べるという中で、このことばが記されます。

つまり、イエスが大祭司とされたことは、主がご自身の復活によって、王として任職されたことと重ねられているのです。

そして6節では、「別の箇所でも神は次のように言っておられます」ということばとともに、詩篇110篇4節のことばが、「あなたはとこしえに祭司である。メルキゼデクの例に倣って」と引用されます。

イエスはユダ族ダビデの子として生まれましたから、本来なら、祭司になる資格がありません。しかし、メルキゼデクに関して7章1-3節で、アブラハムからすべての物の十分の一を受けたサレムの王として紹介され、この方は、「父もなく、母もなく、系図もなく、生涯の初めもなく、いのちの終わりもなく、神の子に似た者とされて、いつまでも祭司として留まっているのです」と描かれています。

イエスは系図から言えば、アブラハムの孫のヤコブの四男のユダの家系で、祭司になることはなかったはずですが、メルキゼデクが系図を超えた永遠の祭司であり、アブラハムのささげ物を受けた方であるのと同じように、イエスの大祭司としての働きは、神の特別の召しによって与えられたものであると描かれています。

ローマ人への手紙においては、律法の問題がアブラハムにさかのぼって議論され、私たちがイエスの真実によりアブラハムの信仰に倣うことで義とされると描かれています。

このヘブル人への手紙では、イエスはモーセやアロンにまさる大祭司として描かれ、アブラハムのささげ物を受けた永遠の祭司メルキゼデクに比較されます。それは、当時のユダヤ人が、救い主の働きを、神殿礼拝の枠組みの中でしか捉えきれず、キリストのみわざと律法の教えが矛盾しているようにしか見えなかったからです。

3.大きな叫び声と涙をもって祈ったイエス

5章7節から10節は、礼拝で暗唱される美しい詩のかたちで記されています。これほど明確に簡潔に、キリストが、私たちと同じ人間になられたことの意味を語っている箇所はありません。

まず7節の原文の語順では、「この方は、ご自身の肉体の日々において、祈りと願いとを、ご自分を死(の支配領域)から救い出す方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって、ささげられ、その敬虔のゆえに聞き入れられました」と記されます。

死から救い出す」とは、死を免れることではなく、死の支配領域から救い出されることです。なぜなら、この書では最初に、「神は御子によって世界を造られ……御子は……神の本質の完全な現れ」(1:2,3)と描かれ、その御子が私たちと同じ「血と肉を」持つ身体となることで、「死の力を持つ者、すなわち悪魔をご自分の死によって滅ぼし」(2:14)たと記されていたからです。

ただそこには、肉体を持つ故の苦しみがあり、「私たちと同じように試みに合われ」(4:15)ました。それが最も明確に現れるのは、イエスが十字架の苦しみの前に、ゲッセマネの園で祈られたときです。

彼は、そこで神の御子でありながら、「自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ」るという必要がありました。主は、その時、眠りこけている三人の弟子たちに「誘惑に陥らないように、目を覚まして、祈っていなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです」(マタイ26:41)と言われました。

大祭司としてのイエスの偉大さは、嵐をも静める御力以上に、このアダムから受け継いだ肉体の弱さを熟知しておられたことにあります。一方、ペテロ等の弟子たちは、自分の力を過信して、サタンの誘惑に負け、いざとなったらイエスを裏切ってしまいました。

大きな叫び声と涙とをもって」という祈りの例は、イエスが用いた詩篇に見られます。

たとえば、イエスは十字架で、詩篇22篇1節のことばで「わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか」と叫ばれました。

また息を引き取る前、「わたしは渇く」と言われましたが、それは詩篇69篇20,21節の「嘲りが私の心を打ち砕き 私はひどく病んでいます。私が同情を求めても それはなく 慰める者たちを求めても 見つけられません。彼らは……私が渇いたときには酢を飲ませました」というお気持ち全体を現したことばでした。

またイエスがゲッセマネの園で、「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです」(マタイ26:38)と言われ、「苦しみもだえていよいよ切に祈られ……汗が地のしずくのように地に落ちた」(ルカ22:44)というとき、詩篇42篇11節の「わがたましいよ なぜ おまえはうなだれているのか。なぜ 私の内で思い乱れているのか」という祈りが心に響いていたかもしれません。

これらの詩篇はダビデを始めとする作者が絶望のただ中で記したものですが、神の御子はそれらをすべて体験され、ご自身の祈りとされたのです。詩篇には私たちがこの世の苦しみの中で体験するあらゆる感情が描かれているとも言われます。そしてそれらを弱い肉体を持っておられたイエスご自身が体験してくださったのです。

そればかりか、イエスの祈りは「その敬虔のゆえに聞き入れられました」(5:7)とありますが、詩篇の祈りこそ、神へのつぶやきや苦情と紙一重のように見られますが、真に敬虔な祈りです。

私たちはこれを用いてこの肉体が味わうあらゆる弱さを、敬虔な叫び声、涙として、神に訴えることができるのです。私たちが詩篇に描かれた赤裸々な感情表現に慰められるとき、まさにそこでイエスに出会っています。

さらに、「キリストは御子であられるのに、お受けになった様々な苦しみによって従順を学ばれた」(5:8)というのは驚くべき表現です。それは、主が日々の生活のただ中で人間としての欲求と戦いながら、神に従う決断をし続けたという意味です。

仮想現実では、落ち着いて対処できたとしても、実際の現場では身体が硬直したり、勝手な方向に動き出したりするのが人間です。イエスは私たちの代表者として、現実の苦しみの中で、神に祈り、神の励ましを体験して、従順を貫かれたのです。

そして不思議にも、イエスは死人の中からよみがえることによって、人間として「完全な者とされ」、またそれによって「ご自分に従うすべての人々にとって永遠の救いの源となり」と描かれます(5:9)。まさに、死者からの復活が、「完全な者とされ」ることの前提とされているのです。またそれで初めて、「永遠の救いの源となる」ことができたのです。

事実、先に引用された「わたしが今日、あなたを生んだ」とは使徒13章32節では「神はイエスをよみがえらせ……その約束を成就してくださいました」ということの意味でした。

その上でキリストは、「神によって大祭司と呼ばれました。それは、メルキゼデクの例に倣ってのことです」(5:10)と記されます。まさに「完全な者とされ」なければ、その栄誉を受けることはできなかったのです。

そしてキリストが大祭司とされたことの意味がローマ人への手紙8章34節では、「だれが、私たちを罪ありとするのですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、しかも私たちのために、とりなしていてくださるのです」と記されています。

讃美歌312番「慈しみ深き友なるイエスは」の原詩は、1855年にカナダ東部の貧しい移民たちに仕えていた信徒伝道者のジョセフ・スクライブンによって記されました。彼はアイルランドの裕福な家庭に生まれ育ちますが、結婚式の前日に婚約者が溺死してしまいます。

ジョセフ・スクライブン (1819-1886)

深い心の傷を負った彼は、25歳でカナダの貧しい町に移住し、学校の教師をしながら、不幸な人や貧しい人々に仕え続けます。そして41歳の時に、再び婚約に導かれますが、彼女は結核で天に召されます。

そのような中で、遠いアイルランドに住む母も同じような悲しみに打ちひしがれていることを知ります。彼は、そのとき、苦しみの中に不思議な神の慰めを感じ取っていたので、母を慰めるためにこの詩を書いたと言われます。

この詩は彼の死後に人々に知られるようになり、そこに現代の美しいメロディーが添えられて世界的に歌われるようになりました。大祭司としてのイエスの姿が美しくし記され、原詩の意味は次の通りです。

1.何というすばらしい友を私たちは持っていることか。
  イエスは私たちの罪と嘆きを背負ってくださる。
  何という特権だろう。
  すべてのことを祈りのうちに神の御前に携えて行けるとは。
  何としばしば、私たちは平安を失い、
  不必要な痛みを負うことだろう。
  それはすべて、祈りのうちにすべてのことの
  神の御前に携え行かないためだ。

2.私たちは試みや誘惑を受けているだろうか。
  どこかに問題があるだろうか。
  私たちは決して失望すべきではない。
  それを祈りのうちに主に持って行こう。
  これほど真実な友を見出すことができようか。
  その方に悲しみを打ち明けられるのだから。
  イエスは私たちのすべての弱さを知っておられる。
  すべてを祈りのうちに主に持って行こう。

3.私たちは弱く、重荷を負いながら、
  心労に押しつぶされそうになっていないだろうか。
  貴い救い主こそがなお、私たちの隠れ場になってくださる。
  それらを主に持って行こう。
  友があなたを軽蔑し、見捨てているだろうか。
  その悩みを祈りのうちに主に持って行こう。
  主は御腕のうちにあなたを守ってくださる。
  そこにあなたは慰めを見出すことができる。