ヘブル1章「王なる支配者としての御子」

2018年9月30日

あなたは、イエスの十字架をどのように描くでしょう?普通に考えるなら、イエスほど哀れな犠牲者はいません。何の罪を犯さなかった愛に満ちた人が、無実の罪で、当時もっとも忌まわしい十字架刑に処せられたというのですから……イエスはまさに悲劇の主人公です。

クリスチャンは確かに、イエスは私たちの罪を負って十字架にかかられたと告白しますが、それでも、イエスを人間の罪の犠牲者として見るということでは同じかもしれません。イエスを悲劇の主人公かのように描くことは聖書的なことなのでしょうか?

不思議にもこの1章では、イエスは栄光に満ちた王であるばかりか、神と等しい方として描かれているのです。

そして、ご自身のいのちをかけて愛してくださったイエスが、全世界を支配する「栄光の王」であるという告白は、様々な試練の中にある人々にとって、最大の慰めであるとともに生きる力となります。

ヘブル人への手紙は紀元70年のエルサレム神殿の崩壊の前に、離散し迫害されているユダヤ人クリスチャンに向けて記されたと思われます。それは13章3、23、24節から推測されます。ただ、著者が誰であるかは、永遠の謎であると言われています。

この手紙を通して、イエスの十字架の意味が旧約の様々なささげものの血の犠牲との対比で描かれています。ユダヤ人たちにとって、神殿において動物を犠牲のいけにえとすることによって、神との生きた交わりを回復するということは極めて大切なことだったからです。

1.「御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れ」

この書では最初に、神の啓示に関して、「多くの部分に分け、多くの方法で、昔、神は、先祖たちに、預言者たちを通して語られましたが、この終わりの時には、御子にあって私たちに語られました」と記されます(私訳)。

ここで、「神は……語られました(言われた)」での、「神は」という主語は、原文の1章ではここにしか記されません。

聖書の最初はモーセによって記され、トーラーと呼ばれ、すべての土台となります。その後、神はダビデの詩篇を通して、その後、多くの預言者たちによってイスラエルの民に語られました。

しかし、「この終わりの時」と呼ばれる現在は、神はご自身の御子であるキリストを通して私たちに語ってくださっているというのです。御子は、「多くの部分に分け、多くの方法で語られた」旧約のすべての記述と矛盾することなく、すべての預言を成就する方として現れたということを私たちは忘れてはなりません。

この「御子」という方に関して続けて、「神は彼を万物の相続者と定め、また彼によって世界を造られたのです。彼は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます」と描かれます(一部私訳)。

ここで「万物の相続者」であるとは、キリストは全世界の支配者であるという意味で、その最後に改めて、「万物を保っておられます」と述べられます。

しかも、この世界のすべてのものは、神が「御子によって(通して)」創造されたと、御子を御父との協同の創造主として紹介されます。これは当時のユダヤ人にとって奇想天外なことに聞こえたことでしょう。

それで改めて、御子は「神の栄光の輝き」として同じ栄光を共有し、「神の本質(ヒュポスタシス)の完全な現れ」であると描かれます。ここに後の三位一体論の核心が描かれているとも言えましょう。

4世紀の終わりに正統信仰の基準としてまとめられた ニケア・コンスタンチノープル信条 においては、次のように告白されています。

私たちは、唯一の主、神のひとり子、イエス・キリストを信じます。 主は、世々に先立って父より生まれた方、 光よりの光、まことの神よりのまことの神、 造られずして生まれ、父と本質(ウーシア)において同じです。 すべてのものは、この方によって造られました。

さらにここでは続けて、御子のみわざが、「この方は、罪のきよめを成し遂げられ、大いなる方の右の座に着座されました、いと高き所に。この方は、御使いよりもさらに優れた方となられ、さらにすばらしい名を受け継がれたのです」と描かれています(34節私訳

ここには「罪のきよめ」というみわざと、神の「右の座(総理大臣の座)に着座」され、この世界の支配者となっておられることが描かれますが、同時に、ここでは御子がそれによって、「御使いよりも」さらに「すぐれた方」としての「さらにすばらしい名を受け継がれた」ということが強調されます。

そのように記されたのは、旧約預言には、「救い主(メシア)」が現れたとき、「救い」と同時に「神の敵」に対する「さばき」が同時に実現すると描かれているのに、そのようにはならなかったからです。それで、先の信条では、「救い主」の到来が二回に分けられた告白されています。

主は、私たち人間のため、私たちの救いのために、天から下り、 聖霊と処女マリアによって肉体を受けて、人となり、 私たちの身代わりとしてポンティオ・ピラトのもとで十字架につけられ、苦しみを受け、葬られ、 三日目に、聖書に従って よみがえり、 天にのぼり、父の右に座り、生きている者と死んでいる者とをさばくために、栄光をもって再び来られます。 主の御国は終わることがありません。

当時のユダヤ人たちにとって、救い主が来られるとき、「神の国」が完成するということは理解できましたが、その方が二回に分けて来られるということは理解しがたいことだったと思われます。

イエスが処女マリアを通して人となられたのは「罪のきよめ」のためでありますが、それはキリストの初臨と呼ばれ「再臨」とは区別されます。再臨とは、主が三日目に復活し、天に昇り、再び来られて、神に敵対する勢力を完全に従えるという時です。

旧約聖書では、初臨と再臨がまとめて預言されていました。多くの人々は、罪の赦しのための十字架を知っていても、キリストがすでに「神の右の座に着座され」、この世界を治め始めておられ、その支配は再臨によって完成されるという意味を、十分には理解していないのかもしれません。

2.「神のすべての御使いよ、彼にひれ伏せ」

そのキリストの支配のすばらしさが、以下に御使いとの比較で描かれます。なぜなら、ダニエル書10章などでは、大天使ミカエルが「ペルシャの君」や「ギリシャの君」と戦い (20)、終わりの日の救いに関しては、「その時、あなたの国の人々を守る大いなる君ミカエルが立ち上がる」(12:1) と記されているからです。

ダニエル書に親しんでいたユダヤ人にとって、ミカエルこそが救い主のように思えたことでしょう。

その誤解を正すため、ヘブル書の著者はいくつかの旧約聖書の箇所から「救い主」について記されている部分を引用しながら、御子であるキリストと御使いの偉大さは全く異なるということを示しました。

その第一は、詩篇27節に記された、「あなたはわたしの子、わたしが今日、あなたを生んだ」ということばですが、これは詩篇2篇の文脈では、この世の支配者たちが結束して主 (ヤハウェ) 油注がれた者(メシア)に逆らっている中で、主ご自身が、「わたしは わたしの王を聖なる山シオンに立てた」という布告を述べるという中で、このことばが記されます。

そこではさらに主はメシアに「国々をあなたに受け継がせ 地の果てまで あなたのものとする あなたは鉄の杖で彼らを打ち 焼き物のように粉々にする それゆえ今 王たちよ 悟れ……御子に口づけせよ 怒りを招き その道で 滅びないために」と続きます。

つまり、引用されたみことばは、キリストの王としての即位を意味することばなのです。そして使徒の働き1333節では、「神はイエスをよみがえらせ……約束を成就してくださいました。詩篇の第二篇に、『あなたはわたしの子。わたしが今日、あなたを生んだ』と書かれているとおりです」と記されています。

そこでは、「わたしが……あなたを生んだ」とは、神がイエスを復活させ、王とされたことを意味しました。

またさらに、「わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる」というみことばは、サムエル記第二714節からの引用です。それは、ダビデに「あなたの王座はとこしえまでも堅く立つ」(7:16) と約束されたことが、ダビデの子ソロモンによってではなく、ダビデ王家から生まれたキリストによって成就されるという文脈で引用されたことばです。

イエスがヨルダン川でバプテスマを受けたとき、天から「あなたはわたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ」という声がしましたが (ルカ3:22)、それがこの預言の成就のしるしでした。

「そのうえ、この長子をこの世界に送られたとき、神はこう言われました。『神のすべての御使いよ、彼にひれ伏せ』」(1:6) との引用は、詩篇977節のギリシャ語七十人訳では「彼のすべての御使いたちよ。あなたがたは彼にひれ伏せ」と記されているのとほぼ同じです。そのヘブル語は「すべての神々(エロヒーム)よ 主にひれ伏せ」と記されています。

そこでは「主 (ヤハウェ) は王である……諸国の民はその栄光を見る」という文脈の中でそのように記されているので、キリストこそが(ヤハウェ) であり、王であるという宣言になります。

またはこの箇所は申命記3243節のギリシャ語七十人訳からの引用であるとも考えられ、そこでは「天よ。彼とともに喜び歌え。すべての神の子たちは彼にひれ伏せ。異邦人たちよ、彼の民とともに喜び歌え。すべての神の御使いたちは彼を力づけよ。彼がご自分の子たちの血に報復し、その敵に復讐を遂げ、ご自分を憎む者たちに報いを与え、主はご自分の民の地をきよめるのだから」と記されています。

どちらにしてもその中心的な思想は、イスラエルの民が自業自得で、神のさばきを受け、他国の攻撃を受けて国を失った後に、今度は主ご自身が民の「血に報復し」、イスラエルを滅ぼした国に「復讐を遂げ」ることによって「地をきよめ」るということです。

それは「彼」と呼ばれる方が、神の「長子」としての「御子」であられ、その方が自滅したイスラエルを再創造するということです。「御使い」が神の「長子」の前に「ひれ伏す」のは、父なる神に帰せられるべき再創造の働きを「主」である「御子」が実行するからなのです。

7節の、「また、御使いについては、『神は御使いたちを風とし、仕える者たちを燃える炎とされる』と言われましたが」という表現ですが、これは詩篇1044節からの引用で、そのヘブル語は「ご自分の使いを風とし ご自分の召使いを燃える火とされる」と訳すこともできます。

先の6節での引用は、主が御使いに呼びかけていることとして解釈できますが、この箇所は、御使いを「」や「燃える炎」と同じ被造物のレベルに扱ったものです。それは、その詩篇1042節で、「あなたは光を衣のようにまとい 天を幕のように張られます」と記されていることの流れで引用されたものです。

つまり、御使いは「光」や「天」と同じように、創造主にとっての対話の相手というよりも、神にとっての最高の被造物に過ぎない、神の命令をただ忠実に執行する神の代理機関のようなもので、「御子」と同じレベルで語ることはできないというのです。

8節の始まりは、「御子に対しては、こう言われました」と訳すことができ、その流れの中で、御父は御子を「神よ」と呼びかけながら、「あなたの王座は世々限りなく、あなたの王国の杖は公正の杖。あなたは義を愛し 悪を憎む。それゆえ 神よ あなたの神は 喜びの油を あなたに注がれた。あなたに並ぶだれにもまして」と語りかけています (8、9節)。

このみことばは詩篇45篇6、7節からのそのままの引用です。

もともと詩篇45篇は、「王妃はあなたの右に立つ」(9節) との記述から、「王の結婚式の歌」とも呼ばれ、その6節の「神よ」という呼びかけは「王」に向けてのものと解釈できます。

なぜなら、7節では、「神よ、あなたの神は喜びの油を……あなたに注がれた」と、王が「神」と呼ばれ、父なる神が、王に油を注いだと記されているからです。

イエスご自身も、聖書が「神のことばを受けた人々を、神々と呼んだ」と言っておられます (ヨハネ10:35)。なお「神」も「神々」もヘブル語にするとエロヒームという全く同じ単語になります。

ここでの「あなたの王座は世々限りなく」と歌われるのは、先のサムエル記の引用の箇所にあったように、ダビデ王家が永遠に続くことを語ったものです。また、ダビデの王座の支配が「公平の杖」と呼ばれるのも先に引用された詩篇29節で、「あなたは鉄の杖で彼らを打ち砕き」とあるように王の力ある支配を意味します。

そのことがさらに「あなたは義を愛し、悪を憎む」と記されます。そして「救い主」はこのような理想的な王として登場されたというのです。つまり、御子は「ダビデの子」として、「神」と呼ばれながら、父なる神との対話の中で、神のご支配をこの地に実現する「王たちの王」として描かれているのです。

3.「あなたははじめに、主よ、地の基を据えられました」

続く10節は原文の語順で、「そして、あなたははじめに、主よ」と記され、「神は言われた」という連続の中で、御子を「あなた」と呼び、その方を詩篇102篇の主語である「主 (ヤハウェ) 」の名で呼び、その25-27節を引用しているのです。当時のユダヤ人にとって、ヤハウェである父が、御子をヤハウェと呼ぶというのは奇想天外なことです。

そして続けて、「地の基を据えられました。 天も、あなたの御手のわざです。これらのものは滅びます。 しかし、あなたはいつまでもながらえられます。すべてのものは、衣のようにすり切れます。あなたがそれらを外套のように巻き上げると、それらは衣のように取り替えられてしまいます。しかし、あなたは変わることがなく、 あなたの年は尽きることがありません」と記されます。

このヘブル書の引用はもともとの詩篇から若干の違いがありますが、意味は基本的に何も変わりません。

何よりの不思議は、父なる神が、御子を「主」と呼び、御子が天地万物の創造主であり、御子の思いのままに世界を変えることができる一方で、御子は永遠に変わることがないと言われていることです。

なお詩篇102篇の標題には「苦しむ者の祈り。彼が気落ちして、自分の嘆きを主 (ヤハウェ) の前に注ぎ出したときのもの」と記されています。この詩篇の引用を見たヘブル書の読者もそれが分かったことでしょう。

そしてその2節の原文は、「御顔を隠さないでください」から始まり、「すぐに私に答えてください」で終わります。これはイエスが十字架で詩篇22篇のことばを用いて、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ27:46) と祈られたことに通じます。

つまり、この詩篇の文脈では、御子はこの詩篇作者と同じ絶望感を味わってくださった方なのです。その3-7節は次のように訳すこともできます。

私の日々は煙のように失せ、骨々は炉のように熱い

心は青菜のように打たれてしおれ、パンを食べることさえ忘れるほど

嘆きの声のため、私の骨々は皮にくっついてしまった

まさに荒野のみみずくにも似て、廃墟のふくろうのようになっている

私は眠ることもできず、屋根の上のはぐれ鳥のようになった

ところが、12節からはすべてが逆転される希望が歌われます。そこではまず、「しかし、あなたは 主 (ヤハウェ) よ」ということばから始まり、主の永遠のご支配が賛美されます。

そして13節も「あなたは」という呼びかけから始まり、「あなたは立ち上がり シオンをあわれんでくださいます」と、主がご自身の行動を変えてくださったかのように歌われます。

しかもその理由が、「今やいつくしみの時です。定めの時が来ました」と、著者自身に、神のみこころの変化の時が知らされたかのように歌われます。

そして14-22節の全体を通して、旧約の預言書で繰り返されるイスラエルの回復の希望が描かれます。著者は自分の個人的な苦難とイスラエルの苦難を重ね合わせ、同時に、そこに神ある希望を見ているのです。

そのような文脈で、25-27節の主のご支配の永遠性が語られ、それが御子の永遠のご支配に結び付けられているのです。

ヘブル書ではこの後、大祭司としてのイエスの姿が、「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点で私たちと同じように試みに合われたのです……

キリストは、肉体をもって生きている間、自分を死から救い出すことができる方に向かって、大きな叫び声と涙をもって祈りと願いをささげ、その敬虔のゆえに聞き入られました。

キリストは御子であられるのに、お受けになった様々な苦しみによって従順を学び、完全な者とされ、ご自分に従うすべての人にとっての永遠の救いの源となり」(4:15、5:7-9) と描かれています。

このヘブル書の最初に引用された詩篇102篇こそ、キリストが味わってくださった苦難を預言しているものであり、同時に、キリストが神の御子として永遠の創造主、この世界の永遠の支配者であることの両方が記されているものと言えましょう。

1314節では引き続き、「神は、かつてどの御使いに向かって、こう言われたでしょう」と記されながら、詩篇110篇1節が、 「あなたは、わたしの右の座に着いていなさい。わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまでは」と引用され、「御使いはみな、奉仕する霊であって、救いを受け継ぐことになる人々に仕えるため遣わされているのではありませんか」と記されています。

これは、「御子」が神の右の座に着いておられる支配者、私たちにとっての「主」である一方で、御使いは私たち「救いを受け継ぐ」者たちに「仕えるために」神から「遣わされている」「奉仕する霊」に過ぎないと言っていることを示します。

ます。なお、主イエスはパリサイ人たちに向かって、キリストがダビデの子と呼ばれるなら、「どうしてダビデは御霊によってキリストを主と呼び、『主は、私の主に言われた……』と言っているのですか。ダビデがキリストを主と呼んでいるなら、どうしてキリストがダビデの子なのでしょう」と問いかけました (マタイ22:41-45)。

これには当時、誰も答えられませんでした。それは、キリストが「ダビデの子」としての人間であるとともに、キリストが神の御子として「ダビデの主」であるという不思議を現わします。

そしてここには、御子が神の右の座についてこの世界を治めるのは、父なる神がすべての御子の敵を、御子の「足台とするまで」という不思議な表現になっています。

このことに関して、パウロは「すべての敵をその足の下に置くまで、キリストは王として治める」と記しています (Ⅰコリント15:25)。つまり、御子が王として支配することの背後に、父なる神が御子のすべての敵を御子の支配に服させるという働きがあるのです。ここに、御父の支配と御子の支配が同時並行して進んでいる様子が描かれています。

ときに、神の御子キリストが、父なる神と同じ本質を持つ「神」であり「ヤハウェ」であるという三位一体論は4世紀のキリスト教会で定められた教理であるなどと解説されることがあります。しかし、このヘブル書の著者が、詩篇などの引用を通して当時のユダヤ人たちに解き明かしたことの中に、すでに基本が記されています。

私たちの罪を担うために人となってくださったイエスは、御父と同じ創造主であり、永遠に変わることのない全世界の王、真の支配者であられるのです。私たちのすべての痛みや悩みに徹底的に寄り添ってくださる方が、同時に、この世界の不条理を正してくださる「王の王」であられます。