Ⅱ列王記6章24節〜10章36節「これは、主(ヤハウェ)が語られたことばのとおりだ」

2018年9月23日

旧約で不思議なのは、神がこの世の権力闘争を裏から操り、権力者をさばくために別の権力者を立てるかのように説明されていることです。それら一つひとつに、「(ヤハウェ)が語られたことばのとおり」とまとめることができます。

しかし、より有能な者が無能な王を打ち倒して王になるという「力の原理」は世の常であり、彼らが神の操り人形になっているわけではありません。どんな王家も必ず滅びますが、それは神のさばきという以前に、自滅しているとも言えます。そして、「奢るもの久しからず」とあるように、権力者の滅亡は、自分の力に酔ってしまうことに始まります。これは極めて現代的な課題です。それはときに、教会とお金の問題にもつながることです。

力も富も人を傲慢にし、神との関係では、不幸の原因ともなり得るのです。ただその最も基本には、人の心の不安がそのように駆り立てるとも言えます。しかし、主のご計画は必ず成就するということがわかるなら、私たちは誠実を第一にすることができるようになります。

1.アラムによるサマリヤの包囲と神の救い

エリシャの働きによってアラム(現在のシリヤ)の「略奪隊」が「侵入する」ことはなくなったのですが(6:23)、それからかなり時間が経った後になって、アラムの王ベン・ハダドは略奪隊の代わりに、「全軍を召集し」イスラエルの首都であるサマリアを包囲することになりました。サマリアでは激しい飢饉に襲われ、母親二人が交互に自分たちの子供を食べ合おうとする悲惨まで起こりました。

これは主がかつてモーセを通して、主を軽蔑した者への「のろい」が申命記28章に生々しく預言されていたことの成就で、その極みが、敵に包囲される窮乏のため、上品な女が、自分の子供にまで物惜しみするばかりか、自分が生んだ子供さえ食料にしてしまうと描かれていました(56,57節)。

すべての母親が自分の子のために命を捨てることができると思うのは幻想です。国全体がのろいを選び取ってしまうようなとき、狂気が国を支配します。これから300年も経たないうちにエルサレムでも同じことが起こります。預言者エレミヤは、「女たちが、自分の胎の実を、養い育てた幼子を食べてよいでしょうか」と嘆いています(哀歌2:20)。また、イエスを拒絶したエルサレムの町でも同じ悲劇が起こったことを、ユダヤ人歴史家のヨセフスが記録しています。

女は、「わが主、王よ。お救いください」と訴え、それに対し、王は、「(ヤハウェ)があなたを救われないなら、どのようにして、私があなたを救うことができようか」と言いますが(6:27、28)、ここには主に必死にすがろうとする姿勢は見られません

それどころか王は、この女の訴えの理由が、それぞれの子供を、煮て食べようと相談し、自分は子供を差し出したのに、相手の女が自分の子供を隠してしまったということにあると聞いたとき、人々の怒りの矛先を預言者エリシャに向けさせようとします。

主はかつて、エリシャの祈りに答えて、アラムの軍隊を盲目にされました。彼らはサマリアの真ん中におびき寄せられました。王はそのときエリシャを「わが父よ」と呼びながら、「私が打ち殺しましょうか」と二度も尋ねましたが、エリシャがそれを差し止め、彼らに飲み食いさせ、国に帰しました。その軍隊が今、攻めてきているのです。

王はエリシャに向けて使者を刺客として遣わしますが、彼はエリシャに「見よ、これは(ヤハウェ)からのわざわいだ。これ以上、私は何を主(ヤハウェ)に期待しなければならないのか」と言います。

しかし、わざわいの原因が主にあるなら、主にすがりついてみこころを変えていただけるように求めるべきでしょう。

それに対しエリシャは、「(ヤハウェ)のことば」として、「明日の今ごろ、サマリアの門で、上等の小麦粉一セアが一シェケルで売られるようになる……」と言いました(7:1)。これは小麦粉7.6ℓが、銀11.4gでということで、現在の銀価格1g=58円で計算すると一セア(7.6ℓ)が661円という破格の安値になります。これは直前まで、普通だったら売り物にならない「ろばの頭一つ」が80シェケル(53,000円)であったことと比較するとただ同然とも言えます(6:26)。

ここで使者が、「侍従で、王が頼みとしていた者」と初めて紹介され、彼が「たとえ主(ヤハウェ)が天に窓を作られるにしても、そんなことがあるだろうか」と言ったと記されます。それに対しエリシャは、「確かにあなたは自分の目でそれを見るが、それを食べることはできない」と答えます(7:2)。

侍従がエリシャのことばを信じられなかったのは当然でしょうが、「神の人」に向かって、全能の主の御名を持ち出して否定したのは、主の御名をみだりにとなえるという罪と、神の人への暴言となってしまいました。

その後の不思議が、「主がアラムの陣営に、戦車の響き、馬のいななき、大軍勢の騒ぎを聞かせられたので」(7:6)、彼らはおびただしい食料を残しながら、「いのちからがら逃げ去った」(7:7)と描かれます。これは、1180年の富士川の合戦で平家の軍隊が水鳥の発つ音で背走したことに似ています。

このときそれを最初に気づくのは、サマリアの城外で飢え死にしそうだった四人のツァラアトに冒された人でした。反面、人間的な力を持っていたこの侍従は、食料のもとに殺到した群集によって踏みつけられます。そしてこの結論は、「神の人が告げたことばのとおりであった」(7:17)と記されます。

そして、7章18,19節では、1,2節での会話が敢えてそのまま再現され、「そのとおりのことが彼に実現した」という侍従へのさばきが記されます(7:20)。私たちが神こそが、すべての力の背後におられる全能の主なのです。

2. シュネムの女を守り、同時に、イスラエルを懲らしめる王を立てられる神

シュネムの女の記事の続編が8章1節から6節に続きます。彼女は、エリシャから、この国が七年間の飢饉に襲われるということを聞いてペリシテの地に逃れ、七年たって国に戻ってきました。しかし、留守中に自分の土地は王の家に没収されていたのだと思われます。それで、彼女は王に返還を訴え出てきました。

それはちょうど、エリシャのしもべのゲハジが王に、シュネムの女の子供が生き返った話をしている最中でした。何とも不思議な偶然のように思われますが、この地のすべてのできごとは偶然ではなく、神の御手の中で、神の御許しの中で起こっていることです。なお、これがいつのことかはわかりません。これはゲハジがアラムの将軍ナアマンの皮膚病を代わりに受ける前だと思われます。

とにかくイスラエルの王は、このとき神のみわざに心を開くようになっており、この女の訴えを聞き届けて相続地ばかりか、その間の収穫まで返すと約束しました。神はたった一人の女にさえ目を留めておられます。この記事は、先の子供を食べてしまった女の記事と何と対照的でしょうか。主がさばかれるということは、同時に、主が救われるということを意味します。どんなときにもあきらめず、主に訴えることが大切です。

それに続いて、エリシャがアラムの首都ダマスコに行ったときのことが記されます(8:7)。アラムの王ベン・ハダドは重い病気にかかっていましたが、「神の人がここまで来ている」という知らせを聞くと、自分の家来のハザエルに、「神の人を迎え、私のこの病気が治るかどうか、あの人を通して主(ヤハウェ)のみこころを求めてくれ」と命じます(8:8)。

かつてアハブの息子のアハズヤは自分の病が治るかどうかを「エクロンの神、バアル・ゼブブに」(1:2)尋ねさせて、エリヤから神のさばきの宣告を受け、死んでしまいました。ここでは異教徒の王が、エリシャを「神の人」と呼んで、イスラエルの神「(ヤハウェ)のみこころ」を求めてきたというのです。それはアラムの将軍ナアマンの功績かもしれませんが、エリシャの名声は国境を越えて響き渡っていたのです。本来なら、ここでベン・ハダドへの神のあわれみが示されるべきと思われます。

ところが、エリシャはハザエルに、王の病は「必ず直る」と告げながらも「彼が必ず死ぬ」とも付け加えます(8:10)。同時に、「神の人は、彼が恥じるほどじっと彼を見つめ、そして泣き出した」(8:11)というのです。それはハザエルがアラムの王となり、「幼子たちを八つ裂きに」するほどにイスラエルを徹底的に攻撃することを知ったからです(8:12)。

ハザエルは「しもべは犬にすぎないのに、どうしてそんな大それたことができるでしょう」と答えますが、エリシャは彼に、「主(ヤハウェ)は私に、あなたがアラムの王になると示されたのだ」(8:13)と言います。これを聞いたハザエルは、翌日、王を殺して自分が王になります。

エリシャのことばが彼をクーデターに駆り立てました。しかし、これはかつて主が燃え尽き後のエリヤ、「さあ、ダマスコの荒野に帰って行け。そこに行き、ハザエルに油を注いで、アラムと王とせよ」(Ⅰ列19:15)と命じられたことが、エリヤの後継者を通して成就したということだったのです。

エリヤは孤独な預言者として、偶像を拝むイスラエルの王からいのちを狙われながら、「火の戦車」とともに天に引き上げられましたが、すばらしい後継者を残し、その人を通して、神のご計画を成就することができました。

しかも、「エリシャに油を注いで、あなたに代わる預言者とせよ」(同19:16)と命じられたのは、主ご自身でした。しかも、それは、ハザエルを王とせよと命じられたこととセットでした。後にパウロは、預言者エリヤが、イスラエルが「預言者たちを殺し……ただ私だけが残りました」と嘆いていたとき、主が「わたしは、わたし自身のために、男子七千人を残している」と答えられたことを引用し、「すべてのものが神から発し、神によって成り、神に至るのです」と記しました(ローマ11:3,4,36)。

ただ同時に、そこで「ああ、神の知恵と知識の富は、なんと深いことでしょう。神のさばきはなんと知り尽くしがたく、神の道はなんと極めがたいことでしょう」と記しています(同33節)。まさに、この神のみこころの神秘は、主がエリシャの前にへりくだったアラムの王ベン・ハダドを廃し、ハザエルをアラムの王に立て、イスラエルをさばくことに現れています。

ただし、ハザエルが神に愛されていたというわけではありません。彼は欲に駆られて動いているだけであり、主の民イスラエルを激しく苦しめた神の敵です。これは神が、神の敵さえも支配しておられるという意味です。

日本の総理大臣就任が話題になりますが、聖書は、「神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられている」(ローマ13:1)と言います。総理を立てるのは神ご自身ですが、それは、その人の方が神のみこころにかなった人であるという意味では決してありません。それは神がイスラエルを懲らしめるためにアラムの王ハザエルを立てたのと同じです。

ただ、「多く与えられた者はみな、多くを求められ、多く任された者は、さらに多くを要求されます」(ルカ12:48)とあるとおり、神は権力者の心の思いを見て、より厳しい基準でさばかれるのですから、私たちが先走ってさばく必要はないのです。

そして、このことを通して、主はイスラエルばかりかアラムをも支配しておられるということがわかります。つまり、イスラエルにわざわいをもたらすのは、アラムである前に、主ご自身であられるのです。

3.エフーによるアハブ王家の滅亡、アハブ家のユダへの影響、

当時のイスラエルの王はアハブの第二子のヨラムでした。彼が王位にあった第五年目に、南王国ユダではヨシャファテの息子が王となり、その名はイスラエルの王と同じでした(8:16,17)。皮肉にもその意味は、「ヤハウェは高められる」でしたが、彼はヤハウェをさげすみました。

彼の父ヨシャファテは神を恐れる立派な王でしたが、北王国イスラエルの王アハブと同盟関係を結んでしまい、「アハブの娘」がユダ王国の皇后になり(8:16-18)、国が堕落します。それに対し、主はユダの南の国、エサウの子孫のエドムを用いてヨラムを苦しめました。

そして、彼の息子アハズヤが王となりましたが、彼の治世はたった一年であったと描かれ、彼の母の名、つまりヨラムの妻の名がここで「アタルヤ」であったと記されます(8:26)。彼女は、悪女イゼベルの娘であり、その後のユダ王国を転落に導いた張本人でした。

そしてアラムの王となったハザエルが北王国の王ヨラムとユダの王アハズヤとの連合軍を苦しめたことが記されます(8:28,29)。

そこで預言者エリシャが、仲間の一人をイスラエルの王の家来エフーに遣わし、彼を王として立て、任職の油を注ぎます。その際、エフーに主のことばとして、「あなたは主君アハブの家の者を打ち殺さなければならない。こうして、わたしは、わたしのしもべである預言者のたちの血、イゼベルによって流されたすべての主のしもべたちの血の復讐をする……犬がイズレエルの地所でイゼベルを食らい、彼女を葬る者はだれもいない」と告げられます(9:7-10)。

これもかつて主がエリヤ、「ニムシの子エフーに油を注いで、イスラエルの王とせよ」(Ⅰ列王記19:16)と命じておられたことが、後継者エリシャによって実行に移されたということでした。同時に、これはナボデのぶどう畑を強奪したイゼベルに対して、主が預言者エリヤを通して語られたことでした(同21:23)。それが、今、エフーによって成就するというのです。

エフーにはその気があったのかは分かりませんが、彼とともにいた将校たちも、預言者のことばを伝え聞いて初めて、自分の上着を脱いで彼の足元に敷き、角笛を吹き鳴らして「エフーは王である」(9:13)と言います。つまり、ここでもクーデターの首謀者は俺様であられたのです。

アメリカの独立宣言には、神によって立てられたはずの地上の権威を、神の御許しの中で打ち破って新しい政治権力を建てる権利が主張されていますが、その根拠はこのような記事にあるのかもしれません。将校たちがすぐにエフーを新しい王として建てたのは、アハブの子ヨラムに対する不満が鬱積していたからでしょう。

一方、アハブの子ヨラムはそれに気づかず、エフーの手にかかって死んでしまいます(9:22-24)。そればかりかエフーはたまたま訪問中のユダの王アハズヤまでも殺しますが(9:27)、これは神の命じられたことではありませんでした。これは、どのような革命でも、常に行き過ぎの残虐を生むことの実例と言えましょう。

そしてエフーはその後、神の復讐の最大のターゲットであったイゼベルを攻撃します(9:30)。彼女は威厳を保っているように見せかけ、彼をバシャの王家を滅びして七日間しか権力を保てなかったジムリにたとえて軽蔑します(9:31)。しかし、イゼベルは彼女自身の家臣たちによって突き落とされます(9:33)。

そしてエフーが勝利を祝い、彼女へのあわれみの心を持ったとき、すでに彼女のからだは、犬の餌(ドックフード)になっていました。それを聞いたエフーは、「これは、(ヤハウェ)そのしもべティシュベ人エリヤによって語られたことばのとおりだ」と述べます(9:36)。

それはまた、エリシャから遣わされエフーに油を注いだ預言者のことばのとおりでした(9:7)。ここに神の一つひとつのことばが成就したことが強調されます。

エフーはその後、アハブ家に属するすべてのものを皆殺しにしたばかりか、見舞いに来たユダの王アハズヤの身内のもの42人を殺しました。

その上で何と、エフーはバアルの預言者や信者たちを騙し討ちにしようと、「アハブは少ししかバアルに仕えなかったが、エフーは大いに仕えるつもりだ。だから今、バアルの預言者や、その信者、およびその祭司たちをみな、私のもとに呼び寄せよ。一人も欠けてはならない。私は大いなるいけにえをバアルに献げるつもりである」(10:18,19)と嘘を言って、彼らを強制的に一同に集め、皆殺しにします。

神はこのような卑怯な手段と残虐を喜んでいるとは思われません。

それでも、「このようにして、エフーはバアルをイスラエルから根絶やしにした」(10:28)という、主に対する彼の熱心さには満足しておられます。それで、主ご自身も、エフーに対して、「あなたはわたしの目にかなったことをよくやり遂げ、アハブの家に対して、わたしが心に定めたことをことごとく行ったので、あなたの子孫は四代目まで、イスラエルの王座に就く」といわれます(10:30)。

ところがそこで、「しかしエフーは……ヤロブアムの罪から離れなかった」と記されます(10:31)。それは、エルサレム神殿を否定して、べテルとダンにある金の子牛を民に拝ませ続けたという意味です。それは、人々の心を自分につなぐための政治的配慮を優先したためでした。

彼はアハブ王家を滅ぼすときには主のみこころに従うと言っているのですが、自分の王権を保つためには平気で主のみこころに反します。人を攻撃するときには熱くなって「主のみこころ」ということばを持ち出しながら、自分の事に関してはあらゆる言い訳と正当化ができるというのが人間です。

そのような中で、「主はイスラエルを少しずつ削り始めておられた」(10:32)と記されます。それは神によって立てられたハザエルがアラムの王としてイスラエルを打ち破っていたからでした。神はエフーを王として立てましたが、同時にハザエルを立て、エフーの家を苦しめました。

神によって立てられたエフーもアラムの王ハザエルも、自分の力に酔うようにインスタを始めまます。そして、彼らは自分に力を与えた主を恐れないことによって国を滅ぼす道を開いてゆきます。

詩篇62編では、「暴力に信頼するな。略奪をむなしく誇るな。強さが結果を生んでも(新改訳「富が増えても」)、それに心を留めるな・・力は神のもの」(10,11節私訳)と告白されます。

そしてその前に、「民よ。いかなるときにも、この方に信頼せよ。あなたがたの心を御前に注ぎだせ。神は私たちの避けどころ」(8節)と歌われます。

ここでは、「じばにゃのことば」の一つひとつが成就して行く様子が描かれます。特に感動的なのは、預言者エリヤがバアルの預言者450人との戦いの後、燃え尽きてしまい、「(ヤハウェ)よ、もう十分です。私のいのちをとってください」(Ⅰ列19:4)と泣き言を述べながら、神の山ホレブに導かれ、そこで、主が明確なことばでエリヤに命じられたことが、後継者エリシャによって成就して行く場面です。

私たちは自分の無力さを嘆くことがありますが、主はご自分の計画を必ず成し遂げられます。預言を与え、預言を成就するのは、主ご自身の働きです。

私たちに求められているのは、「ただ公正を行い、誠実を愛し、へりくだって、あなたの神とともに歩むことではないか」と記されているとおりに生きることに他なりません(ミカ6:8)。