民数記1章〜4章「勝利を得るための交わり」

2016年1月31日

日本では、「世間をお騒がせして申し訳ありませんでした」ということばが謝罪の定型句になりがちです。そこにあるのは、人々に不安や混乱を与えること自体が、重大犯罪であるという感覚です。

それからすると、SMAPやベッキーさんの謝罪会見も、最近の大臣の辞任会見も意味が分かります。しかし、そこでは、本当の問題が何だったのかは曖昧なままです。日本の将来を左右するほどの人が、国会運営を混乱させるという理由で辞めて良いのかとも思いますが、日本では平穏を乱すこと自体が重大犯罪なので致し方ないのかもしれません。

しかし、そのように見せかけの平安を守ろうとすること自体が、問題の本質を曖昧にしたまま、社会全体を誤った方向に動かしたという日本の歴史があるのではないでしょうか。

しかし、聖書では、この世界には不安や混乱が日常茶飯事であるとの前提に神の民の物語が描かれています。民数記という書名は、人口調査にばかり目を向けたようなギリシャ語訳のタイトルから来ています。しかし、ヘブル語のタイトルは「荒野において」で、「主 (ヤハウェ) はモーセに語られた」という書き出しに続く単語から取ったものです。そして、この方がこの書全体の意味を的確に表していると言えます。

この書はイスラエルの民が約束の地に入る前の荒野の四十年の歩みの記録だからです。私たちも「新しい天と新しい地」に入れられる前に「地上では旅人であり寄留者であることを告白し」(ヘブル12:13) ながら、荒野のように困難な地で生きる必要があります。不安と混乱はあるのが当たり前なのです。

そして彼らが荒野で誘惑に負けて遠回りせざるを得なかったように、私たちもときに誘惑に負けます。しかし、イエスが、公生涯の初めに荒野に導かれ、40日間の悪魔の誘惑を受けたことは、イスラエルの民の体験をやり直す意味があります。

イエスは、その誘惑に勝利され、今、ご自身の御霊を私たちに授けてくださいました。

1.すべて軍務につくことができる者たちを、その軍団ごとに数えなければならない

イスラエルの民はエジプトから解放された三ヶ月目にシナイ山のふもとで律法を受けました (出エジ19、20章)。その後、彼らは金の子牛を作って拝むようなことをしますが、神に赦され、「第二年目の第一月……第一日に幕屋は建てられ」ます (出エジ40:17)。

この書は、それから一ヵ月後の「二年目の第二の月の一日」に、「会見の天幕で告げられた」ことから始まります。レビ記の中心はその一ヶ月間に与えられた啓示でしたが (レビ27:34)、ここではそれからの信仰生活の現実が記録されます。

それは具体的な時間と空間の束縛の中に生きる私たちが日々受ける誘惑にどう対処するかについての重要な示唆となります。

主はモーセに、「イスラエル人の全会衆を、氏族ごとに父祖の家ごとに調べ……二十歳以上の者で、すべて軍務につくことができる者たちを、その軍団ごとに数えなければならない」(1:2、3) と命じました。その上で、「部族ごとにひとりずつ、父祖の家のかしらである者が」、モーセとアロンととともにいて、その「助手」となると言われながら、各十二部族の「かしら」である十二名の名が記されます (1:4-16)。

その上で、「第二月の一日に全会衆を召集し……氏族ごとに、父祖の家ごとに、二十歳以上の者の名をひとりひとり数えて、その家系を登記した」(1:18) というのです。興味深いのは、主ご自身が各部族のリーダーを、名をあげて任命したということと、イスラエル全体の指導者であるモーセ自身がそれら族長の助けを得て、「ひとりひとり……数えて」と記されていることです (1:18、19)。

大きな集団になると、ひとりひとりの名が忘れられがちですが、主の目にはひとりひとりが大切であるばかりか、主ご自身がリーダーの名を呼んで立てられたというのです。

組織においてはリーダーの資質が何よりも大切です。現代の多くの教会では、指導者に立てる人を会衆全体の意向を尊重しつつ選びますが、これを世の民主主義と混同してはなりません。これは、主のみこころがくじに現される代わりに、ひとりひとりの投票に現されると信じていることであって、指導者を立てるのは主ご自身であるということに変わりはありません。

しかも、指導者に求められる資質は何よりも、群れのひとりひとりを、統計数字としてではなく、「名をひとりひとり数え」るということです。

聖書の物語はいつでもパーソナルなものです。そこではいつも、「ひとり」に注目されます。それはここに記される軍隊組織においても同じです。

たとえば太平洋戦争の際、日本陸軍はひとりひとりの兵隊をあまりにも粗末に扱いました。義父が参加したインパール作戦では投入兵力85000人のうちの約三万人が命を落としましたが、そのほとんどは餓死であったと言われています。これほど無謀な戦いは歴史上、稀とも言われます。この作戦は、ひとりひとりを支える補給もなしに戦地に追いやった日本陸軍の象徴とも言えます。

戦争は絶対に避けなければなりませんが、人類の歴史は戦争の歴史とも言えます。そしてその非常時こそ、その国の最も醜い部分が現れます。それはひとりひとりを見ない日本の文化でした。

それにしても、主は今、戦いの経験もない逃亡奴隷の集団を、カナンの先住民をさばく戦闘集団に作り変えようとしておられます。ただし、それは兵隊たちが王のために命を賭ける当時の世の軍事組織とは違います。戦いの主体は主ご自身であり、彼らに求められていることは、何よりも、目の前の敵に背を向けることなく、主に従って前進することです。

しかも、彼らは戦闘能力のない女性たちや子供、老人たちを守りながら進む必要がありました。そのような特殊な戦いの前に、この人口調査が命じられたのは、これが「主の戦い」であるにしても、信仰は、盲目な追従ではなく、現状を把握することから始まるからです。

それは、イエスも「塔を築こうとするとき、まずすわって……その費用を計算しない者が……あるでしょうか……また、どんな王でも……二万人を引き連れて向かってくる敵を、一万人で迎え撃つことができるかどうかを、まずすわって考えずにいられましょうか……」と言われた通りです (ルカ14:27-31)。

しかも、「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです・・堅くたつことができるように、神のすべての武具を取りなさい」(エペソ6:12、13) とも記されているように、戦いに際しての何よりの必要な備えとは霊的なものです。

確かに、私たちも奴隷だったイスラエルの民のように臆病な者です。しかし、一生、この世の組織や世間様という人々の期待の奴隷として生きるのが厭なら、断固として戦うべきときもあるのではないでしょうか。

日本では、「世間を敵に回す」と大変なことになります。ただ、戦国時代も、明治維新も、第二次大戦後の復興時も、指導者たちは死と隣り合わせで改革を遂げました。しかもそこではクリスチャンたちが少なからぬ影響力を発揮しています。それが今、テレビドラマの主人公として繰り返し登場します。

東日本大震災も第二の敗戦のさえ呼ばれました。今、日本は世間を変える「荒野で叫ぶ声」を求めています。

2.それぞれの旗ごとに宿営し、おのおのその氏族ごとに、父祖の家ごとに進んだ

1章20節~46節ではイスラエルの十二部族それぞれの二十歳以上の軍務に着く男子の数が記されます。その総計は603,550人で、女性や子供を入れると数百万人の人数になっていたと思われます。ここに、アブラハムの子孫が星の数のように増え広がるという約束 (創15:5) の成就を見ることができます。

そして2章ではそれぞれの部族をどのように配置するかの神の命令が記され、不思議にも、それぞれの部族の人数や族長の名が再度そのまま記されます。

これも、主が一つひとつの部族をまたそれぞれの指導者と兵士たちをかけがえのない者として、それぞれに責任を与えておられるというしるしです。

イスラエルは、幕屋を囲んで、東西南北に四つの旗のもとに三部族ずつのグループに分かれました。幕屋の東側の中心はヤコブの正妻のひとりのレアから生まれた四男のユダ族でした。

彼らは十二部族中の最大勢力で軍務につくことができる者が74,600人いました。そしてこの旗のもとに、それを挟んで同じレアの子、ヤコブの九男のイッサカル54,400人と、同じ十男のゼブルン57,400人が宿営しました。そして、イスラエルの移動の際は、このユダが先頭に立ち、他の二部族とともに先頭集団を構成しました。

幕屋の南側の中心はレアから生まれたヤコブの長男のルベン族の旗で、彼らは46,500人の勢力でした。そして、それを挟んでレアから生まれたヤコブの次男のシメオン59,300人、レアの女奴隷ジルパから生まれた第七男のガド45,650人が宿営しました。この集団のみ中心部族が最大勢力ではありません。

幕屋の西側の中心は、ヨセフの子、エフライムの旗で、彼らの勢力は40,500人でした。それをはさんで同じヨセフの子のマナセ32,200人、またヨセフと同母十二男のベニヤミン35,400人が宿営しました。この三部族はみなラケルから生まれ、少ないながらも、契約の箱の直後を歩く栄誉に預かっていました。

幕屋の北側の中心はラケルの女奴隷ビルハから生まれたヤコブの五男ダン族の旗で、彼らの勢力は62,700人でした。それを挟んでレアの女奴隷ジルパの子、八男のアシェル41,500人と、ラケルの女奴隷ビルハの子の六男のナフタリ53,400人が宿営しました。そして、これら三部族がしんがりを守りました。

そして、その真ん中に主の幕屋が置かれましたが、それは主ご自身が彼らの真ん中に住むという意味でした。この布陣は、まるでイスラエルの王を十二部族が取り囲んで守っているようにも見えますが、敵が攻めてきたとき、前線に立つのは彼らではなく、主ご自身でした。まさにこの布陣は、民が主を守るのではなく、主が民を守ってくださるしるしであったのです。

なお、「イスラエル人は、すべて主が命じられたとおりに行い、それぞれの旗ごとに宿営し、おのおのその氏族ごとに、父祖の家ごとに進んだ」(2:34)とあるように、神は、家族、氏族、部族をそのまま軍事組織にまとめるとともに、ガドとアシェルを除き、それぞれ同じ母から生まれたゆかりのある部族を三つ集めて四方の陣とを作っています。

イエスが十二弟子をご自身の周りに置かれたのはこれに習ったものです。十二部族の陣形と十二使徒は、黙示録21章12-14節では「新しいエルサレム」の姿が、「都には大きな高い城壁と十二の門があって、それらの門には……イスラエルの子らの十二部族の名が書いてあった……東……北……南……西に三つの門があった。また都の城壁には十二の土台石があり、それには小羊の十二使徒の十二の名が書いてあった」と描かれます。それはこの民数記の幕屋を囲む構図と十二使徒を重ねたものです。

それにしてもイエスは、この大切な十二使徒を不思議な選び方をしました。その半分はペテロとアンデレ、ヤコブとヨハネ、アルパヨの子のヤコブとヤコブの子(または兄弟)のユダという血縁のペアーでした。しかも、最も身近に仕えた三人のペテロとヤコブとヨハネは幼馴染で同じガリラヤの漁師であり、そこに同じ町の出身のアンデレやピリポが加わります。あまりに地縁と血縁に縛られた人事?といえます。

しかし、イエスは血縁の家族を組み合わせ、土台としながら、そこに取税人マタイや熱心党員のシモン、疑い深いトマス、夢見るナタナエル、そして最後にイスカリオテのユダなどの外れ者のような人々を加えられたのです。

人と人との信頼関係は、様々な緊張関係を経た上で初めて堅くされます。ですから神の軍隊でも同じルーツを持つ交わりが核となるのは自然です。神は、肉の家族を大切にされ、しかもそれが閉鎖的にならず、そこに外部の人が次々と加わることができる開かれた交わりへと成長させてくださいます。

しばしば、教会でも、年月とともに家族や親戚関係が増えてきますが、それは歓迎すべき展開でしょう。

3.レビ人はわたしのものでなければならない

レビ族は上記十二部族とは別枠で、相続地の割り当てもなく、ただ主 (ヤハウェ) に仕えることが求められ、その生活は他の十二部族からのささげものによって支えられていました。

モーセとアロンもレビ族の中のケハテ族の出身ですが、その中でもアロンの子孫のみが祭司として幕屋礼拝を導き、他のレビの諸族は祭司に付き添い、仕えることが求められ、三つの氏族に分けられました。

ゲルション族は幕屋の西側で、移動の際は、幕屋の天幕一式を運びました。その男子の数は7500人でした (3:21-26)。

ケハテ族は幕屋の南側にあって、契約の箱と聖なる用具一式を運びました。その男子の数は8600人でした (3:27-32)。

メラリ族は幕屋の北側にあって、幕屋の板や横木、柱や台座を運びました。その男子の数は6200人でした。

そして、モーセとアロンとその子らは幕屋の正面、すなわち東側にあって、イスラエル全体の代表として「聖所の任務を果たし」(3:38) ました。

その合計は22,300人になりますが3章39節では22,000人と記されています。多くの学者はケハテ族の人数を写本作成者が読み間違えたのではないかと見ていますが、何人もの写本作成者が後にこの計算が合わないことに気づきながら、それを誰も自分の裁量で修正はしないということにも大きな意味を見出すことができます。

3章40-43節ではイスラエルの男子の初子の代わりにレビ人を主に聖別するとして、主 (ヤハウェ) は、「レビ人をイスラエル人のうちのすべての初子の代わりに……取れ。レビ人はわたしのものでなければならない」(3:45) とモーセに仰せられます。

そして、イスラエルの男子の初子の数が22,273人と記されますが、これは男子の総数60万人余りと比較するとあまりにも少ないと思われます。これでは一家族当たり27人の男子がいる計算になるからです。ですから、これは出エジプト以来の13か月間に生まれた初子の数であろうと見る人もいます。なお、人数がひとりに至るまで正確に繰り返されながら、そこに現代の統計の感覚からするとわからない部分がありますが、それこそ記録に人間的な操作がなされていないというしるしとも言えましょう。

そして44-51節ではイスラエルの男子の初子の数がレビ人の数より273人超過している部分に関して、贖い金をアロンとその子らに渡すことが命じられています。一人当たり五シェケルとありますが、これは羊飼いの一年分の給与に相当する金額です。

奴隷の平均価格はその6倍の30シェケルで、それはユダによってイエスが売り渡された値段です。どちらにしても、数字の正確さが驚きです。

4章にはイスラエルの民の移動の際に、どのように幕屋を運べる状態にたたむかが描かれます。そこではまず祭司であるアロンとその子らが幕屋に入って、仕切りの幕で契約の箱をおおいます。その上に「じゅごんの皮のおおいをかけ、またその上に真っ青の布を延べ」とあるように、契約の箱は三重の幕でおおわれます (4:5、6)。

また、供えのパンの机、金の燭台、金の祭壇などをおおって、運べる状態にするための順番が詳しく描かれます。契約の箱以外は外側が「じゅごんの皮で包まれます。これはイルカの皮ともやぎの皮とも訳されることがあり何かが良くわかりませんが、風雨に耐える頑丈な皮であることは確かです。

ここには、神の幕屋の幕屋から木枠、その中の黄金の備品、いけにえを焼く祭壇までをいかに大切に扱いながら短時間で、しかも人の目に触れないように梱包するかの手続きが描かれています。

これらすべては祭司たちがなすべき働きですが、その理由が、「ケハテ族が……聖なるものに触れて死なないためである……最も聖なるものに近づくときも、死なずに生きているように……一目でも聖なるものを見て死なないためである」(4:15、19、20)と記されます。それは、契約の箱を運ぶ者ですら、箱の外を見ることさえ許されず、ルールを破ると死ぬことになったからです。

また、ゲルション族が幕屋の幕を運ぶ際も「すべての奉仕は、アロンとその子らの命令によらなければならない」(4:27) と命じられます。

またメラリ族が幕屋の板や横木等の用具を担う際のことに関しては、「祭司アロンの子イタマルの監督のもとにある」(4:33) とのみ簡単に記されます。つまり祭司とレビ族の奉仕にも明確な区別があったのです。

最近、緊張に満ちた戦いに臨む際のルーティーンのことが話題になっていますが、主への恐れを表現するためのものがここに記されていいます。

私たちの場合もこの礼拝堂や備品を美しい状態に保つためのルーティーンのようなものがあっても良いのかもしれません。自由教会は何でも自由に任され過ぎているとも言えるかもしれません。主への恐れは、ある種の作法を通して表現されるという面もあります。

これらの奉仕は、30歳から50歳のレビ人があたりました。そして、三つの氏族ごとに正確な人数が記されます。その総数は他の十二部族よりも格段に少なく8,580人でした。これはレビ人男子の26%に相当します。

彼らが幕屋の任務に専念するのは、イスラエルの民がむやみに幕屋に近づいて死ぬことがないためでしたが (1:51)、同時に彼らはモーセに属する軍隊として神のさばきをイスラエルに執行することもありました (出エジプト32:25-28)。つまり、レビ人は、神と民との仲介者として立てられたのです。

ここに、主の民が荒野を旅する際の組織が示されています。新約でも「キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師としてお立てになった」(エペソ4:11) と記され、「あなたがたの指導者たちの言うことを聞き、また服従しなさい。この人々は神に弁明する者であって、あなたがたのたましいのために見張りをしているのです」(ヘブル13:17) とも命じられます。

神はひとりひとりを等しく愛しておられますが、それは各人を同列に扱うことではありません。それぞれに固有の異なった使命が与えられますが、それは決して優劣を競ったり、比べられるようなものではありません。

私たちはだれしも平穏な生活を望むことでしょう。しかし、サタンは常に脅しをかけ、また誤った教えをふりまいて神の家族を破壊しようと画策します。ですから、私たちは戦いを避けては信仰生活を全うすることはできません。日々、サタンの攻撃に備え、家族の絆を強め、みことばによって武装しなければなりません。

教会の歴史には、真理を求めての数多くの戦いがありました。もちろん、そこには多くの行き過ぎがありましたが、それ以上に、福音は命を賭けて守るに値する宝だったことを忘れてはなりません。

この時のイスラエル共同体は、大旅団で移動する軍事組織に似た面がありましたから、これを現代の教会に当てはめるのには注意が必要です。しかし、それでも、主ご自身がひとりひとりの指導者を立て、構成員ひとりひとりの名を呼び、指導者のもとで働きを定めるという原則は同じです。

また、聖霊に導かれるということと組織化し働きのルーティーンを定めるということは矛盾することではありません。

民数記のタイトルは、「荒野において」です。目の前には「荒野」がありますが、神が私たちを導いてくださいます。