民数記5章〜7章「主は私たちの交わりに真中に住まわれる」

2016年2月7日

仏教では「死」を、私たちが受け入れ和解すべき人生の常と観て、死の中に安静と苦悩からの救いを見る傾向があります。一方、日本の神道では、「死」を禊ぎ祓うべき「穢れ」と観ます。それは「生の破滅を防ぐ所以」と言われます。それは3500年前のモーセの影響を受けているのかもしれません。日本最古の書の古事記はたった1、300年前に記されたに過ぎないからです。

聖書では、「死」は滅ぼされるべき「最後の敵」(Ⅰコリント15:26)と描かれます。そして「永遠のいのち」とは、「死は勝利にのまれた」ことのしるしです。

神こそが「いのち」の源であり、信仰とは、「いのち」の現れです。ドイツのキリスト教会を批判したニーチェは、「イスラエル王国の時代・・・ヤハウェは、力の意識の表現であり、それは喜びと希望の表現であった。人々はヤハウェに勝利と救いを期待していた。それは特にヤハウェが自然を支配し、民に必要な雨を降らせることを意味した・・・ところが、人々は神の概念を不自然なものに変えた・・・いのちの表現ではなく、道徳に…人間の想像力を根本的に悪化させるものに」と、後代の人々が、「いのち」の教えを、いのちのない道徳に作り変えたと非難しています。

そして、「高級な人間と呼ばれる牧師」こそは、実は、「いのちを否定し、誹謗し、損なわせることを職業としている者である」とさえ言っています。牧師の息子として生まれたニーチェがそのように言わざるを得なかった現実が、当時のキリスト教会にあったのでしょう。

その危険は、私たちの交わりの中にも生まれる恐れがあります。真の「いのち」を求める交わりとなりたいものです。

民数記には、イスラエルの民が、死」が支配する荒野を歩む際に、神が彼らにご自身の「いのち」を与えてくださる様子が描かれています。

また、荒野の生活で、人々が疑心暗鬼になることも前提としたうえで、人と人との「間」に「いのちの交わり」を生み出す知恵が描かれています。「いのち」のみなもとである主(ヤハウェ)が私たちの交わりの真ん中に住んでくださることで、私たちが「いのち」に満たされるのです。

1.「主の前に立たせなさい」

神は不思議にも、「ツァラアトの者、漏出を病む者、死体によって身を汚している者をすべて宿営から追い出せ・・」(5:1-3)と、三回も「追い出せ」ということばを繰り返します。ただし、これは永久追放ではありませんから、「送り出す」とか「外に置く」と訳した方が良いでしょう。

そのことはレビ記13-15章、21章などに詳しく記されていましたが、そこでは必ず「きよめ」の手続きが明確に記されていました。そこには「水をそのからだに浴びる」(レビ14:9等)というプロセスがありましたが、それは現在の洗礼につながります。

しかも、「送り出す」ことの趣旨は、「わたしがその中に住む宿営を汚さないように」(5:3)とあるように、神が示す「きよさ」を実現することにあります。この隔離の目的は、主ご自身が彼らの真ん中に住まれることによって、彼らを約束の地に連れ上るための基本的な準備でした。ツァラアトも漏出もいのちを損なう「死」のしるしと見られたのかと思われます。

ところで、モラル(道徳)としてではなく儀式的な面での「汚れ」と「きよさ」を区別する尺度はどこにあるのでしょう。その鍵は、レビ記に繰り返される、「自分の身を聖別し、聖なる者となりなさい」(レビ11:44)という命令にあります。それは神の「聖」に倣うことです。神は死とセックスから無縁であるので、神に近づくにあたって、それと距離を取る必要があるというのです。特に、「死」は、アダムの罪から始まっています。

私たちに食物律法や漏出を含む儀式的な「汚れ」の規定が効力を失ったのは、イエス・キリストが死の力に打ち勝ち、結婚関係をきよめ、性の交わりを聖めてくださったからです。私たちに何よりも求められていることは、「汚れ」から遠ざかること以上に、イエス・キリストに結びつくことです。

それに続いて、「罪過(償い)のためのいけにえ」(5:5-10)の規定が出てきますが、それは敵と戦う前に、本来味方どうしである、神と人、人と人との間の和解(平和)を実現している必要があるからです。

その上で5章12節から31節まで、「妻が道をはずして夫に対して不信の罪を犯し・・そのことが彼女の夫の目に隠れている」場合の対処、つまり妻が不倫をした疑いがある時の対処です。現代はしばしば、探偵を雇って密かに調査しますが、ここでは問題を最初から神の御前に差し出すことが命じられます。

そこで「祭司は、その女を近寄らせ、主の前に立たせ・・・きよい水を土の器に取り、幕屋の床にあるちりを取ってその水に入れ」(16,17節)た上で、祭司は次のように「女に誓わせ」ます。

「道ならぬことをして汚れたことがなければ・・のろいをもたらす苦い水の影響を受けないように・・もし・・夫以外の男があなたと寝たのであれば・・あなたの民のうちにあって主(ヤハウェ)があなたをのろいとし誓いとされるように。またこののろいをもたらす水があなたの身体に入って腹をふくれさせ、ももをやせ衰えさせるように」(19-22節)。

「きよい水」は「いのち」を、「ちり」は「死」を象徴すると思われ、どちらかを主が導かれるというのです。その女は、それに「アーメン、アーメン」と応答します。その後、祭司は「こののろいを書き物に書き、それを苦い水の中に洗い落と」して、その水を女に飲ませます(5:23,24)。

「もし、その女が夫に対して不信の罪を犯して身を汚していれば、のろいをもたらす水はその女の中に入って苦くなり、その腹はふくれ、そのももはやせ衰える。その女は、その民の間でのろいとなる。しかし、もし女が身を汚しておらず、きよければ、害を受けず、子を宿すようになる」(5:27,28)と記されます。

ここでの「のろい」とは、「子を宿す」こととの対比からすれば「出産できない身体になる」ことを意味すると思われます。

一方、「苦い水」が害を与えず、無事に出産できていたら、生まれた子は不倫の子ではないということになります。何ともおおらかな判断とも言えましょう。これは、生まれた子が不倫の子ではないことを証明するための手続きのようにさえ見えます。

私たちはこの「苦い水」の効果を科学的に分析する必要も、まじないかのように軽蔑する必要もありません。この中心は、「主の前に立たせ」、誰も立証できないことを主が顕わにしてくださるように祈り、「誓わせる」ことです。それは、人の隠された罪をさばくのは、人ではなく主ご自身であるからです。

夫婦が互いを信頼できないなら、子供を人間不信に育て、社会全体に相互不信の種を撒き散らします。しかも、人の調査は、疑いを晴らす代わりに不信感を募らせたり、濡れ衣を着せることもあります。

ですから使徒パウロも「あなたがたは、主が来られるまでは、何についても、先走ったさばきをしてはいけません。主は、やみの中に隠れた事も明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされます」(Ⅰコリント4:5)と記します。

つまり、主ご自身が、ご自身のときにさばきをくだされることに信頼することこそ信仰者の姿勢です。人を赦すことができないのは、神の「さばき」を信じられない結果とも言えます。

確かに主は、「あなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。渇いたなら、飲ませなさい」と、敵を愛するように命じておられますが、その直前には、「自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい」と勧められおり(ローマ12:19,20)、その根拠は、「復讐と報いとは、わたしのもの」(申命記32:35)という主の宣言にあります。

2.「男または女が主(ヤハウェ)のものとして身を聖別する特別な誓い」

6章1-21節では、「ナジル人の誓願を立てる場合」(6:2)が記されます。「ナジル」の語源は「分離」で、女性を含む一般の民が一定期間、自分の意思で主の奉仕に身をささげることです。

ナジル人の代表はサムエルですが、その母ハンナは不妊の女として軽蔑されて悩みつつ、「万軍の主(ヤハウェ)よ。もし、あなたが、はしための悩みを省みて・・男の子をさずけてくださるなら、私はその子の一生を主(ヤハウェ)におささげします。そして、その子の頭に、かみそりを当てません」と「誓願を立て」ました(Ⅰサムエル1:11)。

一般的にこの「誓願」は、何らかの願いがかなえられたことへの感謝の応答として、一定期間、自分の身を主にささげることです。その期間は、第一に、「ぶどう酒や強い酒を断たなければならない・・・ぶどうの木から生じるものはすべて、種も皮も食べてはならない」(6:4)と命じられました。それはカナンの地ではお酒を初めとするぶどうの木からの産物が偶像の宮での礼拝の中心にあったからです。

また第二に、「頭にかみそりを当ててはならない・・髪の毛をのばしておかなければならない」(6:5)と命じられました。これは髪の毛が伸びるということが「いのち」の象徴と見られたからでしょう。

第三に、「死体に近づいてはならない。父、母・・が死んだ場合でも、彼らのために身を汚してはならない」(6:6,7)と命じられました。死は汚れと見られたからです。

この三つの禁止命令にそむくと、神の「祝福」が「のろい」に変わりました。

ナジル人としての聖別の期間の間に、身近な人が亡くなった場合、それは「聖別された頭を汚した」(6:9)ということになり、七日目にもう一度「頭をそる」と同時に、いけにえをささげることによって、「死体によって招いた罪のために贖い」(6:11)をすることによって、聖別の期間を再度やり直す必要があります。

私たちは、「罪」というと道徳的なものをイメージしますが、ここでは不可抗力にしても、「聖別が汚された」(6:12)こと自体が「とされています。それほどに「聖別」ということばは重い意味を持っていました。

そして、「聖別の期間が満ちたとき」に、ささげものとともに、「会見の天幕の入り口で、聖別した頭をそり・・その髪の毛を取って、和解のいけにえの下にある火にくべる」(6:18)と命じられていました。そのように、聖別の期間が終わって初めて、全焼のいけにえ、罪のためのいけにえ、和解のいけにえをささげ、「聖別した髪の毛をそって」、「ぶどう酒を飲むことができ」(6:20)たというのです。

しかし、それを破った悲劇が士師記13-16章に記されます。サムソンは、ナジル人として育てられながら、カナン人の女デリラへの恋のために、自分の髪が聖別されたものであり、切ってはならないものだという秘密を明かし、彼女のひざの上で眠っている間にその髪を切られてしまいます。

その結果、彼は力を失ってペリシテ人に捕らえられ、目をえぐり出されました。しかし、悔い改めてナジル人として髪を伸ばしたとき偶像の神殿を壊すほどの力を回復されたのでした。

新約にもナジル人の誓願が見られます。「パウロはひとつの誓願を立てていたので、ケンクレアで髪をそった」(使徒18:18)と記されるのはナジル人となる期間の始まりを指し、その後エルサレムでヤコブから「あなたも彼らといっしょに身を清め、彼らが頭をそる費用を出してやりなさい」(使徒21:24)と言われたのはその終わりを指すと思われます。

パウロは異邦人への伝道によって律法をないがしろにしていると批判を受けました。それで彼は証しのために敢えて律法に熱心なナジル人の姿を取ったのだと思われます。

キリスト者は新約の時代のナジル人とも言われ、「あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい」(ローマ12:2)と命じられています。

私たちは無力でも、自分の身を神に献げるとき、サムソンやサムエルのように、神のために大きな働きをすることができます。それは、まず、ひとりで神の前に立ち、自分の意思で、神に自分の身をささげることから始まります。

3.「わたしは彼らを祝福しよう」

6章24-26には「アロンの祝祷」と呼ばれる祈りが記されます。これはナジル人のような献身者への祝福ではなく、神が一方的にすべての民を祝福してくださるための祈りです。

三度の「主(ヤハウェ)」の御名には三位一体の主の祝福が表わされます。主(ヤハウェ)という名には、「わたしは、『わたしはある』という者である」という主ご自身の自己紹介の意味が込められています(出エジ3:14)。主こそがすべての始まり、すべての根源で、名前の付けようのない存在という意味があります。

主が最初にモーセにご自身を現された時、「ここに近づいてはいけない。あなたの足のくつを脱げ」と言われ、そのとき「モーセは神を仰ぎ見ることを恐れて、顔を隠し」ました(同3:5,6)。それは、人は神の招きによってしか御前に近づくことができず、そこで絶対的な服従を求められるという意味です。

ところが、圧倒的な恐怖をもたらす方が、「イスラエル人をこのように祝福して言いなさい」と優しく「アロンとその子ら」の祭司に最高の祈りの言葉を教えてくださいました。

またここには二度の「御顔」という表現によって、恐怖ではなく、神との生きた交わりが強調されます。

第一は、「主(ヤハウェ)があなたを祝福し、あなたを守られるように」との祈りです。「祝福」とは旧約では、多くの子供が生まれ、財産が増え、良い土地に住み、健康が守られるようなことを意味します。

また「守る」とは、「主は、あなたの足をよろけさせず、あなたを守る方はまどろむことはない・・主はすべてのわざわいから・・守り・・いのちを守られる」(詩篇121:7)とあるような創造主の永続的な心のこもったケアーです。

第二は「主(ヤハウェ)が御顔をあなたに照らし、あなたを恵まれますように」という祈りです。本来、肉なる人間に主の御顔が照らされるなら、私たちは焼き滅ぼされてしまいかねない者です。しかし、ここでの「御顔を・・照らし」とは、「主があなたの永遠の光となり、あなたの嘆き悲しむ日が終わる」(イザヤ60:20)とあるように、光の創造主ご自身の「御顔」が私たちをやさしく「照らして」くださることを意味します。

また「恵まれますように」とは、「あわれむ」「同情する」とも訳される創造主ご自身との生きた交わりを指します。

第三は「主(ヤハウェ)が御顔をあなたに向け、あなたに平安を与えられますように」という祈りです。「御顔を・・向け」とは、王である主が厳しい裁き主の顔ではなく、ひとりひとりに微笑みの眼差しを向けてくださるようにとの願いです。

また、「平安」とはヘブル語のシャロームです。これは戦いがない状態以上に、神からのすべての贈り物に満足している状態で、それを「与えてくださる」よう祈るのです。

三つの文章は徐々に長くなり、最後が「いのちの祝福が世界に満ち溢れる」という意味のシャロームで終わる美しい構造です。

しかもここには、祭司が主の御名で民のために祈るなら、「わたしは彼らを祝福しよう」という約束が保障されています。つまり、礼拝の終わりの牧師の祝祷には、想像を絶する約束が伴っているのです。

7章の記事は、時間的には6章までの記事の一ヶ月前で、出エジプト記40章の幕屋の完成の直後のできごとです。

そこではまず、イスラエルの十二部族が、神の幕屋に仕えるレビ族の奉仕のための車や牛を提供します。ただし、契約の箱をはじめとする「聖なるものは・・肩に負う」(7:9)ように命じられていました。

その上で、「祭壇に油が注がれる日」の、「祭壇奉献のための・・ささげもの」(7:10,11)の様子が詳しく描かれます。レビ記は時空を超えたいけにえの仕方が、民数記には現実にいけにえがどのようにささげられたかが描かれます。

それは、神が、逃亡奴隷とも言える集団を、荒野でいかに豊かに祝福しておられたかの証しでもあります。彼らは海を渡って救われ、荒野に入って間もなく、パンも肉もないとつぶやきましたが、実際はここでささげられるほどに豊かに穀物も家畜も与えられていました。

そして、このように豊かにささげる民を、神はさらに祝福し、また民はその恵みに感謝してなおささげるという好循環が起こります。

そして、12節から83節まで、部族ごとにまったく同じささげものが十二回繰り返されます。これを朗読で聞くとき、それぞれの部族は、自分たちの名が具体的に呼ばれ、具体的に応答する様子が実感されます。神の前では、「以下同文・・」という省略はありません。

それぞれの部族の規模は違っても、神はそれぞれを公平に扱い、同じ礼拝を求めます。神の恵みは、分け隔てがないばかりか、その恵みへの応答もいつも具体的な生きたできごとなのです。

また私たちはその恵みに対する応答を、「家族単位での礼拝」として現すことが求められています。

なお、そこで様々ないけにえ以前に、穀物のささげものが特に述べられているのは、イスラエルの十二部族がレビ族の生活を支えるという意味が込められていると思われます。

これらを合わせると、全焼のいけにえとして、「雄牛、雄羊、子羊」、罪のためのいけにえとして「雄やぎ」がそれぞれ12頭ずつ、また和解のいけにえとして「雄牛」24頭、雄羊、雄やぎ、子羊が60頭ずつがささげられました。これは二十歳以上の軍務に着くことができる男子だけで60万人を超える大集団からのささげものですから、驚くべきいけにえの数とも言えません。

ただし、人間的には荒野をさまよう逃亡奴隷の集団ですから、決して小さな犠牲とも言えません。主がこれらのいけにえを命じ、彼らがそれに喜んで従ったという中に、天地万物の創造主が彼らの真ん中に住んでくださることの「祝福」が現されています。

そして、これらのささげものの後でモーセが会見の天幕に入ると、主(ヤハウェ)は、「あかしの箱の上にある『贖いのふた』(mercy seat)の二つのケルビムの間から」、親しく「彼に語られた」というのです(7:89)。それは、主が天からイスラエルの民と同じ地平にまで降りて来られ、具体的に彼らの真ん中に住んでくださったことの結果です。

ローマ人への手紙3章24節のフランシスコ会訳では、「神はこのキリストに血を流させ、信じる人のための『贖いの座(mercy seat)』として、彼を公に示されました」と訳されています。イエスの十字架とは、神がモーセに顔と顔とを合わせるように語ってくださった「贖いの座」にイエスご自身がなってくださったということです。

それで私たちは今、「大胆にまことの聖所に入ることができ…真心から神に近づく」(ヘブル10:9,22)ことができるのです。神は今、私たちひとりひとりにモーセに語るように語りかけてくださるのです。

そして、私たちがそのような神の祝福を体験する時、人と人との関係にもシャロームが実現します。

人と人との関係には、しばしば疑心暗鬼がともない、せっかくの献身の思いを揺るがすのも人間です。「家族」こそ人を傷つける原点であることを承知の上で「神の家族」と呼ばれます。それは「主がそこにとこしえのいのちの祝福を命じた」(詩篇133:3)と言われるのは、「兄弟たちが一つになって共に住む」場だからです。

それは、「シオンの山々におりるヘルモンの露」として描かれます。イスラエルの夏は日照りが続きますが、ヘルモン山から運ばれてくる露が山々を潤し、作物を実らせてくれます。

「いのちのみなもと」である主ご自身が私たちの交わりの真ん中に住んでくださることの恵みを心から味わってみたいものです。それは神の赦しを体験することから始まり、「互いを赦し合う」という交わりのただ中に現されます。