マタイ28章16〜20節他「イエスに倣い神のかたちで生かされ、祝福を分かち合う」

2016年1月24日

私たちはみな小さい頃から、「この地で成功する」ようにと様々な訓練を受けています。そして、キリスト教会でも「弟子訓練」の大切さが説かれてきました。

イエスご自身十二人の弟子を特に選んで身近において訓練しました。しかしその結果はどうでしょう。そのうちの一人は主であるイエスを些細な金額で売り渡します。そればかりか、代表格の弟子ペテロは、「ガリラヤ人イエスの仲間ではないか」と問われたとき、三度にわたって、「そんな人は知らない」と「のろいをかけて誓い」ました。

人間的に見ると、イエスはたった十二人の弟子も満足に育てることができなかった指導者とも言えます。しかし、そこに逆説があります。

私がイエスを主と告白した時、国のお金で留学することができていながら、心の奥底では別の自分になりたいと悩んでいました。また、ドイツで金融の世界に身を置きながら、お金を増やす仕事に空しさを覚え、より多くの人を永遠のいのちへと導くというより生産的と思える仕事への憧れを抱きました。

自分の心の底には、「より品格のある人間に成長すること」「より影響力のある教会を建て上げること」という右肩上がりの成長志向があったように思います。

しかし、現実はどうでしょう。いつまでたっても自分は品格のないまま、教会も目に見える成長ができないまま維持すること自体に汲々としているという現実があります。

しかし、違った見方もできます。自分の足りなさへの自覚を深めること自体が、キリストにある成長とも言えます。

また、バブル経済崩壊以降、多くの会社や組織が消えて行く中で、私たちの群れがまがりなりにも存続でき、人数は増えなくても、多くの人に立ち直るきっかけを与えて送り出し、また聖書の面白さに気づくようにいろんな形で助けることができてきたこと自体が、神のみわざと言えるのかと思います。

米国で1955年に映画館を借りて始まった教会が1981年に三千人を収容するクリスタルキャセドラルという世界最大のガラス張りの教会を約22億円の費用で献堂しました。しかし、その教会は後継者問題がこじれたあげく2010年には50億円あまりの負債を抱えて倒産します。教会の倒産というのは前代未聞とも言えますが、「繁栄の神学」の失敗例として話題になりました。

一方、欧米の多くの田舎の教会は様々な風雪に耐え、共同体の中心にあり続けています。そして、多くの古い教会の屋根には、鶏のモチーフが飾られています。それは、復活の象徴とも、三度イエスを否んだペテロの象徴とも言われます。

ペテロはイエスに対して、「たとい全部の者があなたのゆえにつまずいても、私は決してつまずきません」と豪語しました。しかし、イエスは彼に向かって、「今夜、鶏が鳴く前に、あなたは三度、わたしを知らないと言います」と言われ、その通りになりました。それは、キリストの教会は人間的な信念によってではなく、神のあわれみによって立ち続けることを意味しています。

教会が人数的にも成長し続けることは良いことですが、何よりも大切なのは、世代を超えた永続性にあります。世界の会社組織で百年を超える歴史を持ちながら安定して成長しているところは稀です。しかし、キリストの教会という組織は、歴史の荒波に耐えながら、安定的に成長し続けています。それは、人間的な成功概念を超えた共同体であるからです。

1.「十一人の弟子たちは、ガリラヤに行って・・・山に登った」

マタイ福音書では、復活のイエスが、エルサレムでペテロやヨハネにご自身を現わされたことは省かれ、「ガリラヤ・・で・・会える」(10節)と伝えられたことに焦点が当てられます。この書の始まりは「the book of genesis of Jesus Christ」(イエス・キリストの系図)とも訳されますが、Genesisはギリシャ語訳聖書の「創世記」のタイトルです。

その上で、モーセの五つの書に習って、五つのイエスの説教が記録されます。最後の申命記では、モーセが「山の上」で語り、イスラエルの民を約束の地へ派遣し、「あなたの神、主ご自身が、あなたの先に渡って行かれ・・あなたはこれらを占領しよう・・・強くあれ。雄々しくあれ。彼らを恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主ご自身が、あなたとともに進まれるからだ。主はあなたを見放さず・・見捨てない」(31:3,6)と語ります。

それと同じように、最後にイエスは、「山の上」から彼らを全世界へと派遣するのです。ただし、その際、旧約のイスラエルは剣を用いた戦いで地を占領しましたが、イエスは「右の頬を打つような者には、左の頬も向ける」(5:39)ことで悪に勝つ道を示されました。

イエスはエルサレム神殿の崩壊を告げた後、ご自身の血によって「罪の赦し」を与えました。そして、今、ガリラヤにおいて「十一人の弟子たち」の前に立ちます。彼らこそ新しいイスラエルの十二部族でした(19:28)。彼らは異邦人との接点のガリラヤから、全世界に向けて遣わされます。それはイエスが、「心の貧しいものは幸いです」と教えられた山かもしれません。

彼らは謙遜にされ、原点に立ち帰って、新しい神の民として世界へと遣わされます。主自身が、新しい「神の幕屋」として彼らと共に歩むというのです。

「そして、イエスにお会いしたとき、彼らは礼拝した」(17節)とありますが、それは、イエスは「天においても、地においても、いっさいの権威が与えられている」(18節)からです。イエスはご自身の復活によって新しい時代を開かれました。今イエスは、「王の王、主の主」(黙示19:16)となっておられ、この地の歴史を確かに支配し、ご自身の方法で、完成に導いておられます

ところが、「ある者は疑った」(17節)と、この期に及んでなお疑っている者たちがいました。イエスはそれをご存知でありながら、なお「あなたがたは行って・・」と命じます。主は不完全な信仰のままの弟子たちをご自身の働きのために用いようとされます。

私たちの信仰は、イエスを世の人々に紹介するという行動によって初めて、確かなものとされるという面があります。疑いを意識するのは、信仰があることの証明でもあります。

与えられている恵みを、正直に分ち合うとき、神は次ぎの祝福をお与え下さいます。出口を閉じられた水が腐って行くのと同じです。しかも、信じたばかりの人(知識がない人)こそが、未信者の友を多く教会に連れて来ることができます。

2.「あらゆる国の人々からなる弟子たちを作りなさい」

マタイ28章19、20節には、「行って」「バプテスマを授け」「教えなさい」との命令がありますが、これらはすべて、「弟子としなさい」を修飾することばです。

たとえば、「真理のことば」を行く先々で熱心に伝えながら、人々と衝突を繰り返し、交わりを築けない人がいます。またバプテスマを授けられながらその後の信仰が成長できない人がいます。また、聖書の命令を学ぶことで、かえってうつ病や神経症の傾向を悪化させる人さえいます。

ですから、「キリストの弟子たちとする」という中心線を忘れた伝道は危険です。

たとえば、ペテロが、本当の意味で、キリストの弟子となったのはいつでしょうか?それは、彼が「あなたは、生ける神の御子キリストです」と模範的な信仰告白をしたとき(16:16)というより、イエスのことを三度知らないと言った後で、自分の罪深さとイエスの愛を深く示され、「激しく泣いた」(26:75)あとではないでしょうか?

当時のパリサイ人は、日々の立ち居振る舞いを細かく指導し、外面的には非難されない弟子たちを育てました。しかし、イエスは「パリサイ人は、改宗者を、自分よりも倍も悪いゲヘナの子にする」(23:15)と非難しました。それに対して、イエスの弟子訓練は人間的に見れば成功とは程遠いとも言えます。

キリストの弟子を育てる働きは、何度も裏切られ、傷つきながらも、その人を赦し、友であり続ける「忍耐」が求められます。これは子育てや夫婦関係を築くのと同じような地道な働きです。

しかも、これはすべてのキリスト者への命令です。たとえば、パウロは自分を特別に選ばれた指導者という以前に、「私はその罪人のかしらです」(Ⅰテモテ1:15)と呼び、「こんな罪人でも救われる」ということの「見本」(同1:16)にされたと紹介します。私たちは、だれでも、「模範」にはなれなくても、「見本」になることはできるのではないでしょうか。

それにしても、イエスは、「あなたがたは行って、あらゆる国の人々弟子としなさい」と言われました。この部分は多くの英語訳では、「make disciples of all nations」と訳されます。つまりあらゆる国の人々からなる弟子たち(共同体)を作ること、教会共同体を建てるという命令と理解できます。これは民族、人種を意味することばで「あらゆる種類の人々を」と理解することもできます。

たとえば、日本の会社は、しばしば、能力以上に企業カルチャーに合う人を選びます。ですから、教会の人よりも、会社の人の方が、常識?が通じ易いという面が当然あります。大切なのはその共同体が互いの常識が通じ合うようなモノカルチャーの集まりではないということです。イエスは、私たちが、自分の常識の枠を超えた人々と交わりを築くようにと、確かに命じておられるのです。

そして、イエスは、「父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け」と命じられました。父も子も聖霊も、永遠の独自性を保ちながら、同時に、私たちに向かっては唯一の神としてご自身の愛を現わしてくださいます。私たちはこの三位一体の神の愛に包まれながら、多様な兄弟姉妹との愛の交わりを築きつつ、世に遣わされて行くのです。「ひとりが、ひとりの人を」導くというよりは、共同体として、それぞれの異なった賜物を生かしながら、交わりを通して、人を導くのです。

「命じておいたすべてのことを守るように・・教えなさい」とありますが、「守る」とは「注目し続ける」が中心的な意味です。これはイエスが定めた様々な戒律を守るというのではなく、「主の教えを喜びとし、昼も夜もその教えを口ずさむ(思い巡らす)」(詩篇1:2)とも言い換えられます。

サタンは私たちの目を、福音ではなく禁止規定に向けさせますが、「すべてのこと」とあるように主の命令の全体像を、バランスを持って見る必要があります。しかも、その中心は、全身全霊で主を愛することと、あなたの隣人をあなた自身のように愛するということ、つまり、自分から目を離して神と人とを「愛することこそが命令の核心なのです。

イエスは最後に、「世の終わりまで、いつも・・・ともにいます」と言われましたが、これは「世界の完成の時まで」とも訳すことができます。この世界のゴールは「新しい天と新しい地」です。そこは愛と平和に満ちた世界です。私たちは、この世界をその状態に少しでも近づけるために、召されています。

しかも、この働きには最終的な成功が保証されています。神がイエスの敵を用いて復活の証明をされたように、神はすべてを働かせて益とすることができます。「主のわざ」は決して無駄にはなりません(Ⅰコリント15:58)。

3.イエスに倣い、神のかたちとして生かされ

大宣教命令の核心は、弟子訓練ですが、しばしばこれは有能な影響力のある人間になることと誤解さることがあります。それで、「弟子となる」ということばを、「イエスに倣い、神のかたちとして生かされ」と表現してみました。

すべての人の価値の基本は、「神は人をご自身のかたちとして創造され・・男と女とに創造され・・・地を従えよ」と言われたことに始まります。そして、「御子は見えない神のかたち」(コロサイ1:15)とあるように、イエスこそが神のかたちとしての生き方を、見えるように示してくださいました。

「神のかたち」は英語で「image of God」と訳されるように、目に見えない神の姿を目に見えるように現す存在です。

「イエスに倣う」と表現したのは、人間イエスに目を向けるためです。私たちはみな、自分の十字架を負ってイエスに従う歩みへと召されたからです。それは、御子の御霊を受けて、世の悲しみを引き受けながら、同時に復活の喜びに生かされる歩みでもあります。

キリストの弟子を自称しつつ、この世の悪を力で退治し、新秩序を実現しようとするような人もいます。しかし、イエスは、「柔和な者は幸いです。その人は地を相続する」(5:5)と言われ、無抵抗のまま十字架で死なれました。

私たちも、主の忍耐に倣いながら、争いと矛盾に満ちた世界に遣わされ、少しでも多くの人をキリストの弟子へと導かせていただくのです。

たとえば、アリストテレスなどから始まる人格の基本徳目は、勇気(courage)、正義(justice)、思慮深さ(prudence)、節制(temperance)と言われます。新渡戸稲造は日本の武士道の基本徳目を、「正義、勇気、仁(思いやり)、礼、誠、名誉、忠義」としていますが、それにも通じます。

それに対して聖書が示す基本徳目は、謙遜(humility)、慈しみ(charity)、忍耐(patience)、純潔(chastity)であると言われます。

たとえばコロサイ人への手紙3章5節以降に、「不品行、汚れ、情欲・・を殺してしまいなさい」とあるように、性的な純潔こそ、聖書道徳の核心にあります。

その上で9-14節では、「互いに偽りを言ってはいけません。あなたがたは、古い人をその行いといっしょに脱ぎ捨てて、新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです。そこには、ギリシャ人とユダヤ人…奴隷と自由人というような区別はありません。キリストがすべてであり、すべてのうちにおられるのです。

それゆえ・・・深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合い・・互いに赦し合いなさい・・・これらすべての上に、愛をつけなさい」と記され、最後に、「愛こそは(からだの各器官を結びつける)完全なじん帯です」(私訳)と記されます。

ここには先のキリスト教道徳の徳目の「謙遜、慈しみ、忍耐」がすべて含まれますが、先のアリストテレスの徳目と対照的なのは、キリスト教道徳の核心はすべて人と人とを結びつけることに資するものとも言えます。

それに対し、アリストテレスや武士道の徳目は、孤高の英雄をイメージさせ、そこには愚かなプライドという問題があります。特にそこでは、「勇気、正義」が大切にされますが、それは強がり自己正当化につながります。一方、聖書では、自分の欠けや弱さ、無知を認める「謙遜」が何より重んじられます。

このふたつの種類の徳目の違いは、人から非難された時に明らかになります。英雄的な徳目に憧れている人は、プライドを傷つけられて激しく怒り出すことがあります。

しかし、キリストに倣い、謙遜や忍耐を徳目とする人は、それを、十字架を負ったキリストの御跡に従うこととして受け止めることができます。

4.祝福を分ち合う

ヨハネ7章37節は、「さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた」という表現から始まります。その日は、七日間の「仮庵の祭り」(2節)を締めくくる八日目を指し、それは、世界の歴史のゴール、完成の日を連想させます

神は預言者たちを通し(エゼキエル47章、ヨエル3:18、ゼカリヤ14:8等)、「その日」、エルサレム神殿から水が湧き出ると約束されました。その水は大きな川となって死海に流れ込み、そこに多くの魚が住むようになり、また、川の両岸にはあらゆる果樹が成長し、あらゆる実をつけるというのです(エゼキエル47:1-12)。それはエデンの園の回復の情景です。黙示録は、それを「新しいエルサレム」として描いています(黙示22:2)。

そこで、「イエスは立って、大声で」、「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい」と言われ、直後に「わたしを信じる者は」と言い換えられながら、イエスを信じる者は、「聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる」と言われます。

これは前述のエゼキエル預言の成就を示唆します。不思議なのは、まわりの世界を生かす大きな川が、エルサレム神殿からではなく、「その人の心の奥底から流れ出る」という点にあります。

神はイザヤを通して「わたしは潤いのない地に水を注ぎ・・・わたしの霊をあなたのすえに・・祝福を・・注ごう」(44:3)と、地を潤す水と、人を生かす霊を並行して語りました。

また、「あなたは、潤された園のようになり、水のかれないみなもとのようになる」(58:11)と、人が泉となると預言しました。これは、神が多くの預言者を通して約束されたように、終わりの日にご自身の聖霊を人々に注ぐことを意味しました。

イエスは、これらをまとめ、「その人の心の奥底から生ける水の川(複数)が流れ出るようになる」と約束されたのです。なお、「これはイエスを信じる者が後になって受ける御霊のことを言われたのである」(39節)と解説されます。

「生ける水の川が流れ出る」とは、まるで、エルサレム神殿から湧き出た水が大河となって不毛の地に豊かな果樹を育てるように、私たちがまわりのすべての人々を生かす者になることを意味します。これは、「愛に満ちた人になりなさい」という命令ではなく、「イエスがあなたを愛に満ちた人に造り変える」という約束です。

「自分は人を生かすことも、人の役に立つ事もできない」と思うのは、謙遜ではなく、自己卑下であり、サタンが吹きこむ考え方です。真の信仰とは、神がこのままの私たちを用いて、周りの世界を、エデンの園のように変えて下さると信じることなのです。

イエスはどんな人をもご自身の目的のために用いることができます。その第一歩は、渇いた口を主に向かって開くことです。

なお、「心の奥底から」とは、厳密には「腹から」と記されています。私たちの行動を変えるほどの神の愛は、頭よりは腹で感じられるものです。たとえば、「イエスは私の罪を赦すために十字架にかかられた」ということばを腹の底で感じたら、「この罪人のままの私が神様から抱きとめられている」という安心で満たされ、あらゆる自己弁明や自己正当化から自由になれるはずです。

ところが、私たちは、心のどこかでいつも、神は私がどのような成果を出したかに興味を持っておられるに違いないという、根拠のない呪縛にはまっています。

私たちはしばしば、一呼吸置いて祈ってから始める前に、自分の意思で動き出してしまいますが、そのことを戒めるために、「御霊を消してはなりません」(Ⅰテサロニケ5:19)と記されます。

イエスはただ、「わたしのもとに来て飲みなさい」と命じられました。あとは、イエスご自身がしてくださいます。自分の力で神の敵と戦うのではなく、自分の不安を、また弱さを正直に認め、イエスにすがればよいのです。

イエスは、「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」(ルカ9:23)と言われました。私はある意味で、「苦しみ甲斐のある人生」を望んでこの道を歩み出しました。しかし、そこに「この私こそは・・」という囚われがありました。

それが分かるのは、人から批判された時に自分の中に起こる感情です。イエスは「十字架を負い」ながら嘲りを受けていたのに、自分は「良く頑張っているね」という人からの称賛を心で求めていたのです。誤解や批判は辛いですが、そこでこそ人は「神の愛」に「渇き」を覚えることができます。

しかし、その渇きがこの心をイエスに向かわせ、その結果、「生ける水の川」が「心の奥底」から世界に向かって「流れ出る」ようになるのです。