イザヤ63章18節〜65章16節「アーメン(真実)の神によって祝福される歩み」

2011年1月2日

クリスチャンは天国にあこがれながらこの世の不条理をしのび、悔しいことがあっても微笑みながら生きる・・・そんなイメージがあるかもしれません。しかし、そんな生き方では、息が詰まってしまいます。義兄が私たちの信仰のあり方を尊重しながら、「お前たちの所は、アーメンだからな・・・」と言ってくれますが、今日の箇所には、「アーメン(真実)の神」という不思議な表現があります。それは、神にはご自身のことばと現実の行いの間にいかなるギャップもないということを意味します。

なお、日本人の一般的な考え方としては、どの神を拝んでも同じで、その人の信仰心自体が、誠実な生き方の源泉になると見られています。しかし、聖書の神は、何よりも、不信仰な者に真実な信仰を生み出してくださる創造主です。そのことをイザヤは、「私たちは粘土で、あなたは、私たちの陶器師です」と表現します。

私たちが自分の内側にある偽善的な暗闇を見るなら、どうして自分の信仰を人に紹介することなどできようかと思います。しかし、私たちは自分の生き方ではなく、私たちを造り変えてくださる陶器師としての神を紹介するのです。しかも、信仰生活とは、天国への憧れを生きるという以前に、この地での生活が、「のろい」から「祝福」へと変えられるものです。「アーメン(真実)の神」によって祝福される歩みの原点に立ち返ってみましょう。

1.「あなたが天を裂いて降りて来られると・・・」

預言者イザヤの時代は、イスラエルの国が繁栄から滅亡に向かう転換点の時代でした。人々が自分たちの将来をなお楽観的に考えている時代に、神はイザヤに約150年後に実現する悲劇の幻を見せました。

「あなたの聖なる民が少しの間受け継いだ後、私たちの敵はあなたの聖所を踏みつけました。私たちはとこしえからあなたに支配されたことも、御名で呼ばれたこともない者のようになりました」(63:18,19)とは、イスラエルの民が、本来、神の聖なる民であり、聖所であるエルサレム神殿は彼らのために建てられていたのに、そこがあまりにもあっけなく廃墟とされ、神の民が他の小民族と同じように大国に踏みつけられているという悲劇を描いたものです。私たちも、ときに、クリスチャンとされている祝福を完全に見失ってしまうようなことがあるかも知れません。

64章の初めでは、「ああ、あなたが天を裂いて降りて来られると、御顔のゆえに山々は揺れ動くでしょう。火が柴に燃え尽き、火が水を沸き立たせるように、御名はあなたの敵に知られ、御顔のゆえに国々は震えるでしょう。予想もしなかった恐ろしい事を行われるとき、あなたが降りてこられると、御顔のゆえに山々は揺れ動くでしょう」(64:1-3)と主の御顔が迫って来ることの恐怖が描かれています。

これと似た表現が詩篇18篇にありますが、そこでは、ダビデがサウル王から命を狙われ逃亡し続けているときに、神ご自身がダビデを救うため圧倒的な力をもって降りてきてくださる様子が、「主は天を押し曲げて降りて来られた。暗やみをその足の下にして」(9節)と描かれていました。

つまり、人間の目にはどのように強力な敵であっても、神の前には無に等しく、神はご自身のみこころひとつで、天から降りてきて、神の民を救い出すことができるというのです。イスラエルは、自分たちを虐げた大国の上におられてすべてを支配する全能の神の救いをこそ待ち望むべきなのです。

そのことが、「とこしえから聞いたこともなく、耳にしたこともなく、目で見たこともありません。あなた以外の神が、ご自分を待ち望む者のためにこのようにするのを」(64:4)と告白されます。当時は、国ごとに異なった神々が礼拝されていました。その中でイスラエルは自分たちよりも強い国の神々を求める誘惑にさらされていましたが、イザヤは、イスラエルの神を天から降りてきてくださる神として描き、他の神々と比べようがないということを改めて強調します。私たちも、神が私たちを救うために天から降りてこられるというイメージを思い浮かべるべきでしょう。

2.「御名を呼ぶ者もなく、奮い立って、あなたにすがる者もいません」

そして、5節では突然、「あなたは迎えてくださいます。喜んで正義を行う者、あなたの道であなたを覚える者を」という希望が告白されます。神にとっての正義とは、私たちがどこにおいても神のご支配を認め、神の救いを慕い求めることに他なりません。しかし、イスラエルの民は近隣の神々の機嫌を取ることによって隣国との平和を保とうとしました。

日本の会社には、新年はそろって神社に行くという習慣を守っているようなところさえあります。上司が善意に満ち溢れて部下を引き連れて参拝に行こうというとき、それに逆らうと角が立つかもしれません。しかし、目に見える権力者を恐れて他の神々を拝むなどというのは信仰者にとって自殺行為です。

そのことが、「ああ、あなたは、怒られました。私たちは昔から罪を犯し続けています。それでも私たちは救われるでしょうか。私たちはみな、汚れた者のようになり、その義はみな、月のもので汚れた衣のようです」(64:5,6)と告白されています。それはイスラエルの民が、何度も神を裏切り続けてきたことを思い起こしたものです。

なおここで「月のもので汚れた衣」という露骨な表現があるのは、レビ記などで女性の生理の期間が、神の目に「汚れ」と見られていたからです。この世の基準では自分を「」とできることでも、神がそれをどのように見られるかが問題なのです。

何が「正義」なのかは、自分がどの共同体に属しているかによって決まるという面があります。私たちの場合で言えば、私たちは日本人である前に、「神の民」であるということを忘れ、神の目に「汚れ」ということを恐れなければなりません。別の神々を求めることほどに自分を汚す行為はありません。イスラエルはその結果として国を失い神殿を失いました。そして、「木の葉のように枯れ、吹き上げ」られる軽い民となってしまいました(64:6b)。

しかも、それにも関わらず、イスラエルの民は、「御名を呼ぶ者もなく、奮い立って、あなたにすがる者もいません」(64:7)という状況のままに留まっているというのです。士師記はイスラエルの暗黒時代を描いたものですが、少なくとも当時の彼らは、苦しみに会うたびに主を呼び求めました。

ところがイザヤの時代には、自分たちに苦しみが迫っている中ですら、主を求めようとはしなかったというのです。つまり、私たちにとって何よりも絶望的な状況とは、主の御名を呼び求める事をやめてしまう事ではないでしょうか。

しかも、イザヤはそのことを不思議にも、「それは、あなたが私たちから御顔を隠し、私たちの咎の手の中に溶かされたからです」と、まるで、それが神ご自身の責任であるかのように記しています。これは、人が神に逆らい続けた結果、良心が麻痺してしまう状態を指します。

パウロもローマ人への手紙の中で、「造り主の代わりに造られた物を拝み、これに仕え」続ける者たちに対しての神のさばきを、「神は彼らを恥ずべき情欲に引き渡した」と描いています(1:25,26)。これは、人が自分で自分を罪の泥沼に追いやってしまったような状態を指します。ここで「溶かされた」と表現されていることばは、自分で自分の行動を改める力を失ってしまった状態を指します。

3.「これでも、主(ヤハウェ)よ。あなたはじっとこらえ、黙って、こんなにも私たちを苦しめるのですか」

しかし、そのような中で突然、64章8節で、「しかし、今、主(ヤハウェ)よ。あなたは、私たちの父です。私たちは粘土で、あなたは、私たちの陶器師です。私たちはみな、御手で造られたものです」という信仰告白が記されます。当時の「父」は家庭の中での絶対者であり、また同時に、安心の源でした。

しかも、主は創造主であられますが、ここでは当時の人々に親しみやすい粘土と陶器師の関係から、自分たちの抱える問題は主の創造のみわざの結果であるかのように、ご自身の被造物に責任を持つようにと、大胆に嘆願をしてゆきます。

それをもとにした祈りが、「主(ヤハウェ)よ。どうかひどく怒らないでください。いつまでも、咎を覚えないでください。どうか今、目を留めてください。あなたの民、私たちすべてに」(64:8、9)というものです。これは、救いの主導権は、私たちの心以前に、陶器師である主のみこころにあるという告白です。だからこそ、主のあわれみに必至にすがることが大切なのです。

そして、預言者イザヤは自分達をやがて襲う悲惨を予見しつつ、「あなたの聖なる町々は荒野となっています。シオンは荒野となり、エルサレムは荒れ果てています。私たちの聖なる美しい宮、先祖があなたをほめたたえた所は、火で焼かれ、私たちの宝とした物すべてが荒廃しました」と生々しく描きます。

ただ、その上で、そのときの主ご自身の葛藤を思い浮かべるようにして、不思議にも、「これでも、主(ヤハウェ)よ。あなたはじっとこらえ、黙って、こんなにも私たちを苦しめるのですか」と問いかけています(64:10-12)。主はご自身の民の悲惨を冷たく見下ろしておられるのではなく、彼らの痛み合わせてみこころを痛めながら、なお助けたい気持ちをこらえておられるというのです。

これとほとんど同じ表現が、63章15節でも「あなたの熱心と御力はどこにあるのでしょう。私へのたぎる思いとあわれみを、あなたは抑えておられるのですか」と記されていました。これはルカ15章に記されていた放蕩息子の父親の気持ちを描いている表現と言えましょう。私たちは何度失敗しても、とことん、神の豊かなあわれみに期待し、すがり、祈ることができるのです。

多くの学者は、紀元前七百年のイザヤがこのような祈りをすることはできないはずで、これは紀元前586年以降の別の預言者が記したと言いますが、それは余りにも人間的な見方です。実際は、主がイザヤに将来のエルサレムの悲惨を告げ知らせ、それと同時にこのような祈りを与えられたからこそ、彼らはバビロン捕囚という苦しみを通して、強国の神々にひざまずくことなく、イスラエルの神ヤハウェに立ち返ることができたのではないでしょうか。

4.「一日中、反逆の民にわたしの手を差し伸べた」

65章1節では、主がご自身の民イスラエルに拒絶されながら、敢えて異邦人を招く様子が、「わたしに問わなかった者たちにわたしを尋ねさせ、捜さなかった者たちにわたしを見つけさせた。わたしの名を呼び求めなかった国民に向かって、『わたしはここだ、わたしはここだ』と言った」と描かれます。

私たちがイスラエルの神を自分の父と告白できるようになったのは、私たちが誇ることができる功績ではなく、神の一方的なあわれみによります。

一方、イスラエルの民に関しては、「一日中、反逆の民にわたしの手を差し伸べた。自分の思いに従って良くない道を歩む者たちに」と記されます。これをもとにパウロは、主が異邦人を招く事によってイスラエルにねたみを引き起こし、最終的に「イスラエルはみな救われる」という計画を成就してくださると記します(ローマ10:20,21、11:26)。そこでパウロは、救いが主の一方的な選びによるものであると強調しています。

私は自分で自分の心を信じることができずに悩んでいました。ですから、「信仰によって救われる」と言われても、かえって、「自分には救われるに価する信仰はあるのか・・・」と悩みを深めてしまいました。しかし、信仰が神の一方的な選びによるということを知って、本当に安心することができました。

しかも、それはルターやアウグステヌスのような偉大な信仰者たちが抱いていた葛藤でもあったということもわかって、さらに安心できました。選びの教理はカルヴァンに始まる一部の教派の教理ではなく、聖書全体を貫くもっとも大切な教理です。

なおここで、イスラエルの民の偽善に満ちた礼拝の様子が、「この民は、いつもわたしの顔に逆らってわたしの怒りを引き起こしている。園の中でいけにえをささげ、れんがの上で香をたき、墓地にすわり、隠れた所に宿り、豚の肉を食べ、汚れた肉の吸い物を器に入れ、『そこに立っておれ。私に近寄るな。お前にとって私は聖すぎるから』と言う」(65:3-5)と描かれます。

彼らはイスラエルの神を礼拝する傍らで、それと並行しながら、周辺諸国の神々の礼拝の習慣を取り入れて、自分たちの信仰が昔より発展しているように誤解していました。

預言者イザヤの南王国ユダの王アハズは当時の大国アッシリヤ王のご機嫌を採りながら、エルサレム神殿の大改造を行いました。何と彼はヤハウェの神殿の中に、ダマスコにあった異教の神の祭壇に習った祭壇を作り、異教の神へのいけにえなのかヤハウェに対するいけにえなのか、わからないような混合宗教のいけにえを熱心にささげました。彼はそれがどれだけイスラエルの神を怒らせたかを知りませんでした。

これは、日本の教会でもつい65年前までは、神社参拝と共存できる日本的キリスト教なるものを誇っていたことに似ています。

彼らは主(ヤハウェ)の御こころに思いを寄せようともせず、皮肉にも、主の目にまったく汚れた者になっていながら、自分達は「聖なるもの」であると言い張っていました。それに対して主は、「これらは、わたしの鼻への煙、一日中燃え続ける火である」と言われます(65:5b)。これは、主がご自分の嫌われる香りをかがされながら、怒りを増幅させている様子を、痛みを込めて表現したものです。

しかも、「見よ。これはわたしの前に書かれている」とあるように、消すことのできない記録として積みあがって来ています。そして、それに対して主は、「わたしは黙っていない。必ず報復する。わたしは彼らのふところに報復する」と繰り返されます。

しかも、そこには、「お前たちの咎と、その先祖の咎ともどもに」と付け加えられながら、改めて彼らの礼拝の様子とそれに対する主の怒りが、「彼らは山の上で香をたき、丘の上でわたしをそしった。わたしは彼らのふところに向けて、先のしわざを量る」と描かれます(65:6,7)。これは、主がご自身の民の霊的な浮気にご自身の怒りをつのらせている様子を描いたものです。

5.「そのように、わたしのしもべたちのために、その全部を滅ぼしはしない」

ところが、65章8節から、「主(ヤハウェ)はこう仰せられる」ということばとともに新しい展開が、「ぶどうのふさの中に甘い汁があるのを見れば、『それをそこなうな。その中に祝福があるから』と言う。そのように、わたしのしもべたちのために、その全部を滅ぼしはしない」と記されます。

これは、神がご自分の民を厳しく罰しながらも、民を滅ぼし尽くすことなく、一部を残して、そこから新しい神の民を再創造しようというご計画しておられるという意味です。これをもとにパウロは、「今も、恵みの選びによって残された者がいます」(ローマ11:5)と告白しています。

そして神のご計画が、「わたしはヤコブから子孫を生まれさせよう。ユダからわたしの山々を所有する者を。わたしの選んだ者がこれを所有し、わたしのしもべたちがそこに住む。シャロンは羊の群れの牧場、アコルの谷は牛の群れの伏す所となる。わたしを求めたわたしの民にとって」(65:9、10)と記されます。神はかつて、シャロンを荒地に(33:9)にし、アコルの谷にアカン一族を石で撃ち殺させ、石の山を築かせましたが(ヨシュア7:24-27)、今や、選び残された神の民にとって、「のろい」の時代が過ぎ去り、祝福の時代が始まるというのです。

このことがイザヤと同時代のホセア書では、「アコルの谷を望みの門にしよう」(2:15)と簡潔に表現されています。イスラエルの民にとって「アコルの谷」は神の怒りのシンボルでしたが、そこが希望に満ちた地へと変えられるというのです。

あなたの人生にも、思い出すだけで心が痛み、自分を恥じざるを得ないという記憶があるかもしれません。しかし、神の御手の中で、そのような「のろい」の記憶が、祝福の始まりとなり得るのです。私たちはある意味で、失敗すべくして失敗するのです。それに真剣に向き合うとき、そこから新しい歩みを始めることができます。

ただ、一方でそれと同時に、「しかし、お前たち、主(ヤハウェ)を捨てる者、わたしの聖なる山を忘れる者、幸運の神のために食卓を整える者、運命の神のために、混ぜ合わせた酒を盛る者たちよ。わたしはお前たちを剣に渡す。それでお前たちはみな、虐殺されて倒れる。なぜなら、わたしが呼んでも答えず、語りかけても聞かず、わたしの目にとっての悪を行い、わたしの喜ばない事を選んだからだ」(65:11、12)と、主の招きを拒絶するものへのさばきが記されます。

カナンには「ガド」という「幸運の神」、「メニ」という「運命の神」がありましたが、それらに酒をささげる者たちは、皮肉にも彼らの願いとは反対に、「のろい」と運命的な「死」を招くというのです。

6.「主・ヤハウェは、お前たちを殺し、ご自分のしもべたちをほかの名で呼んでくださる」

その上で、主は、残された神の「しもべ」と、悔い改めようとしない「お前たち」との対比を、四対の「祝福」と「のろいの観点から、「見よ。わたしのしもべたちは食べる。しかし、お前たちは、飢える。見よ。わたしのしもべたちは飲む。しかし、お前たちは、渇く。見よ。わたしのしもべたちは喜ぶ。しかし、お前たちは、恥を見る。見よ。わたしのしもべたちは心の楽しみによって歓喜する。しかし、お前たちは、心の痛みによって叫び、霊が砕かれて泣きわめく」(65:13、14)と劇的に生き生きと描きます。

私たちはこのような表現を頭で分析する前に、これを声に出して味わい、この対比を全身全霊に刻み込むことが必要ではないでしょうか。

そして、その対比が、改めて、「お前たちはその名をわたしの選んだ者のためにのろいとして残す。主・ヤハウェは、お前たちを殺しご自分のしもべたちをほかの名で呼んでくださる」(65:15)と描かれます。私たちは自分の名を「のろい」として残すか、主からの新しい「ほかの名」で呼ばれるものとなるかの分かれ道に立たされています

神は私たちの信仰の歩みの中で、「新しい名」を与えてくださいます。それは、鈍感な人が敏感になるとか、のろまが俊敏になるとか、愚か者が賢くなるというような、人間が思いつく変化を表す名ではありません。神があなたにまったく別の観点から新しいアイデンティティーと使命を与えてくださるという意味です。

そして、祝福の名を受ける者に関しては、「この地で自分を祝福する者は、真実の神によって自分を祝福し、この地で誓う者は、真実の神によって誓う。先の苦難は忘れられ、わたしの目から隠されるからだ」(65:16)と約束されています。「真実の神」ということばが、原文では「アーメンの神」という不思議な表現になっています。

私たちはしばしば、自分の思いと神のみこころのギャップに悩みますが、来たるべき「新しい天と新しい地」においては、私たちの祈りは、神にとっても「アーメン」と保障されるものとなるというのです。それは、この地が神のあわれみと平和で満たされるからです。

それは、信仰者の歩みが、「約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり、寄留者であることを告白していたのです」(ヘブル11:13)と描かれるような憧れに生きる状態が解消され、約束されたものを目の当たりに見ることを意味します。

明治時代以降の日本の歩みには、常に、目指すべき他国の模範がありました。しかし、20年近く前のバブル経済の破綻以降、世界の先頭を走っています。それは、しばしば、デフレ経済と呼ばれる収縮に向かう経済です。イザヤが活躍した時期は、多くの人々が自分たちの国はまだまだ大丈夫だと楽観していた時代でした。

しかし、現実は、どんどん国が傾いて行きました。そのたびに彼らは、対処療法的なこの世的な解決ばかりを求めました。そのひとつが近隣諸国の偶像礼拝を取り入れるという解決でした。しかし、それはますます、国を破滅に追いやりました。彼らは国が滅亡して初めて、イザヤの預言の意味を理解しました。神は、ご自身の民の罪の怒りを発しながらも、ご自身のあわれみの御手を伸ばし続けておられました。

年の始まりにあたり、敢えて自分たちがどのような意味での「祝福」を待ち望んでいるかを見直す必要があるのではないでしょうか。バブル以前のような右肩上がりの成長に見られる祝福ではなく、今ここで、不安な現実を前提とした上での神にある祝福を体験させていただきましょう。

今ここで、陶器師であられる神を真心から礼拝し、互いに愛し合う祝福を、神は実現してくださいます。そそて、この地での祝福は、「アーメンの神」からの招きのことばに、真心からアーメンと応答することから始まります。