イザヤ65章16節〜66章14節「わたしは新しい天と新しい地を創造する」

2011年1月9日

私たちは今、「すぐに結果を出さなければ・・」というプレッシャーの世の中に置かれています。私自身もかつてそのような職場に身を置き、その発想を身に染み込ませて牧師になりましたが、そのために信仰生活が苦しくなった時期があります。なぜなら、あまりにも結果が見えなさ過ぎるからです。それは目に見える教会の成長のことばかりではありません。「これだけ神のみことばに親しんでいるのに、どうしてこうも僕は成長できないのだろう・・」と思ってしまいます。久しぶりに会った友人が、僕の若さをほめる意味で、「お前は何も変わっていないな」と言ってくれても、ふと、「お前の人格には昔から何も成長が見られない・・」と言われたような気になることがありました。

しかし、私たちは今、2,700年前に記されたみことばを読んでおり、ここには、神は最終的に、一瞬のうちに私たちも世界も変えてくださると約束しておられます。変化は一瞬のうちに起きます。そのときまで、自分の成長などを測る代わりに、神から与えられた課題に地道に誠実に対応していればよいのです。私たちは壮大な神の救いのご計画の中に身を置いています。よく考えてみれば、「すぐに結果を出さなければ・・」というプレッシャーこそが、ますます心の余裕を奪い、愛の冷めた世界を作り出しているのです。しかし、この途方もなく偉大な神の救いのビジョンに心を留めるとき、何か、とてつもなく、心が軽くなるような気がします。そして、永遠へのことに目を向けることで、かえって、今、ここに既に実現している神の恵みを感謝し、喜ぶことができるようになってきます。

1.「むしろ、いついつまでも楽しみ喜べ。わたしが、創造するものを。」

「この地で自分を祝福する者は、真実の神によって自分を祝福し、この地で誓う者は、真実の神によって誓う。先の苦難は忘れられ、わたしの目から隠されるからだ」(65:16)とありますが、「真実の神」ということばが、原文では「アーメンの神」という不思議な表現になっています。それは、信仰者の歩みが、「約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり、寄留者であることを告白していた」(ヘブル11:13)というような憧れに生きる状態が解消され、約束されたものを目の当たりに見ることを意味します。

そして、神が驚くべき約束が、「なぜなら、見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造するからだ・・・むしろ、いついつまでも楽しみ喜べ。わたしが、創造するものを・・・。見よ。わたしはエルサレムを創造して喜びとし、その民を創造して楽しみとする」(65:17-19)と描かれます。ここでは、「わたしは・・創造する」と三度も繰り返され、「新しい天と新しい地」の創造は、「初めに、神が天と地を創造した」という聖書の最初のことばに対応して記されます。

これは、エルサレム神殿が破壊され、バビロンへの捕囚とされたイスラエルの民に向かっての招きです。彼らはアッシリヤやバビロンとエジプトという巨大帝国にはさまれて、力の均衡ばかりを考え、神を仰ぎ見ることを忘れていました。かつてモーセは彼らに、「私は、いのちと死、祝福とのろいを、あなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい」(申命記30:19)と繰り返し語っていたのに、彼らはのろいを選んでしまいました。まさに、彼らの苦しみは自業自得です。ところが、そんな彼らを神は、「わたしを仰ぎ見て救われよ」(45:22)と招いてくださいました。

私たちの人生はしばしば失望の連続ですが、「私の人生のストーリーを、世界の救いのストーリーのひとこまと見る」ことができるように召されています。私たちは、「神が、なぜこのような不条理を許しておられるのか?」の理由を知ることはできません。しかし、「神を愛する人々・・のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています」(ローマ8:28)と大胆に告白することができます。この世に悲惨をもたらすのは人間の罪です。しかし、神は、人間の罪に打ち勝って、私たち自身を、そして世界を造り変えてくださるのです。

「先の事は思い出されず、心に上ることもない」(17節)とは、全ての苦しみが遠い夢のように思える状態です。人の心が過去の痛みにとらわれるのは、現在を喜ぶことができていないことの結果に過ぎないのかも知れません。人は自分の記憶を自分で選び編集を加えているからです。ですから、神に希望を置くことができない結果として、過去の恨みにとらわれるという心の状態が生まれているという構造があることも忘れてはなりません。しばしば、自分が向き合うべきことは過去の恨みである以上に、「今、ここで」の神のみわざではなのではないでしょうか。

その上で、神は、「むしろ、いついつまでも楽しみ喜べ。わたし(強調形)が、創造するものを」(18節)とご自身の愛を込めて断固として語ってくださいます。それは、神が既に今なしておられる新しい創造のみわざを喜ぶことから始まります。それは新しいいのちの誕生から、新しい一日の始まりに至るまでのすべてのことです。それは同時に、「エデン(喜び)の園」で、アダムが楽しみ喜んでいた状態を、神ご自身が回復してくださることに及びます。そのことを、神は、「なぜなら、見よ、わたしがエルサレムを創造して喜びとし、その民を創造して楽しみとするからだ」と保障してくださいました。私たちはそれが実現したかのようにこの地で生きることができます。つまり、「永遠のいのち」とは、「新しい天と新しい地」での「新しいエルサレム」の「いのち」を、今から体験することなのです。

しかも、神は、「エルサレムをわたしは喜び、わたしの民を楽しむ」(19節)と敢えて繰り返しておられます。神はかつてご自身の民イスラエルの不従順に怒りを発せられ、彼らの堕落を悲しんでおられました。その時代が過ぎ去り、神がエルサレをご自身の住まわれる都とし、またイエス・キリストにつながる私たちをご自身の民として楽しんでくださるというのです。それは、神がご自身の聖霊によって私たちを内側から造り変えてくださるからです。

つまり、主(ヤハウェ)が、「見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する・・・わたしがエルサレムを創造して喜びとし」と語られたことは、キリストによって既に実現し始めたことなのです。それは、真冬の寒い時に、梅や桜のつぼみが芽を吹きだしたようなものです。春は目の前にあり、待っていれば確実に美しい花を見ることができます。

2.「彼らはむだに労することはない。」

「そこではもう、泣き声も叫び声も聞かれない」(19節)とは、それ以降の文章の要約でもあります。そして、「そこにはもう、数日しか生きない乳飲み子も、寿命の満ちない老人もない、それは、幼子が死んでも、百歳になっており、罪人がのろわれても、百歳になっているからだ」(20節)という不思議な説明が描かれています。これは、新しいエルサレムには死ものろいもないということを詩的に表現したものです。すでに25章8節で、「万軍の主(ヤハウェ)はこの山の上で・・永久に死を滅ぼされる」と記されているとおりです。これらは全て、預言された神のさばきとの対比で考えられるべきです。バビロン捕囚によって、「あなたの身から生まれる者も・・のろわれる・・主は、疫病をあなたの身にまといつかせ・・あなたを打たれる」(申命28:18ー22)という「のろい」の預言が実現しました。それに対し、のろいの時代が過ぎ去り、「祝福」の時代が来るというのです。

なお、のろいの時代には、「家を建てても、その中に住むことができない。ぶどう畑を作っても、その収穫をすることができない・・・あなたの勤労の実はみな、あなたの知らない民が食べる」(申命記28:30ー33節)という預言が成就しました。それと対照的に、ここでは、新しい「祝福」の時代は、「彼らは家を建てて住み、ぶどう畑を作って、その実を食べる。彼らが建てて他人が住むことはなく、彼らが食べて他人が食べることはない」(21、22節)と描かれています。そして、悲劇の預言が成就したことは、祝福の約束が成就することの何よりの証しとなりました

わたしの民の寿命は木の寿命に等しく、わたしの選んだ者は、自分の手で作った物を存分に用いることができる」(22節)とは、このような「祝福」は、神ご自身が選んでくださった神の民に実現するという意味です。私たちが自分の力で理想郷を実現するのではなく、神の一方的なあわれみによって祝福がもたらされるのです。

そして21,22節をまとめて、「彼らはむだに労することがない」と力強く宣言されます。パウロはこのみことばを前提に、キリストの復活の説明の結論として、「堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから」(Ⅰコリント15:58)と語りました。

ここでは続けて、「また、恐怖に会わせるために子を産むこともない」と記されますが、義人ヨブでさえは激しい苦しみの中で、「自分の生まれた日をのろった」(ヨブ3:1)とありました。しかし、新しい世界では、「生まれてこなければよかった・・・」という嘆きがなくなるというのです。そして、「彼らは主(ヤハウェ)に祝福された者のすえ」(23節)と呼ばれますが、それが既に実現し始めています。それは、真冬の寒い時に梅や桜のつぼみが芽を吹きだしたようなものです。春は目の前にあり、待っていれば確実に美しい花を見ることができます。その新しい天と新しい地のつぼみこそ、このキリストの教会です。今既に、想像を絶する偉大なことがここで始まっています

また、「そのとき、彼らが呼ばないうちに、わたしは、答え、彼らがまだ語っているうちに、わたしは、聞く」(24節)とは、主がご自身の民に対して御顔を隠しておられたという状態がなくなって、ご自身の御顔をいつも向けておられる親密な交わりが回復することを意味します。ここでは、「わたしは・・」という主ご自身の意思が強調されていますが、現在の私たちに与えられた救いとは、キリストの十字架によって私たちの全ての罪が赦され、そのような親密な関係が既に実現したということです。それはレビ記26章36,37に描かれた「おびえ」の支配からの救いでもあります。残念ながら、今も、神との交わりを知らず、いつも何かを怯えながら生きている人々が多くいます。

私は、長い間、泣く必要のないほどに心が安定することに憧れましたが、それを意識するほど、不安な自分を赦せなくなるだけでした。ところが、不安のままの自分が、神によって、見守られ、抱擁され、支えられていることがわかった時、気が楽になりました。赤ちゃんに向かって「泣くな!」と説教するかのように、自分や人の感情を非難して空周りを起こすことがあります。母親が赤ちゃんを安定させることができるように、神の御前で、あなたの臆病さ、不安定さ、弱さは、人生の障害とはなりません

そして、「狼と子羊は共に草をはみ、獅子は牛のようにわらを食い、蛇はちりをその食べ物とする。わたしの聖なる山のどこにおいても、これらは害を加えず、滅ぼすこともない」(25節)とは、この世界から弱肉強食がなくなることを意味します。この同じことが11章6-9節でも描かれながら、そこでは「乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ、乳離れした子はまむしの子に手を伸べる・・・主(ヤハウェ)を知ることが、海をおおう水のように、地を満たすからである」と記されています。そして、その約束はキリストによって実現する救いであると保障されていました。

私たちはこの世界に平和が満たされることを願います。しかし、捕鯨反対の平和団体が暴力行為を行い、平和を守るという団体が、自分の主張を絶対化し、一方的に人の意見を裁くのを見ながら心が痛みます。実は、人間の力で平和を実現できるという楽観主義が、自分の政治信条を絶対化し、他人の意見を軽蔑するという争いの原因となっているのです。すべての戦争は、自分にとって好ましい平和を実現しようと急ぎすぎる結果として生まれています。しかし、神がご自身のときに、この世界に完全な平和(シャローム)を実現してくださるということを信じるなら、私たちは自分にとって不都合な不安定な状況の中に身を置きながら、「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」という最も大切なキリストの教えを地道に実行し続けることができます。神はご自身の平和をこの地に静かに広めるためにご自身の御子を遣わしてくださいました。そして、キリストが再びこの世界に来られるとき、この世のすべての不条理が正し、目に見える形での神の平和(シャローム)で世界を満たしてくださいます。

「新しい天と新しい地」は目の前にあります。そこで私たちは、神の御顔を直接仰ぎ見て、喜びに満ちた賛美をささげます。また互いの美しさに感動して愛し合うことができます。労働は苦しみではなく創造性を発揮する喜びの機会となります。そして、私たちは、今、キリストのオーケストラや合唱団の一員として、天で演奏されているその曲に耳を傾け、その美しさに魅了されて、未熟なために不協和音や雑音をたてながら、それを世界に聞かようと一所懸命に演奏します。私たちは、ここで、地の塩、世の光として、新しいエルサレムの音楽を、先取りして奏でるのです。それは、私たちが、イエスの弟、妹として、父なる神を愛し、人を愛し、地を愛する生活を続けることです。このように私たちは、「私の人生のストーリーを、世界の救いのストーリーのひとこまと見る」ことで、この地で生きる勇気をいただくことができます。主は今も、目の前の世界が音をたてて崩れるような絶望を味わった人に向けて、「見よ、わたしは新しい事を行う」(43:19)という約束を与えておられます。神の新しいみわざに心を向けましょう。

3.「母に慰められる者のように、わたしは、あなたがたを慰める」

66章の初めで、主(ヤハウェ)は、「天はわたしの王座、地はわたしの足台。わたしのため建てる家とは、何なのか。わたしのいこいの場は、何なのか。これらすべては、わたしの手が造ったもの、これらすべては、そうして成った」と仰せられますが、これは当時のイスラエルの民が、まるで自分たちの力で神の家を建て、神に恩を売り、神の好意を勝ち得ることができると信じている偽善的な礼拝の姿勢を非難したものです。しかし、神にとっての「いこいの場」とは、黄金の建造物というよりは、神を恐れる人々の交わりのただ中に他なりません。そのことを主は、「わたしが目を留める者は、へりくだって、打たれた霊、わたしのことばにおののく者だ」(66:2)と表現されます。

それに対し、イスラエルの自己満足的で偽善的な礼拝の姿が、「牛をほふる者は、人を打ち殺す者。羊をいけにえにする者は、犬をくびり殺す者。穀物のささげ物をささげる者は、豚の血を。乳香を記念とする者は、偶像をほめたたえる者。実に彼らは自分かってな道を選び、その心は忌むべき物を喜ぶ」(66:3)として描かれます。彼らは主を喜ばせるつもりでいながら、実際には、主の忌み嫌われることを平気で行っているというのです。

そして、彼ら自身が偽善的な礼拝で主の怒りを招いたことに対し、主は、「それで、わたしも、彼らを虐待することを選び、彼らに恐怖をもたらす。それは、わたしが呼んでもだれも答えず、わたしが語りかけても聞かず、わたしの目にとっての悪を行い、わたしの喜ばない事を彼らが選んだからだ」(4節)と応答されるというのです。

なお、イザヤを初めとする真の預言者たちは、人々の偽善的な礼拝を指摘することで、当時の支配者たちの迫害を受けていました。その預言者たちに対し、「主(ヤハウェ)のことばを聞け。主のことばにおののく者たちよ」という語りかけとともに慰めが啓示されます。彼らの敵は皮肉を込めて、「主(ヤハウェ)に栄光を現させよ。そうすれば、お前たちの楽しみを見てやろう」とあざけっていました。私たちも神のみことばがなかなか実現しないことに落胆を味わい、また、周りの人も、「お前の神は、お前を幸せにできないのか・・・」などと嘲るかもしれません。しかし、それに対して「彼らは恥を見る」という主の復讐が一瞬のうちに実現するというのです(66:5)。そして、その圧倒的な様子が「町からの騒ぎの声だ!宮からの声だ!敵に報復しておられる主(ヤハウェ)の声だ!」と描かれます。

その上で、一転して、一瞬のうちに「のろい」をもたらした神が、一瞬のうちにエルサレムに「祝福」をもたらすことができるという約束が、「産みの苦しみをする前に、彼女は産んだ。陣痛が彼女に来る前に、男の子を産み落とした」(7節)と描かれます。本来、出産が苦しみになったのは、エバの罪に対するさばきでしたが、それが取り去られるのです。このような誕生はありえないことのように思えますが(8節)、神にとって不可能はありません。

そして、それに伴って出現する新しい世界と新しい民の誕生の様子が、「地は一日の苦しみで産み出されようか。国民は一瞬にして生まれようか。ところがシオンは産みの苦しみと同時に子らを産んだのだ」(8節)と驚きをもって描かれ、それが確実に成就することが、「わたしが胎を開きながら、産ませないだろうか・・・わたしは、産ませる者なのに、胎を閉ざすだろうか」と、主ご自身のことばで保障されます(66:9)。

そして、エルサレムに訪れる祝福の事が、「エルサレムとともに喜び祝え。彼女のことを喜べ。すべて彼女を愛する者よ。彼女とともに楽しみ、楽しめ。すべて彼女のために悲しむ者よ。それは、彼女の慰めの乳房からあなたが飲んで飽き足りるためだ。それは、その栄光の豊かな乳房から吸って喜びを得るためだ」(10、11節)と劇的に描かれます。エルサレムへの繁栄の回復のことが、母親が乳飲み子を慰め、喜ばせることにたとえられます。

そして、またエルサレムの繁栄の様子が、「見よ。わたしは川のような平和を彼女に差し伸べよう。あふれる流れのように国々の栄光を。あなたがたは乳を飲み、わきに抱かれ、ひざの上でかわいがられる。母に慰められる者のように、わたしは、あなたがたを慰める。エルサレムであなたがたは慰められる」(66:12、13)と美しく表現されます。神の民に与えられる祝福が、母親のふところで慰められる子どもとして表現されるのは興味深い事です。

五世紀のエジプトでのある修道院でのことです。そこの指導者のポイメン神父に、長老の幾人かが行って、「兄弟たちが時課祈祷や徹夜祈祷のとき居眠りしているのを見たら、目を覚ますように揺り起こすべきだとお考えですか」と尋ねました。それに対し、彼は、「私ならば、兄弟が居眠りをしているのを見たら、彼の頭を膝の上に置いて休ませる」と答えたとの事です。そのような答えは、この箇所から生まれているように思います。幼児が母親のひざの上でかわいがられ、安心するように、神は私たちを慰めてくださるというのです。この世的に考えると、「主のことばにおののく」という観点と礼拝での居眠りは、決して相容れないものでしょう。しかし、疲れやその他の理由を抱えながら、なおも、礼拝に来られる方は、神の目には「主のことばにおののく者」に他なりません。

聖書の神は、私たちにとっての権威に満ちた父であるとともに、慈愛に満ちた母のような方です。そして、このような新しい神のイメージをいただく事によって「あなたがたの骨は若草のように生き返る」と約束されるのです。イエスは当時の人々の、忘れられていた母としての神のイメージを表してくださったのではないでしょうか。

「へりくだって、打たれた霊」、「主(ヤハウェ)のことばにおののく者」に対して、主が乳飲み子を慰める母親のような姿で現れてくださる一方で、偽善の礼拝者たちに対しては「のろい」が宣告されます。パウロも、人間の肉の力によって神の好意を勝ち取ろうとする者たちに対し、「私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません・・・大事なのは新しい創造です」(ガラテヤ6:14、15)と言いました。今、神は私たちの交わりの真ん中に御霊を遣わし、主を、「アバ、父」と呼ぶことを可能にし、私たちを内側から造り変え、「新しい天と新しい地」を創造しようとしておられます。私たちは既に神の御霊による「新しい創造」の過程に入れられており、それがやがて目に見える姿で実現します。これらすべてを、イエスの七百年も前にイザヤが預言していました。